現在の日本では、中国文字を日本の言語体系にアレンジした漢字と、そこから生み出したカタカナ・ひらがなを文字とし、これらを併用して使用されています。
このうちの漢字は、訓読み・音読みという別個の基本的な読み方がある上、熟字訓・国訓などの特殊な読み方もあり、さらにら固有名詞ではさらなる例外も存在していることから、とても複雑なものとなっています。
また、諸外国では通常1種類しか存在しない1人称の表記を例にしても、私・僕・麿・当方・小生など思いつくだけでも何十通りもの表現があります。
これらの文字種類・複数読み・単語の多さなどが複雑に絡み合った結果、日本語は世界一複雑な言語となってしまいました。
本稿では、世界一難しい言語となるに至った日本の文字の成り立ち等についての歴史的経緯を簡単に解説していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
日本において文字が使用されるまで
初めて文字を目にする(1世紀)
古代日本には文字が存在していませんでした。
そのため、漢字が入ってくる前の古代日本においては、物事は口頭で伝えあい、また知恵・知識の蓄積は個々人の記憶により行われていました(漢字定着以前から神代文字が使われていたという説が唱えられたこともありましたが、神代文字では当時の日本語の発音の全てを表すことができないことから文字使用を立証できないため、現在ではその存在は否定されています。)。
こうした文字を持たない文化圏であった日本に最初に到達した文字は漢字でした。
現在判明している限りでは、日本人が最初に文字に接したのは、57年に後漢皇帝であった光武帝が倭国の使者に与えたとされる印綬(金印と紐)です(後漢書東夷伝倭人条)。
この金印は、江戸時代の天明年間に博多湾にある志賀島から出土し、そこには篆書体で「漢倭奴国王」という5文字が記されていました。
志賀島で発見された金印が、後漢書東夷伝倭人条に記された印と整合するため、これが光武帝から与えられた印綬と考えられ、この印により倭人(日本人)が初めて文字(漢字)に接したものと考えられるに至りました。
もっとも、文字を持っていなかった当時の倭人(日本人)が、金印に記された文字を見て文字(漢字)であると認識したかどうかは疑問であり、単なる模様であると認識した可能性が高いと考えるのが合理的です。
漢字を模様と認識(2世紀~4世紀初頭)
弥生時代後期(2世紀頃)から古墳時代前期(4世紀初頭頃)までの出土品として、土器に文字を書いた墨書土器や土器に文字を刻んだ刻書土器が発掘されることがあります。
また、同時期に日本国内で作られたとされ、そこに漢字らしきものが刻まれた鏡が出土することもあります。
もっとも、これらの漢字らしきものは、文章を構成していないことからそこに意味を見出すことができず、これらの文字は、文字として使用されていたのではなく模様(文様)として使用されていたと推測されます。
そのため、倭国と呼ばれていた日本においては、少なくとも古墳時代前期(4世紀初頭頃)に至るまでの間に文字が使用されていたと解釈することは困難です。
渡来人が日本国内で文字を使用する
渡来人引き受け(5世紀初頭)
もっとも、この後、日本国内で文字が使用される端緒となる流れが起こります。
日本国内を概ねまとめ上げたヤマト政権が、領土的野心を持って朝鮮半島への影響力を強めて百済と友好関係を持ち、同国からの技術者や亡命者(渡来人)を多く引き受けた上、これらを政権中枢で重用したのです。
朝鮮半島は数百年前から中国の支配下に組み込まれて中国文化を使用していたため、朝鮮半島から日本に渡って来た渡来人が、朝鮮半島にあった大陸系の文化・技術を日本にもたらしました。
その結果、日本国内に、大陸の文化・技術が流入し、大革新が起こったのです。
渡来人が国内で漢字を使用(5世紀初頭)
こうして5世紀初めころに日本に渡って来たとされる渡来人の鍛冶技術者(古事記)は、日本国内で鉄器の生産を行い、またその技術を日本人に伝えていきました。
そして、渡来人の鍛冶技術者は、鉄器の製造を行う際、製造する鉄器に母国で使用していた漢字を刻み込んだりもしました。
有名なものを例に出すと、埼玉県の稲荷山古墳から出土した雄略天皇15年(471年)に日本において渡来人系技術者により製造されたとされる鉄剣に「獲加多支鹵」などの文字が彫り込まれていたことがわかっています。なお、この鉄剣が渡来人により製造されたとされる理由は、この銘文や字体が朝鮮三国時代の碑文の文字や日本書紀に記された朝鮮半島の記述の音訳漢字と似ていることによります。
以上から、5世紀初頭頃、日本国内に受け入れた渡来人が、日本国内で漢字を使用し始めたことがわかります。
日本人の上流階級に漢字文化が広がる
支配階級に漢字が広がる(5世紀)
この後、論語や千字文(漢字を覚えるための中国の教科書)の伝来や、応神天皇の皇子が渡来人の阿直岐・王仁などを師として経典を学んだことなどにより(日本書紀)、渡来人のみならず、主に支配階級を中心とする日本人にも文字としての漢字が学ばれていくようになります。
5世紀末頃の日本各地の古墳から人名や地名を漢字で刻んだ鉄剣などが出土していますので、渡来人が使い始めた後わずか数十年で日本全国に漢字文化が波及していったことがわかります。
さらに、継体天皇7年(513年)には、儒教の経典である詩経・尚書・易経・春秋・礼記という五経を講じる五経博士である段楊璽が百済から日本に派遣されたことから、さらに日本国内に儒教とその関連書物が浸透していくなどしていきました。
役人への漢字の広がり(6世紀中旬)
また、6世紀半ばの欽明天皇治世時に百済から伝わった仏教が、漢字の国内普及に大きな役割を果たします。
蘇我氏と厩戸皇子によって事実上国教化された仏教寺院において、漢字で書かれていたその経典の読誦・写経が繰り返し行われたことから、漢字が諸国の役人(当時の僧侶は役人でもありました)にも伝播していくこととなったのです。
漢字教育機関の設置(7世紀中旬)
そして、大化の改新により官僚制度の整備が進められることとなったのですが、この頃になると、政治を行うに際して、法令・先例などの記録や上命下達のために文書が用いられるようになり、文字(漢字)の読み書きが下級役人の必須の能力となっていきます。
その結果、朝廷としてもその育成が必要となり、中央には大学寮が、地方には国学という教育機関が作られ、儒教の経書を用いての漢字の読み書きや漢文読解の教示が行われました。
なお、この頃の漢字教育は、漢文をそのまま中国語での音で読み、その文章の意味を理解するという方法でなされていました。
日本風漢字文化
前記のとおりの中国様式の漢字教育が進められていったのですが、その後、次第に日本風に作り変えられていきます。
最初の変遷は、文章そのものは漢文で書くものの、中国に存在しない人名や地名などの固有名詞については、漢字の意味を捨てて音だけを借りて使用する方法で文章を書いていくというものでした。
そして、続けて、この音を借りて漢字を読むという方法が習慣化することにより、漢字の意味と日本語(やまとことば)とが結びついていき、漢字それぞれについて日本語ではこのように読むべきであると決まっていくこととなったのです。
このとき決まっていった漢字の読み方を「訓(くん)」といいます。
漢字から日本独自の文字を生み出す
国字の誕生(7世紀初めころ)
日本に輸入されてきた漢字でしたが、大陸と日本では文化・生活環境が異なりますので、日本にあるものすべてを漢字で表すことはできませんでした。
そこで、奈良時代に入る前頃から、漢字の意味を組み合わせることで独自の漢字(国字)を作り上げ、使用するようになっていきます。
例示すると、陸に上げるとすぐに死んでしまう弱い魚であることから「鰯(いわし)」、神にささげる木から「榊(さかき)」などです。
なお、「鰯」は、万葉仮名では「伊委之」などとも記されています。
万葉仮名の誕生(7世紀中旬)
前記経過を経て漢字が広く使われるようになると、次第に、漢字の意味すら無視し、漢字の音読み・訓読みだけを表音的に用いた文字(万葉集で使われた仮名であるため万葉仮名と呼ばれます。)が作り出されます。
万葉仮名では、漢字の意味は無視され、「はな→波奈(花)」「やま→也麻(山)」のように日本語の音節の表記のために用いられました。
そして、万葉仮名は、この頃に作成された古事記(712年)や日本書紀(720年)の歌謡、万葉集(8世紀後半)などでも広く使われました。
カタカナの誕生(9世紀前半)
以上のとおり、導入した漢字につき国字や万葉仮名を作り出すことによりアレンジしていたのですが、9世紀前半になるとさらなる劇的なアレンジが加わります。
それは、漢字の1部を取り出して作り出した「カタカナ」と、漢字を崩すことで作り出した「ひらがな」を誕生させたことでした。
まず、カタカナの成立から解説します。
9世紀前半頃、漢文で書かれた仏教経典を日本語として読むため、その補助となる漢字や符号を経典の余白などに追記されるようになったのですが、経典の余白部分には限りがあり、また大量の文字を補助する必要から漢字の偏(へん)や旁(つくり)を省略して文字が記される(省画仮名・略体仮名)ということが始まりました。
そして、この省画仮名・略体仮名を使用することにより、より簡単に、またより速く字を書くことできることが明らかとなり、さらに簡略化されていくこととなりました。
その結果、特定の漢字の一部だけを取り出した簡略字としてのカタカナが作られるに至りました(書き始めの1・2画目のみを使用した「阿→ア」・「伊→イ」や、終わりの数画のみを使用した「江→エ」・「奴→ヌ」など)。
こうして生み出されたカタカナは漢文を読むための補助記号として利用され、独自の文字としての地位を確立してからも漢字と交ぜて使用されることが多く見られました。
実際、平安時代以降に書かれた学問や仏教関係の書物では、漢字とカタカナを混ぜて書かれた者が多く、この様式が日本語散文(和歌や漢詩以外の文章)を書く時のスタンダード様式となっていきました。
ひらがなの誕生(9世紀末ころ)
また、同時期に、万葉仮名として使用されていた漢字を速く簡単に書くために、漢字の形を崩して書くことが行われるようになり、草仮名(そうがな)が生れます。
そして、9世紀末頃になると、草仮名がさらに崩され、ついには漢字とは別の文字と認識されるようになっていきました。
この結果、特定の漢字を崩すことによりひらがなが作られるに至ったのです。
そして、その簡便さから万葉仮名がひらがなに置き換わっていったのです。
その後、遣唐使が廃止されたことにより10世紀頃からは中国の文化が入ってこなくなったため、日本国内で中国文化の影響が薄くなり、日本独自の文化が花開くようになります(国風文化)。
この国風文化の下では、ひらがなを使って多くの日記・随筆・物語などが次々と書かれるようになり、それまでのような感じを使った堅苦しい文書ではなく、ひらがなによる細やかな感情表現を取り入れた優れた文学作品が多数完成していきました。
なお、ひらがなのことを「女手」と呼ぶことがありますので、女性だけがひらがなを使っていたかのような印象を持ちがちですが、当時から男性もひらがなを使って文章を書いていましたので注意が必要です。
また、平安時代中期頃になると、文章を書く際に、その内容のみならず字体そのものを美しく書こうとする試みが始まり、書道も盛んになっていきました。
庶民層にも文字が広がる
武士・庶民への文字伝播(鎌倉時代)
以上の経過を経て完成しつつあった文字(漢字・カタカナ・ひらがな)でしたが、平安時代まではまだまだ貴族・僧侶・役人等だけで使われる上流階級のたしなみに過ぎませんでした。
ところが、鎌倉時代になって武士が政権を手にすると、それまで上流階級の特権であった文字もまた武士階級までが使用するようになり、また武士がそれぞれの領地を治めるために農民らとやり取りに使用するようになったことから、庶民一般にまで文字が普及していきました。
この結果、日本全国で文字が使用されるようになり、その様式として、和化漢文・漢字カタカナ交じり文・ひらがな文という3種類の書き方が使い分けられるようになっていったのです。
活版印刷による文字の流通革命(江戸時代)
さらに、安土桃山時代頃になると、西洋から活版印刷の技術が伝えられ、宗教を始めとして語学・文学などの分野に亘る大量の印刷物が作成されていきました。
また、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に朝鮮半島から金属活字(銅活字)・機材一式・印刷工が持ち帰られており、これによる出版も行われました。
さらに、17世紀中頃になると、銅活字の技術を応用した木活字が発展したことにより活版印刷による出版物が爆発的に増加することとなり、日本全国に広く文章が行きわたることとなりました。
これらの印刷出版物は、経典・和漢本のみならず、医学書・国文学書・文学本・謡本など多岐に亘り、漢字が少ない上、面白ストーリーで書かれた滑稽本が流行するなど国内における文化・芸術のレベルを一気に引き上げました。
新聞・雑誌の出版(幕末)
鎖国政策をとっていた江戸幕府では、長崎・出島に置かれたオランダ商館長に世界情勢の報告をさせていたのですが、幕末の文久元年(1862年)に受け取った情報を日本語に翻訳し、日本初の新聞(バタビア新聞)として発行するに至りました。
また、慶応2年(1867年)には、日本初の雑誌である外国の情報を伝える「西洋雑誌」も発行され、文字がどんどん大衆に伝えられていくようになりました。
学校教育により全国民に漢字教育が行われる
和製漢語の大量作成
明治維新によって江戸幕府が滅亡すると、鎖国が終わって西洋諸国と交わるようになります。
その結果、西洋の言葉(単語)が入ってくるようになり、それらの西洋語を翻訳するに際し、独自の漢字語(和製漢語)が大量に作られるようになります。
また、漢字の字体・字音・意味・和訓のいずれかのみの要素を利用して表記する当て字が生み出され、さらに大量の漢字が作られていきました。
学校教育の始まり(1872年)
また、明治時代に入ると、近代化を図る日本政府は、明治5年(1872年)8月2日、近代学校教育制度である学制を公布し、その後複数回公布された教育令によって全国民に対し学校教育を受けることを義務付けます。
この学校教育において、国家が定めた漢字教育が進められ、現在に至るまで続けられています。
日本政府による漢字整備
漢字数の制限を指向
以上のとおり、際限なく増えていく漢字単語に対し、日常で使用する漢字数を減らすべきであるとの主張が生じてきます。
また、第二次世界大戦後にアメリカの教育使節団が漢字・カタカナ・ひらがなを廃止してローマ字表記とすべきであるとの提案がなされましたが、日本国民を無作為に抽出した人物に対する調査の結果、日本人の識字率の高さが明らかとなり、この提案は否認されました。
当用漢字表公布(1946年)
他方、昭和21年(1946年)、日本で使用すべき1850字の漢字を定める当用漢字表が公布され、同表の漢字で書き表せない言葉を別の言葉で書き換えたりかな書きにしたりするよう求められることとなりました。
この結果、原則として、出版物などでは当用漢字表にない漢字が使えなくなりました。
他方、固有名詞である人名については例外が定められることとなり、昭和26年(1951年)、当用漢字表にはないが人名には使用できる92字の人名用漢字が当用漢字に加えられました(人名用漢字別表)。
常用漢字表公布(1981年)
その後、昭和56年(1981年)に95字が追加された常用漢字表が公布されました。
この常用漢字表は、漢字の使用を制限する当用漢字表とは異なり、単なる漢字使用の目安を示す票とされました。
これにより、常用漢字表の公布により、より自由に漢字を使用することができることとなりました。
常用漢字表改定(2010年11月)
昭和56年(1981年)に常用漢字表が公布されたのですが、その後の技術革新により、それまでの手で「書く」ことを前提としていた文字が、パソコンやスマートフォンにより「打つ」ことにより表現されることに代わっていきました。
この技術革新により、webを通じて日本国内で使用されている文字の使用頻度等が分析できるようになりました。
そこで、平成22年(2010年)11月、これらの分析結果により使用頻度の高い196字を追加し、他方低い5字を削除するという2136字から成る改訂常用漢字表が告示されました。