同じ意味と考えられることが多い「百姓」と「農民」という言葉ですが、歴史的な意味では完全に同義ではありません。
意味合い的に重なる点があることから混同しがちであり、歴史的に見ても江戸時代中期ごろから混同して利用されてきたのですが、実際には異なる概念です。
本稿では、本来的には異なる意味である「百姓」と「農民」の違いについて簡単に説明したいと思います。
【目次(タップ可)】
百姓と農民の概念
第1次産業を支える村という共同体
当たり前の話ですが、人間は食べ物を食べないと生きていけませんので、人類は食べ物を求めて生活を送ってきました。
時代が進み、縄文時代に日本に稲作が入ってくると、その生産性の高さから全国的に広がりました。
もっとも、国土の狭い日本では、行われる農業はそのほとんどが小家族による狭い田畑をもとにした小経営でした。
小経営農業では、1人1人が狭い範囲での農業を行うこととなるのですが、そうはいっても田植えや稲刈りなどの短期間で多くの労働力を要する農作業に際しては、お互いに労働力を提供しあう必要がありました(この慣習を結といいます。)。
そこで、農業を生業とする者たちは、複数の家屋敷から構成される集落を中心とし、その上で、田畑や野・山・浜を含む広い領域を持った小社会・共同体を形成していきました(これらの集落を「村」と呼びました)。
百姓という呼び名について
こうして形成された村ですが、当然ですが、農民だけで村を維持することはできません。
人間は、農作物を作って食べるだけで生きていくことはできないからです。
そのため、生産活動に入るための住居・衣服が必要なことはもちろん、農作物を効率的に生産するための農具を製造や、農作物の他の食物を得ること、余った農作物を販売することなども必要です。
そこで、村では、当然ながら土地を耕して米や野菜を耕作する者のみならず、山に入って林業を行う者、海や川で漁業を行う者、鉱物の採取・精錬を行う者・村内外の者を相手に商売をする者など各種職業を生業とする者が生活をしていました。
このように様々な仕事をするために村で生活する者は、全て百姓と呼ばれていました。
すなわち、百姓とは、農民のみを指す言葉ではなく、村に居住して林業・漁業などに従事する者も含めた身分概念だったのです。
百姓という言葉が1つの職業(農業)を表すものでないことは、その文字に百(たくさん)の姓(苗字=仕事)という字が当てられていることからも明らかです。
兵農未分離時代
時代が進んで平安中期頃になると、平安時代に都から支配力を及ぼす貴族に対して地方の有力農民が力をつけて自衛のために武装するようになり武士が誕生します。
この発生の経緯からわかるように、武士(上級武士を除く)と農民との区別はあいまいなものでした。
実際、中世までの日本においては、正規の武士以外にも地侍(土豪)が存在しており武士も田畑を耕していた一方で、百姓もまた武装していたため何か事が起こると武装蜂起することもよくありました。
そのため、多くの武士は村落に住んで自身も農作業に従事して戦争が起こったときには出陣し、他方、農民もまた農業を主たる生活の糧としつつも戦争が起こると武装して出陣する状況となっていたため、武士と百姓の違いは極めてあいまいなものだったのです(兵農未分離)。
兵農分離(16世紀末頃)
ところが、この兵農未分離を終わらせる事件が起こります。
天正19年(1591年)、大陸侵攻の野心を抱いた豊臣秀吉が、その準備として全国大名の軍役基準を掌握するために全国の石高を調査すると共に、武家奉公人が百姓や町人になること・百姓が耕作を放棄して商いや日雇いに従事すること・もとの主人から逃亡した奉公人を他の武士が召し抱えることなどを禁止して身分の画定を図ったのです(身分統制令)。
また、豊臣秀吉は、翌天正20年(1592年)には、文禄の役に従軍した武家奉公人らの逃亡を摘発する法令(人掃令)を出し、各町村に身分別の家数・人数調査(全国的な戸口調査)をさせたのです。
そして、これら一連の政策に加え、豊臣政権により進められた国替・検地・刀狩の実施により、武士・武家奉公人と町人・百姓などとの身分分離(兵農分離)が進められて行きました。
百姓と農民の概念の混同
江戸幕府による農民支配策
豊臣政権に代わって成立した江戸幕府は、全国を幕府領と大名領(藩)に分割し、藩ではそこを治める大名に藩内の領地と農民を支配権を与えました。
この結果、将軍をトップとする江戸幕府が大名を従え、その大名が藩の武士を用いて領地・農民を治めるという中央集権的・封建的な支配体制が構築されました(幕藩体制)。
この幕藩体制の確立により、武士(将軍>大名>旗本・御家人など)が、軍事のみならず政治・学問・知識を独占するようになり、苗字帯刀などの様々な特権を持つ支配階層となっていきます。
ところが、この構造は、人口比にしてわずか10%程度を占めるに過ぎない武士が、その他の人口比90%という大部分を占める百姓・町人などを支配することとなりますので、その統治支配は容易ではありません。
困った江戸幕府は、重層的身分関係を構築することにより、少人数での大人数支配を可能とする構造を編み出します。
百姓という身分区分
すなわち、江戸幕府は、在地領主に仕えて町で生活をする武士階級が、その他の職業人を支配するという身分構造を作り上げたのです。
そして、この身分構造を説明するため、江戸幕府は、日本国内に存する人々を区分して町に屋敷を持って居住する人を町人、村に居住する人を百姓と呼ぶこととし、これらは身分の違いであると考えました。
以上より、「百姓とは、村に住む者を示す身分」を表す言葉となりました。
農民という職業区分
以上のとおり、村に住む者の身分(総称)が百姓と定義されたのですが、村の中では、土地を耕して米や野菜を耕作する者、山に入って林業を行う者、海や川で漁業を行う者、鉱物の採取・精錬を行う者・村内外の者を相手に商売をする者など各種職業を生業とする者が生活しています。
このうち、村に住む者=百姓の中で、土地を耕して米や野菜を耕作する者を農民と呼びました。
すなわち、「農民とは、土地を耕して米や野菜を耕作する職業区分」を表す言葉だったのです。
そして、農民は生活のために土地を必要としますので主に村に、職人・町人は生活のために土地を必要としませんので主に城下町に居住しているのが一般的でした。
他方、領主に仕える武士もまた城下町に居住することが一般的であったため、大雑把な居住地別分類として、町に武士と町人が・村に農民が居住していることとなりました。
百姓と農民の概念の混同
石高制を採用した江戸幕府では、その土地の石高(標準的な玄米収穫量)を基準として制度を構築しており、この石高が、年貢量のみならず各大名に課す負担や身分秩序基準として用いられました。
また、各大名も藩内で石高制を採ったため、各藩の経済力の基礎が石高であると認識され、それを生み出すのは村の農民であると考えます。
そのため、村では米を生み出す農民が最重要視され、また村に住む者の中では農民の割合が高かった結果、村の構成員(百姓)とは、その経済力の源となる農民が主なものと考えられるようになりました。
そして、時代を経ていくと、ついには村の構成員のうちから農民以外の者が無視して考えられるようになり、江戸時代中頃までには百姓=農民と考えられるに至ってしまったのです。