【渡来銭の歴史】平安時代から昭和時代まで使われた外国銭の歴史と一覧

渡来銭(とらいせん)は、平安時代末期から江戸時代初期に至るまでの長きに亘り、日本国内で流通した外国製の硬貨(銭貨)です。

中国銭が主体なのですが、一部安南銭・朝鮮銭なども存在しています。

奈良時代には国内で硬貨を鋳造していた日本において、天皇家の権威が低下したことにより絶対的権力者がいなくなったために硬貨の通用をさせることができなくなり、またこのことにより硬貨鋳造能力を失ったために硬貨を外国から仕入れることで国内通貨を賄おうとして大量に輸入されました。

硬貨導入以前史

物々交換時代

硬貨(銭貨)導入以前の日本では、農民・漁師・木こりなどが、それぞれの得意分野を生かして生産した物に余剰物が出た場合、それと他の者が生産した余剰物と交換することにより様々な物を獲得するという物々交換が行われていました。

この物々交換では、得意分野以外の物品が獲得できるというメリットがあったのですが、他方で相手方と渡してもいい物・欲しい物が合致しないと交換が成立しないこと、交換の際に交換比率が問題となることなどの様々なデメリットも存在しました。

物品交換時代

そこで、人々は、物々交換のデメリットを補完するため、物品交換の制度を考えます。

物品交換とは、米・布・塩・貝・砂金などの比較的価値が下がりにくい物品を基準とし、これを通貨代わりに利用するというものでした。

この物品交換制度は日本のみならず世界各国でも行われており、古代中国では貝殻(貝貨)を用いることから始まったと言われています(そのため、現在でもお金に関する漢字に「貝」の字(貨・買・財・貯など)が用いられる所以となりました。)。

もっとも、この物品交換制度には欠陥があり、貝などは人により入手難度に差があるために公平性がなく、また米・布・塩などはその流通量に幅が大きいために一定性がないというものでした。

古代中国における硬貨制度の導入

以上の物品交換制度の不公平性・不安定性を防ぐために生み出されたのが、どのような条件下でも同じ価値を持つ硬貨(銭貨)という制度だったのです。

なお、全世界で最も古い時代に造られた硬貨(金属硬貨)は、紀元前670年頃に現在のトルコの一部であるアナトリア半島・リュディアで発明された「エレクトロン貨」と言われており、これがシルクロードを通って古代中国に伝わります。

この点、遠方と交易を行う西洋社会での硬貨は貴金属である銀を使用することが多かったのですが(額面価値ではなく金属価値に重きを置きました)、主に国内や近隣地域で使用することが多かった古代中国では金属価値ではなく額面価値に重きを置いたため、銅・鉄・合金などがその素材として利用されました。

なお、当初、古代中国には銅が硬貨としてではなく農具・工具として伝わり利用されたのですが、その後に鉄の製法が伝わったことにより農具・工具が鉄製品に切り替わったことにより、それまで使用されていた銅製品が硬貨の様な価値物として使用されるようになります(刀幣・布幣など)。

その後、価値ある銅製品につき、持ち運びしやすくするために縮小された上で円形・丸穴に変形された物が作られ(円孔円銭)、これが現在の硬貨の概念に近いものとなります。

古代中国古文銭時代

古文銭名称王朝年代西暦素材
垣字銭
共字銭
宝六化
宝四化
蟻鼻銭
宝化
明化
一化
秦半両BC221年
八鉢半両BC186年
四鉢半両文帝5年BC175年
四決五鉢元狩5年BC118年
上横文五鉢神爵元年BC61年
小五鉢
大泉五十7年
小泉直一始建国元年9年
布泉
貨泉天鳳元年14年
後漢五鉢後漢建武16年40年
直百五鉢章武元年221年
大泉五百嘉禾5年236年
大泉当千赤鳥元年238年
大泉二千
太平百銭西晋永康元年304年
四鉢元嘉7年430年
孝建孝建元年454年
内郭五鉢天藍元年502年
大和五鉢北魏大和19年495年
北魏五鉢永平3年510年
永安五鉢永安2年529年
常平五鉢北斉天保4年553年
北周布銭北周保定元年561年
五行大布建徳3年574年
永通萬国大象元年579年
大貨六鉢大建11年579年
置様五鉢開皇元年581
隋五鉢
白銭五鉢開皇5年585

時代が下り、古代中国が周王朝時代に入ると、それまで使用されていた円形硬貨について、その中心の穴が角穴に変更された硬貨が造られ(方孔円銭)、これが以降の貨幣の原型となります。

そして、このとき造られた方孔円銭が基本形状となっ東アジアに普及していきます。

なお、東アジア硬貨の最大の特徴は、中心の角穴であり、この形状となった理由としては、概念的には、古代中国において大地が四角く、天は丸いと考えられていたため、角穴硬貨がこの世界観を表していると考えられます。

また、実際的には、鋳型に金属を流し込んで鋳造した硬貨には必然的に注ぎ口にバリが生じるためにこれを除去する必要があるのですが、硬貨に角穴が開けてあると棒などに並べて挿すことにより一気にバリ取りができるというメリットもありました。

他方、硬貨の中央に角穴があることにより硬貨に刻むことができるスペースが少なくなってしまいますので、東アジアの角穴硬貨に刻まれているのは文字情報のみであることが一般的です(為政者の肖像が刻まれた西洋硬貨とは異なっています。)。

古代日本での硬貨鋳造・発行の試み

遣隋使・遣唐使が中国古文銭を持ち帰る

渡来古銭名称王朝年代西暦素材
開元通宝武徳4年621年
乹封泉宝乹封元年666年
乹元重宝乹元2年759年

以上の中国古文銭の伝播は、日本にも及びます。

きっかけは、推古天皇15年(607年)に始まったとされる遣隋使でした。

紆余曲折を経ながらも続けられた遣隋使・遣唐使は、中国の先端技術や制度を学んで日本(ヤマト政権)に持ち帰ったのですが、その中に中国古文銭も含まれていました。

当時のヤマト政権は、貨幣制度の有用性を理解し、中国に倣った硬貨(貨幣制度)採用の検討を始めます。

富本銭鋳造(683年?)

そして、日本国内において、遣隋使・遣唐使が持ち帰った中国古文銭を基に、これらを真似て硬貨(銭貨)を鋳造しようとする試みが行われます。

そして、以降の大化の改新の一環として貨幣制度が取り入れられることになってその整備が進められ、天武12年(683年)に「富本銭」の鋳造がなされたことが日本の硬貨鋳造の始まりであるとされています。

なお、日本書紀・天武天皇12年(683年)において、「今後、必ず銅銭を用い銀銭を用いることなかれ」と記されていることから、富本銭が銀銭(無文銀銭)であったと考えられているのですが、富本銭に先行流通する銀銭があった可能性も指摘されています。

また、かつては以下の和同開珎が日本最古の貨幣と考えられていたのですが、平成10年(1998年)に行われた奈良県明日香村所在の飛鳥池遺跡における発掘調査によって富本銭が発見され、あわせて同所から富本銭をつくるための鋳型・ルツボ・やすりなどが出土したことから、現時点では富本銭が日本最古の貨幣と考えられています(富本銭が流通銭であったのか、まじない用の厭勝銭であったのかは不明です。)

そのため、この富本銭が現時点で発見されている最古の硬貨であることからこれが日本最初の硬貨とされているのですが、あくまでも現時点で発見されているとの条件下に過ぎませんので、もしかしたら後にさらに古い硬貨が発見されて歴史が書き換わる可能性も否定できません。

皇朝十二銭鋳造(穴銭・708年)

その後、和銅元年(708年)5月11日に銀銭、同年7月26日に銅銭の鋳造が始まり、これらが「和同開珎」として同年8月10日に発行されました(続日本紀)。

和同開珎は、唐の開元通宝をモデルに造られており、開元通宝と同じく直径24mm前後の円形として中央に一辺が約7mmの正方形の穴が開いている方孔円形の形式であり、表面に時計回りに和同開珎と表記され裏は無紋となっています。

その後、日本国内で奈良時代には和同開珎を含めて3種、平安時代には9種の銅銭が鋳造・発行され、約250年の間に相次いで鋳造されたこれら12種の貨幣をあわせて「皇朝十二銭」と呼んでいます。

銭貨発行は国家の独立性と権威を内外に示す重要な意味をもつものであるため、律令国家を試行する朝廷は、銭貨を蓄えた者に位階を与えるなどの銭貨使用促進策をとって銭貨の普及に努め、物品との交換比率の公定・官人給与の銭貨支給や、また調庸の銭納や蓄銭叙位令による銭貨の還流などの施策を行いました。

国内発行古代銭貨の衰退

以上の結果、日本国内で鋳造された硬貨(銭貨)は、京や畿内で流通するに至ったものの、広く普及するには至らず、全国的に流通することはありませんでした。

また、朝廷が新銭を発行する際に新銭1枚=旧銭10枚とする政策をとったことや、銅銭を軽小化・材質粗悪化(原材料の銅不足によって鉛の含有率を増加させた)させたことにより、銅銭の価値が低下しこれに対する信用が失われていきます。

さらに、朝廷(天皇)の力が低下したことにより、地方のみならず畿内にも小領主が乱立することとなったため、絶対的権力による統一通貨が発行できなくなります。

そのため、時間の経過により10世紀初頭頃までに、貨幣の発行・使用は減少していきました。

商品貨幣の時代に逆戻り

新たな貨幣が発行されなくなったことにより流通経済は時代に逆行することとなり、経済が物品交換の時代に遡ってしまいます。

そのため、10世紀以降は、貨幣の代わりとして米・絹・布などが用いられるようになりました。

もっとも、米・絹・布などは貨幣と比べると持ち運びに不便であり、貨幣のような商品流通を行うことができなくなります。

そこで、これらの持ち運びの手間を省くため、役所などでは、所管の倉などに支払いを命じた書類を出して小切手のような役割を果たさせ、それが高じて信用取引がなされるまでに至っています。

渡来銭時代

中国鋳造硬貨の普及

渡来銭名称王朝年代西暦素材
通正元宝前蜀通正元年916年
天漢元宝天漢元年917年
光天元宝光天元宝918年
乹徳元宝乾徳年間920年
咸康元宝咸康年間925年頃
乹亨重宝前漢乹亨年間917年頃
乹亨重宝
大唐通宝南唐保大年間944年
開元通宝(篆)即位4年966年
唐国通宝(真)交泰元年985年
唐国通宝(篆)
漢通元宝後漢乹祐年間955年頃
周通元宝後周顕徳4年955年
清寧通宝清寧4年1058年
咸雍通宝咸雍元年1065年
大康通宝大康元年1075年
大安元宝大安元年1085年
寿昌元宝寿昌2年1096年
乹統元宝乹統元年1101年
天慶元宝天慶年間1111年
宋通元宝北宋建隆年間960年
太平通宝太平興国元年976年
淳化元宝(真)淳化元年990年
淳化元宝(行)
淳化元宝(草)
至道元宝(真)至道元年995年
至道元宝(行)
至道元宝(草)
咸平元宝咸平元年998年
景徳元宝景徳元年1004年
祥符元宝大中祥符元年1008年
祥符通宝大中祥符2年1009年
天禧通宝天禧年間1017年
天聖元宝(真)天聖元年1023年
天聖元宝(篆)
明道元宝(真)明道元年1032年
明道元宝(篆)
景祐元宝(真)景祐元年1034年
景祐元宝(篆)
皇宋通宝(真)宝元2年1039年
皇宋通宝(篆)
至和元宝(真)至和元年1054年
至和元宝(篆)
至和通宝(真)
至和通宝(篆)
嘉祐元宝(真)嘉祐元年1056年
嘉祐元宝(篆)
嘉祐通宝(真)
嘉祐通宝(篆)
治平元宝(真)治平元年1064年
治平元宝(篆)
治平通宝(真)
治平通宝(篆)
煕寧元宝(真)煕寧元年1068年
煕寧元宝(篆)
元豊通宝(真)元豊元年1078年
元豊通宝(篆)
元祐通宝(真)元祐元年1086年
元祐通宝(篆)
紹聖元宝(真)紹聖元年1094年
紹聖元宝(篆)
紹聖通宝
元符通宝(真)元符元年1098年
元符通宝(篆)
聖宋元宝(真)建中靖国元年1101年
聖宋元宝(篆)
崇寧通宝崇寧元年1102年
大観通宝(真)大観元年1107年
政和通宝(真)政和元年1111年
政和通宝(篆)
重和通宝(真)重和元年1118年
重和通宝(篆)
宣和元宝(真)宣和元年1119年
宣和元宝(篆)
宣和通宝(真)
宣和通宝(篆)
建炎通宝(真)南宋建炎元年1127年
建炎通宝(篆)
紹興元宝(真)紹興元年1131年
紹興元宝(篆)
紹興通宝(真)
淳煕元宝淳煕元年1174年
紹煕元宝紹煕元年1190年
慶元通宝慶元元年1195年
嘉泰通宝嘉泰元年1201年
開禧通宝開禧元年1201年
嘉定通宝嘉定元年1208年
皇建元宝皇建元年1210年
大宋元宝宝慶元年1225年
紹定通宝紹定元年1228年
端平元宝端平元年1234年
嘉煕通宝嘉煕元年1237年
淳祐元宝淳祐元年1241年
皇宋元宝宝祐元年1253年
開慶通宝開慶元年1259年
景定元宝景定元年1260年
咸淳元宝咸淳元年1266年
天盛元宝西夏天盛10年1158年
正隆元宝正隆3年1158年
大定通宝大定18年1178年
至大通宝至大3年1310年
至正通宝至正10年1351年

もっとも、通貨を使用することなく経済活動をすることは極めて不便ですので、日本国内で再び硬貨使用のニーズが高まっていったのですが、当時の日本では既に硬貨鋳造能力が喪失していました。

そこで、主として中国から硬貨を輸入し、それをそのまま効果として使用することとなり、特に、新興勢力として台頭してきた武士が、自らの勢力基盤として貿易による利益を獲得する目的で積極的に中国硬貨を輸入使用しました。

そして、この動きは次第に加速していき、12世紀半ば頃になって日宋貿易の発展により中国から銭貨が大量に流入するようになると、中国銭貨(渡来銭)が日本貨幣として本格的に流通するようになり、中国銭1枚=1文として使われるようになっていきました。

そして、渡来銭流入は、長らく途絶えていた貨幣経済を復活させる起爆剤となって瞬く間に全国各地に普及し、当初はその使用を認めていなかった朝廷や鎌倉幕府もこれを否定することはできなくなってその使用を追認するに至りました。

以上の結果、中国銭が日本の経済を席巻し、13世紀以降にら年貢までもが銭貨で納めるようになったり(代銭納)、それまで年貢として納められていた生産物が各地の市で取引されるようになったりして、一気に商品経済が発達します。

乾坤通宝発行計画頓挫

その後、正慶2年(1333年)6月5日、鎌倉幕府倒幕を謳って挙兵した後醍醐天皇が京に戻り、鎌倉幕府の滅亡に伴って自身の下に戻ってきた政治の実権を駆使し、天皇親政を行うため大改革を始めます(建武の新政・建武の中興)。

鎌倉幕府を滅亡させて天皇親政を取り戻した後醍醐天皇は、その後の政治改革である建武の新政の一環として約400年ぶりの国内統一通貨とする「乾坤通宝」の発行を計画します。

ところが、建武の新政は、公家・武士・庶民の全てから反目されてわずか3年で崩壊し、南北朝の動乱と足利尊氏による武士の世界(室町幕府)時代に入っていったため、「乾坤通宝」発行計画もまた建武の新政の失敗と共に頓挫してしまいました。

輸入銭名称王朝年代西暦素材
天佑通宝1353年
天定通宝天定年間1360年
大義通宝大義年間1361年
大中通宝至正21年1361年
洪武通宝洪武元年1368年
永楽通宝永楽6年1408年
宣徳通宝宣徳8年1433年
弘治通宝弘治16年1503年
嘉靖通宝嘉靖6年1527年
隆慶通宝隆慶4年1570年
万歴通宝万歴4年1576年
泰昌通宝泰昌2年1621年
天啓通宝天啓元年1621年
崇禎通宝崇禎元年1628年
大明通宝崇禎17年1644年
大順通宝1644年
永昌通宝1644年
弘光通宝弘光元年1645年
隆武通宝隆武元年1646年
永暦通宝永暦元年1647年
興朝通宝1647年
天命皇宝天命元年1616年
順治通宝順治元年1644年
康煕通宝康煕元年1662年

室町時代に入ると、勘合貿易により入って来た明銭が日本で広く使われるようになり、特に量が多く品質が一定していた永楽通宝が広く流通し、日本国内での基準貨幣となっていきました。

そして、この永楽通宝の普及により、永代・永高などの金額表示がなされるようになります。なお、この永楽通宝は、織田信長の旗印とされたことでも有名です。

私鋳銭・模造銭の流行

以上のとおり、硬貨(渡来銭)制度の浸透により経済が急速に発展し、それによりさらなる硬貨の需要が高まっていったのですが、他方で、16世紀ころまでに中国で銀が貨幣的役割を独占して私鋳銭の製造が停止されたために日本への硬貨流出は停止されることとなりました。

この結果、日本国内では流通する中国銭が減少し、流通経済を回すための絶対量が不足していきます。

そこで、不足する渡来銭を補完するためにこれを模して造られた私鋳銭・模造銭が大量に出回るようになったのですが、これらの私鋳銭・模造銭は渡来銭と比べて材質的にも技術的にも大きく劣るものでした。

なお、主要な私鋳銭・模造銭としては、島銭・加治木銭・加治木系ビタ銭などが有名です。

撰銭禁止令

ところが、私鋳銭・模造銭の発行に伴い、良質な渡来銭と粗悪な私鋳銭・模造銭(悪銭・鐚銭)が入り混じった状態で貨幣が流通することとなってしまいました。

この結果、市中では悪貨が嫌われ、悪貨の受取拒否やプレミアの要求(増歩)という撰銭が行われるようになり、それまでの銭貨1枚=1文という比率が崩れて貨幣経済が大混乱に陥ります。

この状態を苦慮した室町幕府は、明応9年(1500年)から永禄9年(1566年)までの間に計9回もの撰銭禁止令を発して正常な貨幣流通を図りました。

もっとも、この撰銭禁止令は十分な効果が得られず、1570年代の西日本では、土地などの大口の取引は、銭遣い米遣いに変化するなどの時代に逆行する取引形態が生じ、商品流通経済に不都合が生じるようになっていました。

金銀貨の登場

この不都合性を解決するため、貨幣発行者に対する信頼ではなく、貨幣自体に対する信頼を基に貨幣を流通させることが試行されます。

そして、16世紀以降になると、日本各地で諸大名による金鉱山・銀鉱山の採掘が盛んになり、日本は世界でも有数の金銀大国となった時期でしたので、硬貨にもこれらの金銀を使用する金銀貨が鋳造されて領国硬貨として利用されるようになります。

その中でも、永禄10年(1567年)に武田信玄によって鋳造されたが日本初の金貨とされる「甲州金」は有名であり、「両」「分」「朱」という4進法の貨幣単位を採用した甲州金の貨幣単位は江戸時代の金貨の単位にも引き継がれました。

また、石見銀山でも、精錬技術である「灰吹法」を導入して各地の鉱山開発の先駆けとなり、当時世界最大の採掘量を誇った石見で産出された銀は諸海外にも輸出されました。

この流れはその後も続き、織田信長は金・銀・銭貨の比価を定めた上で高額取引については金銀貨の使用を基本とさせ、また豊臣秀吉は九州征伐・小田原征伐・朝鮮出兵などの恩賞用として天正大判などの金銀貨(天正通宝・文禄通宝・紹聖通宝・永楽通宝など)を鋳造するに至りました。

江戸幕府による渡来銭使用禁止令

三貨制度の試行

豊臣秀吉の死後に天下を統一した徳川家康は、まずは豊臣秀吉が有していた各種鉱山を直轄化した上で小判座や銀座などの製造体制の整備を行い、慶長6年(1601年)に様式・金銀の含有率・形態などを統一した慶長金銀を発行します。

その後、慶長8年(1603年)に幕府を開くと、貨幣制度を整備していき、その後に大判・小判・丁銀・豆板銀・銅銭などを鋳造することによって、金貨・銀貨・銭貨による三貨制度を試行していきます。

寛永通宝発行(1636年)

江戸幕府開幕後も、硬貨(銭貨)については、しばらくの間は前時代より流通していた渡来銭などを継続使用していたのですが、江戸幕府は、銭貨の安定的な供給を目指し、慶長13年(1608年)に東国で通用していた渡来銭の通用を停止した上で、寛永3年(1626年)に水戸の佐藤信助により作られたのを初めとする寛永通宝を鋳造・発行し、これを使用するよう義務付けました。

渡来銭使用禁止(1670年)

輸入銭名称王朝年代西暦素材
利用通宝1673年
裕民通宝1675年
洪武通宝1678年
昭武通宝1678年
雍正通宝雍正9年1736年
乾隆通宝乾隆元年1736年
嘉慶通宝嘉慶元年1796年
道光通宝道光元年1821年
咸豊通宝咸豊元年1851年
同治通宝同治元年1862年
太平天国洪秀全同治年間1864年

そして、江戸幕府は、寛文10年(1670年)頃までに全国に寛永通宝が行き渡ったと判断し、日本国内での寛永通宝以外の銭貨の使用を禁止します。

もっとも、実際にはその後も渡来銭が寛永通宝の100文差しの中に紛れ混むなどして使用され続けました。

また、中国との貿易地であった長崎から支払代金に紛れて新たな中国銭の輸入が行われ、通貨の一部として使用されました(輸入銭)。

明治維新後の渡来銭廃止

輸入銭名称王朝年代西暦素材
光緒通宝光緒元年1875年
宣統通宝宣統元年1909年
福建通宝民国元年1912年
民国通宝民国元年1912年

明治維新により江戸幕府が倒れた後、明治新政府によって新貨幣制度が制定されたのですが、渡来銭・輸入船の一部は一厘として使用されることが認められたため、昭和時代に廃貨とされるまで渡来銭・輸入銭は使用可能でした。

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