吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)は、中国地方11カ国を統治するに至った戦国大名毛利家の居城であった城です。
安芸国の国人領主に過ぎなかった毛利家の第12代当主・毛利元就によって、安芸国吉田荘(広島県安芸高田市吉田町吉田)にあった砦規模の小さな城が郡山全体を取り込んだ巨大近世城郭に造り変えられた城でもあります。
本稿では、大内・尼子という二大勢力に挟まれながら、これらを撃破して中国地方の覇者となった毛利家と共に発展した吉田郡山城について、その歴史的沿革や縄張り等について解説していきたいと思います。
なお、吉田郡山城跡は「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として多治比猿掛城と共に国の史跡に指定されています。
【目次(タップ可)】
吉田郡山城築城
吉田郡山城の立地
吉田郡山城は、西側を流れる江の川(広島側では可愛川)と東側を流れる多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山に築かれた山城です。
吉田郡山城がある郡山は、建武3年(1336年)に毛利時親が吉田荘(よしだのしょう)の地頭職として下向して住み着いた後、領内における本拠地として選ばれました。
吉田郡山城築城(築城年不明)
毛利家が吉田荘に移った後、毛利家当主の誰かによって吉田郡山城が築城されたのですが、その正確な築城者や築城時期は不明です。
文和元年(1352年)に毛利元春が「吉田城」なる城に籠もったこと記録されていたり、応永年間の毛利親衡書状の宛先が「郡山殿」となっていることから毛利元春が築城したとも解釈されうるのですが、ここでいう吉田城がその後の吉田郡山城と繋がる城なのかどうかは定かではなく、正確なところは不明です。
いずれにせよ、吉田郡山城は毛利家当主によって築かれた城なのですが、毛利家12代目の毛利元就が多治比猿掛城から移ってきた大永3年(1523年)時点においてなお、郡山の麓の旧本城部に広がる周囲の国人領主や豪族の城と大差ない小規模な城に過ぎませんでした(収容人数は1000人程度)。
そのため、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)正月まで続いた尼子軍と大内・毛利連合軍との大戦となった郡山合戦(吉田郡山城の戦い)も、この旧本城部を司令部として戦われています。
毛利元就による大改築(1546年ころ~)
もっとも、毛利家は、毛利元就が郡山合戦で尼子軍を追い払った後安芸国内で急速に勢力を拡大させ、安芸国人代表の地位から戦国大名に上り詰めていたったため、吉田郡山城の旧本城部だけでは手狭となっていきます。
そこで、毛利元就は、郡山全域に城域を拡張させていく大工事に着手します。
毛利元就は、天文15年(1546年)に隠居して家督を毛利隆元に譲り、当時の吉田郡山城(旧本城)の本丸部に毛利隆元を入れます。
他方、毛利元就は、郡山の山頂部を新たに掘削させて本丸を設け、自らは新城本丸部に移り住みます。
その上で、新城本丸周囲や、新城本丸に連なる尾根沿いに次々と防衛のための曲輪を配置し、山全体を要塞化した巨大城郭に造り変えました。
また、拡張・整備後の新城の各曲輪には一族や重臣たちの居館も設けられ、戦時のみの詰城という従来型の山城から、平時の居館と戦時の城郭が一体化する戦国山城へと変化を遂げました。
また、毛利元就の孫の毛利輝元の代になると、土の城から、石垣や瓦葺き建物なども利用される石の城に改築され、さらなる近代城郭へと変貌していきました。
吉田郡山城の縄張り
毛利元就によって拡張・整備された最終的な吉田郡山城は、郡山の山頂部の本丸を中心に尾根沿いに曲輪を配置した連郭式山城です。
山頂部の標高は約390m(比高190m)であり、そこから放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小270以上の曲輪が設けられているのですが、甲山が障害となるために北側から大軍で攻められる可能性が低いため、東・西・南に向かって重点的に曲輪が配置されています。
そして、これらの曲輪群を南の内堀、西の大通院谷、北の尾根の裏手にある甲山とこれと区分する堀切で守っており、これらをすべて合わせた吉田郡山城の城域部分の総面積は7万㎡にも及んでおり、周辺では類を見ない巨大な山城となっています。
旧本城曲輪群
旧本城曲輪群は、郡山の南東端に位置する曲輪群であり、毛利元就によって城郭域が拡張されるまで吉田郡山の本城とされていた曲輪群です。
同本城曲輪群は、本丸・二の丸・三の丸などの16もの曲輪で構成されており、その総面積は約4000㎡です。
旧本城本丸部の標高は293m・比高は90mであり、その西側高台に物見台、毛利隆元が居住していたとされる屋敷などがありました。
かつては、旧本城曲輪群の北側にある谷(難波谷)から大手道が伸び、旧本城本丸に向かうのが登城ルートでした。
新城増設後には、当主・毛利隆元の居館が置かれるも、新城の出丸的な扱いとなり、新城に向かうルート上にある尾崎丸との間(旧本城から見ると裏手側)には2つの堀切が設けられていました。
旧本城と新城との中間に位置する曲輪群
(1)尾崎丸曲輪群
尾崎丸曲輪群は、旧本城と新城との中間に位置する独立的な性質を持つ17段の曲輪群です。
前記のとおり、麓側の旧本城曲輪とは、2つの堀切で遮断されています。
毛利家の家督を継いだ後で旧本城曲輪群に居館を置いた毛利隆元でしたが、新城曲輪群にいる毛利元就との連絡の不便さを解消するために、旧本城曲輪群から尾崎丸曲輪群に居館を移したことから、以降、毛利家当主の居館として使用された曲輪群です(毛利輝元も、毛利元就の死後に新城本丸に移るまでは、尾崎丸に居館を置いています。)。
(2)満願寺の壇
満願寺の壇は、本丸の南に位置する満願寺曲輪を含む6段から成る曲輪群です。
吉田郡山城内にはいくつか寺があったのですが、同曲輪群の中にあったとされる満願寺は、毛利家が吉田に移ってくるはるか前の平安時代頃には存在していたと考えられる城内最古の山岳寺院です。
城内に山岳寺院が存在していることから、吉田郡山城は、信仰の対象でもあった郡山の権威を借りて築かれた城であることがわかります。
毛利元就によって吉田郡山城が拡張された後も、満願寺は寺としてあり続け、城内で信仰の対象となっていただけではなく、文化・芸術を担う存在でもありました。
その後、満願寺は、毛利家と共に、広島城・萩城へと移っていき、現在も山口県防府市にある防府天満宮付近に存在しています。
そのため、当然、現在の満願寺曲輪は空き地となっており、境内跡に2つの蓮池跡が残るのみとなっています。
(3)妙寿寺の壇
妙寿寺の壇は、山頂曲輪群を守るために設けられた満願寺曲輪群と連なる13段の曲輪群です。
主に、旧本城曲輪群の北側にある谷(難波谷)から進軍して来る敵を迎え撃つことを目的としているため、難波谷に向かって南側に向かって曲輪が配置されています。
新城曲輪群
新城曲輪群は、郡山の山頂部に築かれた山頂曲輪群(本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪)と、これを中心として放射線状に伸びる6本の尾根曲輪群、さらにそこから伸びる6本の支尾根郡から構成されています。なお、三の丸・二の丸・本丸という名称は江戸時代以降の呼び方であるため、毛利家時代にそのように呼ばれていたわけではないのですが、便宜上この呼び方で紹介します。
毛利輝元時代には、本城の中枢部分である本丸から三の丸の周辺辺りに10m級の高石垣が組まれていたようですが、元和の一国一城令後に崩されていますので、現在はその名残しか残されていません。
(1)山頂曲輪群
① 帯曲輪及び御蔵屋敷
帯曲輪は、三の丸の周囲を取り囲んでいる細い帯状の曲輪です。
帯曲輪と三の丸との間の切岸には石垣が貼られて仕切られていたのですが、江戸時代に一国一城令に従って吉田郡山城が廃城とされる際、この石垣は徹底的に破壊されています。そのため、現在は、破却された大きな石が点在する状態となっています。
また、帯曲輪の西側(釣井の壇と勢溜の壇の間)の2段に亘る東西20m・南北30mの曲輪は、江戸時代に作成された郡山古地図に「御蔵」と書かれていたため御蔵屋敷という曲輪名となっています。
もっとも、往時の正確な曲輪名は不明であり、そもそも蔵が置かれていたかも不明です。
② 三の丸
三の丸は、東西40m・南北47mある吉田郡山城内最大の曲輪で、石塁・土塁・掘削などによって4段に分けられています。
石塁・石垣などが現存する。
三の丸西側にある虎口は、石垣の中に階段が組み込まれた内枡型構造となっています。
三の丸からは瓦が出土していますので、三の丸には、瓦葺きで建てられた毛利家一族や家臣の居宅が配されていたことがわかっています。
③ 二の丸
二の丸は、本丸の南側2m下にある東西36m・南北20mの曲輪であり、三の丸とは幅1.5mの通路でつながっているのですが、そこには礎石が残されているため、入口に小型の桝型門又は塀が設けられていたと考えられます。
二の丸の周囲には、高さ0.5m・幅1mの石塁や石垣で囲まれ、27mと15mの方形に区画されています(実用面積は400㎡)。
二の丸の南側には石垣跡が残っているが、往年は東側・西側にも石垣があったと推定されます。
そして、北西に設けられた石列通路を通ると、いよいよ吉田郡山城本丸です。
④ 本丸
本丸は、言うまでもなく城の最も重要な曲輪であり、吉田郡山城の本丸は尾根筋に築かれた曲輪郡を突破した後でようやく辿り着く郡山の山頂部(標高約390m・比高約190m)に存在します。
吉田郡山城の本丸は、大きさは一辺約35mの四角形の曲輪であり、新城築城後に毛利元就の屋敷(その後は、毛利輝元の屋敷)があった曲輪であると記録されています。
発掘調査が行われていないために正確なことはわかりませんが、本丸からはほとんど瓦が出土されていないため、土壁・藁葺の建物が建てられていたのではないかと推測されます。
そして、本丸の北端には、さらに一段高くなった長さ23m・幅10mの櫓台があり、吉田郡山御城下古図や天正15年(1587年)頃に描かれた絵図には三層の天守が描かれたものが残されているものの、ここに天守や櫓様の建築物が建てられていたのかは不明です。
(2)釜屋の壇・羽子の丸
釜屋の壇(かまやのだん)は、本丸の北西部に伸びる尾根に築かれた6つの壇で構成される曲輪群です。
本丸から15m下がった位置にあり、炊事場として利用されていました。
釜屋の壇の先は、幅7m・深さ3mの堀切で区切られた独立的な羽子の丸(曲輪数は9段)で守られています。
(3)厩の壇
厩の壇(うまやのだん)三の丸の南東部から東南に400m伸びる尾根に築かれた曲輪群です。
下部には馬場が設けられていたため、厩の壇と言われます。
厩の壇の曲輪数は11段、馬場の曲輪数は9段の曲輪群で構成されていました。
(4)勢溜の壇
勢溜の壇(せだまりのだん)は、御蔵屋敷西側の尾根沿いに伸びる大小10段の曲輪から成り立つ長大な曲輪群であり、往時は、毛利家の家臣団の居住区となっていました。
勢溜の壇と尾崎丸・万願寺の壇との間にあった道が、新城本丸と城下とをつなぐ大手筋であったと考えられることから、防衛上極めて重要な曲輪群であったと考えられています。
そのため、勢溜の壇には、その南西尾根に8段の曲輪群である矢倉の壇、その北西尾根に10段の曲輪群である一位の壇が設けられ、さらなる防御が施されています。
なお、勢溜の壇という名は、戦国時代よりも後につけられた名称ですが、南西部から攻めてくる敵方に対応するためにこの曲輪群に城兵をとどめていたため、勢溜(せだまり)と呼ぶようになったのだと考えられます。
(5)釣井の壇
釣井の壇(つりいのだん)は、本丸の西側にある1段の曲輪であり、山城になくてはならない井戸水を汲み上げるための曲輪です。
釣井の壇は、東西に75mもの長さがあり、南側斜面には石垣が組まれていることが特徴的であり、井戸水を釣り上げるため釣井といわれます。
釣井の壇には直径2.5mの石垣で組まれた井戸が設けられていたのですが、現在は枯れて埋もれてしまっているため、その深さは4mに止まっています。
なお、吉田郡山城の規模から考えると、他にも井戸があったと考えられるのですが、現在同城内で石組みの井戸が確認できるのは、釣井の壇の井戸だけです。
(6)姫の丸
姫の丸は、本丸の北側の一段下がった場所にある7段の曲輪群で、本丸北側の石垣の基部にあたります。
本丸とは急峻な斜面で区切られた三角形の曲輪であり、本丸のすぐそばにあることから防衛上も重要な曲輪であることがわかります。
姫の丸の有名な逸話としては、吉田郡山城の改築工事の際に本丸石垣の普請が難航したため、若い女性を人柱としようという声があがったのですが、毛利元就が人柱に代えて、「一日一力一心(百万一心)」という句を彫り込んだ石を埋めたところ、普請は無事に終えられたと伝わっています。
その後、文化13年(1816年)に長州藩士だった武田泰信が姫の丸で発見して拓本の要領で写しを取り、明治15年(1882年)に写し取られた拓本が毛利元就を祀る豊栄神社に奉納されたとされていますが、この逸話は一次史料には記載されておらず、吉田全町をあげた郡山全山探索に際しても礎石の実物は発見されていませんので、その真偽は不明です。
(7)千浪郭群
なお、以上の他に、吉田郡山城と郡山の背後にある甲山(かぶとやま)との間を守るために、その間に9段の曲輪群である千浪郭群(せんろうかくぐん)も設けられています。
山裾・麓の史跡等
① 毛利元就墓所
毛利元就墓所は、吉田郡山城の西端部の毛利一族墓所から一段上がった場所にあります。
元亀2年(1571年)6月14日に75歳(満74歳)で亡くなった毛利元就は、火葬された後、同地に埋葬されます。
このとき、いわゆる「つちまんじゅう」が盛られ、墓標としてハリイブキが植えられました(今でいう樹木葬の形です。)。このハリイブキは、江戸時代には既に枯れていたようなのですが、現在も枯れた姿で残されています。
明治初期に毛利元就墓所の改修工事が行われ、このときに二の丸跡の石垣から一部の石が運び出して整備が行われたとの記録が残されています。
なお、毛利元就墓所の西側には、姫の丸乱で紹介した毛利元就が「一日一力一心(百万一心)」という句を彫り込んで埋めたという伝説にちなんで昭和6年(1931年)に建てられた石碑が残されています。
② 毛利家一族墓所(洞春寺跡)
毛利一族墓所は、吉田郡山城の西端部の毛利元就墓所の一段下がった場所にあります。
この場所は、毛利元就の菩提を弔うために、毛利元就死後の翌年である元亀3年(1572年)に、毛利輝元によって同地に洞春寺が創建されました。
毛利元就の死後、毛利家は関ヶ原の戦いの際に西軍に与した責めによって周防国・長門国に移封された際、洞春寺も毛利家に伴って慶長8年(1603年)に山口に、慶長11年(1606年)に萩城内に移されました(毛利元就墓所はそのまま吉田郡山城内に残されています。)。
そこで空き地となった同地に、明治期以降、毛利家一族の墓が集められました。
現在の毛利家一族の墓は、向かって左から毛利興元(毛利元就の兄)、毛利幸松丸(毛利興元の子)、尾崎局(毛利隆元の妻)の各石墓、また最右には毛利時親から毛利豊元迄の当主の合葬墓が配されています。
また、毛利家一族墓所・毛利元就墓所の北側には、毛利元就の葬儀の導師を務め、また菩提寺である洞春寺の開山を行った嘯岳禅師の墓が置かれています。
③ 毛利隆元墓所・常栄寺跡
毛利隆元墓所は、郡山山裾南西部の大通院谷遺跡の近くに設けられています。
永禄6年(1563年)8月4日に父の毛利元就に先んじて死去した毛利家13代当主の毛利隆元でしたが、一時期毛利隆元の家督相続が忘れられ、毛利家の家督が毛利元就から毛利輝元に直接引き継がれたかのように勘違いされていた時期がありました。
そのため、かつては吉田郡山城内には毛利隆元の墓は設けられていませんでした(もっとも、毛利隆元の菩提寺として郡山の麓に常栄寺が建てられ、その裏に葬られたと考えられていました。なお、常栄寺は毛利家が山口に移転する際に同行したため、同寺跡地は空き地となっていました。)。
もっとも、江戸時代に毛利家の再検証が行われて毛利隆元の家督相続が評価されたため、毛利隆元の300回忌に先立つ文久2年(1862年)、長州藩によって常栄寺跡地の裏に当たる現在の場所に毛利隆元の墓が建てられました。
④ 伝元就火葬場跡
真偽は不明ですが、吉田郡山城の西側内堀の大通院谷の南西部(現在砂防公園となっている辺り)に、毛利元就が火葬に付されたと伝わる場所があります。
当時の埋葬の作法としては、火葬のみならず土葬もあったのですが、毛利元就が禅宗に帰依していたことから火葬が選択されたと言われています。
④ 御里屋敷伝承地
吉田郡山城の拡大後に旧本城本丸から新城本丸に移り住んだ毛利元就でしたが、晩年になると高所での生活がしんどくなったのか、麓に降りてきて移り住んだとされるのが御里屋敷伝承地です。
もっとま、江戸時代の記録では、安芸高田少年自然の家「輝ら里」の敷地内に毛利元就の屋敷があったとされているのですが、平成3年(1991年)から翌年にかけて行われた吉田郡山城の麓の試掘調査では遺構などが見つからなかったため、屋敷の所在地としての再検討が行われています(そもそも、新城本丸から麓に降りてきたかも不明です。)。
なお、同所には、現在、毛利元就像と三矢の訓碑が建てられてあます。
⑤ 清神社
清神社は、郡山の南側山裾部にある神社であり、京にある牛頭天王・スサノヲを祭神とする祇園信仰の神社である祇園社(八坂神社)から分社して建てられました。
遅くとも平安時代には存在していたようですが、創建がいつであったのかはわかっていません。
拡張前の吉田郡山城の段階では城外にあった清神社でしたが、拡張により郡山全体が城塞化されたことにより城内に取り込まれました。
毛利家代々の当主が崇拝した神社であり、戦が行われるたびに戦勝祈願に訪れた神社であるとされています。
その後、毛利家が広島・山口に移ったあとも清神社は同所にあり続け(現在残る社殿は元禄7年のものであり、その前に立つ5本の千年杉の神木も見どころです。)、現在ではプロサッカーチームであるサンフレッチェ広島が毎年必勝祈願に訪れる神社としても有名です。
⑥ 興禅寺跡(郡山公園)
現在郡山公園となっている場所には、かつて興禅寺という寺がありました。
遅くとも天文年間には存在していた寺であったようですが、創建がいつであったのかはわかっていません。
拡張前の吉田郡山城の段階では城外にあった興禅寺でしたが、拡張により郡山全体が城塞化されたことにより城内に取り込まれました。
その後、毛利輝元が広島城に本拠を移す際、興禅寺も同行したため、興禅寺は、現在も広島市内に残っています。
そして、興禅寺跡は、大正年間に公園に造り変えられ、現在は郡山公園として利用されています。
堀・縄手
(1)外堀
前記のとおり、吉田郡山城は、西側を流れる江の川(広島側では可愛川)と東側を流れる多治比川に挟まれた吉田盆地の北側に位置しています。
そのため、江の川と多治比川が天然の外堀的な役割を果たしていました。
また、北側は、甲山がそびえており、これが天然の城壁の役割を果たしています。
(2)縄手
江の川・多治比川と内堀との間(内堀の外側)には、縄手と言われる細長い道路が張り巡らされていました。
清神社付近から南西方向に抜ける「祇園縄手」や大通院谷を下った方向から続く「香取縄手」などの山麓から里に向かって延びる7本の縄手と、これらの縄手を横に繋ぐ「竪縄手」がありました。
(3)内堀
吉田郡山城の内堀は、西側の大通院谷から南方向へ伸び、南側は南麓から約100mの位置を東西に延び(現在の安芸高田少年自然の家前から県立吉田高等学校・市立吉田小学校の方向)、東側は旧本城のあった東の尾根まで続いていたと推定されています。
そして、内堀の内側には、吉田郡山城を守備する里衆の居住区が設けられていました。
① 大通院谷・薬研堀
吉田郡山城西側にある大通院谷(だいつういんだに)川から、南西に向かい、吉田郡山城南麓回り込むように作られているのですが吉田郡山城の内堀です。
起点となる同谷からはV字の薬研堀として掘られており、防衛のためのみならず区画・排水のためにも用いられていたようです。
そして、この同谷起点部には、旧石器時代から近代までの複合遺跡として大通院谷遺跡となっており、かつて大通院という寺(毛利元就の曾祖父であった毛利熙元の菩提寺であったともいわれています。)があったと推定されることからこの名がつけられました。
この遺跡の跡は、戦国期になると毛利家家臣団の屋敷として使用され、石垣を伴う武家屋敷が立ち並んでいたことがわかっています。
吉田郡山城廃城
広島城への居城移転(1591年)
毛利家の躍進と共に拡大整備が進められた吉田郡山城でしたが、豊臣秀吉による天下統一事業が進められるに従って戦が起こらなくなってくると山間部に位置する防衛特化型の吉田郡山城の利点が失われていきます。
そこで、当主・毛利輝元は、交通の便が良くない吉田郡山城から、海運・陸運の要衝地であるために領国の政務・商業の中心となりうる太田川下流域に、権力の中心としてシンボル化する近世城郭を建築することを決定します。
そして、天正19年(1591年)に広島城がほぼ完成すると、毛利家の中枢が、吉田郡山城の城下町と共に同城へ移ります。
その後、しばらくは平地である広島城の詰めの城として残されました(文禄3年/1594年に穂井田元清が兄の小早川隆景とともに吉田に出頭したとされる文書が残されていることから吉田郡山城が維持されていたことが確認できます、大阪城天守閣蔵・穂井田元清書状)。
一国一城令による取り壊し(1615年)
その後、吉田郡山城は、毛利家が関ヶ原の戦いの責めを負って周防国・長門国2カ国への減封とされて広島を離れた後も存続し続けたのですが、慶長20年(1615年)に江戸幕府が出した一国一城令により吉田郡山城も取り壊されることとなります。
そして、寛永14年(1637年)に島原の乱が起きると、キリシタンの決起の際の防衛拠点とされることを恐れた幕府によって、吉田郡山城の石垣や堀なども徹底的に破却・撤去され、城としての機能を完全に失う結果となりました。
なお、江戸時代中期に吉田郡山城とその城下を描いた絵図「吉田郡山御城下古図」が作成され、現在は毛利家文書として山口県文書館に収蔵されています。