伏見宿(ふしみじゅく) は、57次に延伸された東海道の54番目の宿場町です。古くから発展していた京南方の港湾都市であったのですが、隠居地として伏見に入った豊臣秀吉の手により大改修がなされ、さらにその後に徳川家康により更なる整備がなされた後、元和5年(1619年)に東海道の宿場町として指定されました。
京と大坂の間に位置する水陸交通の要衝地として大発展をした東海道最大級の大都市だったのですが、鳥羽伏見の戦いの戦火によりその大部分が焼失してしまったため、ほとんど遺構が残されていないのが残念です。
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伏見宿指定に至る経緯
安土桃山時代の伏見
伏見は、京の南方に位置する港湾都市であり、万葉集や日本書記にも登場することから古くから発展していた町であることがわかります。
そして、安土桃山時代に全国統一を果たした豊臣秀吉が、隠居城として伏見に新城を築いて城下に諸大名の大名屋敷を配したため、伏見は京と大坂の中央に位置する豊臣政権の政治都市としてさらなる大発展を遂げました。
伏見に入った豊臣秀吉は、それまで淀川は度々氾濫し大雨が降ったりすると大坂と伏見の交通が遮断されることが多かったのですが、降雨量が多い場合にも通行可能となるルートを指定して堤防を築くよう毛利家に命じます。
そして、この命を受けた毛利家により、文禄5年(1596年)、大坂と伏見を結ぶ全長約27kmの淀川堤防とその上の道(文禄堤)が完成しました。
その後、関ヶ原の戦いを経て支配者の地位が豊臣家から徳川家に移ると、新たに支配者となった徳川家康が、慶長6年(1601年)、江戸と京都を結ぶ主要ルートである東海道を整備します。
もっとも、徳川家康は、豊臣家がある大坂までの街道整備を行うことはせず、陸運の大動脈であった東海道も、江戸・日本橋から京・三条大橋までと定めたため(東海道五十三次)、伏見の町も主要街道からは外れてしまいました。
東海道延伸
もっとも、慶長20年(1615年)に大坂の陣で豊臣家を滅ぼした江戸幕府は、大坂の経済力を取り込むために再建に着手した上で同地を直轄化することとし(実際に直轄地としたのは元和5年/1619年)、それまで江戸と京を結んでいた東海道を大坂まで延伸することとします。
この延伸ルートとして江戸幕府が目を付けたのが、豊臣秀吉が築いた伏見・大坂間を結ぶ文禄堤でした。
江戸幕府は、整備費用を節約するために大坂と伏見を結ぶ文禄堤上に街道を整備し(京街道)、さらに伏見から髭茶屋追分までの間に大津街道(伏見通)を整備することにより東海道を約54km延長します。
伏見宿の宿駅指定(1619年)
そして、東海道延伸に伴い、江戸幕府は、延伸された東海道の道中にある伏見・淀・枚方・守口に計4宿の宿場町を整備し、元和5年(1619年)に伏見宿を宿駅に指定しました(宿駅制定証文)。
このうち、伏見宿は、京へ向かう高瀬舟・大坂へ向かう三十石船・山城へ向かう淀二十石船・宇治へ行く芝船などを中継する伏見港による水運の要衝だけであっただけでなく、追分大坂を結ぶ東海道を始めとして、深草の藤森神社から大亀谷を経て稲荷山の南麓を勧修寺に抜ける大岩街道・奈良に至る小倉堤を通る大和街道・宇治への短絡路となる槇島堤と接続するなど陸上交通の要衝でもありました。
また、伏見街道から京・五条口に、竹田街道から京・竹田口に繋がるなど、京への玄関口ともなっており、幕末頃には4万人以上の人口を有する宿場町として栄えました。
伏見宿の構造
伏見宿は、五十三次時代の東海道の追分から分岐して南下するルートにあり、追分から南方3里6町(約12.6km)に位置し、宿場としては大津宿(53宿)と淀宿(55宿)の間に位置していました。
その規模は、南北約4.6km・東西約1kmの範囲内に本陣4軒・脇本陣2軒・旅籠39軒・人口2万4000人を誇る巨大都市であり、京・五条口に続く伏見街道上には家屋が切れ間なく続いていたため、実質的には京と町続きの状態で市街地を形成する都市でした。
そして、伏見宿の中心は京橋付近に置かれ、その周囲には京を通過せずに参勤交代を行う西国大名の監視や京都御所の警備などにもあたる伏見奉行所が置かれていたことから、軍事拠点としても機能していました。
宿場機能
① 京橋
伏見宿における水運(荷揚げ等)と陸運の中心地となったのが京橋付近であり、京橋から蓬莱橋北詰を結ぶ南浜の一帯に本陣が4軒・脇本陣2軒・旅籠39軒が並ぶ伏見宿のメインストリートとなりました。
また、京橋付近には問屋場も置かれて常時人足100人・馬100頭が準備されており、公用物を積み替えて次の宿場まで搬送する継立作業を行う人や荷物でにぎわいました。
さらに、京橋南詰には、人足・駕籠・馬借の賃料などを掲示する「船高札場」が置かれ、さらには幕府に公認された過書船を取り締まる「過書船番所」、一般の船を検閲する「船番所」などが設けられました。
江戸幕府役所
① 伏見銀座
伏見には、徳川家康により銀貨の鋳造・発行所となる日本最初の銀座が設けられました。
② 伏見奉行所
寺社仏閣
① 御香宮神社
② 金札宮
③ 三栖神社
周辺
① 撞木町廓
伏見宿の廃止
鳥羽伏見の戦いで焼失(1868年1月)
慶応3年(1867年)12月9日の王政復古の大号令により江戸幕府が廃止され、江戸幕府第15代将軍であった徳川慶喜が幕臣を連れて京・二条城を出て大坂城に退きます。
ところが、その後の薩摩藩の行動に激高した幕臣たちが蜂起し、慶応4年(1868年)1月2日、旧幕府兵・会津藩兵・桑名藩兵からなる大軍が大坂を出て京に向かいました。
これに対し、同年1月3日、朝廷側でも薩摩兵・長州兵・土佐兵等を中心とする軍が出動し、伏見市街・御香宮神社や、鳥羽城南宮・鳥羽街道等に布陣しました。
この結果、鳥羽街道を北上する旧幕府軍(大坂を出発した会津藩先遣隊200人は船で京橋から上陸し伏見御堂に布陣しています。)と入京を阻止するため布陣した新政府軍とが対峙する形となり、同日日没前に戦いが始まりました(鳥羽伏見の戦い)。
この戦いは、鳥羽方面・伏見方面の2箇所で勃発し、そのうちの伏見の戦いは、伏見宿市街地で激戦が繰り広げられました。
最終的には新政府軍の勝利に終わった戦いですが、淀方面に敗走する旧幕府軍が淀宿内の民家に火を放ちながら淀方面に退却したため伏見宿の大部分が戦火によって焼失してしまうという結果となりました。
そして、伏見宿の建造物のほとんどがこのときに失われてしまいました。
伏見宿の廃止
東海道を含む五街道は、江戸幕府中心の統治を推進する政治的目的のために公的な交通や物資運輸の機能を果たすために整備されたものですので、江戸幕府の滅亡によりその役目を終えました。
そのため、明治時代になると関所が廃止されるなどして、街道を誰もが自由に往来できるようになり宿場町としての伏見宿の役割も終わりました。
他方で、明治に鴨川運河や鉄道の開通により、全国各地から京都への物資運搬の拠点となり、また酒造などの産業発展により栄え、現在に繋がる伏見区の礎が築かれていきました。