コシャマインの戦いは、康正3年(1457年)5月から数ヶ月の間繰り広げられた始まったアイヌと和人との戦いです。
夷島と呼ばれた室町時代の北海道において、古くから同地で暮らしていたアイヌに対し、本州から移り住んできた和人が領主的立場に立って搾取を繰り返したため、アイヌ少年殺人事件を端緒として和人に対する抵抗運動の形で始まりました。
一時は和人を追い払う寸前まで戦いを有利に進めたアイヌ軍でしたが、和人方が蠣崎家から派遣された武田信広の下で団結し形成を逆転させて最終的には和人方勝利に終わっています。
なお、アイヌが文字を持たない民族であったこともあったためコシャマインの戦いを伝える文献は多くなく、主たるものは戦いから約200年も経過した後の正保3年(1646年)に記された松前藩編纂藩史(新羅之記録)によるものであるため、その真偽は検証が必要といわれていますので、この点を前提として読んでいただければ幸いです。
【目次(タップ可)】
コシャマインの戦いに至る経緯
安東家による支配
文治5年(1189年)に奥州藤原氏が滅亡したことにより和人とアイヌとの緩衝地帯がなくなったため、鎌倉時代に入る頃からアイヌが住んでいた本州の最北端まで和人が進出して行きます。
そして、鎌倉時代に入るとなると、本州の最北端地域で生活する和人が、夷島(後の蝦夷地、現在の北海道)のアイヌとの交易を本格化させていきました。
その後、十三湊(現在の青森県五所川原市)を拠点とする安東家が、夷島(後の蝦夷地、現在の北海道)・朝鮮半島・中国大陸との交易により勢力を強め、蝦夷管領(蝦夷代官)を名乗って夷島南端部(道南)に対する支配権を主張するようになります。
なお、本州東から夷島に渡った安東家などの諸豪族は、道南地域に定住して交易で勢力を拡大していきました。なお、夷島の道南地区は内陸部に入るとすぐに山間地帯となるため、夷島南端地域の海岸沿いに集落を形成し、その中心に館(たて)と呼ばれる本拠地を置きました。
安東盛季の道南移住(1432年)
その後、永享3年(1432年)、新興勢力の南部家により十三湊(本州)から追い出された安東盛季は、夷島(蝦夷地・北海道)のウショロケシ(函館)まで逃亡し、同地で勢力回復を図ります。
そして、この安東盛季の夷島移転の後、その家臣であった蠣崎家もこれに続くなど和人の夷島移住が続き、本州に近いウショロケシ(函館)やマトマイアイヌ(松前)などへの進出がなされていきました。
その上で、これらの中に次々と本拠地となる館(たて)を設置することとし、安東家配下の館は、東の志濃里館から西の花沢館までの間の海岸沿いに12箇所も築かれました(この安東家の12の館を特に「道南十二館」と呼んでいるのですが、戸井や矢不来などの新羅之記録に記載されていない館の存在も確認されているため、その真偽については疑問も残されています。)。
和人による搾取
以上の経過を経て夷島に移住してきた安東家を中心とする和人は、縄文文化を受け継ぎながら狩猟・漁労・採集生活をしていたアイヌに干渉を始め、本州で進んだ軍事技術を背景として次第にアイヌから搾取を始めるようになります。
なお、和人側では、アイヌに対する差別意識があり、アイヌに対して東夷成敗権を持つと考えていました。
当然ですが、アイヌ側からすると、他所者である和人が夷島に進出した上に支配者として立ち回っていたことに不満が積み上げられていました。
安東政季が道南を離れる(1456年)
そんな中、道南にて力を付けていた安東政季が、秋田郡の領主であった分家の秋田城介・安東尭季から秋田小鹿島(現在の秋田県男鹿市)に移らないかとの提案を受けます。
この提案を受けた安東政季は、安東家政(茂別館館主・下国守護)・下国定季(大館館主・松前守護)、蠣崎季繁(花沢館館主・上国守護)の3名を守護に任じて安東家を頂点とする主従関係となる三守護体制を整えた上で、道南を出発して出羽国秋田小鹿島に移り住みます。なお、安東政季は、葛西秀清を滅ぼして檜山集落東側丘陵に檜山城を築城し、同地を本拠としました。
この結果、道南地方における和人最大勢力者が道南からいなくなるという状況となりました。
抑圧されていたアイヌにとっては絶好の好機とも言えます。
アイヌ少年殺害事件(1456年)
以上の状況下で、アイヌ人の不満が爆発する事件が起こります。
康正2年(1456年)頃、夷島南端地域には、12の館(道南十二館)とその周囲の和人集落があったのですが、その最東に志濃里館(現在の北海道函館市銭亀沢支所管内志苔)がありました。
この志濃里館には優秀な製鉄技術を持つ鍛冶屋街があり、これを持たないアイヌが鉄製の刀や農具などを買い求めるという関係が続いていました。
ところが、同年、志濃里館の鍛冶屋にマキリ(小刀)を買いに来たアイヌのオッカイ(少年または若い男性)と、和人鍛冶屋との間で口論となり、和人鍛冶屋がアイヌ少年を当該マキリで刺し殺すという事件に発展します。
和人とアイヌとの関係が良好であれば、突発的な1つの殺人事件として個別処理されるはずなのですが、それまでの和人の行為に不満を募らせていたアイヌは、この事件をきっかけとして不満を爆発させます。
コシャマインの戦い
コシャマイン武装蜂起(1457年5月)
渡島半島東部のオシャマンベ(現在の長万部)のアイヌ首長であったコシャマインは、この話を聞いて激怒し、鵡川から余市に至る地域に住むアイヌ人を集めて和人に対して武装蜂起します。
アイヌの快進撃
そして、コシャマインは、康正3年(1457年)5月、和人館に対し攻撃を開始します。
コシャマインは、まずアイヌ少年殺害現場となった最東和人館である小林良景が守る志濃里館に集結してこれを攻撃し陥落させます。
次いで、河野政通が守る箱館を陥落させ、その勢いのまま胆振の鵡川から後志の余市までの広範囲で戦闘を繰り広げます。
勢いに乗るアイヌ軍は、快進撃を続け、立て続けに中野・脇本・隠内・覃部・大館・弥保田・原口・比石の各館も陥落させ、これにより道南に点在する和人の道南十二館は、蠣崎季繁が守る花沢館と下国家政が守る茂別館の2館のみとなってしまいました。
武田信広による反撃
絶体絶命の危機に陥った和人方でしたが、ここで戦局を一変させる事態が起こります。
花沢館主であった蠣崎季繁が、客将であった武田信広(新羅之記録によると若狭国守護・武田信賢の三男とされるも真偽不明)を指揮官としてアイヌ対応を任せたのです。
武田信広は、まずは各地の戦線でアイヌに敗れて散り散りになっていた和人兵を集結させて軍を整えます。
その上で、武田信広は、アイヌに対する反撃作戦を開始し、長禄2年(1458年)の七重浜の戦いで自らコシャマイン父子を射殺す武功を挙げました。
武装蜂起の指導者であったコシャマインの死によりアイヌ軍は壊滅し、コシャマインの戦いが終わります。
新羅之記録(松前藩史)に対する疑問
以上が新羅之記録(松前藩編纂藩史)から読みとくことができるコシャマインの戦いの経緯です。
もっとも、この記録は、戦いから約200年も経過した後に書かれたものである上、詳細な記述がないこと、武田信広が自らコシャマイン父子を弓で討ち取るという不自然な記載となっていることなどからその信用性を疑う見解が多く見られます。
真偽は明らかではありませんが、この後に武田信広が引き継いだ後の蠣崎家では、その勢力を高めるために敵対者を宴席に招き、そこで酒に酔わせてだまし討ちにするという暗殺劇を繰り返しており、このコシャマイン父子についても同様の手段がとられたのではなかろうかという疑いも晴れません。
コシャマインの戦いの後
武田信広が蠣崎家を継ぐ
コシャマイン父子を討ち取った武田信広は、長禄2年(1458年)6月中にアイヌを鎮圧し、この武功により夷島における地位を決定的なものとします。
そして、武田信広は、この功績により上之国守護・蠣崎季繁の養女を室に貰い受けることとなり、安東家による夷島における三守護体制の一角に参画する立場となりました。
その後、寛正3年(1462年)5月12日に蠣崎季繁が没すると、蠣崎家の家督を継いで上之国守護となり、夷島の支配者の一人となります。
勝山館築城
蠣崎家を継いだ蠣崎信広は、正確な時期は不明ですが、上ノ国に勝山館を築城し、自らの地位確立のためアイヌからの搾取政策を続けます。
この結果、度々アイヌの反発を引き起こし、その度に戦いが勃発した結果、蠣崎家の本拠地となった上ノ国勝山館が和人の最前線基地となりました。
これが、この後に和人とアイヌとの間で長い間続く100年戦争とも言われる長い戦いが始まりでした。
アイヌ・蠣崎家の100年戦争
蠣崎信広が、明応3年(1494年)5月20日に死去すると、その嫡男である蠣崎光広がその跡を継ぎます。
蠣崎光広は、父・蠣崎信広のものと同様にアイヌに厳しい政治を引き継いだため(蠣崎光広の子である蠣崎義広も同様)、頻繁にアイヌの反発を引き起こし、その度に断続的な戦いに発展しました。
蠣崎家による下剋上
以上の結果、松前と上之国・天の川に集住する和人と、アイヌとの間で断続的な戦いが繰り広げられた一方で、道南で勢力を強めた蠣崎家は、安東家の配下から逃れるため、安東家の政策であった三守護体制から解放されるべく動きはじめます。
まず、蠣崎光広が策謀を巡らし、明応5年(1496年)に松前守護の安東恒季を失脚させます。
続けて、永正10年(1513年)年にアイヌによる松前守護職となった相原季胤と副守護の村上正儀の殺害に関与します。
蠣崎家が夷島支配権を得る
蠣崎光広は、守護と副守護がいずれも殺害されて不在となったことを奇貨として、永正11年(1514年)、蠣崎家の本拠地を松前守護本拠地であった松前大館(現在の北海道松前町)に移し、上之国に加えて松前の権限も手中にしてしまいました。
その後、蠣崎光広は、永正12年(1515年)に東部アイヌが武装蜂起した際、東部アイヌ首長であったシヨヤ・コウジ兄弟を言葉巧みに宴席に呼び出し、酒に酔わせて惨殺することでこれを鎮めました。
以上のような経過を経て道南で大きな力を手にした蠣崎家は、商船からの徴収金を上納することなどを条件として交渉するなどして、安東家から支配の独占権を取り付けてしまい、その後の松前藩形成の基礎となっていきました。
そして、本州・四国・九州において豊臣秀吉の手により天下統一がなされると、当時の蠣崎家当主であった蠣崎慶広はいち早く大量の献上品を持参して豊臣秀吉に謁見し、安東家からの独立が認められると共に、夷島の支配権を認められます。なお、安東家からの独立を果たした蠣崎家は、慶長4年(1599年)に苗字を蠣崎から松前に改めています。
こうして蠣崎家に夷島全域の支配権が認められることとなった結果、アイヌはその支配下に置かれるというアイヌにとっては到底認容できない事態に落ちりました。
また、豊臣秀吉の死後に徳川家康が力を強めていくと、松前慶広は、徳川家康に取り入って、松前藩の基礎を固めると共にアイヌとの交易権を独占します。
江戸時代以降の道南の混乱
幕藩体制下で1万石の大名家として評価された松前藩でしたが、実際には寒すぎて米が全く収穫できませんでした。
そこで、松前藩は、この1万石に見合う収入を別の手段であるアイヌとの交易で得ていました。
この点、松前藩の利益はアイヌからの搾取に応じて高まる構造となったため、松前藩はアイヌに対する搾取構造を強めていったため、和人とアイヌとの対立は治まりませんでした。
そのため、松前藩立藩後もアイヌの大規模蜂起(1669年のシャクシャインの戦い、1789年のクナシリ・メナシの戦いなど)が続いていくこととなるのですが、長くなりますのでこれらの話は別稿に委ねたいと思います。