【幕末日米交渉史】突然の出来事ではなかったペリーの黒船来航

1853年に江戸湾に来航したことにより日本の歴史を変えたのが、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官ペリー率いる4隻の黒船艦隊です。

ペリーが圧倒的な軍事力に基づく砲艦外交により江戸幕府に開国を迫り、江戸幕府がこれに屈したことにより江戸幕府が滅亡に向かうと共に、その後の不平等条約締結へ向かっていくこととなった歴史はあまりにも有名です。

黒船来航により一気に歴史が動き始めたため、アメリカ合衆国の艦隊がこの頃に突然日本にやって来たようなイメージを持たれがちなのですが、全くそんなことはありません。

アメリカは、ペリーが来航する15年以上前から何度も日本との「友好的な付き合いを求めて」日本に来航していました。

ところが、日本側がこのアメリカ側の有効的アプローチに対し、無警告砲撃を行うなど、現在の認識からするとおよそあり得ない方法でこれを拒否し続けたことからアメリカ側が態度を硬化させ、ついに強硬手段に出ることとなったという歴史的経緯があります。

本稿では、 ペリー来航以前のアメリカ側のアプローチと、それに対する日本側の対応の経緯について、簡単に説明していきたいと思います。

アメリカ合衆国が太平洋に到達

アメリカが日本にアプローチをしてくる前提として、まずはアメリカがどのようにして成立・発展し、日本を目指していったのかについて知っておく必要がありますので、まずは簡単にアメリカが太平洋を望むに至るまでの経緯から説明していきます。

アメリカ合衆国建国(1783年)

アメリカ独立戦争で当時の13植民地がイギリスに勝利し、1776年7月4日にイギリスから独立し、1783年のパリ条約により正式にアメリカ合衆国が建国されます。なお、独立した13州に加えてミシシッピ川以東と五大湖以南をイギリスから割譲されました。

こうして、独立したアメリカは、北米大陸の東部地域を治める国家として成立しました。

アメリカの西部開拓

その後、1795年には、北西インディアン戦に勝利して北西部を獲得します。

また、1803年には、未開の地であったフランス領すルイジアナを買収して西部への勢力拡大を図っていきます。

その後、1812年にアメリカの西部開拓を阻もうとするイギリスとの間で米英戦争が勃発したのですが、1814年のガン条約により事態を収束させ本格的な西部進出を開始します。

西部を開拓していくアメリカは、一方で西部地域の武力弾圧を行い、また1830年にインディアンを強制的に西部に移住させるなど(インディアン移住法)、先住民から西部地域を召し上げていきました。

他方で1819年にスペイン領フロリダを買収し、1836年にはメキシコ領テキサスでテキサス共和国樹立させてこれを1845年に併合します。

アメリカが西海岸に到達

そして、1846年のオレゴン条約と米墨戦争によるメキシコの割譲を受けたことにより、ついにアメリカの領土が西海岸に達し、太平洋を臨むこととなりました。

アメリカの太平洋進出と対日本アプローチ

アメリカによる東南アジア進出

西海岸に達したアメリカは、そのまま太平洋への進出を開始します。

このときのアメリカの太平洋進出の目的は、産業革命を成功させた他の西ヨーロッパ各国と同様に、国内で生産された工業製品を巨大マーケットである東南アジア(清国・インドなど)に売却することにより貿易利益を獲得することでした。なお、アメリカ大陸が壁となって直接東南アジアに向かうことができない西ヨーロッパ諸国と異なり、アメリカは、西海岸から太平洋を横断することで直接東南アジアに向かうことができる点で優位性がありました(なお、アメリカ西海岸と清国との最短航路は、西海岸→アリューシャン列島→千島列島→津軽海峡→対馬海峡→上海というルートでした)。

また、当時、需要が急拡大していた鯨油を得るための太平洋捕鯨も目的の1つでした。

アメリカが日本に着目

もっとも、この頃の巨大船は蒸気船が中心であり、船を動かすためには大量の石炭と真水が必要となります。

さらに乗組員の食料等も必要です。

アメリカ西海岸から東南アジアという長距離航海をするためには、途中の中継地点の有無がその安全と輸送効率を大きく左右します。このとき、アメリカが着目したのが、アメリカから見て清国の手前に位置する日本でした。

清国に行くにしても、その先のインドに向かうにしても日本近海を通行していくこととなるため、アメリカから見ると、日本は立地的にはアジアへの玄関口だったのです。

そこで、アメリカは、1835年、日本及び清と条約締結を結ぶ目的で特使を派遣することを決め、その前提となる東インド艦隊を設立しています(米墨戦争での勝利により、それまで主力艦隊とされていたメキシコ湾艦隊の必要性が低下したことも理由の1つとなっています。)。

モリソン号事件(1837年)

もっとも、アメリカとしても日本が鎖国政策をとっていてオランダ・清国・朝鮮・琉球・アイヌ以外との交易を拒んでいることは知っています。

そこで、アメリカとしては、日本に対して手土産を持参してご機嫌をうかがい、それを突破口として交渉を開始しようと考えます。

なお、アメリカがこの頃から日本を脅そうとしていたと考える方が多いのですが、貿易の利を求めるアメリカがこの時点で日本を脅す必要は全くなく、友好・親善目的の交渉でした。

そして、このときアメリカが準備した手土産が、遭難してマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉・庄蔵・寿三郎ら7人でした。

アメリカは、天保8年(1837年)、これらの日本人漂流民をアメリカ合衆国オリファント商会の商船「モリソン号」に乗せて日本に送り届け、そのまま交易交渉を始めようとして、鹿児島湾を経て浦賀に向かっていきました。

ところが、日本側は、このアメリカ商船をイギリス軍艦と勘違いし、異国船打払令に基づいて、鹿児島湾では薩摩藩が、江戸湾では小田原藩と川越藩がこれを砲撃します(なお、日本側はフェートン号事件でイギリス軍艦に痛い目に遭わされていますので、イギリス船に対する嫌悪感は相当なものでした。)。

他方、日本人漂流民を送り届けた上で友好的な提案をしようとしていたアメリカ側は、ファーストコンタクトから無警告砲撃をして来るという日本側の非常識な行動に驚きます。

江戸幕府の無策

他方、日本側では、翌天保9年(1838年)、長崎に来たオランダ人からモリソン号が日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航していたことを知らされ、事実確認もせずに一方的に砲撃をさせる根拠となった異国船打払令(外国船打払令)と江戸幕府の方針に対する批判が強まっていきました。

そればかりか、江戸幕府という日本国軍が一斉砲撃を加えたにも関わらず、アメリカの民間商船1隻を沈めることすらできなかったという防衛力の低さに対し、蘭学者を中心として危惧感を持つものが現れ始めます。

200年以上前の技術水準しか持たず、鋼鉄の精錬もできない国が西欧列強と対峙できるはずがありません。

この危惧に対し、伊豆国韮山代官の江川英龍によって、韮山反射炉を製造したり、品川台場を建築したり、高山秋帆を西洋式砲術師範ち採用したりするなどの動きも見られました。

もっとも、江戸幕府は、基本的には、その他の抜本的な防衛力の見直しをすることもせずいたずらに時間だけが過ぎていきました。

アメリカの清国進出(1844年)

アヘン戦争でイギリスに敗れた清国は、西洋列強各国による利権簒奪対象となります。

この清国内の利権争奪戦には、設立したばかりの東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルを派遣することによりアメリカも参戦し、1844年7月3日にマカオ郊外の望厦村において不平等修好通商条約(望厦条約)が結ばれ、アメリカが清国市場に本格進出していくこととなりました。

他方、江戸幕府は、アヘン戦争での清国敗北の報を聞いて西洋列強の強さを知り、一方的な異国船打払令を廃止し、遭難船を救済する薪水給与令を定めはしたものの、抜本的な国防策を検討するには至りませんでした。

ジェームズ・ビドルの日本寄港(1846年)

また、弘化3年(1846年)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドル代将が戦列艦コロンバスを率いて浦賀に来航したのですが、日本に交渉を拒否されました。

このときは、交渉自体は拒否されたものの、アメリカ人として初めての日本寄港成功となりました。

ジェームス・グリンの対日交渉(1849年)

前記のとおり清国との貿易ルートを確保したアメリカは、さらに産業革命の結果として需要が急増した潤滑油やランプ灯火の原料となるマッコウクジラの鯨油獲得のために1年以上の航海を行う捕鯨船の寄港地として日本の地理的有用性を諦められませんでした(アメリカの開港希望地は、松前でした)。

そこで、東インド艦隊司令官であるデビッド・ガイシンガーは、ジェームス・グリンに長崎に向かうよう命じます。

長崎に向かったジェームス・グリンに対し、日本側は長崎への入港を防ごうと試みましたが果たせず、1849年4月17日、ジェームス・グリンが長崎入港に成功します。

長崎に入ったジェームス・グリンは、遭難して日本に保護されていたアメリカ捕鯨船乗組員の受け取りに成功し、初めて日本側との交渉を成功したアメリカ人となりました。

そして、日本との交渉を成功させたジェームス・グリンは、帰国後にアメリカ政府に対し、日本を外交交渉によって開国させるためには、必要であれば「強さ」を見せるべきとの建議を提出し、この建議が後のマシュー・ペリーによる日本開国への端緒となります。

ペリーの日本来航

ペリーが対日交渉責任者となる(1852年2月)

前記ジェームス・グリン建議を基に、アメリカ合衆国第13代大統領・フィルモアは、1851年6月8日、アメリカの強大な軍事力を見せつけることを手段として日本との開国交渉を行わせるため、東インド艦隊司令官の代将ジョン・オーリックに東インド艦隊の旗艦となる蒸気フリゲート艦「サスケハナ」に乗り込ませて日本に向かわせます。

ところが、その後、ジョン・オーリックがサスケハナの艦長とトラブルを起こして解任されたため、1852年2月、マシュー・カルブレース・ペリーが代わって同任務を遂行することとなりました。

なお、ペリーは、1851年1月に海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに対して日本遠征の独自の基本計画(日本との交渉に際しては最低4隻の軍艦を伴って目に見える恐怖を認識させて行うべき、オランダの妨害を避けるために交渉地は長崎を避けるべきなど)を提出するなど、威圧外交を是とする見解を持つ人物でした。

オランダ人からの警告を無視(1852年6月)

以上のとおり、アメリカにおいてペリーが日本に向かうことが決まったところ、嘉永5年(1852年)6月5日、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスが長崎奉行に提出した「別段風説書」により、アメリカが、日本との条約締結を求めて陸戦用の兵士と兵器を搭載した計9隻の艦隊(中国周辺の軍艦5隻及びアメリカから新たに派遣される4隻の合計)を派遣しようとしていることが報告されました。なお、この報告は、ペリーが司令官となっていること、出航予定の船名まで明らかにされていること、出航が同年4月以降であることなど、相当程度に具体的に記載された信用性の高いものとなっていました。

もっとも、江戸幕府側は、オランダ人は信用できないとして、当該報告が事実ではないと決めつけて、これに対する備えがなされることはほとんどなく、そればかりか当該情報自体が奉行レベルに留められ、来航が予想されるとされた浦賀の与力などには伝えられることさえなされませんでした

ペリー出航(1852年11月24日)

1852年11月13日に海軍長官ケネディから広範な自由裁量権を与えられると共に訓令を受けたペリーは、アメリカ政府に対し、東インド艦隊所属の「サスケハナ」「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」の他、アメリカ本国艦隊の蒸気艦4隻、帆走戦列艦1隻、帆走スループ2隻、帆走補給艦3隻からなる合計13隻の大艦隊の編成を要求します。

もっとも、使用可能艦の調整・予算の都合から、蒸気船「サスケハナ(フリゲート艦・2450t・300人)」・「ミシシッピー(フリゲート艦・1692t・268人)」・「サラトガ(スループ艦・882t・210人)」と、帆船「プリマス(スループ艦・989t・210人)」の4隻が割り当てられることとなりました。

そして、ペリーは、1852年11月24日、蒸気フリゲート艦「ミシシッピー」に乗船し、単艦でノーフォークを出港して太平洋を西に向かって進んでいきました。

ペリーが乗船してアメリカを出たミシシッピー号は、マデイラ島(1852年12月11日)→セントヘレナ島(1853年1月10日)→ケープタウン(同年1月24日)→モーリシャス(同年2月18日)→セイロン(同年3月10日)→シンガポール(同年3月25日 )を各港で補給をしつつ進み、同年4月7日に香港でプリマス号・サプライ号と合流します。

また、1853年5月4日には上海に寄港してサスケハナ号と合流し、旗艦を同号に移して4隻のペリー艦隊が完成します。

そして、ペリー艦隊は、同年5月17日に上海を出港し、同年5月26日に那覇沖に停泊して琉球王国に対して首里城訪問を打診します(なお、ペリーはアメリカ出向前にフィルモア大統領から琉球占領の了承を得ていたところ、この時点では大統領がピアースに代わっており武力行使が禁止されていたのですが、航海中のペリーはその事実を知りませんでした)。

その後、陸戦隊に守られて琉球に上陸したペリーは、首里城に入ったのですが、その際に琉球王国からもてなしを受けたために琉球の武力制圧を見送り、以降、日本へ向かう際の中継基地とするにとどめました。

ペリーの小笠原諸島探検(1853年6月9日)

その後、ペリーは、艦隊の一部を那覇に駐屯させたまま、自らは1853年6月9日に那覇を出航し、同年6月14日から5日間かけて、当時はまだ領有権がうやむやであった小笠原諸島を探検し、小笠原諸島の領有権を宣言します。

もっとも、このペリーによる小笠原諸島領有宣言に対しては、イギリスから即時抗議があり、またロシアも抗議のために艦船を小笠原近海へ南下させたため、ペリーの領有宣言はうやむやになっています(なお、小笠原諸島については、この後に日本が林子平著の「三国通覧図説」の記述を根拠として領有を主張した上で、水野忠徳を派遣して八丈島住民などを積極的に移住させることで領有権を勝ち得ています。)。

ペリー艦隊が浦賀沖に現れる

小笠原諸島の領有権主張に失敗したペリーは、1853年6月23日に琉球に帰還した後、同年7月2日に琉球を出港して同年7月8日(嘉永6年6月3日)17時に浦賀沖に現れ停泊したというのが、黒船来航の経緯です。

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