八上城(やかみじょう)は、兵庫県丹波篠山市にある波多野氏が本拠とした、中世の山城です。
丹波三大山城(あとの2つは八木城と黒井城です。)の1つであり、別名は八上高城とも言われます。
織田信長麾下の丹波方面軍司令官であった明智光秀の攻撃により落城し、丹波国で権勢を誇った波多野氏が滅亡するに至った城でもあります。
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八上城築城
八上城の立地
八上城は、北側を東西に亘る山陰街道の押さえのため、篠山盆地のほぼ中央南部寄りにある標高約462mの高城山に築かれた山城です。
西側の法光寺城・南側の奥谷城を取り込んだ上で、周囲に支城群を張り巡らして一大城郭を形成する難攻不落の城でもありました。
また、八上城は、本城と支城とが城下を挟んで配置されるという中世山城の典型的特長を今に伝える貴重な城でもあります。
八上城築城(1508年)
八上城の始まりは、石見国の武士であった波多野清秀が応仁の乱にて戦功を挙げ、細川政元から多紀郡を与えられたことです。
その後、15世紀後半に高城山南西尾根先端部に奥谷城(蕪丸城)を築いて城下町を奥谷に置いた後、波多野元清が、永正5年(1508年) に高城山頂に八上城を本城として築いたのが八上城の始まりとされています。
波多野元清は、八上城に拠点を置いた後、多紀郡内の豪族討伐を開始し、周辺豪族を屈服させてその勢力を拡大させていきます。
八上城の戦い(対織田戦以前のもの)
その後、八上城は、畿内から西進してくる諸勢力の侵攻を受け、数々の籠城戦が行われ、それらを乗り越えています。
特に激しかった弘治3年(1557年)の戦いでは、松永久秀に一旦八上城を奪われ、永禄9年(1566年)に波多野元秀が奪還するなどしています。
このような厳しい戦いを経るたびに八上城の防御力強化が図られ、八上城および城下の防衛力増強の目的で支城・法光寺城が整備され、城下が奥谷から街道沿いの八上に移されるなどしています。
八上城の縄張り等
八上城の縄張り(城郭構造)
八上城は、高城山の構造そのままに、中央部にある山上曲輪群を中心とし、攻城ルートとなる西尾根・東尾根・南尾根に沿って本丸と各曲輪が一列に連なる様に配置されています。
そのため、八上城の城郭構造は連郭式山城となっています。
西尾根曲輪群
西尾根曲輪は、北西側から八上城を目指すルートを防衛する曲輪群です。
①春日神社
現在の西尾根からの登山ルートの入り口となっているのがこの春日神社であり、ここから山頂までは約1kmあり、大人の足でだいたい45分の行程となります。
②城館(伝主膳屋敷跡)
③鴻の巣
西側から攻め寄せて3分の1くらいに到達した場所にある開けた場所で、西尾根を登ってくる敵に備えるための番所跡です。
④茶屋丸
東尾根曲輪群
東尾根曲輪は、北東側から八上城を目指すルートを防衛する曲輪群です。
①西蔵丸
②芥丸
③馬駈場
④茶屋の壇
⑤伝はりつけ松
八上城が明智光秀の攻撃により落城した後に波多野秀香が、残兵を集めて2カ月間抗戦し、その間に明智光秀の母(伯母とも)を磔にした場所とも言われています(総見記・柏崎物語)。
もっとも、この逸話は、明智光秀の調略による波多野兄弟の誘降に関する記録を恣意的に解釈したものであり、史実ではない創作であることが明らかとなっています。
南曲輪群
南曲輪は、南西側から八上城を目指すルートを防衛する曲輪群です。
八上城を南西側から攻撃する場合、まず奥谷城を攻略する必要があり、これを攻略した後に現れるのが南曲輪群です。
①奥谷城(南側支城)
奥谷城は、高城山からのびる支尾根の先にある、南北140m、東西130mほどの城であり、永正5年(1508年) に高城山頂に八上城を築いて本城とするまで、波多野氏が本拠とした城です。
尾根上に大きく3つの曲輪が連なる詰城を置き、その西下段に居館跡と思われる空間が広がっています。
波多野氏が八上城を本拠とした後は、波多野氏や家臣の屋敷として使われ、有事には八上城の出城として機能しました。
②水の手曲輪
③朝路池
④蔵屋敷
山上曲輪群の手前の南曲輪群と東尾根曲輪群との合流地点に蔵屋敷が置かれていました。
蔵屋敷は、文字通り籠城用の食糧等の保管施設であったため山上曲輪群に最も近い位置に置かれ、厳重に守られていました。
山上曲輪群
山上曲輪群は、八上城の最終防衛のための曲輪です。この曲輪の中央に位置する本丸が落ちれば八上城の陥落です。
①右衛門丸
波多野家の城主屋敷跡と言われています。
②涼御殿
③三の丸(約550㎡)
④二の丸(約150㎡)
⑤岡田丸(約800㎡)
⑥本丸(約900㎡)
本丸には、戦国期の野面積による石垣の後が残されています。
また、波多野秀治の墓碑が建てられています。
八上城廃城
八上城落城(1579年)
天正3年(1575年)3月、織田軍の丹波方面軍司令官であった明智光秀による攻略が開始され、天正7年(1579年)6月に落城し、波多野秀治・波多野秀尚・波多野秀香が捕縛、処刑され、波多野氏が滅亡します。
なお、波多野氏滅亡後には、明智光忠が城代として入城しています。
前田茂勝入城(1602年)
慶長7年(1602年)、前田茂勝(五奉行の前田玄以の子)が八上5万石を領して入城します。
八上城廃城(1609年)
慶長13年(1608年)に前田茂勝が改易され、その後入封した松平康重が慶長14年(1609年)に篠山城を築城し移城したため八上城は廃城となりました。
なお、丹波篠山市内には、戦国時代の典型的山城である八上城の他、近世城郭の典型的平城である篠山城が近い位置に残されていますので、興味がある方は是非。