【江戸時代後期のロシアの日本接近】

ペリー来航により外圧によって強制的に終了させられた江戸幕府の鎖国体制ですが、その前兆となる事件は相当前から起こっていました。

長崎・対馬・薩摩・松前という4つの対外窓口において、オランダ・中国・朝鮮・琉球・アイヌに限って対外貿易を認めていた江戸幕府に対し、18世紀後半頃からシベリア開発を本格化させたロシア帝国が貿易を求めてきていたのです。

そして、実際に18世紀後半頃から蝦夷地にロシア船が頻繁に現れるようになり、紳士的対応で国交を求めてきたため、江戸幕府としてはその対応が迫られる事態に発展していきます(これに対し、江戸幕府が無礼を働いたために大問題に発展しています。)。

本稿では、日本開国に先立つロシアの日本接近について、そこに至る経緯、それに対する江戸幕府の対応などについて順に説明していきたいと思います。

蝦夷地へのロシア接近

江戸時代日本の海禁政策(1639年〜)

寛永16年(1639年)にポルトガル人船の来航を禁じて鎖国体制を作り上げた江戸幕府は、外国との貿易について、長崎出島・対馬・薩摩・松前の4つの対外窓口に限定することとし、長崎ではオランダ・中国、対馬では朝鮮、薩摩では琉球、松前ではアイヌのみと交易を認めました(なお、江戸幕府は、この四つの口のうち長崎のみを直接管理することとし、その他の松前口は松前藩に、対馬口は対馬藩に、薩摩口は薩摩藩に管理させていました。)。

そのため、江戸幕府では、ヨーロッパ諸国のうちでは商業的な貿易のみを目的とすることを約束したネーデルラント連邦共和国(後のオランダ)のみとし、前記交易対象国となっていないロシアとの交易は、公式なもののみならず、民間レベルのものであってもこれを認めてはいませんでした。

18世紀後半のロシア帝国の領土拡大

1762年にロシア皇帝・ピョートル3世をクーデターにより廃位して即位したその妻であるエカチェリーナ2世は、農奴制を強化するなどして貴族の全盛時代をもたらす施策を行い、ロシア帝国の強化に務めます。

そして、得られた富を基に軍事力を強化し、エカチェリーナ2世治世のロシア帝国は、西方でのポーランド分割の参加・オスマン帝国からクリミア半島を獲得するなどその領土を大きく拡大させていきました。

また、東方のシベリアの地理的探検も積極的に進め、北極海沿岸の姿や北東航路の通行可能性をも明らかにしていきました。

ロシアの意向

毛皮を確保してこれを交易で売却して利益を得るためにシベリアの開発を始めたロシアは、毛皮を中国に運ぶまでの中継基地として、またシベリアへの食糧供給場所としての日本の有用性を高く評価しました(鉄道のない時代に陸路でシベリアに食料を運ぶのは大変な作業だったからです)。

この時点で、日本(江戸幕府)が貿易相手国として認めていたのがオランダだけであったため、ロシアもまたそこに加わろうと考えました。

なお、この時点でのロシア帝国側に日本侵攻の意図はなく、単なる貿易相手としての立場を求めただけでした。

ラクスマン来航(1792年10月)

そんな中、1789年、ロシア陸軍中尉アダム・ラクスマンが、シベリアのイルクーツクに滞在中に大黒屋光太夫ら伊勢国出身の漂流者6名と出会います。

ラクスマンは、ペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世と謁見し、大黒屋光太夫ら3名を日本に送還する許可を得ると共に、イルクーツク総督イワン・ピールの通商要望の信書を渡されてロシア最初の遣日使節に任命されました。

そこで、ラクスマンは、1792年9月24日、木造帆船エカテリーナ2世号に乗船してオホーツクを出発し、同年10月20日に根室に到着します。

ラクスマンは、根室に駐留する松前藩士と面談し、江戸に出向いて江戸幕府に漂流民を引き渡した上で、通商交渉を行いたい旨を伝えます。

この話を聞いた松前藩は、直ちに江戸幕府にこの旨を報告したのですが、江戸幕府の老中・松平定信らは、漂流民は受け取るものの、総督ピールの信書は受理しないとし、ロシア側がどうしても通商を望むならば長崎に廻航するよう伝えるため、宣諭使として目付の石川忠房・村上大学を蝦夷地に派遣しました。

寛文12年(1793年)3月に松前に到着した石川忠房らは同地にラクスマン一行を呼び寄せ、同年6月20日に面会を行います。

この面会時に、ラクスマンは、ロシア帝国と日本との通商を要求したのですが、石川忠房は、問題を先送りにするためだけの目的で、日本の貿易窓口は長崎に限られており同地以外では国書を受理できないとの理由でシベリア総督の信書の受取りを拒否し、ラクスマンに長崎への入港許可証(信牌)を交付して蝦夷地から退去して長崎に向かうよう伝えました(なお、このとき大黒屋光太夫と磯吉の2人の漂流民の引き取りは受けています。1名は途中で病死。)。

通商交渉を行うことができなかったラクスマンは、同年6月30日に松前を出て箱館に戻った後、同年7月16日には箱館を出港したのですが、エカチェリーナ2世号が木造帆船であったこともあり、そのまま長崎へ向かうことはせず、長崎への入港許可証を携えてロシア帝国・オホーツクに戻っています。

イギリス船の蝦夷地停泊事件(1796年8月)

また、寛政8年(1796年)8月、イギリス船プロヴィデンス号が蝦夷地内浦湾内に停泊する事件が起こりました。

江戸幕府は、突然のイギリス船来航に驚き、急ぎ見分役を松前に派遣して事実関係の調査を行いました。

江戸幕府の調査では、プロヴィデンス号の停泊が漂流であり、何らかの意図的があるものではなかったことが判明したのですが、他方でイギリス船が蝦夷地周辺海域の測量を行っていたことも知ることとなり、その対応が求められることとなりました。

なお、余談ですが、日本近海には相当前から外国船が行き来をしていたのですが、事なかれ主義江戸幕府はこれを見て見ぬふりをすることにより何らの対応も取らずに問題を先送りし続け、大問題に発展してから大騒ぎを始めています。

このことは、現在の日本政府も、少子化などの現在の社会問題に対してほぼ同じ対応をとっており、日本人の性格なのかもしれません。

江戸幕府による蝦夷地防衛策

江戸幕府による蝦夷地調査(1798年)

以上のように、日本近海に頻繁に外国船が現れることとなり、日本国内でもこれに対する対応が検討されるようになります。

そんな中、寛政9年(1797年)9月に、江戸幕府の旗本であった近藤重蔵が、親交のあった大学頭の林述斎を通じて、江戸湾の脆弱性とそこを害された場合の被害の大きさを訴え、江戸幕府に海防強化を建言します。

加えて、近藤重蔵は、蝦夷地もまた無防備であり、外国(この時点ではロシアとイギリスを想定)支配の危険が及んでいるとも指摘し、蝦夷地の幕府直轄化(上知)を提案すると共に、その前提としての北方調査の必要性を説きました。

この提言を受けた江戸幕府は、江戸湾の防衛策を検討すると共に蝦夷地の調査を行うことを決め、蝦夷地については寛政10年(1798年)に近藤重蔵を松前蝦夷地御用取扱に任命します。

そして、江戸幕府は、寛政10年(1798年)4月、目付の渡辺胤(目付)・大河内政壽(使番頭)・三橋成方(勘定吟味役)を責任者とする180名編成の調査隊を編成し、蝦夷地の大規模調査を始めました。

蝦夷地に入った江戸幕府役人は、渡辺胤が松前藩の、大河内政壽が東蝦夷地の、三橋成方が西蝦夷地の調査を開始し、近藤重蔵もまた大河内隊の別動隊として東蝦夷地の調査に従事しました(なお、近藤重蔵は、その後に最上徳内と合流し、国後島と択捉島の調査も行っています。)。

樺太の調査(1799年)

また、江戸幕府は、間宮林蔵を樺太に派遣して調査を進め、蝦夷地のうちの樺太への進出も始めます。

当然ですが、樺太の幕領化の前提としても、まず行われることとなったのが樺太の調査でした。

江戸幕府は、寛政11年(1799年)に蝦夷地に渡って以降、新道開発・植林・測量などに従事していた間宮林蔵を樺太に派遣し、同地の調査を開始させます。

なお、間宮林蔵は、樺太(サハリン島) がユーラシア大陸(北満洲・沿海地方、ハバロフスク地方)と海で隔たれた島であったことを確認したことにより、その間にある海峡が「間宮海峡」と名付けられ、世界地図に名を残すただ一人の日本人となっています。

また、この時点で現在の北海道と北方四島が日本領であることは確定していたのですが、得撫島と樺太については日本とロシアの国境があいまいなままでありその確定は1875年の千島樺太交換条約によることとなります。

蝦夷地測量と地図作成(1800年)

前記調査の結果、蝦夷地の状況が明らかとなっていったのですが、さらなる詳細情報を得るため、江戸幕府は蝦夷地の詳細地図の作成を検討します。

そして、江戸幕府は、寛政12年(1800年)閏4月14日、伊能忠敬に蝦夷地の測量と地図作成を命じます(もっとも、江戸幕府は、元百姓・浪人であった伊能忠敬を信用しておらず、結果に期待もしていませんでした。)。

伊能忠敬は、同年5月29日から本格的な蝦夷地測量を開始し、180日(うち117日間蝦夷地滞在)を要して第一次測量を終了させ、同年11月上旬から当該測量データを利用して地図の作成に取り掛かりました。

そして約20日間をかけて地図を完成させた伊能忠敬は、同年12月21日、完成地図を下勘定所に提出しています。

江戸幕府による東蝦夷地上知

前記一連の蝦夷地の調査により、江戸幕府は、蝦夷地に迫るロシア帝国の脅威と、アイヌ人の松前藩に対する悪感情の高まりを知り、蝦夷地経営とロシア対策を松前藩一藩に任せておくことはできないと判断します(アイヌ人がロシア側に加担すれば、蝦夷地全域がロシアに奪われてしまうと判断しました)。

そこで、江戸幕府は、蝦夷地全域を上知してこれを幕府領とすることにより、江戸幕府を挙げてロシアに対応することを決定します。

そして、江戸幕府は、①1799年から1806年までの間に、ロシア船が接近しうる東蝦夷地(日高国浦河郡以東、太平洋側から知床半島・国後島に至る地域)の上知を行いました。

その上で、江戸幕府は、択捉島・国後島に津軽藩及び南部藩藩士500名ずつを派遣させ、防衛警備にあたらせました。

アイヌ民族に対する和風化政策

さらに、江戸幕府は、蝦夷地をロシアに奪われないようにするため、蝦夷地及びその周辺に住むアイヌ人を日本側に取り込むための施策を講じます。

具体的には、蝦夷地を調査していた近藤重蔵が、寛政12年(1800年)4月、国後島のトマリにおいてアイヌの乙名たちに酒やタバコを振舞うなどし、また同年閏4月には択捉島に渡って振別郡オイト(老門)に会所を開き、さらに同年6月には恵登呂府全島の人別帳を作成するなどしてアイヌ民族の和風化政策を進めるなどします。

また、同年7月には再び択捉島に渡って日本の風俗を広める活動に従事し、択捉島北端のカモイワッカ岬に大日本恵登呂府と彫られた標柱を建てて同地が日本領であることを対外的に明示しています。

さらに、近藤重蔵は、得撫島に渡って踏査しています。

文化露寇

レザノフの長崎来航(1804年)

以上のように、現在の北海道全域・北方領土を支配下に治めた上で樺太にまで進出していた日本(江戸幕府)に対し、南進政策を進めるロシアが直接アプローチしてくるという事件が長崎で起こります。

ロシア帝国外交官であったレザノフが、文化元年(1804年)9月、戦艦ナデジュタ号に乗船し、ラクスマンが持ち帰った信牌(長崎への通行許可証)を携え、ロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を持つ正式な遣日使節として(さらに、日本に返還するための日本人漂流民の津太夫一行を連れて)長崎・出島に来航したのです。

長崎に入ったレザノフは、正式な遣日使節代表として日本に対して通商を要求します。

レザノフの要求に対し、長崎奉行は、戦艦ナデジュタ号の武装解除と信牌の返却を求めた上で(レザノフはこれを了承)、江戸に使者を派遣してレザノフの要求を伝えてそれに対する江戸幕府の回答を長崎まで使者を通じて受け取るということを繰り返し、いたずらに長い時をかけていきます。

約半年前間もの長きに亘って長崎と江戸とで使者を通じてやり取りしていたのですが、江戸幕府は、最終的には貿易による利益を捨てて、「鎖国は先祖以来の祖法である」という何らの根拠のない事なかれ主義的理由によりレザノフの通商要求(ロシアとの国交)を拒絶してしまいました。

出島において半年間にも及ぶ軟禁状態を強いられた上、最終的に要求を拒絶されたレザノフは、日本の対応があまりにも失礼であるとして烈火のごとく怒ります。

文化の薪水給与令(1806年)

レザノフの怒りの一方で、江戸幕府は、頻繁に接近してくる外国船との関係につき、それまでの体制を維持しつつ、なるべく波風を立てようにしないための対応として、文化3年(1806年)、交易はしない代わりに、燃料・水・食糧などの外国船の航海に必要な物資だけを売ることを認めるという方針を取ることとしたのです(文化の薪水給与令)。

樺太の松前藩居留地攻撃(1806年9月)

以上のとおり問題を先送りするという事なかれ主義的政策をとった江戸幕府でしたが、成果が得られないまま長崎・出島から出航することとなったレザノフの怒りは収まりませんでした。

怒りに燃えるレザノフは、部下であったニコライ・フヴォストフに対し、報復として、当時日本領と考えられていた樺太・択捉島・礼文島・利尻島などへの攻撃を命じます。

レザノフの命を受けたニコライ・フヴォストフは、まずは文化3年(1806年)9月11日、短艇に20人のロシア兵を乗せて樺太・久春古丹に上陸させ、銃で威嚇して1名のアイヌ人青年を拉致します(露寇事件の始まり)。

その上で、同年9月13日、再び30人の兵を再上陸させ、運上屋の番人4名を捕えると共に米六百俵と雑貨を略奪した上で11軒の家屋・魚網・船などに火を放ち、前日拉致した青年を解放して帰船させます。

また、その後、ニコライ・フヴォストフらは、同年9月17日、目的を達成して樺太を後にします。

なお、ロシア兵の放火によって船を失った松前藩守備隊では、樺太から海を渡る手段が失われていたために、松前藩や江戸幕府に被害報告ができず、翌文化4年(1807年)4月になってようやく被害報告をするに至っています。

択捉島の幕府会所攻撃(1807年4月)

翌文化4年(1807年)4月23日、ロシア船2隻が再び択捉島の西側の内保湾に入港し、択捉島に駐留していた幕府軍を攻撃する事件が起こります。

択捉島攻撃の報を聞いた箱館奉行配下の役人・関谷茂八郎は、急ぎ幕府会所に詰めていた弘前藩・盛岡藩兵を率いて内保に向かったのですが、その途中で兵を率いて内保まで海路で向かうがその途中、内保の盛岡藩の番屋が襲撃され、中川五郎治ら番人5名が捕えられた上、米・塩・什器・衣服を略奪して火を放ち、既に出帆したとの報を受け取ります。

そこで、関谷茂八郎は、内保行きを取りやめて紗那に戻り、紗那の防備を固めることとします。

これに対し、同年4月29日、内保を荒らしたロシア船が紗那に向けて進んできました。

このロシア船の動きに対し、弘前藩や盛岡藩兵の兵は即時交戦を主張したのですが、幕吏達はまずは対話の機会を探るとして箱館奉行配下の通訳・川口陽介に白旗を振らせて短艇で上陸しようとするロシア兵を迎え入れようとします。

もっとも、ロシア兵はこのような日本側の行動を無視して根室に上陸した後、即座に日本側に銃撃をしかけたため、通訳の川口陽介の股部を銃撃されて負傷します。

このロシア側の動きを見て幕吏側も対話は困難を認め、弘前藩兵・盛岡藩兵に応戦を命じるも、初動の遅れから日本側は苦戦します。

その後、同日夕方になって上陸していたロシア兵が船に戻ると、今度はロシア船から紗那の幕府会所に対する艦砲射撃が始まります。

艦砲射撃を受けて戦意を失った幕府方は、戸田又太夫・谷茂八郎の判断により紗那を捨てて留別に撤退することに決まります。なお、このとき幕吏の間宮林蔵や久保田見達は徹底抗戦を主張したのですが退けられています。

留別へ向けて撤退していた幕吏でしたが、途中の野営陣地で戸田又太夫が自害し、残った一行は振別に到着後に幾人かを箱館に送還した上、弘前藩兵・南部藩兵を振別に駐屯させて、留別に向かいました。

他方、幕府会所に詰めていた弘前藩・盛岡藩兵らが撤退したことを見たロシア側は、同年5月1日に再び上陸し、日本側が去った紗那の幕府会所に入って倉庫を破り、米・酒・雑貨・武器・金屏風その他の物を略奪した後で火を放ち幕府会所を焼き尽くしてしまします。

そして、翌同年5月2日、再び上陸したロシア兵は、負傷して動けなくなっていた南部藩砲術師・大村治五平を捕虜にして、同年5月3日にロシア船を出帆させて紗那を後にしています。

蝦夷地全域を幕府直轄領(1807年)

以上の2度に亘るロシアの攻撃は、元寇以来500年ぶりの外国からの攻撃であり、平和に慣れ切っていた江戸幕府は大きな衝撃を受けます。

焦った江戸幕府は、急ぎ北方対外防衛策をとることを強いられます。

そこで、江戸幕府は、文化4年(1807年)、すでに幕領化していた東蝦夷地に加え、西蝦夷地(北海道日本海岸とオホーツク海岸および樺太)までも幕領化し、蝦夷地全域を直轄化して防衛を図ることとします。

その上で、直轄化した蝦夷地全域を統括する機関として箱館奉行(蝦夷地一部の統治)を松前に移転させた上で松前奉行(蝦夷地全域の統治)に名を改めて、その下に東北諸般から集めた3000名の武士を配属させて北方防衛に当たらせます。

ロシア船打払令(1807年)

2度のロシア船による攻撃を受けたことにより、文化の薪水給与令は撤回され、代わりに文化4年(1807年)にロシア船を厳しく打払う「ロシア船打払令」が出され、ロシア船に対する厳しい対応が取られることとなりました。

露寇事件終結(1808年)

他方、蝦夷地近辺を荒らしまわっていたニコライ・フヴォストフ率いるロシア船でしたが、その攻撃はあくまでもメンツをつぶされたレザノフの命による私的報復に過ぎず、ロシア皇帝の許可を得ての作戦行動ではありませんでした。

そのため、後にニコライ・フヴォストフ率いるロシア船が蝦夷地近海を荒らしまわっていると聞かされたロシア皇帝は、日本との関係悪化を恐れて、ニコライ・フヴォストフに帰還命令を出します。

そのため、命令を受けたニコライ・フヴォストフ率いるロシア船が蝦夷地近海から撤退したことにより、露寇事件は集結します。

江戸幕府対外姿勢の硬化

フェートン号事件(1808年8月)

露寇事件により日露間の緊張が一気に高まったのですが、江戸幕府の緊張をさらに増加させる事件が起こります。

文化5年(1808年)8月、鎖国体制下の長崎港にイギリス軍艦が侵入し、江戸幕府の遠国奉行(地方機関)である長崎奉行から薪・水・食料を脅し取った事件(フェートン号事件)が勃発するなどしたのです。

フェートン号事件により、日本の対外姿勢は一気に硬化し、江戸幕府は文化の薪水給与令を廃止し、外国船に対する便宜を取りやめるに至りました。

なお、フェートン号事件により、身をもって諸外国との科学技術力の差を見せつけられた佐賀藩では、ここから大きく舵を切り、近代化を目指して富国強兵化政策を進めていきます。

鍋島直正(閑叟)が第10代藩主に就任すると、大がかりなリストラを行って役人を4割程度にまで削減して経費を節減し、また交易・産業育成・農業改革などに尽力し藩財政を潤わせていきます。

そして、これらにより捻出した資金を基に、科学技術の研究機関(精錬方)を創設し、鉄鋼・大砲・蒸気機関・電信・ガラスなどの研究・開発・生産を行って西洋技術の摂取に努めます。

その後も佐賀藩は、一貫して産業革命を推し進め、日本有数の軍事力と技術力を獲得し、明治維新の立役者となっていくこととなりました。

樺太への進出(1809年)

ロシアの脅威を痛感した江戸幕府は、蝦夷地近辺のさらなる調査と防衛力強化を図ることとし、文化6年(1809年)に樺太を西蝦夷地から分立させて北蝦夷地と改称し、警備を目的として同地に東北諸藩からの出兵を命じます。

ゴローニン事件(1811年)

以上の状況を経て、日本とロシアとの関係が緊張状態となっていたのですが、文化8年(1811年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンらが国後島に上陸し、松前奉行配下の役人に捕縛されるという事件が起こります。

ロシア帝国側は、文化9年(1812年)8月、ディアナ号を国後島に派遣してゴローニンの身柄解放交渉を始めたのですが決裂し、附近を航行していた歓世丸を襲撃して高田屋嘉兵衛やアイヌ船員ら数名を拉致し、カムチャッカ半島に強制連行した上で文化10年(1813年)年6月まで彼らを抑留します。

もっとも、何が幸いするかはわからないのもので、ペトロパブロフスクに連行された高田屋嘉兵衛たちと、彼らを拿捕したディアナ号副艦長のピョートル・リコルドとが仲良くなり、両国関係改善に尽力していきます。

そして、同年9月26日になり、約2年3ヶ月の抑留期間を経てゴローニンが解放され、ようやく事件解決に至りました(ゴローニン事件)。

その後の蝦夷地

ゴローニン事件解決に至る平和的交渉などにより、日ロ関係に改善が見られます。

この結果、江戸幕府は、ロシアの脅威が薄れたと判断し、文政4年(1821年)12月7日、財政負担軽減のために蝦夷地全域直轄化政策を転換し、蝦夷地の大半を松前藩へと返却します(なお、その後の安政2年/1855年に再び諸外国との緊張が高まったとして再度の蝦夷地直轄化が実施されています。)。

異国船打払令(1825年)

ロシアとの関係に改善の兆しが見られたものの、その後も日本近海にイギリス船やアメリカ船が頻繁に出没していきました。

そこで、江戸幕府は、文政8年(1825年)、異国船打払令を出し、ロシア以外の異国船も打ち払い対象とするに至りました。

異国船打払の限界

もっとも、天保8年(1837年)7月30日、鹿児島湾、浦賀沖に現れたアメリカのオリファント商会の商船・モリソン号に対し、これをイギリス軍艦と勘違いした薩摩藩と浦賀奉行太田資統が異国船打払令に基づいて小田原藩と川越藩に砲撃を加えさせるという事件が起こります(モリソン号事件)。

このモリソン号は、マカオで保護されていた日本人漂流民7人を送り届けると共に、アメリカによる通商・布教目的の平和的目的の船であったことが判明し、異国船打払令に対する批判が強まっていきました。

さらに、超大国と考えられていた清国がイギリスと戦って敗北したことによりアヘン戦争で惨敗した報が入ったことより西洋の軍事力の強大さを認識し、異国船打払を続ければ今度は日本が攻められるのではないかと考えさせられます。

そこで、江戸幕府は、天保13年(1842年)、異国船打払令を廃止し、遭難した船に限って補給を認めるという天保の薪水給与令を出し、文化の薪水給与令の水準に戻します。

雄藩による藩政改革

この外国の脅威に対し、江戸幕府は幕政改革を行ったのですが、その改革は失敗に終わります。

他方、外国の脅威は天領だけに及んだわけではありませんので、諸藩もまた独自の軍備増強策とその前提となる藩政改革を始めます。

この藩政改革のうち、薩摩藩(調所広郷の財政改革など)・長州藩(村田清風改革など)・肥前藩(鍋島直正の反射炉成功など)などの改革は大成功し、成功した雄藩と失敗した江戸幕府との力の差が次第に縮まっていきました。

蝦夷地の再上知(1855年2月)

この後も外国船がさらに頻繁に日本近海に訪れるようになり、賛否両論ありながらも日本開国に向かって進んで行くに至ります。

そして、日露和親条約による箱館開港後の安政2年(1855年)2月、再び蝦夷地が上知により幕府領となって蝦夷島のほぼ全域が箱館奉行の管轄下に入り(第2次幕領期)、幕末の動乱に向かって進んで行きました。

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