【北政所(おね・ねね・高台院)】豊臣秀吉の正室

北政所(きたのまんどころ)は、天下人となった豊臣秀吉の正室です。

諱はねね・おね・ねいなど諸説あり、従一位を授かった際の位記では豊臣吉子とされ、また落飾後に朝廷から高台院の院号を賜っているためその呼称も様々なのですが、本稿ではもっとも知られている通称である北政所の表記で統一します(歴史上、北政所と呼ばれた女性は多いのですが、現在では豊臣秀吉の正室を指す固有名詞とされる程の知名度を誇ります。)。

養子の教育・朝廷との折衝・人質の管理など、豊臣政権下で代えのきかない重要な役割を担った有能な女性であったこともあり、姫好きで知られる豊臣秀吉が、数々の高貴な身分の女性を妻に迎えたにもかかわらず、正室の座を下級武士の娘に過ぎない北政所から変更することはありませんでした。 “【北政所(おね・ねね・高台院)】豊臣秀吉の正室” の続きを読む

【徳川吉宗】紀州徳川家末男から宗家当主となった幸運将軍

徳川吉宗(とくがわよしむね)は、第2代紀州藩主の四男として生まれながら、和歌山藩の第5代藩主となった後、徳川宗家を継ぎ江戸幕府第8代将軍にまで上り詰めた幸運な人物です。

将軍職在任中に江戸幕府三大改革の第一弾となる享保の改革を進め、大赤字を垂れ流していた幕府財政を再建したことから、江戸幕府中興の祖と呼ばれることもあります。

他方で、幕府財政再建のために米価の引き上げや大増税を繰り返したため、庶民の生活を苦しくしたことからマイナス評価も強い将軍でもあります(享保の改革は、あくまでも幕府財政とそれを支える武士の生活を維持するためのものであり、庶民の生活を向上させることが目的ではありませんでしたので、政策目標という意味では達成している改革でした。)。 “【徳川吉宗】紀州徳川家末男から宗家当主となった幸運将軍” の続きを読む

【第56代・清和天皇】藤原摂関政治の基礎を作ってしまった日本史上初の幼帝

清和天皇(せいわてんのう)は、日本の第56代天皇です。

母が臣籍降下して初めて臣下に嫁いだ嵯峨天皇皇女であったこともあり、文徳天皇の第四皇子でありながら生後8か月で立太子し、その後、文徳天皇の突然の崩御によってわずか9歳で天皇となった日本初の幼帝です。

幼くして天皇となったことから、母方祖父である藤原良房の傀儡となり、藤原良房を人臣初の摂政に任命することによって藤原摂関政治の基礎を作ってしまった天皇でもあります。

他方で、多くの子を儲けてこれらを臣籍降下させ、その中から後に武門の棟梁となる清和源氏を誕生させたことから清和源氏の祖としても有名です。 “【第56代・清和天皇】藤原摂関政治の基礎を作ってしまった日本史上初の幼帝” の続きを読む

【第59代・宇多天皇】臣籍降下後に皇族復帰し皇位継承した唯一の天皇

宇多天皇(うだてんのう)は、摂関政治の真っただ中の時代において、藤原氏を外戚としない立場で第59代天皇として即位し、摂関家藤原氏の政治力を排斥して天皇親政を試みて大胆な政治改革を行った天皇です。

臣籍降下した後に皇籍に復帰して即位した稀有な天皇でもあります。 “【第59代・宇多天皇】臣籍降下後に皇族復帰し皇位継承した唯一の天皇” の続きを読む

【乃木希典】名将か愚将か?死に場所を探し求めた軍神の生涯

乃木 希典(のぎ まれすけ)は、日露戦争での旅順攻囲戦の指揮をとり日本を勝利に導いた陸軍軍人です。

その質実剛健の性格を評価されて第10代学習院長となって迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係を務めたことや、明治天皇の後を追って殉死(割腹自殺)したことでも有名です。

旅順攻囲戦の指揮により「軍神」との評価されたり、陸軍大将となって贈正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級伯爵を受けたりした上で「乃木神社」や「乃木坂」などに名前を残したりする成功者である一方で、戦歴に関しては必ずしも華々しいものではなく、失敗続きの屈辱にまみれた人生でもありました。

西南戦争・日露戦争などで後悔を積み重ねて精神的に疲弊し、死に場所を探していた人生と言っても過言ではないかも知れません。

本稿では、苦難に満ちた軍神の生涯を紹介していきたいと思います。 “【乃木希典】名将か愚将か?死に場所を探し求めた軍神の生涯” の続きを読む

【護良親王】鎌倉幕府滅亡後の征夷大将軍

護良親王(もりよししんのう)は、鎌倉幕府の討幕に多大な功績を挙げて建武の新政では征夷大将軍に補任された後醍醐天皇の第三皇子です。

幼くして仏門に入っていたのですが、鎌倉時代末期に還俗して討幕の兵を挙げ、畿内各地で幕府軍との戦いを繰り返し、最終的な勝利に大きな貢献をしました。

もっとも、その後、同じく鎌倉幕府討幕に貢献した足利尊氏と対立し、また後醍醐天皇との行き違いなどもあって建武政権下で失脚して鎌倉に幽閉された後、中先代の乱の混乱の中で、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害されるという悲しい最期を迎えています。 “【護良親王】鎌倉幕府滅亡後の征夷大将軍” の続きを読む

【第41代・持統天皇】日本史上初の太上天皇となった女帝

持統天皇(じとうてんのう)は、皇室史上3人目の女性天皇として第41代天皇となった女性です。

強権を誇った天智天皇の娘として生まれ、叔父である天武天皇の皇后となり、壬申の乱では異母兄弟である弘文天皇を滅ぼして夫を即位させるという複雑な家庭環境下での生活を強いられました。

夫である天武天皇崩御・子である草壁皇子薨去後に、孫である軽皇子が成長するまでの中継ぎ天皇として即位したのですが、その他の女性天皇とは異なり、形式的即位ではなく、実権を持って政治を行なった女性天皇です。

政治的にも相当優秀であったと考えられ、飛鳥浄御原令施行・庚寅年籍編纂・藤原京遷都など数々の大事業を成功させています。

また、譲位後にも政治に関与し、大宝律令完成や日本への国号変更にも携わったと考えられています。 “【第41代・持統天皇】日本史上初の太上天皇となった女帝” の続きを読む

【第52代・嵯峨天皇】律令体制の再編成を行った平安時代初期の名君

嵯峨天皇(さがてんのう)は、先代の平城上皇方との政争である薬子の変に勝利して朝廷をまとめ上げた上で、律令体制の崩壊が進むとともに国家財政が悪化していた9世紀前半に、天皇直属の令外官を設置するなどして官庁を再編し、また天皇の権威・権力を強化させた天皇です。

天台宗・真言宗などの密教を保護して神仏習合を進め、また安定した政治力を基に平穏な治世を送る一方で、伝統的社会を変容させて唐風の儀式や文化を浸透・定着しさせたことでも有名です。 “【第52代・嵯峨天皇】律令体制の再編成を行った平安時代初期の名君” の続きを読む

【武田二十四将】武田信玄に仕えた武名高い家臣24人

武田二十四将(たけだにじゅうししょう/たけだにじゅうよんしょう)は、後世に講談や軍記物語などの題材となった、武田信玄に仕えた武将のうち特に評価の高い24人を選んで付された武田家家臣団の呼称です。

武田信玄が生きていた時代にそのような名称があったわけではなく、江戸時代に軍記者などを基に抽出された武将の集合体であるため、その内容に確定性・客観性があるものではありません。

もっとも、この武田二十四将は、現在よりも往時に近かった江戸時代に武田家の主要家臣が誰であったかを推認させる資料となっており、その構成などは戦国最強武田軍の運用の一端を検討する素材として有用であると考えます。

そこで、本稿では、この武田二十四将について検討していきたいと思います。 “【武田二十四将】武田信玄に仕えた武名高い家臣24人” の続きを読む

【第46代孝謙天皇・第48代称徳天皇】道鏡を寵愛して皇統を危険に晒した女帝

孝謙天皇/称徳天皇(こうけんてんのう/しょうとくてんのう)は、聖武天皇と人臣史上初の皇后となった藤原氏出身の光明皇后との間に生まれた皇女であり、藤原氏の思惑により日本史上唯一の女性皇太子となり、その後即位した史上6人目の女性天皇です。

孝謙天皇として即位したのですが、即位後は、光明皇后とその甥である藤原仲麻呂の傀儡として扱われました。

その後、藤原仲麻呂の意を受けて、一旦は淳仁天皇に譲位して太上天皇となったのですが、光明皇后が死亡すると道鏡と協力して藤原仲麻呂を討伐します(藤原仲麻呂の乱)。

その後、称徳天皇として重祚すると、政敵を次々と粛清して強い権力を握り、その権力を女性として入れ上げていた道鏡に譲ろうとして奔走します。

もっとも、この計画は、和気清麻呂の手により失敗に終わり(宇佐八幡宮神託事件)、称徳天皇は失意の中で崩御されました。

なお、称徳天皇の死後、皇位が天智天皇系の光仁天皇が即位したため、称徳天皇は天武系最後の天皇となっています。 “【第46代孝謙天皇・第48代称徳天皇】道鏡を寵愛して皇統を危険に晒した女帝” の続きを読む