【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期の第8代将軍・徳川吉宗と、第9代将軍・徳川家重の子によって創設された徳川将軍家の一門家です。

紀伊徳川家出身の徳川吉宗が、ライバルである尾張徳川家の影響力を低下させるために創設されたと考えられており、徳川宗武(徳川吉宗三男)を家祖とする田安徳川家、徳川宗尹(徳川吉宗四男)を家祖とする一橋徳川家、徳川重好(徳川家重次男)を家祖とする清水徳川家がこれに該当します。

御三家に次ぐ高い家格を持つとしながらも当初は大名として藩を形成することも政治権力を持つこともなく、将軍の親族でありながら将軍家の部屋住みとして扱われ、将軍家や親藩大名家に後継者がない場合に養子を提供することを主な役割とするに過ぎない家でした。

もっとも、幕末期には幕政にも関与するようになり、江戸幕府最後の将軍である第15代将軍・徳川慶喜が一橋家から輩出されたことでも知られています。 “【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家” の続きを読む

【徳川御三家】徳川将軍家版宮家が尾張・紀伊・水戸の3家となった経緯

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代に徳川宗家(将軍家)に次ぐ家格を持ち、将軍就任資格を持つとして徳川の苗字を称することを許された3つの分家です。

最終的に尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の3家に落ち着いたため、あたかも最初からこれらの家で始まったようなイメージを持ちがちですが、実際は紆余曲折を経て最終的にこの3家に落ち着いています。

そこで、本稿では、徳川御三家が現在のイメージに沿う形となるに至った歴史的経緯を順に説明していきたいと思います。 “【徳川御三家】徳川将軍家版宮家が尾張・紀伊・水戸の3家となった経緯” の続きを読む

【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落

宿場(宿場町)は、江戸幕府が、開幕直後に交通の要地として街道沿いに認定した上で、その統治下に置いた集落です。

古くからあった城下町などがそのまま転用された場所もあれば、江戸幕府によって新たに住民・町屋が集められて形成された場所もありました。

宿場が置かれた目的は、豊臣家及びその恩顧の大名達と対峙するための軍事的意味から公用人馬の調達・公用文書の輸送を第一とするものでした。

もっとも、豊臣家が滅亡して太平の世が訪れると、前記のような軍事目的のみならず、参勤交代の際の大名宿泊地や、一般庶民が旅する際の旅人宿泊地としても利用されるに至りました。

これらの経緯から、宿場町は、時期を経るに従って軍事的機能→政治的機能→社会的機能を獲得していくこととなり、軍事的機能(問屋場・木戸・見附・枡形・寺社仏閣)・政治的機能(本陣・脇本陣)・社会的機能(旅籠・木賃宿・茶屋・商店・高札場)などが混在する複合場所として成長していきました。 “【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落” の続きを読む

【参勤交代】江戸幕府封建制度下における平時の軍役奉公

参勤交代(さんきんこうたい)とは、江戸時代に各藩主や交代寄合が交替で江戸にいる将軍の許に出仕し、門番・火番・作事などの大名課役を交代で行った制度です。

自分の領地から江戸へ赴く旅である「参勤(参覲)」と、自領に帰還する旅である「交代(就封)」とを合わせて名付けられました。

大名が江戸と藩を往復する際に家臣らが隊列を組んで歩くというそのインパクトから有名となった制度ですが、その制度目的は、豊臣家が滅亡したことにより太平の世となった江戸時代において、軍事政権たる江戸幕府に対する軍事動員に代わる奉公手段(参勤交代=平時の軍役)を果たさせることにより幕藩体制を維持するというものでした。

もっとも、この制度の下では、諸大名は1年に1度江戸と自領を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならないという重たい負担を強いられました。 “【参勤交代】江戸幕府封建制度下における平時の軍役奉公” の続きを読む

【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか

江戸の町は、徳川家康により開幕された江戸幕府の本拠地として多くの人が集まる一大政治都市となったのですが、政治都市であったが故に生産力のない武士が多数居住することとなりました。

また、これらの武士を商売相手とする商人までもが江戸の町に流入していったため、江戸時代初期の関東地域の生産力のみではこれら増え続ける江戸の町の非生産人口を支える消費物資(農産物など)を工面することができませんでした。

そこで、江戸幕府としては、江戸の町機能を支えるため、全国各地から大量の物品(農産物・消費財・建築資材など)を江戸に運び込むシステムを構築する必要に迫られました。

では、江戸幕府は、どのようにこの問題点を解決していったのでしょうか。 “【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか” の続きを読む

【露寇事件(文化露寇)】江戸時代に起こった500年ぶりの外国襲撃

露寇事件(文化露寇)は、19世紀初めにロシア帝国から日本へ派遣された外交使節ニコライ・レザノフが、長期間軟禁と通商要求拒否に対する報復として部下に命じたことにより勃発したロシア兵による日本北方拠点攻撃事件です。

それまでにロシアの脅威に備えて東蝦夷地(北海道の太平洋側と北方領土)を幕領化していた江戸幕府が、太平洋側の防衛だけでは不十分であると判断してさらに西蝦夷地(北海道の日本海側と樺太)をも幕領化するに至るきっかけを作った事件でもあります。 “【露寇事件(文化露寇)】江戸時代に起こった500年ぶりの外国襲撃” の続きを読む

【鎖国】江戸幕府の海禁政策

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教の禁教を目的として、オランダを除くキリスト教国の人の来航と日本人の出入国を禁止した状態で行われた対外政策(とそこから生じた孤立状態)をいいます。

その目的は禁教の徹底であり、貿易利益の獲得ではありません(鎖国体制を維持した結果、江戸幕府が貿易利益を独占する結果に至ったに過ぎません。)。

期間としては、寛永16年(1639年)のポルトガル船入港禁止から嘉永7年(1854年)3月3日の日米和親条約締結までを指すことが一般的です。

もっとも、江戸時代に「鎖国」という言葉が広く用いられていたという事実はなく、後世の講学上の概念ですので注意が必要です。 “【鎖国】江戸幕府の海禁政策” の続きを読む

【フェートン号事件】長崎への黒船来航

フェートン号事件は、文化5年(1808年)8月、鎖国体制下の長崎港にイギリス軍艦が侵入し、江戸幕府の遠国奉行(地方機関)である長崎奉行から薪・水・食料を脅し取った事件です。

ヨーロッパにおけるナポレオン戦争で争っていたイギリスとフランスの争いの余波が日本にまで飛び火して発生した事件であり、フランスの支配下に入ったオランダの船舶を追って長崎湾に入って来たイギリス船・フェートン号が、ことのついでに長崎奉行を脅して物資を強奪していきました。

イギリス艦・フェートン号には日本(江戸幕府)と事を構える意思はなく、また日本側にも人的被害が出なかった事件ではあるのですが、国の1つの地方機関が、たった1隻の軍艦の武力に屈するという国辱的事実を全世界に知らしめてしまった事件となりました。

本稿では、フェートン号事件に至る国際情勢を簡単に説明した上で、フェートン号事件の経緯について説明していきたいと思います。 “【フェートン号事件】長崎への黒船来航” の続きを読む

【新撰組結成】幕末京の人斬り集団誕生の経緯

新撰組(新選組・しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に上洛する徳川家茂を護衛するために一般公募で集められた浪士から発展した集団です。

徳川家茂に先立って入京した浪士組でしたが、京に入った直後に引率役であった清河八郎の翻意により袂を分かった試衛館派(近藤勇ら)・水戸派(芹沢鴨ら)・根岸友山一派らによって結成された壬生浪士組がその前身となります。

壬生浪士組では、結成直後に根岸友山一派を廃して試衛館派(近藤勇ら)・水戸派(芹沢鴨ら)による隊となり、会津藩預かりの部隊として京の治安維持や攘夷派志士の摘発に従事しました。

また、八月十八日の政変での活躍を評価され、「新撰組(新選組)」の隊名を与えられています。

その後、水戸派を一掃して試衛館一派で占められるに至った新撰組ですが、池田屋事件で大活躍をしたり、鉄の掟によって内部粛清を繰り返したり、はたまた各地でトラブルを頻発したりするなどしてその名を高めました。

その後、慶応3年(1867年)6月10日に隊士全員が幕臣に取り立てられたこともあり、江戸幕府の滅亡に至る過程で最後まで幕府と行動を共にし、慶応4年(1868年)に甲陽鎮撫隊と改めた後、明治2年(1869年)5月18日の函館戦争における旧幕府軍降伏により事実上消滅するという滅びの美学の体現者として現在に至ってなお有名です。

本稿では、幕末の京で異彩を放った剣客集団である新撰組について、その結成の経緯から隊名拝命に至る経緯について紹介していきたいと思います。 “【新撰組結成】幕末京の人斬り集団誕生の経緯” の続きを読む

【江戸幕府の宗教統制】信仰心の薄い多くの日本人が仏教徒とされている理由

日本人の多くは仏教徒と言われています。

もっとも、著者を含めて多くの日本人の仏教信仰は決して強いものではなく、一言で仏教徒といっても他の宗教を信じる人から見ると無神論者と呼べる程度の薄い信仰の人が多いように見受けられるため、仏教徒と呼んでいいかという点に疑問が生じます。

なぜ、このような薄い信仰心しか持っていないにも関わらず、多くの日本人が仏教徒ということになっているのでしょうか。

実は、その原因は、江戸幕府による宗教政策にあります。

より具体的にいうと、江戸幕府が、より安価かつ簡便に民衆を統制する手段として、全ての一般民衆をいずれかの寺(末寺)の檀家にし、その末寺を本山が、その本山を江戸幕府が管理する制度を整えました。

これの制度により、江戸幕府は簡便な民衆・寺院統制手段を、本山は末寺に対する人事権・上納金徴取権を、末寺は民衆からの上納金徴取権を得ることに成功し、それぞれが大きな利益を得たのです。

他方、これらにより日本仏教の世俗化が進み、現在のような信仰心の薄い仏教徒出来上がるに至っています。

本稿では、これらの歴史的経緯について簡単に説明していきたいと思います。 “【江戸幕府の宗教統制】信仰心の薄い多くの日本人が仏教徒とされている理由” の続きを読む