【シャクシャインの戦い】アイヌ民族最大の武装蜂起

シャクシャインの戦いは、寛文9年(1669年)6月に松前藩(とその代行者となっていた和人商人)からの搾取に耐えきれなくなったアイヌ・シブチャリの首長シャクシャインが中心となって起こった武力蜂起です。

大枠はアイヌと和人の諍いなのですが、アイヌ部族間の紛争が激化し、それを収めることができなかった松前藩に対する誤解をシャクシャインが巧みに利用して大規模紛争に発展しました。

松前藩単体との関係では戦いを有利に進めていたアイヌ・シャクシャインでしたが、松前藩側に江戸幕府が関与したことによりアイヌ側に勝ち目がなくなりました。

最終的には、松前藩が、藩のお家芸ともいえる汚いやり方でシャクシャインを騙し討ちしたことによりアイヌが鎮圧され、戦後アイヌが更なる厳しい立場に置かれることとなっています。

シャクシャインの戦いに至る経緯

蠣崎家の勢力拡大(1551年)

コシャマインの戦いに勝利して名を上げた武田信広が、蠣崎家を継ぎ、当時夷島と呼ばれていた道南の渡島半島で勢力を高めていきました。

そして、天文20年(1551年)、蠣崎家(蠣崎季広)と下之国アイヌ代表のチコモタイン及び上之国アイヌ代表のハシタインとの間で交易協定が結ばれ、両アイヌは蠣崎家から夷分名下で交易利益の一分を受け取る代わりにアイヌが武装蜂起しないよう監督する義務を負うことに決まります。

この交易協定は、道南の渡島半島に住むアイヌが、事実上、同地の和人統治権に服することを認めた(和人地を形成した)ことを意味しました。

蠣崎家の夷島統治権認定

道南地域で勢力を強めていく蠣崎家は、中央で天下統一事業を進めていく豊臣秀吉の勢いを利用するため、大量の貢物を持参してこれにすり寄り、機嫌を良くした豊臣秀吉から夷島全域の支配権を与えられることに成功します(あわせて、安東家家臣から独立した大名として扱われることとなりました)。

このことは、夷島に住むアイヌからすると、寝耳に水のとんでもない出来事でした。

それまで形式的には単なる一取引相手にすぎない蠣崎家が、突然主君とされるに至ったからです。

当然、夷島中で蠣崎家に対する反発が起こります。

アイヌ交易を松前藩が独占

もっとも、蠣崎家は、豊臣秀吉の死後に天下を平定した徳川家にいち早く取り入り、江戸幕府からも夷島支配権の追認を獲得します。

この点、徳川家康により始まった江戸幕府では、土地の標準的な収量(玄米収穫量)である石高を基準として封建制度を定めたため(石高制)、江戸時代は、土地の大小や年貢量から身分秩序における基準に至るまで石高を基準として判断されました。

ところが、江戸時代の農業技術では寒冷な地域で稲を栽培することが困難であり、松前藩のある蝦夷地では米を収穫することができませんでした。

そのため、米の収穫量を基準として松前藩を計ると、松前藩は無高となってしまいます。

そこで、豊臣秀吉からアイヌとの独占交易の朱印状を与えられていたこと(新羅之記録)をさらに強化し、徳川家康が松前藩に対して黒印状を与えてこの独占状態を1万石相当とする国の制度にしてしまいます(徳川実紀)。

すなわち、松前藩では、米の収穫量ではなく、アイヌとの交易利益で石高を評価することとされたのです。

そして、江戸幕府は、この松前藩の財政を維持させるため、アイヌとの交易を松前藩に独占させることとしました。なお、この頃に、それまで夷島と呼ばれていた現在の北海道を蝦夷地と呼ぶようになりました(より正確にいうと、それまで夷島の中に和人が住む和人地と、アイヌが住む蝦夷地があったのを、その全部を蝦夷地と呼びこれを和人である松前藩に独占交易権の形で統治させることたしたということです。)。

松前藩による商場知行制

以上の結果、松前藩では、家臣に与えられる俸禄は石高に基づく地方知行ではなく、いわゆる交易権(商場・場所)をもって知行制をもって主従関係が結ばれることとなったのです(商場知行制)。

アイヌとの交易権を与えられた松前藩士は、漁場およびアイヌとの交易地域である商場(場所)を設け、年1回自腹で船を仕立て交易することで利益を得ることにより生計を立てていきました(なお、交易権以外の採金・鷹待・鮭鱒漁・伐木等の権利は藩主に属しました。)。

この商場知行制は、アイヌ側には交易相手が松前藩士の交易権を有するものに限定される制限貿易という形で押し付けられることとなりました。

場所請負制度

他方、知行を持つ松前藩士たちは、商人から交易用の物資や生活費を借りて交易に従事し、その結果得た商品を商人に渡して償還するようになります。

ところが、元々商売人ではなかった武士にアイヌとの交易を担当させることに無理があり、次第に商売が松前藩士の手に負えなくなっていき、松前藩士たちに負債が積み上がっていくようになります。

困った松前藩士たちは、自らアイヌと交易を行うのではなく、アイヌとの交易権を「場所請負人」の名目で商人に代行させ、商人から手数料を回収する方法を取り始めます(場所請負制度)。

当然ですが、商人は、商売のプロです。

交易条件も松前藩士よりも圧倒的にシビアです。

文字を持たず教育の行き届いていないアイヌが、海千山千の商売歴を持つ商人に搾取される構造が出来上がってしまいます(商人が日常的に計算を誤魔化すので、アイヌとの商売勘定を「アイヌ勘定」とも呼んでいました。)。

また、商人達は、松前藩の独占交易権を最大限に活用してアイヌの産物を安く買い叩いていきました(1641年頃にアイヌの鮭100匹と和人米28kgだった交換比率が、1669年にはアイヌの鮭100匹と和人米11kgとされました。)。

そして、商人達は、アイヌがこの交易に応じなければ、松前藩の独占交易権を持ち出してアイヌの子どもを人質に取るなどといった行動に至ります。

さらに、商人達は、アイヌの生活圏からさらなる利益を得るため、内陸部に分け行って山を切り崩しての砂金収集を始めたため、アイヌの鮭漁場に甚大な被害をもたらしました。

松前藩は、これらの商人達の行為に対しては、これを嗜めることはせず黙認しており、むしろこれを推奨するような風潮さえありました(商人が多くの利益を得る方が、そこから上前をはねる松前藩の収益も増加するからです。)。

アイヌ民族部族間対立

以上の和人達の横暴に対して怒りを募らせていったアイヌでしたが、和人に対して抵抗をする力はありませんでした。

この頃のアイヌには民族や人種による一体性はなく、地域毎に異なる首長を抱いて部族間での争いをしている状態だったからです(部族が違えば敵)。

これらのアイヌ人間の対立の結果、和人(松前藩)と協力して情勢を有利に進めようとする勢力も現れます。

そして、17世紀になると、和人から惣大将・惣乙名と呼ばれて、河川を中心とした複数の狩猟・漁労場所などの領域を含む広い地域を政治的に統合する有力首長が現れていきました(シャクシャイン・ハウカセ・カンニシコルなど)。

以上の情勢下において、和人(松前藩)から惣大将に任じられていたメナシクル(首長はカモクタイン・シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ)と、シュムクル(首長はオニビシ・シラオイに居住するアイヌ)とがサケの不漁に起因するシブチャリ地方の漁猟権を巡って争いを続けていました。

この状況下で、1653年、メナシクルの首長であったカモクタインがシュムクルによって殺害される事件に発展し、副首長であったシャクシャインがメナシクルの首長となります。

この後、アイヌ惣大将間の抗争によるアイヌ統制に混乱が生じることを危惧した松前藩は仲裁に乗り出したため、1655年に両アイヌ部族は一時的に講和に至ります(なお、この講和交渉の人的交流により、シュムクルと松前藩との関係が良好になり、シュムクルが親松前藩的な立場となっていきます。)。

オニビシ殺害(1668年4月21日)

ところが、寛文8年( 1667年)、オニビシの甥がシャクシャインの同盟関係にあるウラカワで鶴を獲っていた際にシャクシャインによって殺される事件が起こり、メナシクルとシュムクルとの紛争が再燃します。

寛文9年(1668年)4月21日、このアイヌ部族間紛争を仲裁するため、シュムクル首長のオニビシが金堀り文四郎の館に赴いた際、シャクシャイン率いる数十人に襲撃され殺害される事件が起こりました。

対立する部族の首長が、対立する部族の首長に暗殺されるなど正気の沙汰ではなく、アイヌ部族間紛争は修復不可能な程度にまで発展します。

反松前藩の機運が高まる

首長を殺害されたシュムクルは激昂し、松前藩庁に使者を遣わして、報復のため武器を提供するよう求めました。

ところが、松前藩は、アイヌ民族間紛争の拡大を防止するため、これを拒否します。

失意のうちに本拠地に戻ることとなったシュムクルの使者でしたが、ここで事件が起こります。

シュムクルの使者の1人であったサル(現在の日高振興局沙流郡)の首長・ウタフが疱瘡にかかって死亡してしまったのです。

このウタフの死亡は、同人がオニビシの姉婿でもあったこともあって、アイヌ民族紛争を鎮めるための松前藩による毒殺である噂され広がります。

この噂は、和人(松前藩)により虐げられて来たアイヌ民族の敵対感情を刺激し、蝦夷地の各地で反松前の気運が高まっていきました。

 

シャクシャインの戦い

シャクシャインによる呼びかけ

それまで親松前藩の立場をとっていたシュムクルまでもが反松前藩の立場を取り始めたことを知ったシャクシャインは、この流れを政治的に利用します。

シャクシャインは、ウタフを毒殺した和人はその後もアイヌ人を次々と葬っていくむもりであり、これに抵抗しなければアイヌが滅びると檄を飛ばし、蝦夷地各地の各アイヌ部族のみならず敵対していたシュムクルにまで声をかけてアイヌ一丸となっての松前藩に対する武装蜂起を呼びかたのです。

アイヌ人一斉蜂起(1669年6月4日)

それまで部族間で対立していたアイヌでしたが、それまで搾取され続けてきた歴史もあってシャクシャインの呼びかけに呼応します。

そして、結集したアイヌ人は、寛文9年(1669年)6月4日、釧路のシラヌカ(現在の白糠町)から天塩のマシケ(現在の増毛町)に至る地域で一斉に武装蜂起します。

このとき蜂起した2000人のアイヌ人は、和人居留地や交易商船などを襲撃し始めます(当時のアイヌの人口は2万人とされていますので、全人口の1割ものアイヌ人が立ち上がったことになります。)。

アイヌ史上最大の対和人抵抗戦の始まりです。

和人に対する怒りに燃えており、また狩猟生活をしていたために弓の使用に長けていたアイヌは強かった上、松前藩がアイヌ蜂起を全く予期していなかったこともあり、和人側では蜂起したアイヌに全く対応できず、東蝦夷地で213人、西蝦夷地で143人もの和人が殺害されていきました。

松前藩による対応

アイヌ一斉蜂起の報を受けた松前藩では、アイヌ蜂起を鎮圧するため、まずは家老の蠣崎広林を総大将とする調査部隊を編成し、クンヌイ(現在の長万部町国縫)に向かわせます。

そして、この時点では、兵数が多く、また鉄砲も27丁有するシャクシャイン側が優勢であったことから(松前藩の鉄砲保有数は16丁)、松前藩は江戸幕府にアイヌ人蜂起を報告して支援を求めました。

江戸幕府参戦

アイヌ蜂起の報を聞いた江戸幕府は、江戸で旗本となっていた松前泰広を指揮官として蝦夷地に派遣すると共に、弘前藩津軽氏・盛岡藩南部氏・秋田藩久保田佐竹氏の3藩に蝦夷地への出兵準備を命じました。

江戸幕府が口を出したことにより、シャクシャインの反乱は、アイヌ対松前藩ではなく、アイヌ対江戸幕府という構造となってしまいます。

こうなるとアイヌの優位性は失われます。

そして、海を渡った弘前藩兵700人が松前城下での警備にあたると、松前藩士は後顧の憂いなくアイヌと戦えるようになり、津軽藩・南部藩などから借り受けた70丁の鉄砲を利用するなどして全力でアイヌとの戦いを進められるようになります。

アイヌの分断

こうして押されていた戦局少しずつ戻していった松前藩側は、シャクシャインと行動を共にしていない(武装蜂起しなかった)アイヌの取り込みを進め、それを通じて、それらに近しい蜂起したアイヌ部族へのアプローチを始めます。

和人憎しで始まったシャクシャインによる蜂起ですが、アイヌの優位性が失われていくと、アイヌの中でも意見の相違が出て来ます。

元々部族間で争っていた者達の集合体に過ぎませんので、アイヌに統一性などないからです。

そのため、時間の経過と共に袂を分つアイヌが増えていき、戦局がシャクシャイン側不利となっていきました。

幕府軍到着(1669年8月10日)

その後、寛文9年(1669年)8月10日に松前泰広率いる幕府軍が松前に到着し、同年8月16日に松前藩のクンヌイ部隊と合流すると、戦局が一気に松前藩側に傾きます。

松前藩・幕府連合軍が、同年8月28日に東蝦夷地に向かって進軍すると、蜂起したアイヌ部族のうち、松前藩に近かった部族などが次々と松前藩に下っていきました。

この結果、孤立していったシャクシャインは苦しくなり、戦いを維持することすら難しくなっていきました。

シャクシャインに対する降伏勧告

勝利が目前に迫った松前藩は、さらなる戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れ、早期解決を図るためにシャクシャインに対して降伏勧告を行います。

この頃の蝦夷地では、紛争が起こった場合に非がある側が相手方に対して価値ある金品を差し出して和解するという文化がありました(ツクナイ=償い)。

そこで、松前藩は、シャクシャインに対して、ツクナイを差し出せば助命する、拒否すれば討伐して命を奪うと申し出たのです。

シャクシャインを謀殺(1669年10月23日)

苦しい戦局であったものの完全敗北したわけではなかったシャクシャインは、この松前藩からの降伏勧告を聞いて悩みます。

この後迎えることとなる冬を利用してゲリラ持久戦を行えばまだ勝ち目があると考えていたからです。

もっとも、苦しい戦いを強いられていたアイヌ側では降伏認容論者も多く、子のカンリリカの説得により最終的にはシャクシャインも松前藩に降伏するとの決断を下します。

そして、寛文9年(1669年)10月23日、シャクシャインは、ツクナイのための金品を携えて松前藩が陣を敷くピポク(現在の新冠郡新冠町)を訪れ、降伏の意を伝えます。

これにより、松前藩とアイヌとの戦いが終結することとなり、それを祝って松前藩高官とシャクシャインらアイヌ上層部が参加する祝宴が開かれることとなりました。

このとき、アイヌ側は降伏することによる和議終結の意思があったのですが、松前藩側にはそのような意図は全くなく、松前藩側はシャクシャインを亡き者にすることしか考えていませんでした。

そこで、松前藩側では、同日開かれた宴席でシャクシャインを泥酔させて抵抗不能の状況を作り出した後、これを討ち取ってしまいました(松前藩得意の騙し討ちであり、アイヌ指導者16人中14人暗殺・2人捕縛)。

戦いの終結

シャクシャインを討ち取った松前藩は、翌寛文9年(1669年)10月24日にシャクシャインの本拠地であるシブチャリチャシを攻略します。

また、続けて、シャクシャイン暗殺を秘匿して他の蜂起したアイヌ首長達を呼び出し、これらもまた次々と捕縛して討ち取っていきました。

これらの松前藩の行為により指揮官を失ったアイヌは大混乱に陥り、戦う力を失ったアイヌ各部族は、次々とツクナイを差し出して松前藩に降伏し、寛文10年(1670年)頃には概ね戦が終結します。

 

シャクシャインの戦い後

アイヌに対する支配権強化

アイヌ武装蜂起を鎮めた松前藩は、戦後処理との名目で寛文12年(1672年)までアイヌ各地に出兵し続け、その軍事力を基に蝦夷地でのアイヌ交易の主導権を絶対化してしまいます。

そして、各地に駐屯させた軍事力を基に武装蜂起に参加しなかったアイヌ部族を含めたアイヌ全体に対し、松前藩以外との交易禁止・和人への業務妨害禁止などを定める七ヵ条の起請文を差し入れさせて、松前藩に対する服従を誓わせてしまいました(渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書)。

アイヌ搾取の継続

その後、米と鮭の交換レートをいくぶん緩和するなど、融和策も行われたのですが、基本的には和人によるアイヌ人搾取は強化されていき、アイヌにとってはさらなる厳しい時代が続いていくこととなったのです。

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