【三貨制度】江戸幕府の金貨・銀貨・銭貨流通体制について

三貨制度とは、江戸時代に日本で採用された金・銀・銭を基本とする貨幣制度です。

もっとも、同一地域で金貨・銀貨・銭貨が併用されたわけではなく、西日本では銀貨+銭貨、東日本では金貨+銭貨で商取引が行われており、これらを総称して三貨制度といいます(なお、江戸幕府が三貨制度という認識をもっていたわけではなく、三貨制度とは現在から当時を顧みた際に用いる用語です。実際、三貨という用語も文化12年/1815年に両替屋を営んでいた草間直方が刊行した「三貨図彙」に始まります。)。

全国統一政権を樹立して貨幣発行権を得た江戸幕府でしたが、商人の商慣習を変更させることができず、日本国内に金貨経済圏と銀貨経済圏という2つの異なる制度を作ってしまったことから、複雑な貨幣システムとなってしまいました。

また、金貨・銀貨・銭貨の交換比率についても、触書による御定相場が存在したものの、実際には変動相場により取引がなされており、その結果として両替商が発展する基となりました。 “【三貨制度】江戸幕府の金貨・銀貨・銭貨流通体制について” の続きを読む

【幕末日米交渉史】突然の出来事ではなかったペリーの黒船来航

1853年に江戸湾に来航したことにより日本の歴史を変えたのが、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官ペリー率いる4隻の黒船艦隊です。

ペリーが圧倒的な軍事力に基づく砲艦外交により江戸幕府に開国を迫り、江戸幕府がこれに屈したことにより江戸幕府が滅亡に向かうと共に、その後の不平等条約締結へ向かっていくこととなった歴史はあまりにも有名です。

黒船来航により一気に歴史が動き始めたため、アメリカ合衆国の艦隊がこの頃に突然日本にやって来たようなイメージを持たれがちなのですが、全くそんなことはありません。

アメリカは、ペリーが来航する15年以上前から何度も日本との「友好的な付き合いを求めて」日本に来航していました。

ところが、日本側がこのアメリカ側の有効的アプローチに対し、無警告砲撃を行うなど、現在の認識からするとおよそあり得ない方法でこれを拒否し続けたことからアメリカ側が態度を硬化させ、ついに強硬手段に出ることとなったという歴史的経緯があります。

本稿では、 ペリー来航以前のアメリカ側のアプローチと、それに対する日本側の対応の経緯について、簡単に説明していきたいと思います。 “【幕末日米交渉史】突然の出来事ではなかったペリーの黒船来航” の続きを読む

【佐賀藩政改革】幕末日本最先端の科学技術集団となった経緯

薩長土肥という幕末に雄藩の1つとして、明治維新を推進すると共に、明治新政府においても主要官職に人材を供給した佐賀藩(肥前藩)ですが、他の3藩(薩摩藩・長州藩・土佐藩)に比べるとその知名度は大きく落ちます。

それどころか、なぜ佐賀藩が雄藩の1つに入っているのか疑問に思われる方も多いのではないでしょうか。

実は、佐賀藩は、10代藩主鍋島直正の下で幕末最強の科学技術力を獲得し、それにより得た軍事力を供して明治維新成功に大きく貢献しているのです。作家の司馬遼太郎は、明治維新は一足先に佐賀藩で達成されたとまで述べています。

もっとも、佐賀藩がこのような突出した科学技術力を獲得するに至るまでには苦難の歴史がありました。

そこで、本稿では、佐賀藩が明治維新の原動力となった強力な科学技術力を得るに至る経緯について、簡単に説明していきたいと思います。 “【佐賀藩政改革】幕末日本最先端の科学技術集団となった経緯” の続きを読む

【江戸時代後期のロシアの日本接近】

ペリー来航により外圧によって強制的に終了させられた江戸幕府の鎖国体制ですが、その前兆となる事件は相当前から起こっていました。

長崎・対馬・薩摩・松前という4つの対外窓口において、オランダ・中国・朝鮮・琉球・アイヌに限って対外貿易を認めていた江戸幕府に対し、18世紀後半頃からシベリア開発を本格化させたロシア帝国が貿易を求めてきていたのです。

そして、実際に18世紀後半頃から蝦夷地にロシア船が頻繁に現れるようになり、紳士的対応で国交を求めてきたため、江戸幕府としてはその対応が迫られる事態に発展していきます(これに対し、江戸幕府が無礼を働いたために大問題に発展しています。)。

本稿では、日本開国に先立つロシアの日本接近について、そこに至る経緯、それに対する江戸幕府の対応などについて順に説明していきたいと思います。 “【江戸時代後期のロシアの日本接近】” の続きを読む

【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期の第8代将軍・徳川吉宗と、第9代将軍・徳川家重の子によって創設された徳川将軍家の一門家です。

紀伊徳川家出身の徳川吉宗が、ライバルである尾張徳川家の影響力を低下させるために創設されたと考えられており、徳川宗武(徳川吉宗三男)を家祖とする田安徳川家、徳川宗尹(徳川吉宗四男)を家祖とする一橋徳川家、徳川重好(徳川家重次男)を家祖とする清水徳川家がこれに該当します。

御三家に次ぐ高い家格を持つとしながらも当初は大名として藩を形成することも政治権力を持つこともなく、将軍の親族でありながら将軍家の部屋住みとして扱われ、将軍家や親藩大名家に後継者がない場合に養子を提供することを主な役割とするに過ぎない家でした。

もっとも、幕末期には幕政にも関与するようになり、江戸幕府最後の将軍である第15代将軍・徳川慶喜が一橋家から輩出されたことでも知られています。 “【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家” の続きを読む

【徳川御三家】徳川将軍家版宮家が尾張・紀伊・水戸の3家となった経緯

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代に徳川宗家(将軍家)に次ぐ家格を持ち、将軍就任資格を持つとして徳川の苗字を称することを許された3つの分家です。

最終的に尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の3家に落ち着いたため、あたかも最初からこれらの家で始まったようなイメージを持ちがちですが、実際は紆余曲折を経て最終的にこの3家に落ち着いています。

そこで、本稿では、徳川御三家が現在のイメージに沿う形となるに至った歴史的経緯を順に説明していきたいと思います。 “【徳川御三家】徳川将軍家版宮家が尾張・紀伊・水戸の3家となった経緯” の続きを読む

【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落

宿場(宿場町)は、江戸幕府が、開幕直後に交通の要地として街道沿いに認定した上で、その統治下に置いた集落です。

古くからあった城下町などがそのまま転用された場所もあれば、江戸幕府によって新たに住民・町屋が集められて形成された場所もありました。

宿場が置かれた目的は、豊臣家及びその恩顧の大名達と対峙するための軍事的意味から公用人馬の調達・公用文書の輸送を第一とするものでした。

もっとも、豊臣家が滅亡して太平の世が訪れると、前記のような軍事目的のみならず、参勤交代の際の大名宿泊地や、一般庶民が旅する際の旅人宿泊地としても利用されるに至りました。

これらの経緯から、宿場町は、時期を経るに従って軍事的機能→政治的機能→社会的機能を獲得していくこととなり、軍事的機能(問屋場・木戸・見附・枡形・寺社仏閣)・政治的機能(本陣・脇本陣)・社会的機能(旅籠・木賃宿・茶屋・商店・高札場)などが混在する複合場所として成長していきました。 “【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落” の続きを読む

【参勤交代】江戸幕府封建制度下における平時の軍役奉公

参勤交代(さんきんこうたい)とは、江戸時代に各藩主や交代寄合が交替で江戸にいる将軍の許に出仕し、門番・火番・作事などの大名課役を交代で行った制度です。

自分の領地から江戸へ赴く旅である「参勤(参覲)」と、自領に帰還する旅である「交代(就封)」とを合わせて名付けられました。

大名が江戸と藩を往復する際に家臣らが隊列を組んで歩くというそのインパクトから有名となった制度ですが、その制度目的は、豊臣家が滅亡したことにより太平の世となった江戸時代において、軍事政権たる江戸幕府に対する軍事動員に代わる奉公手段(参勤交代=平時の軍役)を果たさせることにより幕藩体制を維持するというものでした。

もっとも、この制度の下では、諸大名は1年に1度江戸と自領を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならないという重たい負担を強いられました。 “【参勤交代】江戸幕府封建制度下における平時の軍役奉公” の続きを読む

【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか

江戸の町は、徳川家康により開幕された江戸幕府の本拠地として多くの人が集まる一大政治都市となったのですが、政治都市であったが故に生産力のない武士が多数居住することとなりました。

また、これらの武士を商売相手とする商人までもが江戸の町に流入していったため、江戸時代初期の関東地域の生産力のみではこれら増え続ける江戸の町の非生産人口を支える消費物資(農産物など)を工面することができませんでした。

そこで、江戸幕府としては、江戸の町機能を支えるため、全国各地から大量の物品(農産物・消費財・建築資材など)を江戸に運び込むシステムを構築する必要に迫られました。

では、江戸幕府は、どのようにこの問題点を解決していったのでしょうか。 “【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか” の続きを読む

【露寇事件(文化露寇)】江戸時代に起こった500年ぶりの外国襲撃

露寇事件(文化露寇)は、19世紀初めにロシア帝国から日本へ派遣された外交使節ニコライ・レザノフが、長期間軟禁と通商要求拒否に対する報復として部下に命じたことにより勃発したロシア兵による日本北方拠点攻撃事件です。

それまでにロシアの脅威に備えて東蝦夷地(北海道の太平洋側と北方領土)を幕領化していた江戸幕府が、太平洋側の防衛だけでは不十分であると判断してさらに西蝦夷地(北海道の日本海側と樺太)をも幕領化するに至るきっかけを作った事件でもあります。 “【露寇事件(文化露寇)】江戸時代に起こった500年ぶりの外国襲撃” の続きを読む