京都御所(天皇がおられた内裏・禁裏)の周りにある京都御苑は、寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通に囲まれた東西約700m・南北約1300mの範囲の総面積約92ha内にある、京都御所の周囲に広がる約65ha(約19万7000坪)もの大苑地です。
明治維新ころまでは、皇族・貴族の邸宅が集まる公家町を構成しており、周囲を取囲む土塀と9カ所の門(高麗門・本瓦葺四脚門)で外部と仕切られていました(現在は、さらに5つの切通しが設けられています。)。
もっとも、その位置は現在の位置とは微妙に異なっており、その理由は、明治期の大内保存事業により現在の位置に移設されたからです。位置関係についてはアイキャッチ画像の左右を見比べてみてください。
本稿では、市中と公家町(京都御苑)との出入口となっていた9カ所の御門とその後に出来た5カ所の切通しについて、観光の際の参考として北側から時計回りに紹介していきたいと思います。
なお、明治2年(1869年)の東京遷都により御所の機能が東京に移転し、その周囲に住んでいた公家も土地を与えられて東京に移ったため、役目を終えた公家町は翌年に京都府の所管となって一般市街地とされて荒廃し、この公家町の荒廃ぶりを悲しんだ明治天皇の命により明治期に緑化事業が進められ、かつての公家町部分が国民公園(京都御苑)として整備されて現在に至っています。なお、この整備事業の際に御門の移築も行われ、往時の位置から現在の位置への移動がなされています。
【目次(タップ可)】
北側の御門
①今出川御門
今出川口(切通し)
東側の御門
②石薬師御門
石薬師御門は、京都御苑の北東部にある御門です。
かつて真如堂がありその一角に石造の薬師如来が祀られていたことから名づけられた石薬師通に位置することから石薬師御門の名が付けられたと言われています。
東京遷都の最中であった明治2年(1869年)10月、京に残っていた皇后が東京へ移ることが決まったところ、約1000人もの京の民衆が集結し、皇后の東京行き阻止と、天皇の京都還幸を求めたデモが行われた場所としても有名です。
③清和院御門
④寺町御門
南側の御門
富小路口(切通し)
⑤堺町御門
堺町御門は、京都御苑の南側にある門です。
禁門の変の際に、遅れて到着した久坂玄瑞が通過し、目の前にあった元関白鷹司家屋敷に立て籠った後切腹して果てた場所でもあります。
葵祭・時代祭の行列が市中に出立する門としても有名です。
間之町口(切通し)
西側の御門
椹木口(切通し)
⑥下立売御門
出水口(切通し)
⑦蛤御門
蛤御門は、元々「新在家御門」といわれた開かずの門でした。
江戸時代までは、現在の位置よりも内側にあり、また南向きに建っていました。
天明8年(1788年)の天明の大火の際に初めて開門され、炎で開くものの比喩表現として蛤が充てられて、そのまま蛤御門と呼ばれるようになりました。
元治元年(1864年)7月19日に起こった禁門の変の際には、突入しようとする長州藩士と、守ろうとする会津藩士との激戦の地となった場所でもあり、現在の蛤御門にもこのときの弾痕が残されています。