桓武天皇柏原陵(かんむてんのうかしわばらのみささぎ)は、京都市伏見区桃山町永井久太郎に存在する桓武天皇(在位:天応元年/781年4月3日~延暦25年/806年3月17日)を祀った古墳です。
宮内庁により「柏原陵(かしわばらのみささぎ)」として第50代桓武天皇陵に治定されているのですが、現在の陵墓は様々な考証の結果、明治時代に治定されたものに過ぎず、その正式な場所は必ずしも明らかではありません。
その理由は、かつて伏見山中に仁徳陵よりも大規模であったと記録されているのですが、鎌倉時代・室町時代までに所在不明となり、さらに豊臣秀吉により一帯に伏見城が築城された際に陵も破壊されてしまったためです。
本稿では、桓武天皇陵が現在の場所に定まり祀られるに至った経緯について簡単に説明していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
当初の桓武天皇陵
桓武天皇陵造営
桓武天皇は、生前、自らの陵を平安京北側の宇多野(または平安京南側の深草山)の地に定め、同地への埋葬を希望したと言われているのですが、宇多野で不審な事件が相次ぎ、その原因を卜占によって突き止めようとしたところ賀茂神社の祟りであるとする結果が出たため、宇多野の地に陵を設けることが避けられることとなりました。
そこで、延暦25年(806年)3月17日に桓武天皇が崩御された後、陵候補地の選定が行われ、山城国紀伊郡の地が選ばれて柏原山陵が営まれることとなりました。
そして、同年4月に同地の柏原山陵に葬られた後(日本後記)、同年10月に山城国紀伊郡に東西南北11町(1200m)四方、2つの峰・1つの谷を有する規模の柏原陵が設けられ(延喜式諸陵寮:兆域東八町、西三町、南五町、北六町、加丑寅角二岑一谷)、同地に改葬されたとされています(類聚国史)。
なお、この規模は仁徳天皇陵の東西八町・南北八町よりもはるかに大きなものであり、当時の桓武天皇の力がわかります。
また、時代が経ていくと、天皇陵もまた薄葬思想や仏教の影響により寺院内の小規模仏式のものになっていくのですが、桓武天皇時代の天皇陵はまだまだ神式の大きな古墳が築かれた時代でした。
平安時代の桓武天皇陵
桓武天皇陵は、永世不除の近陵(延喜式)として崇敬を集め、何度も荷前使や告陵使が派遣されました。
保安元年(1120年)には、中御門(藤原)宗忠が、深草の南より東に入り、稲荷山南の伏見山中にあった山稜を訪ねたとされています(中右記)。
盗掘被害に遭う(1274年)
その後、文永11年(1274年)に大規模な盗掘被害に遭ったと記録されています(日野資宣の日記である「仁部記」)。なお、仁部記の文永12年(1275年)2月27日条によると、山陵使の報告書を引用して「柏原山稜掘発せらるること、実検言上す。御在所の嶺東西一丈三尺ばかり、南北一丈六尺余掘発する所なり」と記載されています。
この仁部記には、「山稜に登ること十許丈、壇の廻り八十余丈」と記載されており、これにより当初の墳丘の大きさがわかります。
所在不明後に破壊される
そして、桓武天皇陵は、鎌倉時代から室町時代にかけての動乱期に所在がわからなくなってしまいました。
その後、文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見城を築城するために伏見一帯の大土木工事が行われ、桓武天皇陵は所在不明のまま完全に破壊されてしまいました。
谷口古墳を桓武天皇陵と比定
江戸時代に入り、元禄元年(1688年)から元禄17年(1704年)にかけて深草・伏見間において桓武天皇陵所探索が行われたのですが、治定には至りませんでした。
もっとも、このときの調査により、桓武天皇陵=柏原陵を、ひとまず谷口古墳(現在の京都市伏見区深草鞍ヶ谷町)とすることに決まりました。
そして、文政4年(1821年)、有栖川宮第7代当主・韶仁親王が、桓武天皇の菩提を弔うため、比叡山から僧・尭覺を招聘して谷口古墳の前に「浄蓮華院(深草毘沙門天)」を創建しました。
桓武天皇陵治定(1880年)
もっとも、前記の江戸幕府の決定には合理的根拠がなかったため、桓武天皇陵=柏原陵が谷口古墳であるとする説には多くの異論が出されました。
この混乱する状況を、幕末から明治にかけて活躍した国学者・谷森善臣が嘆き、嘉永7年(1854年)ころから柏原陵の所在調査を開始します。なお、谷森善臣は、山陵の荒廃を嘆いて柏原陵のみならず畿内各地の陵墓を調査しています。
そして、谷森善臣は、調査結果を「柏原山陵考」にまとめ、そこで柏原陵を旧伏見城下の堀久太郎・永井右近の屋敷跡に存する高所であると推定します。
この谷森善臣の調査は、明治政府に引き継がれ、明治13年(1880年)、現在の柏原陵所在地である紀伊郡堀内村字三人屋敷(現在の伏見区桃山町永井久太郎)が柏原陵であると正式に治定されるに至りました。
なお、現在の「永井久太郎」という地名は、屋敷跡の主であった堀久太郎、永井右近の二人の名を合わせたものと言われています。
再建された桓武天皇陵
桓武天皇陵修陵
桓武天皇柏原陵を紀伊郡堀内村字三人屋敷(現在の伏見区桃山町永井久太郎)と治定したことにより、その整備が必要となりました。
そこで、明治13年(1880年)以降に桓武天皇陵の大修理が始まります。
現在の桓武天皇陵の構造

明治期以降に再建された桓武天皇柏原陵は、直径約65m・高さ約7mの円墳(宮内庁上の形式は円丘)の形で整備されました。
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周囲が深い木々で覆われているところ、立ち入りが許されていないため内部の正確な構造は不明ですが、航空写真によると周囲に空堀と玉垣を巡らした方形陵域の中央に円丘が配されていることが確認できます。
なお、明治期以降に修陵された埋葬のない擬陵ですので、江戸幕府により行われた文久の修陵(1861年〜1864年)に関連して作成された文久山陵図に桓武天皇陵の絵図は存在しません。
補足(陵墓参考地)
以上の結果、治定の結果、再建(修陵)に至った桓武天皇柏原陵ですが、資料が乏しい上、伏見城築城や伏見桃山陵造営の各工事により地形が大きく改変されているため、正確な位置の特定は困難です。
そのため、当初の桓武天皇柏原陵が、現在の治定されている位置であったか否かについては様々な議論があります。
そのため、桓武天皇柏原陵は、現在の治定地で確定とは言いきれず、宮内庁においても大亀谷陵墓参考地が治定されるなど、柏原陵の他に桓武天皇陵と推定される地が複数存在しています。