日本の主食と言えば米です。
本稿執筆時の日本国内での米生産高は、1位新潟県・2位北海道・3位秋田県・4位宮城県・5位福島県・6位山形県(本稿起案の2024年時点ランキング)となっており、東北寒冷地域だけで日本の4分の1を占める米の中心生産地となっています。
もっとも、常識的に考えるとこれはかなり奇妙な順位です。
元々熱帯性農作物として誕生した稲は、高温多湿を生産条件とする植物であり、寒冷地生産には向かないはずだからです。
今日の米生産は、この問題点を克服した結果なのです。
現在当たり前のように食べられている寒冷地米は、実は苦難の歴史を克服しようとした苦労した技術者達の成果です。
本稿では、この技術者たちの成果=寒冷地での稲作を成功させるに至った経緯について見ていきたいと思います。
【目次(タップ可)】
高温多雨に適する稲作の問題点
日本の主食としての米
日本の主食である米は、「稲」の果実である籾から外皮を取り去った粒状の穀物です。
この点、稲は、元々は中国南部の雲南~ラオス・タイ・ビルマ周辺の山岳地帯で生まれたとされ、そこから北に上って温帯向けのジャポニカ米に、また南に下って高温向きのインディカ米に発展していきました。
日本に入ってきたのは、このうちのジャポニカ米であり、縄文時代後期に中国の揚子江近辺から北九州に伝わったと言われています。
米は、エネルギーや栄養価が高いため基礎食料として重要である上、比較的長期に保存ができるという特徴から経済的にも重要な意味を持ちました。
実際、稲作が入ってきた後の日本では、米の収穫高や保存料によって貧富の差が生れ、それを巡って争いが絶えない状態となりました。
水稲稲作の問題点
弥生時代中期頃に至るまでに東北地方最北端(現在の青森県)まで稲の作付が到達したのですが、経済力の指標が米の収穫高となったため、米の作付が可能となる土地の奪い合いが起こるようになりました。
そして、土地の奪い合いが起こった結果として、土地を防衛するために武装農民が現れ、これが発展して武士へと進化していくなど稲作は日本の歴史を大きく変えていきました。
もっとも、前記のとおり、日本に入って来たジャポニカ米は熱帯性作物であり、稲作には、高温と多雨が必要とされます。
この点、その全域が多雨地域である日本では、世界各国で起こるような干ばつに悩まされることはなく、水が問題となることはありませんでした(逆に、雨が多すぎて洪水が起き、田が流されるという問題が続出していました。)。
他方、南北に長い日本列島では北部と南部の温度差が大きく、本州南部の気温は稲作に適した高温であったのに対し、本州北部の気温は当時では稲作可能なギリギリの温度にしか達しませんでした(北海道に至っては、生産可能温度に達しさえしませんでした)。
そこで、日本国内での稲作の中心は西日本~畿内~関東となりました(そのため、江戸時代までの日本では、東北地方では夏の期間が短くても収穫可能な早稲が植えられ、北海道ではそもそも稲作が行われませんでした。)。
なお、日本国内での古代王朝の成立もこれらの範囲で興り、その後も日本の歴史の中心は西日本であり続けたのです。
寒冷地耕作への挑戦
東北地方での試行錯誤
実際、気温の低い東北地方は、江戸時代までは度重なる冷害に見舞われては凶作に陥るという悲惨な歴史が繰り返されており、冷害克服が東北稲作の最大の課題となっていました。
そのため、東北地方では、古くから地方ごとに水稲品種の選択や、作付・収穫時期の前倒し(早稲)など、様々な方法を駆使して収穫量の安定・拡大を試行されました。
民間レベルでの技術革新
もっとも、江戸時代を通じてこの問題を克服することができず、近年まで東北地方は冷害に起因する凶作に悩まされ続けました。
その後、明治時代に入ると、民間レベルで農産物品評会・共進会・種子交換会などを開催するなどの技術向上に努める動きが起こります。
そして、明治26年(1893年)には山形県の篤農家・阿部亀治が、耐冷性に強く品質も良い「亀ノ尾」の選別に成功し、「神力」、「愛国」と共に三大品種と呼ばれる東北を代表する品種に育ちます。
行政研究機関による進化
その後、国を挙げての耐冷米の開発支援も行われるようになります。
大正10年(1921年)には、農事試験場陸羽支場(現在の秋田県大曲市にある東北農業研究センター水田利用部)において、陸羽20号 と亀の尾4号の交配組合せから耐寒品種である陸羽132号が開発されました。
このとき作られた陸羽132号は、耐病性・耐冷性種として東北における稲作の安定性を向上させ、また東北の米の市場評価を高めることに多大な貢献をします。
水稲農林1号完成(1931年)
亀ノ尾の子孫品種はその後も改良を続けられ、大正14年(1925年)に品種改良の全国ネットが完成した後からは、農林水産省の試験場や指定試験地が育成した農作物に「農林×号」という名が付されていきました。
最初は、昭和6年(1931年)に森多早生と陸羽132号を交配させた孫品種水稲農林1号であり、新潟農試技師であった並河成資(なみかわなりしげ)により育成されました。
この当時の東北・北陸米は、鶏またぎ米と呼ばれるほど品質の悪いものであり、低価格・高品質の台湾米に押されて伸び悩んでいたのですが、並河成資が育成した水稲農林1号は、早生・多収であったにもかかわらず良品質・良食味であったため、たちまち市場を席巻し、昭和16年(1941年)までに北陸・東北を中心に作付面積17万ヘクタールに達する一大ブランドに成長します。
そして、この水稲農林1号は、第二次世界大戦中・敗戦直後の食糧危機の際に多収の早場米として流通したことで、さらにその名声が高まります。
東北地方が日本の米所となる
コシヒカリの誕生(1956年)
また、その後も耐冷米の研究が進められ、「水稲農林×号」の名称もより親しみやすい別名が付けられるようになります。
昭和31年(1956年)、水稲農林1号(父)と水稲農林22号(母)とを交配させて完成した水稲農林100号は、コシヒカリと呼ばれ、粘りの強さ・甘み・豊かな香りという特徴を持ち、現在の日本のうるち米作付面積の約33.7%(2020年度)を占める主要品種に成長しました。
また、昭和38年(1963年)、ササシグレ(父)と奥羽224号(後のハツニシキ・母)とを交配させて完成した水稲農林150号(東北78号)は、ササニシキと呼ばれ、一時はコシヒカリに匹敵する作付面積を誇る人気品種となりました。
現在の日本での米主要生産地
以上の耐冷米の発展の成果は顕著に表れ、戦後間も無くした頃からそれまで米の収穫量の少なかった東北地域の米収穫量が爆増します。
以降もその傾向は顕著なものとなり、令和6年(2024年)時点での日本国内米収穫量ランキングが以下のとおりとなるなど、その主要生産地が寒冷地に集積されるようになっています。
1位:新潟県62万2800トン
2位:北海道56万2400トン
3位:秋田県49万0000トン
4位:宮城県36万6100トン
5位:福島県35万6800トン
6位:山形県35万4500トン
7位:茨城県33万8800トン
8位:千葉県28万7900トン
9位:栃木県28万6200トン
10位:青森県26万4200トン
11位:岩手県25万8900トン
まとめにかえて
以上のとおり、現在では当たり前のように食べている寒冷地米ですが、実は寒冷地生産米が日本を席巻している状況に至るまでには苦難の歴史があり、またこれを克服しようとした技術者の苦労の末にこれを享受していることがわかります。
寒冷地米の発展は当たり前のことではなく、しかもごく最近達成されたものなのです。
だからどうということはないのですが、毎日当たり前のように食べる米の歴史を知るとより一層米が美味しく食べられるのではないかと考え、簡単に紹介させてもらいました。