高屋築山古墳(たかやつきやまこふん)は、宮内庁によって安閑天皇陵に治定されている古市古墳群の最南端にある前方後円墳です。
学術的に見ると高屋築山古墳=安閑天皇陵とする点については疑問も残るのですが、そのことよりも戦国時代に河内守護畠山家の居城となった高屋城の主郭に転用されたことで有名です。
本稿では、この安閑天皇陵(高屋築山古墳)について、簡単に説明していきたいと思います。 “【安閑天皇陵(高屋築山古墳)】高屋城の主郭に転用された天皇陵” の続きを読む
日本の歴史をできる限りをわかりやすく
高屋築山古墳(たかやつきやまこふん)は、宮内庁によって安閑天皇陵に治定されている古市古墳群の最南端にある前方後円墳です。
学術的に見ると高屋築山古墳=安閑天皇陵とする点については疑問も残るのですが、そのことよりも戦国時代に河内守護畠山家の居城となった高屋城の主郭に転用されたことで有名です。
本稿では、この安閑天皇陵(高屋築山古墳)について、簡単に説明していきたいと思います。 “【安閑天皇陵(高屋築山古墳)】高屋城の主郭に転用された天皇陵” の続きを読む
豊国廟(ほうこくびょう)は、豊国神社の境外地となった京都市東山区今熊野北日吉町にある豊臣秀吉のお墓です。
阿弥陀ヶ峰の山頂に麓から563段の石段を登ったところに石造五輪塔が建てられ祀られています。
後の天下人となった徳川家康が久能山(静岡市清水区)に葬られたことと比較すると、一見、質素かつマイナーであるかのように感じますが、その理由は、徳川家康が豊臣家滅亡後に行った豊臣家の痕跡抹消政策によるものです。
本稿では、豊臣家と徳川家の勢力争いをからめつつ豊臣秀吉の墓である豊国廟について簡単に説明したいと思います。 “【豊国廟】563段の石段の先にある豊臣秀吉の墓” の続きを読む
平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、奈良時代に大和国北部(奈良盆地北部、現在の奈良市・大和郡山市)におかれた日本の都です。
唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城であり、和銅3年(710年)、それまでの都であった藤原京から遷都された後、短期間の中断期間を経て、延暦4年(785年)に長岡京に遷都されるまで都として政治の中枢を担いました。 “【平城京】条坊制を採用して築かれた奈良時代の都城” の続きを読む
天智天皇山科陵(御廟野古墳)は、京都市山科区に存在する天智天皇(在位668〜671年)を祀った古墳です。
山科盆地北辺の南向きの傾斜面に位置した八角墳であり、宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として第38代天智天皇陵に治定されています。
数多く存在する京都市内の天皇陵の中で最も古い陵としても有名です。
もっとも、実は天智天皇は、生前に山科の地には縁もゆかりもなく、なぜ山科の地に陵があるのかについて様々な説があります。 “【天智天皇山科陵(御廟野古墳)】なぜか山科に存する天智天皇陵” の続きを読む
御土居(おどい)は、豊臣秀吉によって作られた京の町を囲む惣構え構造の土塁です。土塁に沿って掘られた堀とあわせて御土居堀とも呼ばれます。
御土居は、聚楽第・方広寺・寺町建造、天正の地割など豊臣秀吉による一連の京改造事業の1つとして建造されました。
目的としては京防衛のためであったと考えられるのですが、防衛設備としては不十分なものであり、現在でもその設置目的については様々な議論がなされています。
なお、現在も御土居の遺構が一部現存し、国の史跡に指定されています。
五十三次として有名な東海道は整備された当初は江戸の日本橋と京の三条大橋との間を繋ぐ街道だったのですが、江戸時代初期に京から大坂まで延伸されて五十七次となっています。
このとき延伸されたのが伏見までの大津街道と伏見から大坂までの京街道です(なお、大坂と京を結んだ街道については、京側からは京街道、大坂側からは大坂街道と言われました。)。
一般的には京街道とは京へ向かう街道の総称なのですが、そのなかでも後に東海道として延伸された大津街道及び京街道が特に有名ですので、本稿では、この延伸東海道(京街道・大津街道)についてその概略を説明したいとます。 “【五十七次に延伸された東海道】京街道と大津街道を歩く” の続きを読む
大坂があった河内国は、太古の時代は大阪湾が東は生駒山麓から西の六甲山脈まで入り込んだ海の中だったのですが、長い年月をかけて運んできた土砂が河口部に堆積していき大小多数の島や洲が点在する地形となっていきました(そのため、八十島と呼ばれていました。)。
その後、更なる土砂の堆積や、点在する島々を人の手によって繋ぐなどして陸地化が進められ、大坂の地が市街化されていきました。
もっとも、市街化したとはいえ、依然として街中には多くの川が流れており、またこれらの川の氾濫を防ぐためにいくつもの運河が開削されていったため、大坂の町にはこれらの川・運河を渡るための多くの橋が架けられていきました。またこれらの水運を利用して巨大なマーケットが形成され、さらにはこれらを見込んで川沿いに各藩の大坂蔵屋敷が林立することとなりました。
浪華八百八橋と言われた大坂の橋ですが、八百八という具体的な数字がついているものの800を超える橋があったというわけではなく、末広がりを意味する八を重ねるほど多くの橋があったという意味です。
実際の橋の数は、天明7年(1787年)時点で155橋であり、最盛期でも200橋程度でした(現在は1200橋以上あります。)。
200橋が808橋と評価された理由は、大坂では江戸幕府が架設・架替・修復をした公儀橋(主として大坂城に登城するために使用する橋)は12橋しか存在せず、その他多くの橋は町人がその必要性から自腹を切ってどんどん建てていったことに由来しています。
江戸幕府が建てずとも、町人によりどんどん川に橋が架けられて増えていく、そんな末広がりに増えていく様から比喩表現として「浪華八百八橋」と言われるようになったのです。
“【大阪浪華八百八橋】江戸時代の橋を中心とした水都大坂の中心部主要橋一覧” の続きを読む
京都御所(天皇がおられた内裏・禁裏)の周りにある京都御苑は、寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通に囲まれた東西約700m・南北約1300mの範囲の総面積約92ha内にある、京都御所の周囲に広がる約65ha(約19万7000坪)もの大苑地です。
明治維新ころまでは、皇族・貴族の邸宅が集まる公家町を構成しており、周囲を取囲む土塀と9カ所の門(高麗門・本瓦葺四脚門)で外部と仕切られていました(現在は、さらに5つの切通しが設けられています。)。
本稿では、市中と公家町(京都御苑)との出入口となっていた9カ所の御門とその後に出来た5カ所の切通しについて、観光の際の参考として北側から時計回りに紹介していきたいと思います。
なお、明治2年(1869年)の東京遷都により御所の機能が東京に移転し、その周囲に住んでいた公家も土地を与えられて東京に移ったため、役目を終えた公家町は翌年に京都府の所管となって一般市街地とされて荒廃し、この公家町の荒廃ぶりを悲しんだ明治天皇の命により明治期に緑化事業が進められ、かつての公家町部分が国民公園(京都御苑)として整備されて現在に至っています。なお、この整備事業の際に御門の移築も行われ、往時の位置から現在の位置への移動がなされています。 “【京都御所の外郭九門】公家町と市中の出入口を担った9つの御門(観光用)” の続きを読む
一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)は、京都市左京区一乗寺花ノ木町にある松の木です。
古くから、京と近江を結ぶ街道上の目印として親しまれた松であり、その歴史の古さから数々の逸話を持っています。
その中でも特に有名なのが、宮本武蔵と吉岡一門との戦いです。
本稿では、観光の際に有していると有用な簡単な説明として、この宮本武蔵と吉岡一門との戦いの経緯もあわせて一条寺下り松の歴史を簡単に説明したいと思います(なお、余談ですが、最も有名な宮本武蔵と吉岡一門との決闘話が、実は最も真偽が怪しい話でもありますので、)。 “【一乗寺下り松】宮本武蔵と吉岡一門の戦いの地(観光用)” の続きを読む
天下の台所と称された江戸時代の大坂は、領内で年貢として徴収した米や特産品を集めて売りさばいて現金化するため、各藩の蔵屋敷が米市場のある堂島に近い大坂・中之島周辺に集中しました。そして、これらの蔵屋敷においては、市中に張り巡らされた水路と浪華八百八橋と言われた多くの橋をも利用した陸路を自在に利用して物資の出し入れが行われました。
これらの保管場所として設置された建物は、各藩の大坂屋敷としても機能していたのですが、年貢米を収納する米蔵が大きな場所を占めていたため、米「蔵」がある藩の「屋敷」として、蔵屋敷と呼ばれるようになり、経済の中心地である大坂を特徴づける建物群となっていました。
これらの蔵屋敷は、最盛期である19世紀初頭頃には、100を優に超える数があったとされているのですが、その後の近代化の流れによりその多くが埋没してしまっています(現在でも比較的詳細にわかっている蔵屋敷の構造は、公共施設の設置に際して調査が行われた場所に限定されています。)。 “【大阪の蔵屋敷一覧】天下の台所大坂堂島米市場の周囲にあった蔵屋敷跡を巡る(観光用)” の続きを読む