【三好三人衆】三好長慶死後の三好政権の実質的支配者

三好三人衆とは、永禄7年(1564年)7月4日に最初の天下人と言われる三好長慶が死去した後、三好政権内の権力闘争を勝ち抜き、事実上三好政権を簒奪するに至った三好家中の3人の重臣達の呼称です。

具体的には、三好宗渭・三好長逸・石成友通の3人です。

三好長慶の死後、その甥であった三好義継が三好家の家督を継いだのですが、まだまだ若く、三好家という超大国を支配するには経験不足が否めませんでした。

そこで、この時点での三好家重臣が三好義継を支えて行くこととなったのですが、次第に三好家中での支配権を求めてこれら重臣達が対立するようになりました。

この対立は、三好三人衆(三好宗渭・三好長逸・石成友通)と松永久秀とに分かれて大戦に発展し、三好三人衆方優位で進んで行きました。

もっとも、劣勢となった松永久秀が織田信長に助けを求め、この三好家中の内紛を利用して上洛したことで、三好三人衆(及び三好本家)が駆逐されていくこととなったのです。 “【三好三人衆】三好長慶死後の三好政権の実質的支配者” の続きを読む

【石成友通/岩成友通】三好政権の出世頭となった三好三人衆の一角

石成友通/岩成友通(いわなりともみち)は、織田信長に先立つ初代天下人といわれる三好長慶に奉行人として見いだされ、実力中心主義であった三好政権において政権中枢を担うまでにのし上がった武将です。

三好長慶死後は、三好宗渭・三好宗渭と共に3人で三好政権を実質上支配したことから、三好三人衆の1人とも言われます。

大勢力を誇った三好政権でしたが、三好長慶死後に三好三人衆と松永久秀との間で内紛を起こしたため、その隙をつき、足利義昭を奉じて上洛した織田信長に権力の全てを奪われました。

その後、一旦は織田信長に臣従したものの、最終的には織田信長の下から離反し、その後の戦いに敗れて討ち取られるという悲しい最期を迎えています。

本稿では、この三好政権の出世頭とも言える石成友通の人生について見ていきたいと思います。 “【石成友通/岩成友通】三好政権の出世頭となった三好三人衆の一角” の続きを読む

【小西行長】商人から始まり豊臣政権の中枢を担うまでに出世したキリシタン大名

小西行長(こにしゆきなが)は、商人から成り上がり、肥後南半国(宇土城主)を領するまで出世した戦国大名です。

商人として培った経済感覚を発揮して豊臣政権下での海上輸送(兵站)を担当して大出世し、兵站のみならず水軍の将としても活躍しました。

また、アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名としても有名です。

武将としても優秀であり、特に文禄の役では、日本軍一番隊の総大将として女婿・宗義智らと共に先遣隊として朝鮮半島に上陸した後、破竹の勢いで進軍してわずか21日で朝鮮首都・漢城を攻略する活躍を見せています。

天下分け目の関ヶ原の戦いでは、石田三成方に与して西軍の将として奮戦したものの敗北して捕縛され、市中引き回しの後で六条河原において斬首されるという最期を迎えています。 “【小西行長】商人から始まり豊臣政権の中枢を担うまでに出世したキリシタン大名” の続きを読む

【蜂須賀小六正勝】初期豊臣政権の筆頭宿老

蜂須賀小六(正勝)は、豊臣秀吉の天下統一に貢献したその筆頭宿老です。

何度も主君を失った後、織田家の美濃国侵攻戦の際に豊臣秀吉の与力となり、その後直臣となってその覇業を支えました。

豊臣家筆頭宿老となり、最終的には蜂須賀家に阿波一国を与えられたことにより阿波徳島藩蜂須賀家の藩祖とされています。

なお、江戸時代に書かれた物語により野盗の頭目であったとか、墨俣一夜城の築城に貢献したなどというフィクションのイメージが作り上げられたため、ドラマなどでは面白おかしく描かれることの多い人物でもあります。 “【蜂須賀小六正勝】初期豊臣政権の筆頭宿老” の続きを読む

【増田長盛】どっちつかずの立場をとって没落した豊臣政権五奉行の1人

増田長盛(ましたながもり)は、北近江長浜に入った木下秀吉(後の豊臣秀吉)に見出され、槍働で出世した後、兵站・外交などの内政分野でその能力を発揮した戦国大名です。

豊臣秀吉の最晩年には、政権中枢を支える五奉行の1人にも選ばれ、100万石を超える豊臣蔵入地の一括管理を担うほどの大きな力を持っていました。

もっとも、関ヶ原の戦いの際には、石田三成方に与しながら、徳川家康方に密告書を送るなどしてどっちつかずの態度を示した後、戦後に改易処分を受けて大和国郡山20万石を失う失態を犯しています。

その後、出家して蟄居生活を送っていたのですが、大坂夏の陣が始まると、敗北するのを知りつつ大坂城に入城し、戦後にその責任を問われて自刃して果てるという壮絶な最期を迎えました。

本稿では、意外と知られていない波瀾万丈の人生を送った増田長盛の生涯について簡単に説明したいと思います。 “【増田長盛】どっちつかずの立場をとって没落した豊臣政権五奉行の1人” の続きを読む

【山内一豊】土佐藩20万2600石の祖

山内一豊(やまうちかつとよ)は、生家が織田弾正忠家に滅ぼされて全国を放浪するになるまで没落したところから、木下秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えて槍働きにより出世していき、豊臣秀吉死後にはいち早く徳川家康に取り入って土佐一国を治めて土佐藩を立藩するまでに出世した戦国大名です。

司馬遼太郎の著書「功名が辻」の主人公としても知られ、平成18年(2006年)度のNHK大河ドラマの主人公ともなりました。

また、妻・見性院の内助の功や、天正地震により一人娘を失った悲劇などの波乱万丈のエピソードでも有名です。 “【山内一豊】土佐藩20万2600石の祖” の続きを読む

【宮部継潤】羽柴政権下において対毛利家山陰方面最前線の壁となった大名

宮部継潤(みやべけいじゅん)は、北近江の国衆から羽柴秀吉に降ることによって出世を果たし、最終的には但馬国を得て山陰の要衝である鳥取城主となった戦国大名です。

宮部継潤に対しては、後に天下人となる豊臣秀吉(当時の名は木下秀吉)が、後に関白となる豊臣秀次(当時の名は治兵衛)を人質として差し出すほどの力と器量を有し、また羽柴秀吉による中国攻めの際には羽柴秀長と共に山陰方面攻略を成功させ、その後の豊臣政権下における対毛利家の最前線に配されるほどの信頼を勝ち得た有する人物でもありました。

本稿では、その功績が大きいにも関わらず、過小評価されてマイナー扱いとされている宮部継潤の生涯について、簡単に紹介していきたいと思います。 “【宮部継潤】羽柴政権下において対毛利家山陰方面最前線の壁となった大名” の続きを読む

【蘇我理右衛門】南蛮絞りを開発した住友財閥業祖

蘇我理右衛門(そがりえもん)は、天正19年(1591年)に銅と銀の合金(粗銅)から鉛を利用して銀と銅を精錬する技術である南蛮絞り(南蛮吹き)を確立し、日本から明国へ安価な粗銅として銀が流れて行くことにより国富が失われることを停止させた人物です。

また、住友家に養子に出した長男・住友友以が、蘇我理右衛門が開発した南蛮絞りの技法を用いて住友家を日本国内の3分の1とも言われる膨大な量の銅精錬業者に成長させたことから、そのきっかけを作った蘇我理右衛門が住友家の業祖として称されるに至っています。 “【蘇我理右衛門】南蛮絞りを開発した住友財閥業祖” の続きを読む

【北政所(おね・ねね・高台院)】豊臣秀吉の正室

北政所(きたのまんどころ)は、天下人となった豊臣秀吉の正室です。

諱はねね・おね・ねいなど諸説あり、従一位を授かった際の位記では豊臣吉子とされ、また落飾後に朝廷から高台院の院号を賜っているためその呼称も様々なのですが、本稿ではもっとも知られている通称である北政所の表記で統一します(歴史上、北政所と呼ばれた女性は多いのですが、現在では豊臣秀吉の正室を指す固有名詞とされる程の知名度を誇ります。)。

養子の教育・朝廷との折衝・人質の管理など、豊臣政権下で代えのきかない重要な役割を担った有能な女性であったこともあり、姫好きで知られる豊臣秀吉が、数々の高貴な身分の女性を妻に迎えたにもかかわらず、正室の座を下級武士の娘に過ぎない北政所から変更することはありませんでした。 “【北政所(おね・ねね・高台院)】豊臣秀吉の正室” の続きを読む

【徳川吉宗】紀州徳川家末男から宗家当主となった幸運将軍

徳川吉宗(とくがわよしむね)は、第2代紀州藩主の四男として生まれながら、和歌山藩の第5代藩主となった後、徳川宗家を継ぎ江戸幕府第8代将軍にまで上り詰めた幸運な人物です。

将軍職在任中に江戸幕府三大改革の第一弾となる享保の改革を進め、大赤字を垂れ流していた幕府財政を再建したことから、江戸幕府中興の祖と呼ばれることもあります。

他方で、幕府財政再建のために米価の引き上げや大増税を繰り返したため、庶民の生活を苦しくしたことからマイナス評価も強い将軍でもあります(享保の改革は、あくまでも幕府財政とそれを支える武士の生活を維持するためのものであり、庶民の生活を向上させることが目的ではありませんでしたので、政策目標という意味では達成している改革でした。)。 “【徳川吉宗】紀州徳川家末男から宗家当主となった幸運将軍” の続きを読む