【露寇事件(文化露寇)】江戸時代に起こった500年ぶりの外国襲撃

露寇事件(文化露寇)は、19世紀初めにロシア帝国から日本へ派遣された外交使節ニコライ・レザノフが、長期間軟禁と通商要求拒否に対する報復として部下に命じたことにより勃発したロシア兵による日本北方拠点攻撃事件です。

それまでにロシアの脅威に備えて東蝦夷地(北海道の太平洋側と北方領土)を幕領化していた江戸幕府が、太平洋側の防衛だけでは不十分であると判断してさらに西蝦夷地(北海道の日本海側と樺太)をも幕領化するに至るきっかけを作った事件でもあります。 “【露寇事件(文化露寇)】江戸時代に起こった500年ぶりの外国襲撃” の続きを読む

【鎖国】江戸幕府の海禁政策

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教の禁教を目的として、オランダを除くキリスト教国の人の来航と日本人の出入国を禁止した状態で行われた対外政策(とそこから生じた孤立状態)をいいます。

その目的は禁教の徹底であり、貿易利益の獲得ではありません(鎖国体制を維持した結果、江戸幕府が貿易利益を独占する結果に至ったに過ぎません。)。

期間としては、寛永16年(1639年)のポルトガル船入港禁止から嘉永7年(1854年)3月3日の日米和親条約締結までを指すことが一般的です。

もっとも、江戸時代に「鎖国」という言葉が広く用いられていたという事実はなく、後世の講学上の概念ですので注意が必要です。 “【鎖国】江戸幕府の海禁政策” の続きを読む

【フェートン号事件】長崎への黒船来航

フェートン号事件は、文化5年(1808年)8月、鎖国体制下の長崎港にイギリス軍艦が侵入し、江戸幕府の遠国奉行(地方機関)である長崎奉行から薪・水・食料を脅し取った事件です。

ヨーロッパにおけるナポレオン戦争で争っていたイギリスとフランスの争いの余波が日本にまで飛び火して発生した事件であり、フランスの支配下に入ったオランダの船舶を追って長崎湾に入って来たイギリス船・フェートン号が、ことのついでに長崎奉行を脅して物資を強奪していきました。

イギリス艦・フェートン号には日本(江戸幕府)と事を構える意思はなく、また日本側にも人的被害が出なかった事件ではあるのですが、国の1つの地方機関が、たった1隻の軍艦の武力に屈するという国辱的事実を全世界に知らしめてしまった事件となりました。

本稿では、フェートン号事件に至る国際情勢を簡単に説明した上で、フェートン号事件の経緯について説明していきたいと思います。 “【フェートン号事件】長崎への黒船来航” の続きを読む

【新撰組結成】幕末京の人斬り集団誕生の経緯

新撰組(新選組・しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に上洛する徳川家茂を護衛するために一般公募で集められた浪士から発展した集団です。

徳川家茂に先立って入京した浪士組でしたが、京に入った直後に引率役であった清河八郎の翻意により袂を分かった試衛館派(近藤勇ら)・水戸派(芹沢鴨ら)・根岸友山一派らによって結成された壬生浪士組がその前身となります。

壬生浪士組では、結成直後に根岸友山一派を廃して試衛館派(近藤勇ら)・水戸派(芹沢鴨ら)による隊となり、会津藩預かりの部隊として京の治安維持や攘夷派志士の摘発に従事しました。

また、八月十八日の政変での活躍を評価され、「新撰組(新選組)」の隊名を与えられています。

その後、水戸派を一掃して試衛館一派で占められるに至った新撰組ですが、池田屋事件で大活躍をしたり、鉄の掟によって内部粛清を繰り返したり、はたまた各地でトラブルを頻発したりするなどしてその名を高めました。

その後、慶応3年(1867年)6月10日に隊士全員が幕臣に取り立てられたこともあり、江戸幕府の滅亡に至る過程で最後まで幕府と行動を共にし、慶応4年(1868年)に甲陽鎮撫隊と改めた後、明治2年(1869年)5月18日の函館戦争における旧幕府軍降伏により事実上消滅するという滅びの美学の体現者として現在に至ってなお有名です。

本稿では、幕末の京で異彩を放った剣客集団である新撰組について、その結成の経緯から隊名拝命に至る経緯について紹介していきたいと思います。 “【新撰組結成】幕末京の人斬り集団誕生の経緯” の続きを読む

【江戸幕府の宗教統制】信仰心の薄い多くの日本人が仏教徒とされている理由

日本人の多くは仏教徒と言われています。

もっとも、著者を含めて多くの日本人の仏教信仰は決して強いものではなく、一言で仏教徒といっても他の宗教を信じる人から見ると無神論者と呼べる程度の薄い信仰の人が多いように見受けられるため、仏教徒と呼んでいいかという点に疑問が生じます。

なぜ、このような薄い信仰心しか持っていないにも関わらず、多くの日本人が仏教徒ということになっているのでしょうか。

実は、その原因は、江戸幕府による宗教政策にあります。

より具体的にいうと、江戸幕府が、より安価かつ簡便に民衆を統制する手段として、全ての一般民衆をいずれかの寺(末寺)の檀家にし、その末寺を本山が、その本山を江戸幕府が管理する制度を整えました。

これの制度により、江戸幕府は簡便な民衆・寺院統制手段を、本山は末寺に対する人事権・上納金徴取権を、末寺は民衆からの上納金徴取権を得ることに成功し、それぞれが大きな利益を得たのです。

他方、これらにより日本仏教の世俗化が進み、現在のような信仰心の薄い仏教徒出来上がるに至っています。

本稿では、これらの歴史的経緯について簡単に説明していきたいと思います。 “【江戸幕府の宗教統制】信仰心の薄い多くの日本人が仏教徒とされている理由” の続きを読む

【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて

市中引き回し(しちゅうひきまわし)は、江戸時代の日本で行われた、死罪以上の判決を受けた罪人が受ける付加刑でした(独自の刑罰ではなく、あくまでも付加刑です。)。

死罪以上の判決を言い渡された者が馬に乗せられ、罪状を書いた捨札等を持ったものと共に刑場まで連れられて行くという公開連行制度(見せしめ)であり、抑止的効果をも狙ったものでした。

市中引き回しは、元々江戸幕府将軍のお膝元であった江戸で行われた刑罰だったのですが、豊臣家が滅んで大坂が徳川家の直轄地になると、ここを西国統治の拠点と定めた江戸幕府が大坂に江戸の統治システムを持ってきます。

その結果、大坂でも江戸で行われていたものと同様の刑罰システムが採用され、その一環として市中引き回しも採用されることとなったのです。 “【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて” の続きを読む

【御陵衛士】新撰組から分離した伊東甲子太郎一派

御陵衛士(ごりょうえじ)は、新撰組ナンバー3の参謀の地位にあった伊東甲子太郎が、局中法度に定められた切腹処分を免れて新撰組から脱退するために組織した団体です。

名目上は、孝明天皇の陵(後月輪東山陵)を守るための組織とされ、高台寺塔頭の月真院を屯所としたために高台寺党とも呼ばれます。

名目上は新撰組の活動の一端を担うとされていたものの、実質上は倒幕のための活動を続けていたことから、慶応3年(1867年)11月18日に長であった伊東甲子太郎が新撰組に暗殺され、事実上の解散を迎えています。 “【御陵衛士】新撰組から分離した伊東甲子太郎一派” の続きを読む

【池田屋事件】新撰組の名を世に轟かせたテロ取締事件

池田屋事件(いけだやじけん)は、元治元年(1864年)6月5日、新撰組が、京の三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士を襲撃し、一網打尽にして京の放火計画を未然に防いだことにより新撰組の名を世間に知らしめた事件です。

この事件により多くの維新志士が失われたことで明治維新が遅れたとも、逆に明治維新を早めたとも言われる歴史の転換点となった事件でもあります。 “【池田屋事件】新撰組の名を世に轟かせたテロ取締事件” の続きを読む

【長州藩の4つの支藩】長州藩と仲が悪かった長府藩・徳山藩・清末藩・岩国領

毛利元就によって巨大化したものの、関ヶ原の戦いの責によって長門国・周防国に押し込められて立藩したのが毛利宗家が藩主を務める長州藩です。

明治維新の立役者となった藩として有名ですが、この長州藩には、3つ?4つ?の支藩(長府藩、清末藩、徳山藩、岩国領)があります。

本稿では、長州藩の支藩の概略について、立藩の経緯から順に見ていきたいと思います。 “【長州藩の4つの支藩】長州藩と仲が悪かった長府藩・徳山藩・清末藩・岩国領” の続きを読む

【芹沢鴨暗殺】近藤勇が新撰組の長となった壬生・八木邸での粛清劇

新撰組局長として誰もが思い描く名は近藤勇だと思います。

2004年の第43作NHKの大河ドラマ「新選組」の主人公ともなった余りにも有名な人物であるため、新撰組は近藤勇が1人で作った組織であるかのように思われがちですが、実は違います。

初代新撰組(壬生浪士組)の初代筆頭局長は、芹沢鴨(せりざわかも)という人物であり、近藤勇はこの芹沢鴨を粛清して新撰組のトップになっています。

本稿では、近藤勇が新撰組のトップのなるに至ったこの芹沢鴨の粛清劇について、その発生に至る経緯から説明したいと思います。 “【芹沢鴨暗殺】近藤勇が新撰組の長となった壬生・八木邸での粛清劇” の続きを読む