【出島】江戸時代日本における西欧国との唯一窓口であった人工島

出島(でじま)は、寛永13年(1636年)、江戸幕府が日本国内に南蛮人が滞在してキリスト教が普及することを防ぐため、ポルトガルを収容目的で長崎に築造した扇形の人工島です。

築造直後から寛永16年(1639年)までの3年間はポルトガル商館が置かれたのですが、ポルトガルとの断交により寛永18年(1641年)から安政6年(1859年)まではオランダ東インド会社商館が置かれて貿易が行われました。

西欧国家との江戸時代唯一の窓口となり、江戸時代にのべ700隻以上ものオランダ船が来航し、貿易品・文化・情報などを伝えました。

幕末に日本が開国したことによりその役割が終了し、明治以降の長崎港港湾整備に伴う周辺の埋立等により長崎と陸続きとなって扇形の面影は失われました。

その後、平成8年(1996年)に長崎市により出島復元整備事業計画が策定され、江戸当時の出島の姿への復元が進められています。

出島建設

南蛮貿易(16世紀後半)

16世紀後半の日本では、諸大名が鉄砲や弾薬などを買い求めるため(その後は、中国産の生糸を入手するため)にポルトガル及びスペインとの間の貿易が積極的に進められました(南蛮貿易)。

このとき貿易相手となったスペイン・ポルトガルは、貿易のみならす、これとあわせてキリスト教(カトリック)宣教師を日本に派遣し、日本国内で奉行活動を行いました。

この布教活動により、キリスト教会に土地を寄進する者が増え、また南蛮人が日本人を奴隷として海外に売却していることを聞いた豊臣秀吉が怒ります。

そこで豊臣秀吉が、バテレン追放令を発布して京にあった教会(南蛮寺)を破却させたのですが、利益の大きい南蛮貿易を禁止しなかったため大きな影響は生じませんでした。

オランダとの貿易開始

慶長5年(1600年)、ネーデルラント連邦共和国(後のオランダ、本稿では便宜上「オランダ」の表記で統一します。)船のリーフデ号が日本に漂着したために、徳川家康が乗組員(ヤンヨーステンやウィリアムアダムスなど)を江戸に招いて面談します。

この頃のオランダは、アジアへの進出を開始していたのですが、既に航路を開拓していたスペイン・ポルトガルに対抗するため、1602年に14あった貿易会社を統合して東インド会社(VOC)を設立し、バタヴィアを本拠地として同社によってアフリカ喜望峰の東からマゼラン海峡の西までの広大な範囲の貿易を一定に担うこととしたのです。

そして、プロテスタント国のオランダは、スペイン・ポルトガルとの差別化を図るために貿易と宗教を切り離して活動しており貿易の見返りとして布教を求めまなかったため、徳川家康はオランダ・イギリスとの貿易の検討を始めます。

その後、徳川家康は、慶長14年(1609年)、キリスト教の布教を行わないことを条件として朱印状を発行し、平戸藩領に平戸オランダ商館を設置してオランダ東インド会社との貿易を開始します。

幕府領に禁教令発布(1612年)

もっとも、同年、本多正純の寄力であった岡本大八(洗礼名パウロ)が、肥前国のキリシタン大名有馬晴信を欺くために徳川家康の朱印状を偽造したことが発覚したところ、両者がカトリック信者であったことから、江戸幕府のカトリック信者や南蛮商人に対する弾圧が始まります。

そして、江戸幕府は、慶長17年(1612年)及び翌慶長18年12月22日(1614年1月31日)に、キリスト教を禁ずる法令(禁教令)を発布し、キリスト教の布教を禁じます。

なお、この時点で日本全国には約70万人ものキリスト教徒が存在していたと言われているのですが、以降の信仰は禁じられることとなりました。

イギリス・スペインの撤退

慶長18年(1613年)9月1日にイギリスが通称許可を得て対日貿易を開始したため、この時点での日本と貿易する西欧国は、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダの4カ国となりました。なお、西洋諸国の他には、明・朝鮮・琉球・アイヌとの貿易もなされていました。

元和2年(1616年)、西欧船の寄港地を平戸・長崎に制限します。

その後、元和9年(1623年)、イギリスがオランダとの競争に敗れて対日貿易から撤退し、平戸商館を閉鎖して引き上げます。

また、寛永元年(1624年)にはスペイン船の来航が禁止されたことから、この時点での日本と貿易する西欧国は、ポルトガル・オランダの2カ国となります。

出島完成(1636年)

このころ江戸幕府によるマカオ商船による司祭の書状運搬が禁止されていたのですが、寛永11年(1634年)、キリシタンの国外追放に伴って長崎からマカオに移住していた日本人司祭であるパオロ・ドス・サントスの書状がマカオ商船内で発見されます。

また、これに関連して、長崎奉行であった竹中重義の密貿易も発覚し、これらの事件によって、マカオが禁教後にも密かに布教支援をしていたこと、長崎奉行が腐敗していたことなどが明らかとなり、江戸幕府はポルトガルと断交を本格検討していきます。なお、寛永12年(1635年)には、日本人の海外渡航・帰国までもが全面禁止とされます。

そこで、江戸幕府は、同年、ポルトガル人を管理する目的で出島の建設を開始し、銀200貫(約4000両)の費用を費やして寛永13年(1636年)に約1万5000㎡の出島(建設当初の呼び名は築島)を完成させます。

ポルトガルが撤退(1639年)

寛永14年(1637年)12月に島原の乱が発生すると、江戸幕府は、長崎滞在中のポルトガル使節の参府を禁じて出島に監禁します。

そして、寛永15年(1638年)春に島原の乱を鎮圧した江戸幕府は、再び同じようなキリスト教徒の反乱を防止する目的でキリスト教の禁教を徹底し、カトリック国家であるポルトガルとの関係を断絶を試みます。

他方で、江戸幕府は、キリスト教の布教を行わないプロテスタント国家であるオランダ東インド会には便宜を図ります。

寛永16年(1639年)、江戸幕府は、ポルトガルと断絶を決定して長崎奉行や九州地方の大名に「第5次鎖国令」を発布してポルトガル人を出島から退去させ、翌寛永17年(1640年)には貿易再開を求めるポルトガル使節団の内61名を処刑し改めて貿易再開しない意思を示しました。

ポルトガルとの貿易を断絶させた結果、日本と貿易する西欧国は、オランダのみとなります

オランダ商館が出島に移転(1641年)

そして、江戸幕府は、オランダ商館を有していた平戸藩がオランダとの独占的交易により強力な兵備を整えつつあることを危惧し、寛永18年(1641年)にはポルトガル人を排除して空き地となっていた出島をオランダに貸し付けることとして平戸オランダ商館を移転させ、以後、オランダとの貿易はオランダの東インド会社の長崎商館所在地となった出島に限定することとします。なお、出島は、ポルトガル使用時には年銀80貫で貸し付けていたのですが、オランダに対しては使用開始時に初代オランダ商館長マクシミリアン・ル・メールに賃料を銀55貫(現在価格約1億円)に値切られています。

以降、約200年間もの長きに亘り、オランダ東インド会社は、江戸幕府の監視下で武装と宗教活動を規制された出島においてのみ活動が許され、その範囲で対日貿易を行っていくこととなりました

そして、出島には原則として日本人の公用以外の出入りは禁止され、他方、オランダ人も例外を除いて出島からの外出が禁じられました。このことを、エンゲルベルト・ケンペルは「国立の監獄」と表現しています。

オランダ船は、オランダを出港して喜望峰をまわり、オランダのアジア拠点であったバタヴィア(現在のインドネシア・ジャカルタ)から季節風を利用して西進した上で、毎年2隻がバタヴィア→バンカ海峡→台湾海峡→女島諸島・野母崎を経て7~8月頃に長崎に入港し、約4ヶ月停泊した後に出向していくのが一般的でした。

出島には、オランダ船入港時期以外の期間も商館長(カピタン)・次席商館長(ヘトル)・書紀(1~3名)・倉庫長・商館医・補助員・調理師・大工などオランダ人が10~13名、マレー人召使数名が常駐しており、これを日本側の長崎奉行が管轄し、町年寄りによって管理されるという体制となっていました。

そして、オランダ船が停泊中は、以上に加え、やってきたオランダ人を中心に欧州人・マレー人などが上陸し、生活することとなりました。

歴代のカピタンは、寛永10年(1633年)に年中行事となって以降、定期船出港後翌年夏までの閑期に貿易業務を終え江戸に上り、対日貿易の継続・発展を願い将軍に謁見・御礼言上し贈り物を献上し(カピタン江戸参府)、寛政2年(1790年)に以降は4年に1度と改められた後も含めると嘉永3年(1850年)までに166回参府されました。なお、道中は、江戸の長崎屋源右衛門、京の海老屋などが「阿蘭陀宿」として使節の宿泊にあてられています。

他方、日本側から見ると、出島和蘭商館として長崎奉行の管轄下に置かれ、町年寄の支配をうけることとなりました。

日本側の代表者は、町乙名から任命された出島乙名を筆頭として、オランダ通詞・日行使・組頭・筆者・小使・火用心番・探番(門番)・買物使・料理人・給仕・船番・番人・庭番など200人近い日本人が働いていたとされています。

なお、「オランダ通詞」はオランダ語通訳の役人であり50人前後配され、大通詞・小通詞・稽古通詞などの階級に分かれていたところ、大通詞は概ね4名交代で年番通詞を勤めて江戸参府に同行し、風説書や積み荷の送り書きの翻訳をしていました。

鎖国状態の完成

西欧の貿易相手が長崎出島のオランダ商館(窓口は幕府)に限定されたことから、以降の貿易国は、オランダ・中国・朝鮮・琉球・アイヌに限られることとなり、後に「鎖国」状態と呼ばれる体制が完成に至ります。

この貿易相手のうち、西欧国であるオランダの貿易地となったのが長崎出島だったのです(なお、中国の貿易地も長崎だったのですが、中国は長崎中国人住居地区(唐人屋敷)とされていたため出島ではありませんでした。

また、鎖国下の貿易という場合には、この出島におけるというオランダとの貿易が取り上げられることが多いのですが、オランダとの貿易額は中国貿易の半分程度に過ぎず、当時の主力貿易相手国は中国でしたので注意が必要です。

なお、「鎖国」という言葉は、享和元年(1801年)に志筑忠雄が、ドイツ人医師ケンペルが記した「日本誌」を翻訳する際にこの状態を「鎖国」という言葉を用いたのが始まりです。

江戸時代の出島の構造

出島は、3969坪(約1.5ha)もの広大な面積の扇形の人工島であり、門・橋・塀などの築造費用は江戸幕府が負担しましたが、それ以外の費用は、実際に貿易を担当することとなる長崎町年寄や糸割符年寄などの出島町人の出資で賄われました。

なお、出島が扇形をしている理由としては、①ときの将軍徳川家光が扇を示してて見本とするよう指示した説(シーボルト著「NIPPON」)、②もともと中島川の河口に弧の形をした砂洲がありそれを土台とした説、③波浪の影響を少なくするためとする説など諸説あるのですが、正確なところは不明です。

オランダ商館が出島に移された後、オランダ商館員によって使用された出島ですが、開国後の埋め立てなどにより破壊された後、近年から出島の復元作業が進められています。

もっとも、諸般の事情により護岸の位置やその範囲は、前記図のとおり往時の位置とは微妙に異なっています。

また、200年以上の長きに亘って使われた出島では、木造で建物が建築されたのですが(ほとんどが2階建てでした。)、海に面した出島の建物は痛みが激しいため、様々な建築物が増改築・変更がなされています。

そこで、時期を区切って紹介することができないため、本稿では、観光の前提として本稿執筆時点における復元建物を中心に紹介していきたいと思います。

制札場

出島の対岸(長崎側)には、制札場が設けられ、「定」と「禁制」の2つの高札が立てられていました。

「定」は、日本人・オランダ人で悪事を企む者を見つけて告訴すれば賞金を与えるという旨の高札でした。

「禁制」は、対岸側から出島に出入りできるのは遊女と高野山の僧侶のみとされ、その他の僧侶・山伏・乞食の出入りや出島外周の棒杭の中・橋の下への船の乗り入れ、オランダ人の無許可外出は禁止とすると記した高札でした。

出島表門橋(2017年復元)

出島表門橋は、出島表門前に架けられた出島と対岸(長崎)とを結ぶ唯一の通行路となっていた橋です。

元々は木橋として架けられていたのですが、延宝6年(1678年)に石橋に架け替えられ、その後も江戸時代を通じて使われました。

その後、中島川変流工事に伴い、明治23年(1890年)に中島川河口に新川口橋工事の際に撤去されました。

その後、平成29年(2017年)2月27日に復元されたのですが、国指定史跡である出島を削って基礎を設けることが出来なかったため、長崎側の岸からバランスをとって橋を支える構造となていることが特徴の橋となっています。

出島表門

出島表門は、出島と対岸(長崎)とを結ぶ唯一の出入口に設けられた門です。

表門には常に役人が常駐して警備をしており、出入りする際には許可証の提示が必要とされました。

往時の表門は、現在の川幅中央部にあり、復元された表門よりも北側に位置していたのですが、場所を変えて復元された理由は明治期の河川改修によるためです。

水門(2006年復元)・船着場・荷揚場

出島に着いたオランダ船は、出島西側に存する船着場に船をつけ、約45坪の荷揚場で荷を下ろし、水門を通って出島内に荷物を入れるという流れになっていました。

また、水門を入ったすぐ内側には秤が設けられていたためそこで計量が行われ、その後南側にある検使部屋で長崎奉行に直属する上級役人である検使が水門から運び込まれた輸入品のうち衣類や食料品の梱包を解いて検閲されていました(この検使部屋の復元はなされておらず、現在の板塀が巡っている範囲がかつての建物の位置とされています。)。

このうち、水門は、オランダ商船の船着場となっていた場所に設けられていた門であり、その内側に設けられた輸出入商品のやり取りをするために用いられており、平成13年(2001年)から始まった第2期整備事業として復元に着手され、平成18年(2006年)に復元されました。

カピタン部屋(2006年復元)

カピタン部屋は、オランダ商館長(カピタン)の居住場所兼執務場所であり、出島を代表する巨大な建物です。

1階は食料・物品の倉庫として使用され、中央に通り抜け土間が設けられていました。

寛政10年(1798年)3月6日の火災でカピタン部屋他西側半分を焼失し、他の建物は間もなく復旧されたのですがカピタン部屋は商館の費用で建てることになっていたため財政難で10年ほど再建されず、1809年1月になって、ときの商館長ヘンドリック・ドゥーフによりようやく竣工されました。

平成13年(2001年)から始まった第2期整備事業として復元に着手され、平成18年(2006年)に復元されました。

ヘトル部屋(2000年復元)

ヘトル部屋は、次席商館長が使用した建物であり、1階は東南アジアから来た使用人の住居兼食料貯蔵庫として、2階は次席商館長と彼に仕える日本人使用人の住居として使用されました。また、屋上には物見台が設けられています。

平成8年(1996年)から始まった第1期整備事業として復元に着手され、平成12年(2000年)に復元されたのですが、内部の間取り資料がないため外観復元にとどまっています。

拝礼筆者蘭人部屋(2006年復元)

拝礼筆者蘭人部屋は、オランダ人書記長(主席事務員)の居住建物です。

発掘調査の際に水槽状の使節や排水溝とみられる遺構が見つかり、また土中から水銀が検出されていることから、工房や医薬関係の仕事に用いられていたとも考えられています。

平成13年(2001年)から始まった第2期整備事業として復元に着手され、平成18年(2006年)に復元されました。

筆者蘭人部屋(2016年復元)

筆者蘭人部屋は、オランダ商館員の住居であり、主に数人のオランダ人筆者(書記役)の住居として使用されました。

建物の内部は、長屋様に4区画に区分され、2階の窓はガラス窓となっており、窓の手すりは当時のオランダで使用されていた緑色塗料が塗られていました。

平成28年(2016年)から始まった第3期整備事業として復元に着手されたのですが、内部の間取り資料がないため外観復元にとどまっています。

一番船船頭部屋(2000年復元)

一番船船頭部屋は、オランダ船(一番船)船長や商館員の居宅として使用された建物です。2階西側が船長1人の住居、2階東側が商館事務員の住居、1階は倉庫として使用されました。

前記のとおり、出島に来航するオランダ船は、毎年7~8月に2隻来航し、11月頃に出向するのが通例だったのですが、そのうちの先に到着する一番船の船長が出航までの4か月間滞在したのが一番船船頭部屋です。なお、船員たちは陸には上がれず、船で生活していました。

平成8年(1996年)から始まった第1期整備事業として、嘉永4年(1851年)に来航したオランダ船船長のデ・コーニングの「私の日本滞在記」などを参考にして復元に着手され、平成12年(2000年)に復元されました。

現在は、1階を倉庫として使用された土間が、2階をテーブルやベッドなどを展示した居室が再現展示されています。

なお、絵図によると、一番船船頭部屋と一番蔵との間の場所に高さ30mもの旗竿が立てられてオランダ国旗が掲げられていたようです。

料理部屋(2000年復元)

料理部屋は、その名のとおり商館員の食事が作られた建物です。

出島の商館員たちは昼夕2階カピタン部屋に集まって食事をとる習慣となっており、料理部屋で作られた料理がカピタン部屋の2階に運ばれていました。

出島の中では珍しく、オランダ人の費用負担で建てられました。

平成8年(1996年)から始まった第1期整備事業として復元に着手され、平成12年(2000年)に復元されました。

乙名部屋(2006年復元)

乙名部屋は、日本側で出島管理実務責任者である出島乙名(でじまおとな、長崎奉行が選任した長崎の有力町人)の業務に使用された式台を備え得た町屋風の建物です。

出島貿易が行われている7月~11月の期間中のみ、貿易事務と商館長の監視のために用いられ、金庫番役人の仕事場や見張り番人の詰所を兼ねていました。

平成13年(2001年)から始まった第2期整備事業として復元に着手され、平成18年(2006年)に復元されました。

乙名詰所(2016年復元)

乙名詰所は、出島の管理を行う長崎の地役人である出島乙名が、出島貿易が行われていない11月~7月にかけて業務使用した建物です。

表門の正面に位置しており、同建物において貿易が行われていない間の出島通行者の出入り等の監視を行いました。

平成28年(2016年)から始まった長崎市による第3期整備事業の際に、オランダ人が長崎で作らせた模型を参考にして復元されています。

組頭部屋・銅蔵(2016年復元)

組頭部屋・銅蔵は、出島の日本側責任者乙名を補佐する組頭の業務用建物と、その裏に設けられた銅蔵とが一体化した建物です。

組頭部屋では、日本とオランダ担当者立ち会いの下で銅蔵に収められた銅の計量や梱包を行い、銅蔵の1階には輸出用の棹銅が、2階には輸入品の鮫皮が保管されていました。

平成28年(2016年)から始まった第3期整備事業として復元に着手されて復元されました。

住居兼倉庫(当初漆喰壁→後に羽目板壁)

商館時代の出島の建物として最も多く建てられたのは住居兼倉庫であり、オランダ商館が出島に移転する際のル・メールの『平戸オランダ商館日記』1641年6月10日欄には、小さい住居7棟、倉庫8棟を商館として取り仕切ることができると記されていました。

その後、住居兼倉庫は建て増しされていき、19世紀初めの絵図では一番蔵から十七番蔵までが描かれています。

① 一番蔵(2000年復元)

一番蔵は、倉庫の名前を花の名で呼ぶオランダ人からバラ蔵と呼ばれた輸入品の砂糖を収納した建物です。

平成8年(1996年)から始まった第1期整備事業として復元に着手され、平成12年(2000年)に復元されました。

② 二番蔵(貿易館・2000年復元)

二番蔵は、オランダ人からチューリップ蔵と呼ばれた輸入品の砂糖や蘇木を収納した建物です。

平成8年(1996年)から始まった第1期整備事業として復元に着手され、平成12年(2000年)に復元されました。

③ 三番蔵(2006年復元)

三番蔵は、ピンクのカーネーションという意味を持つ「アニェリール」と呼ばれた蔵であり、主に輸入品の砂糖・酒・蘇木などや、そのほかには様々な個人商売用の脇荷わきに収納にも使用されました。

当初は漆喰塗りの壁で造られていたようですが、海風による劣化が激しく、後に羽目板を貼った外壁に改修されていきました。

平成13年(2001年)から始まった第2期整備事業として復元に着手され、平成18年(2006年)に復元されました。

④ 十四番蔵(2016年復元)

十四番蔵は、寛政10年(1798年)に起こった火事の後に建てられた、輸入品である砂糖を納める蔵として使用された建物です。

オランダ商館員からは「再生」という名で呼ばれていました。

なお、絵図や発掘調査からこの火事の前には別の建物が立てられていたことが明らかとなっています。

平成28年(2016年)から始まった長崎市による第3期整備事業によって復元されています。

⑤ 十六番蔵(2016年復元)

十六番蔵は、輸入品である香辛料や薬の原料となる丁子(インドネシアのモルッカ諸島原産の植物のつぼみ)を所蔵する蔵として使用された建物です。

平成28年(2016年)から始まった長崎市による第3期整備事業によって復元されています。

【参考(幕末期の建物)】

① 旧石倉(2016年復元)

旧石倉は、幕末期(安政の開国後)に小山秀之進施行により建てられた商社の一連の石倉の一部であり、国産の陶磁器が出土していることから輸出品の倉庫であったと考えられています。

昭和31年(1956年)に古写真などを基に石造倉庫の西半分が復元され、現在は、出島の発掘調査によって出土した考古資料を展示しています。

② 新石倉(2016年復元)

新石倉は、出島オランダ商館が廃止された6年後の慶応元年(1685年)に建てられた石造倉庫です。

昭和42年(1967年)に長崎市が買い上げて、旧材を一部用いて昭和51年(1976年)に復元されました

現在は、出島のガイダンスである「阿蘭陀通詞の出島案内」を放映する出島シアターとして使用されています。

【参考(明治期の建物)】

① 旧出島神学校(2016年修復)

旧出島神学校は、明治11年(1878年)、日本の英国聖公会(英国教会)のハーバード・モンドレル大執事の妻・モンドレルが開設した出島英和学校(後の聖アンドレ神学校)を前身とする建物であり、明治16年(1838年)に日本初のキリスト教プロテスタントの神学校である出島聖公会神学校となりました。

現在残る建物は、明治26年(1893年)に増築されたものであり、長崎市による第3期整備事業により平成28年(2016年)に修復されました。

同建物の2階には17世紀にオランダ商館員たちが使用したビリヤード台などが復元されています。

② 旧長崎内外クラブ

旧内外クラブは、明治32年(1899年)に倉場富三郎(T.B.グラバーの息子)・横山寅一郎・荘田平五郎等の発起により、長崎に在留する外国人と日本人の社交の場として設立した「長崎内外倶楽部」があった建物です。

現在残る建物は、明治36年(1903年)にF.リンガーによって建てられた英国式明治洋風建築であり、昭和43年(1968年)に長崎市がこれを買い上げて平成12年(2000年)4月から1階がレストラン・2階が居留地時代の展示室として使用されています。

出島の消滅と復元運動

日本開国(1858年)

ペリー来航後の1856年1月30日(安政2年12月23日)、日蘭和親条約が締結されてオランダ人の出島以外への上陸が認められるようになります。

また、安政5年(1858年)6月19日に締結された日米修好通商条約を皮切りとした安政の五カ国条約により函館・新潟・横浜・神戸・長崎の5港が開港されます。

オランダ商館閉鎖(1859年)

出島以外の港が開港されたことにより、唯一の西欧貿易相手国との唯一の貿易港であった出島の役割が低下していきます。

出島の商館は、オランダ領事館を兼ねるようになり、安政6年(1859年)に貿易業務がネーデルランド貿易会社に移行された結果、オランダ商館はその役割を終えて閉館に至りました(オランダ商館の廃止)。

出島の消滅

役目を終えた出島は、慶応2年(1866年)に長崎外国人居留地となります。

その後、出島のある長崎港では、複数回に亘る埋立て・改修・改良工事が実施されて形を変えていきます。

明治15年(1882年)から始まった第一次長崎港港湾改修事業では中島川変流工事に伴う川幅拡張工事によって出島全体の4分の1相当の北側の敷地が削られ、また明治21年(1888年)には東側護岸部分と築町の間が埋め立てられて長崎と陸続きとなりました。

また、明治30年(1897年)からの第二次長崎港港湾改修事業では南側が埋め立てられて長崎と完全な陸続きとなり扇型が完全に失われました。

復元運動

第二次世界大戦終結後、オランダが駐日大使を通じて首相の吉田茂に出島の復元を強く要求し、その結果、出島を抱える長崎市が昭和26年(1951年)ごろから出島整備計画に着手します。

そして、長崎市は、翌昭和27年(1952年)から、出島史跡内の民有地買収・公有化事業に着手した上で、昭和59年(1984年)から2年間に亘って範囲の確認調査を行って東側・南側の石垣などを発見し、出島境界鋲を打ってその範囲の特定を行います。

その上で、平成8年(1996年)から長崎市による第1期整備事業が行われ、発掘調査と石垣の修復がなされるとともに、平成12年(2000年)4月に敷地西側の建造物5棟(ヘトル部屋・料理部屋・一番船船頭部屋・一番蔵・二番蔵)の復元がなされました。

その後、平成13年(2001年)までに用地の買収を完了させた後、同年から、長崎市による第2期整備事業が行われ、南側石垣131mの詳細な調査・修復・復元工事に着手した上、外周に歩道を整備し扇形の輪郭を確認できるようになりました。また、平成18年(2006年)までにさらに5棟(水門・カピタン部屋・乙名部屋・三番蔵・拝礼筆者蘭人部屋)の復元がなされました。

さらに、平成28年(2016年)から、長崎市による第3期整備事業が行われ、十六番蔵・筆者蘭人部屋・十四番蔵・乙名詰所・組頭部屋・銅蔵・旧石倉・新石倉が復元されました。

長崎市としては、この後も復元工事を続ける予定であり、2050年を目標として、中央・東部分の計15棟を復元した後に周囲に堀を巡らして扇形の輪郭を復元することを見込んでいます。

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