沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、天正12年(1584)3月24日に肥前島原半島(現在の長崎県)で発生した戦いです。
戦国時代末期に、九州で覇を唱えた龍造寺軍と島津軍とが激突し、龍造寺軍の大将である龍造寺隆信が討ち取られるという前代未聞の結果で終わった合戦として有名です。
龍造寺家が没落し島津家が九州の覇者となった戦いでもあります。
本稿では、そんな九州の趨勢を決めた世紀の一戦である沖田畷の戦いについて、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。
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沖田畷の戦いに至る経緯
龍造寺隆信の台頭
九州では、戦国大名初期までは豊前国に本拠を置く大友家が最大勢力として君臨していたのですが、中国地方で巨大化し九州にまで侵食してきた大内義隆・陶晴賢・毛利元就との戦いにより大友家の国力が消耗し、だんだんその影響力を低下させていきます。
他方、龍造寺隆信が肥前国で力をつけ、永禄2年(1559年)にかつての主家であった少弐家を滅亡させ、また永禄5年(1562年)ころまでに東肥前の支配権を確立させた後、元亀元年(1570年)の今山の戦いで大友宗麟軍を破った勢いに乗って肥後半国、筑前、筑後、豊前の一部(長崎県、佐賀県、熊本県北部、福岡県)を次々に獲得していきました。
また、天正5年(1577年)、龍造寺軍が島原半島に進行して神代・多比良・三会・千々石などの各城を攻略するなどして、その他の城も支配下に置きます。
この結果、九州は、大友家(九州北東部)・島津家(九州南部)・龍造寺家(九州北西部)の三強時代となります。
九州ニ強時代
その後、天正6年(1578年)に勃発した耳川の戦いにおいて、日向国に南征した大友宗麟が島津義久に敗れ(耳川の戦い)、多くの諸将を失った大友家が急激に衰退していきます。
この大友家の衰退に乗じた龍造寺隆信が、肥前国を平定した後で大友領へ侵攻して筑前国・筑後国・肥後国・豊前国にまで侵食していったため、九州は島津・龍造寺のニ強時代に入っていきました(龍造寺隆信は「五洲二島の太守」と呼ばれるほどに勢力を拡大します。)。
肥後国・筑後国を巡るせめぎ合い
筑後国・肥後北部に進出していく龍造寺隆信は、筑後国では柳川の蒲池鎮蓮や鷹尾の田尻鑑種らを調略し、また山下城の蒲地鑑広を討伐するなどし、肥後国では龍造寺政家(龍造寺隆信の嫡男)と鍋島信生(後の鍋島直茂)を派遣して島津方の赤星親隆を下し、また肥後国山本郡の内古閑鎮房を降伏させ周囲の国衆を取り込み巨大化していきます。
順調に勢力を拡大させていた龍造寺隆信でしたが、筑後国柳川において蒲池鎮蓮が島津家への通謀を疑われ龍造寺隆信により一族が粛清されたのをきっかけとして、筑後衆に反龍造寺の動きが強まります。
この動きに乗じて、筑後衆の最有力者となっていた田尻鑑種までもが龍造寺隆信に反旗を翻したため、筑後国・肥後国に混乱が生じます。
この混乱に乗じた島津家が、天正9年(1581年)には軍を北上させて肥後国に進出していきます。
有馬晴信離反(1582年10月)
そんな中で、薩摩・大隅・日向を平定した島津義久が、龍造寺隆信が支配する肥前国を攻略目標に定めます。
肥前国南部は、元々大友家に下っていた有馬晴信が治めていたのですが、このころは勢力を高めつつあった龍造寺隆信に下っている状況でした(有馬晴信は妹を龍造寺隆信の嫡子・龍造寺政家の室として差し出していました。)。
ここで、島津義久は、龍造寺隆信に下ったもののいまだ反抗的態度を示す島原半島の有馬晴信や肥前国彼杵郡の大村純忠などの大名・国衆に調略を仕掛けます。
これにより、天正10年(1582年)10月ころ、龍造寺家の横暴に耐えかねた有馬晴信が、島津家の後詰約定とイエズス会の援助も得て龍造寺家に反旗を翻し、天正11年(1583年)5月に島津の援軍を求めて龍造寺方の深江城を攻撃したのですが龍造寺方の深江城(現在の長崎県南島原市深江町)を攻撃しますが失敗に終わります。
この有馬晴信の反乱を放置しておけない龍造寺隆信は、天正12年(1584年)正月、神代貴茂を深江城に入れるなどして有馬晴信攻撃の姿勢を見せます。
沖田畷の戦い
龍造寺軍の島原半島侵攻(1584年3月)
島津からの援軍が派遣されたと知った龍造寺隆信は、天正12年(1584年)3月19日、自ら大軍を率いて須古城(佐賀県杵島郡白石町)から龍王崎に出て船に乗り、翌3月20日に島原半島北部にある神代(長崎県島原市国見町神代小路)に上陸して三会城及び寺中城に入り、全軍が結集するのを待ちます。
この報を聞いた有馬晴信は、直ちに八代にいる島津義弘に対して使者を派遣して援軍を要請します。
このときの島津軍では、肥後国平定戦の真っ只中であったこと、島原半島に軍を割くとその隙をついて大友軍が侵攻して来る可能性があったことなどから慎重論も強かったのですが、龍造寺軍の主力が島原半島に到達したとなると放置もしておけず、何とか後詰軍を編成して、先遣隊として新納忠元を渡海させて安徳城に向かわせ、その後、島津家久を総大将とする島津忠長・新治忠元・山田有信・頴娃久虎・猿渡信光・伊集院忠棟・川上忠智ら率いる3000人程度の兵を派遣します。
なお、援軍として島原半島に上陸した島津家久は、渡海の際に使用した船を全て戻し、兵に不退転の決意を示したと言われています。
島津・有馬連合軍の野戦伏兵策
天正12年(1584年)3月22日、島原半島に入った島津家久は、直ちに有馬晴信との軍議を開きます。
このとき、有馬晴信は、兵力的不利から森岳城と丸尾砦に籠って島津軍の後詰を待つ作戦を主張しましたが、島津家久は島津本軍の後詰が期待できないとして野戦での決着を主張します。
結局、有馬・島津連合軍での軍議の結果、野戦で決着させることとなり、大軍を寡兵で対応できうる場所を探し、当時海岸線から眉山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がる湿地帯に挟まれた場所にある細長い道である沖田畷を利用して迎え打つこととなりました(上図の黒い線の部分が沖田畷です。)。
そして、有馬・島津連合軍は、迎撃準備として森岳城に総大将の有馬晴信率いる500人を、丸尾砦に猿渡信光率いる1000人をそれぞれ入れ、その間の街道沿いに柵や鹿垣を巡らして遮断し、沖田畷の出入口に設けた大木戸に龍造寺軍を誘導することとします(なお、この柵設置工事は同年3月23日に完成しています。)。
これにより、北側から進んでくる龍造寺軍に対しては、山手侵攻軍は丸尾砦で、浜手侵攻軍は森岳城で、中央(沖田畷)侵攻軍は大木戸で防衛することが出来るようになります。
その上で、浜手南側には伊集院忠棟ら1000人、山手南側には新納忠元ら1000人、中央南側には赤星一党の50人(龍造寺隆信に人質として預けていた2人の子を斬殺された肥後菊池郡国人であった赤星統家が先陣を買って出ました。)と島津家久率いる1000人を伏兵として配置します。
さらに、有馬晴信は大砲と鉄砲を乗せた軍船を準備して浜手を進行する軍を待ち受けます。
龍造寺軍の強攻策(1584年3月24日)
対する龍造寺軍は、時化の影響により本隊2万5000人の海路行軍が遅れ、島津軍に1日遅れた天正12年(1584年)3月23日になってようやく龍造寺軍全軍が寺中城に結集します。
全軍が結集した龍造寺軍で軍議が始まり、ここで、龍造寺家家老の鍋島信生が、龍造寺隆信に対し、島津軍が先行して布陣しているために強行策をとると損害が大きくなるため、長期持久戦に持ち込んで島津の援軍が肥後に撤退するのを待つべきであると進言します。
もっとも、島津軍を寡兵と見た龍造寺隆信は、鍋島信生の進言を退け、翌日、軍を3手(浜手軍・山手軍・中央軍)に分けて進軍し島津軍を殲滅する作戦をとることに決定します。
なお、軍議の場では、中央軍が龍造寺政家・鍋島信生が、浜手軍は江上家種・後藤家信が、山手軍を龍造寺隆信が指揮する予定だったのですが、同年3月24日未明になって、島津軍の中央の布陣が手薄と見た龍造寺隆信の一言で急遽予定が変更され、中央軍を龍造寺隆信が、山手軍を龍造寺政家・鍋島信生が指揮することに変更され、出陣することとなりました。
こうして、同日辰の刻(午前8時頃)、龍造寺軍が3手に分かれて南進していくことにより、戦いが始まります。
釣り野伏せ
龍造寺中央軍では先行隊であった小川信俊隊が南進し、他方、島津・有馬連合軍では先行隊である赤星一党が大木戸を越えて北進し、これら両軍が接敵します。
このとき、龍造寺軍先行隊が赤星一党に対して一斉掃射を浴びせたため、寡兵の赤星一党はすぐさま大木戸の方向に向かって退却を始めます。
この動きを見た龍造寺先行隊は、当然追撃に掛かります。
ところが、これが島津軍による罠でした。
龍造寺軍を引き連れてきた赤星一党が大木戸をくぐると大木戸が閉じられたため、龍造寺中央軍先行隊は大木戸と木柵により行く手を阻まれます(また、後続隊が続いているため後ろにも下がれません。)。
ここで、龍造寺中央軍先行隊に対し、大木戸手前に伏せられた有馬・島津連合軍による弓や鉄砲による一斉掃射が浴びせられたため、龍造寺軍中央先行隊は大混乱に陥ります。
また、前記のとおり、龍造寺軍先行隊が進軍していた中央の道は畷と呼ばれる細い小道であったために先行隊(小川信俊隊)に後続隊(龍造寺康秀隊・倉町信俊隊)が加勢できず、龍造寺軍先行隊は前から順に射殺されて壊滅していきます。
龍造寺中央軍・浜手軍の混乱
こうして龍造寺軍先行隊が有馬・島津軍に蹂躙されて足が止まったことにより、龍造寺軍中央攻撃隊全体の進軍が止まります。
この事態に怒った龍造寺隆信は、前線の様子を確認するため吉田清内を使者として派遣します。
ところが、状況確認のために遣わされたはずの吉田清内が、前にいる小川信俊隊・龍造寺康秀隊・倉町信俊隊に対して命を惜しまず突撃するようにとの龍造寺隆信が出してもいない指示を伝え回ります。
この命にいきり立った龍造寺軍の諸将は、沼地に入り込んでまで進軍し始めます。
ところが、沼地に入って進軍などできようはずがありません。
沼地に足を取られた龍造寺中央軍は、有馬・島津軍の伏兵の格好の的となり、小川信俊・龍造寺康房・納富能登守などの諸将をはじめとする将兵が次々と射殺されて大混乱に陥ります。
この龍造寺中央軍の大混乱を見た島津家久は、大木戸手前に伏せていた伏兵を一気に正面から突撃させ、混乱する龍造寺中央軍を蹂躙していきます。
また、あわせて森岳城・丸尾砦の後方に伏せて置いた伏兵もまた側面から攻撃に転じます。
こうなると、龍造寺軍からは逃亡兵が続出し事態を収拾できません。
混乱する中央軍の後方にいた龍造寺隆信は、浜手軍の後方に移動して士気を回復して戦線を再構築しようと考え、中央から沼地に入り込み浜手方に進んでいきました。
ところが、沖合にあった有馬晴信方の軍船から大砲と鉄砲による攻撃が始まったこと、浜手側からも島津軍の伏兵が突撃してきたことにより、龍造寺浜手軍もまた大混乱に陥ります。
勝負が決したと判断した龍造寺隆信は、後退しようと試みたのですが、ここで島津方の川上忠堅に見つかってしまいます。
龍造寺隆信討死
川上忠堅は、発見した龍造寺隆信を討ち取るため、指揮下の兵に龍造寺隆信への総攻撃を命じます。
このとき、龍造寺隆信を守っていた龍造寺四天王の成松信勝と百武賢兼が、龍造寺隆信が退却するための時間を稼ぐために前に出て奮闘しますが力尽きて討ち死にします。
また、龍造寺四天王の1人である円城寺信胤が、龍造寺隆信の身代わりとなって龍造寺隆信を名乗り島津軍に斬り込んで討ち死にします。
重臣を次々と失いながら退却を試みる龍造寺隆信でしたが、ついに川上忠堅隊に追いつかれ討ち取られてしまいます(なお、首を打ちとったとされる人物は万膳仲兵衛尉弘賀であったとも言われています。)。
一代で九州の3分の1を切り取り、肥前の熊と言われた傑物の最期でした。享年は56歳です。
決着
龍造寺隆信の討ち死の報はすぐさま戦場全域に伝わると龍造寺軍は全軍退却を開始したため、沖田畷の合戦は寡兵の島津・有馬連合軍の勝利に終わります。
このとき、山手方面は、龍造寺家政・鍋島信生・木下昌直軍が猿渡信光軍を押し込んでいたために丸尾砦は陥落寸前だったのですが、敗戦で砦を得ても意味がないと判断し、龍造寺家政らはすぐさま退却を開始しています。
こうして寺中城を目指して退却する龍造寺軍でしたが、沼地での退却は困難を極め、退却中に島津・有馬連合軍からの猛追撃を受け、次々と将兵が討ち取られていきました。
なお、雌雄が決した後、島津・有馬連合軍にて首実検が行われたのですが、ここで首実検中の島津家久を狙って龍造寺四天王の1人である江里口信常が切りかかり、島津家久の左足を切りつけたところで近習に討ち取られています。
沖田畷の戦いの後
龍造寺家のその後
この沖田畷の戦いにより、龍造寺隆信・龍造寺信勝・龍造寺康房をはじめ、龍造寺四天王(成松信勝・百武賢兼・江里口信常・円城寺信胤)やその他小河信俊などの多くの重臣を含めた234人の将を失った龍造寺家からは、傘下の国衆の離反が相次ぎます。
そして、離反した国衆達がこぞって島津家に与したため、龍造寺家は急激に没落していきます。
龍造寺政家は、落ちぶれていく家を何とか維持しようと努力したものの器量が足りず、やむなく鍋島信生を養子として呼び戻し国政を担わせることとなりました(その後、豊臣秀吉による九州征伐に際し、豊臣秀吉からその能力を高く評価された鍋島信生が、主家である龍造寺家にとって代わっています。)。
島津家のその後
沖田畷の戦いに敗れて龍造寺家が没落したことにより、九州において島津家に単独で対抗できる大名がいなくなります。
また、前記のとおり、龍造寺家の傘下にあった国衆たちが島津家に寝返ったことにより島津家の影響力が筑前国・筑後国まで拡大し、これらの勢力を使って島津家が九州制覇を推し進めていくようになります。
なお、沖田畷の戦いの立役者である島津家久は、論功行賞により知行地4000石を与えられ、佐土原城代に任じられて日向国方面の差配を任されるようになりました。