【碧血碑】函館戦争における旧幕府軍戦死者を祀った石碑

碧血碑(へきけつひ・へっけつひ)は、戊辰戦争最終戦となった函館戦争において旧幕府軍に与して戦死した約800人の戦死者を祀った碑です。

函館戦争に勝利した新政府側戦死者が函館護国神社(函館招魂社)にて英霊として祀られたのに対し、敗れた旧幕府軍側戦死者が放置されていたことを哀れに思った函館の侠客であった柳川熊吉の尽力により建てられました。

碑文を一読しても意味が分からないのが通常ですが、歴史を勉強してから見るとイメージが大きく変わります。

碧血碑建立に至る経緯

函館戦争における新政府側戦死者は英霊

碧血碑建立のきっかけとなったのは、明治新政府と旧幕府軍とが争った戊辰戦争の最終戦となった函館戦争です。

函館戦争に勝利した新政府側は、戦争終結直後の明治2年(1869年)5月21日に大森浜で新政府側で戦った戦死者の招魂祭を行った上、室蘭から函館に移送されてきた旧幕府軍捕虜の一部を使役して函館山麓の約6000坪に招魂場建築のための土地造成を始めさせ、造成が完了した同地に新政府側の戦死者を埋葬します。

そして、同地は、同年9月5日から3日間に亘る慰霊祭がなされて「函館招魂社(函館護国神社)」となり、函館戦争における新政府側の戦死者は同地で丁重に葬られて英霊として祀られることとなりました。

旧幕府軍戦死者の遺体回収(1871年)

他方、函館戦争時に幕府側に与して敗れた戦死者は、戦後も路上にて放置され、新政府からの処罰を恐れて遺体を葬ることさえなされませんでした。

この状況を見かねた侠客・柳川熊吉が、明治4年(1871年)、函館にある実行寺の住職であった松尾日隆や棟梁であった大岡助右衛門に相談した上で、子分に指示して幕府側戦死者の遺体を集めて実行寺・称名寺・浄玄寺などの函館所在寺院に埋葬しました(なお、柳川熊吉は、この行為は明治新政府に問題視されて捕縛された上で処刑されかけたのですが、軍監であった田島圭蔵の取り成しで助命されるに至りました。)。

旧幕府軍戦死者の祭祀許可(1874年8月)

その後、明治7年(1874年)8月18日、明治政府によって賊軍の汚名を負った旧幕府軍戦死者の祭祀が許可されたため、箱館戦争の生き残りである榎本武揚・大鳥圭介らが柳川熊吉と協力して旧幕府軍戦死者を祀るための行動を始めます。

碧血碑

碧血碑建立(1875年5月)

柳川熊吉・榎本武揚・大鳥圭介らが中心となって、函館各寺に埋葬されていた幕府側戦死者約800人の遺体を人里離れた山中である谷地頭(函館八幡宮及び臥牛山妙心寺の裏山)に改葬し、明治8年(1875年)5月、「碧血碑」という石碑を置いて祀ることとします。

そこで、高さ約6mの伊豆産の石が準備され、東京霊岸島でとして碧血碑造られて海路により函館まで運搬され、谷地頭に置かれました。

碧血碑碑文

(1)碑文表面

碑文の表側には碧血碑と彫られています。

碑石の文字は大鳥圭介のものと言われているのですが、真偽は不明です。

「碧血」とは、「萇弘死于蜀、藏其血三年而化為碧(義に準じて流した血潮は3年経つと宝石の碧玉になる)」という「荘子」外物篇の記述にちなんで選ばれました。

(2)碑文裏面

また、碧血碑の裏側には「明治辰巳實有此事 立石山上㕥表厥志」との文字が刻まれました。

これは明治2年にあった出来事のために山上に石を建てますという意味です。

これらの表裏の碑文は、一見すると戊辰戦争による旧幕府軍戦死者を弔い祀るために建てられたものということがわからない文字となっているのですが、その理由としては、碧血碑建立時においてなお戊辰戦争の経緯を触れることが明治政府に対してはばかられたためと言われています。

その後

碧血碑建立後、柳川熊吉は、谷地頭で料理店柳川亭を開き、晩年は養子に家を譲って碧血碑の傍で慰霊に従事しながら余生を過ごしました。

そして、柳川熊吉が米寿を迎えた大正2年(1913年)、その活動を評価した実行寺の住職により碧血碑の側に「柳川熊吉翁之寿碑」が建てられました。

その後、柳川熊吉は、同年12月7日に89歳で死去します。

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