【第二次晋州城の戦い】文禄の役最大の攻城戦

第二次晋州城の戦いは、文禄の役の際に朝鮮方に与して明国が参戦したことにより苦しくなった日本軍が釜山にまで戦線を下げるに至ったのですが、そこで兵站に余裕ができたために全羅道制圧をするために大軍を編成して同城を攻めた戦いです。

攻められることとなった朝鮮軍では、宗主国でもある明国に援軍を要請したのですが、日明間で講和交渉を行っていた明国がこの援軍要請を拒否したため、日本軍対朝鮮軍との戦いとなりました。

文禄2年(1593年)6月21日に9万人を超える大軍で晋州城に取りついて攻撃を開始した日本軍が、1週間かけて同城を攻略したという文禄の役最大規模の戦いであり、勝利した日本軍が同城に籠った朝鮮軍を根切りにした殺戮戦でもありました。

第二次晋州城の戦いに至る経緯

快進撃を続ける日本軍

天正20年(1592年)4月12日に日本軍一番隊が朝鮮半島に上陸し、釜山攻略戦から始まった文禄の役では、日本軍が朝鮮半島に上陸した21日後の同年5月2日に朝鮮首都・漢城府を陥落させるなど破竹の快進撃を続けていきます。

朝鮮半島八道平定作戦

漢城に入った日本軍諸将は、占領直後で不安定な朝鮮半島情勢を無視して明国に向かうことはできないと判断し、七番隊の総大将宇喜多秀家と奉行衆に漢城と全体の総指揮を任せた上で、朝鮮半島に上陸している一番隊から六番隊までの諸将を朝鮮半島全域に展開させ、以下のとおり朝鮮半島八道の占領作戦を進めることによりその安定化を図ることを決めます。

平安道→一番隊:小西行長・宗義智・有馬晴信・松浦鎮信

咸鏡道→二番隊:加藤清正・鍋島直茂・相良頼房

黄海道→三番隊:黒田長政・大友義統

江原道→四番隊:毛利吉成・島津義弘・高橋元種・秋月種長・伊東祐兵

忠清道→五番隊:蜂須賀家政・福島正則

京畿道→五番隊:戸田勝隆・長宗我部元親

全羅道→六番隊:小早川隆景・毛利秀包・立花宗茂

慶尚道→六番隊:毛利輝元・毛利元康

明国軍参戦(1592年6月)

漢城攻略後も日本軍の快進撃は止まらず、天正20年(1592年)6月15日に平壌城に迫った際に奇襲をかけてきた朝鮮軍を撃退し(大同江の戦い)、翌同年6月16日には平壌城を占拠してしまいます。

日本軍が平壌城を攻略したことにより明国の領土である遼東半島に危険が及ぶと考えた明国王は、天正20年(1592年)6月、義州に逃れて行われていた朝鮮国王・宣祖から再三行われていた援軍要請に応じ、朝鮮半島に展開する日本軍と戦う決断を下します。

そこで、明国側では、平壌に近い遼東において5000人の兵を動員し、これを明軍副総裁・祖承訓に預けて平壌城に向かわせます。

そして、天正20年(1592年)7月16日、祖承訓率いる明軍5000人が平壌城に到着して攻撃を開始したのですが、日本軍鉄砲隊に薙ぎ払われて敗走します(第一次平壌城の戦い)。

偽りの講和交渉に翻弄される日本軍

第一次平壌城の戦いに敗れた明国側は、力を落とした遼東に日本軍の侵攻を防ぐ必要が生じたことから、沈惟敬を代表に立てて日本軍に対して偽りの講和提案をして時間を稼ぐこととします。

そこで、明国は、天正20年(1592年)8月29日、沈惟敬を担当者として、日本側に正式な和平交渉が持ちかけます。

これに対し、日本側としても消耗した兵力の再編成と伸びた兵站ルートを整える期間が必要でしたので、日本側からは日明間の勘合貿易の再開が条件として講和を認めるとの回答がなされます。

この日本側の回答に対し、明国側から明国王の判断を得るために時間が欲しいとの回答がなされたため、その調整のために日明間で50日間の停戦合意が成立します。なお、朝鮮はこの停戦合意に反対したのでが、宗主国である明国に押し切られています。

もっとも、明国の本意は、日本側との講和ではなく、この停戦期間を利用して北西部のボバイの乱を鎮圧し、北西部に回している兵を朝鮮半島に回すための時間稼ぎでした。

そのため、明国軍は、日本軍との停戦期間を利用して全力で北西部のボバイの乱の鎮圧に当たり、同年9月にこれを鎮圧して北西部に送っていた軍を朝鮮半島に回す準備を始めます。

明国の本意を知らない日本軍は、日明間の停戦合意に従って一番隊による平安道平定作戦を中断したのですが、約束の50日間が経過しても明国から回答はなく、同年10月中旬以降に明国に進捗確認の使者を派遣したものの、明国側からはぐらかされ続けます。

そうこうしている間に、明国軍においてボバイの反乱鎮圧のために北西に回していた明国兵を日本対策にあてる準備が整ったため、これらの兵力を朝鮮人の血も引く李如松に預け、急ぎ朝鮮半島に向かわせました(もっとも、日本側はこの事実に全く気が付いていませんでした。)。

第一次晋州城の戦い(1592年10月4日)

以上の最北端の日本軍は、釜山から漢城→平壌と3つのルートで順調に北進していった日本軍一番隊〜三番隊の作戦行動だったのですが、この最北端にいる日本軍は釜山から3つの直線ルートで進んでいった部隊であったため、釜山・平壌間の直線的な3つのルート以外の確保は進んでおらず、朝鮮兵・住民による散発的なゲリラ行為により伸び切った兵站が度々脅かされる事態が発生していました。

そこで、日本側としては、明国との停戦合意期間を利用して東西方向への侵攻を積極的に進め、兵站の安全と朝鮮半島支配の確立を目指しました。

このとき、日本軍では全羅道へも支配力を及ぼそうと考え、難攻不落の堅城との評価が高かった消耗を避けるためにそれまでは攻略対象から外されていた晋州城への攻撃を計画します。

そこで、先行隊から遅れて朝鮮半島に上陸した九番隊の細川忠興・長谷川秀一・木村重茲らが率いる2万人の兵を全羅道制圧に派遣することとされ、天正20年(1592年)9月23日に釜山を出発した日本軍九番隊が昌原を攻略し、その後に咸安を経由した後、同年10月4日に晋州城に到達してこれを包囲します。

その後、日本軍九番隊は、同年10月6日から晋州城攻撃を開始したのですが、晋州城の守りが堅いために攻略するためには多くの損害が出ると判断して同年10月10日に撤退したため(第一次晋州城の戦い)、全羅道攻略が難航します。

平壌城陥落(1593年1月7日)

話を日明間の講和交渉に戻します。

沈惟敬が時間を稼いで日本軍を足止めしている間に明国側では日本軍攻撃のための大軍を編成し、李如松がこれを率いて平壌城に向かっていました。

そして、文禄2年(1593年)1月5日、李如松率いる明国軍4万3000人が平壌城に到着し、これに朝鮮軍の都元帥・金命元率いる8000人が加わったことにより、明・朝鮮連合軍は合計5万1000人もの大軍で平壌城を包囲する形となりました。

これに対して平壌城に籠る日本軍は1万5000人であり、苦しい戦いが予想される中、同年1月6日に明・朝鮮連合軍による平壌城攻撃が始まります(第三次平壌城の戦い)。

何とか初日の攻撃をしのいだ日本軍でしたが、初日の攻撃で外郭が突破された上に援軍の見込みがない状態であったために翌日以降の防衛は不可能であると判断し、同日夜、平壌城を放棄して平壌城東側を流れる大同江を渡って撤退します。

この結果、明・朝鮮連合軍が平壌城を奪還しました。

平壌城を奪還した明国軍は、撤退する小西行長を追って南進し、同年1月18日には開城府をも奪還し、その勢いのままさらに南進しながら日本軍に占領された朝鮮都市を解放していった上、同年1月23日、査大受を偵察に出して情報を集めさせ、その結果をもって漢城攻略作戦を立案することとします。

これに対し、明国軍迫るという方を受けた日本側は、朝鮮半島北部各地に展開していた諸将を一旦漢城に戻し、伸びきった戦線を整理した上で戦力の立て直しを図ることとします。

碧蹄館の戦い(1593年1月26日)

平壌・開城を続けて奪還して勢いに乗る明・朝鮮連合軍は、文禄2年(1593年)1月25日、李如松(大将)・査大受(先鋒)・李如梅(左軍)・李如柏(中軍)・張世爵(右軍)の編成で開城を出発し、日本軍の本拠地となっている漢城攻略を目指して進んで行きます。

これに対し、漢城攻略軍が開城を出発したとの報を受けた日本側では軍議が開かれ、漢城籠城論と野戦論とが主張されて議論が紛糾したのですが、立花宗茂などが野戦説を強く主張し、これに小早川隆景ら歴戦の諸将が賛同したため城外で明国軍を迎え討つことに決まります。

そこで、野戦説を唱えた将を中心とする迎撃部隊が編成され、漢城から迎撃軍として宇喜多秀家を総大将・小早川隆景を先鋒大将とする4万1000人が出陣します。

そして、文禄2年(1593年)1月26日午前6時、礪石嶺に布陣した先遣隊先鋒である立花宗茂隊が、明国軍先鋒隊と接敵してこれを撃破します。

その後、日本軍先鋒隊二陣〜四陣が碧蹄館南面の望客硯に到着したため、戦いの指揮権が先鋒隊大将とされていた小早川隆景に移され、同日午前11時、鶴翼の陣を敷く日本軍と、魚鱗の陣を敷く明国軍とが相対する形となって開戦準備が整い、明国軍が小早川隆景率いる日本軍先遣隊二陣のうちの先鋒の粟屋景雄隊に対し総攻撃を仕掛けることで碧蹄館の戦いの本戦が始まります。

この戦いは、三方向からの包囲攻撃に成功した日本軍が明国軍を退却させることに成功し、その後、日本軍が潰走する明国軍を追って碧蹄館北方の峠・恵陰嶺まで追撃した後(立花宗茂隊・宇喜多秀家隊はさらに北方の虎尾里まで追撃)、同日午後5時頃に日暮れにあわせて漢城に凱旋帰還しています。

敗れた明国軍は開城まで撤退し、ここで勢いに乗っていた明・朝鮮連合軍の反転攻勢が中座します。

幸州山城の戦い(1593年2月12日)

他方、碧蹄館の戦いに勝利した日本軍は、一旦漢城に戻った上で漢城を最前線拠点として戦力を立て直すべく朝鮮半島全域に分散していた各将の結集を試みます。

このとき、全羅道巡察官・権慄率いる4000人が漢城北西約14kmに位置する幸州山城を築城して入っていたのですが、碧蹄館の戦いで明国軍を撃破して勢いを盛り返した日本軍は、勝利によって高揚した士気を利用して不穏な動きをしていた幸州山城に対する攻撃の有無が協議されます。

この協議は紛糾したのですが、最終的には城攻めを主張した将を中心として攻城戦が行われることとなりました。

そして、文禄2年(1593年)2月12日午前6時頃、幸州山城の西側及び北側に取り付いた日本軍による幸州山城攻めが始まったのですが(幸州山城の戦い)、三度に亘る総攻撃も奏功せず、総大将である宇喜多秀家を始めとして吉川広家・石田三成・前野長康ら諸将が負傷した上、甚大な死傷者を出して同日の城攻めは終了します。

もっとも、権慄率いる幸州山城側の被害もまた甚大であり、翌日以降にも続く日本軍の攻撃を防ぎきれないと考え、幸州山城は放棄され、朝鮮軍もまた同日未明に同城から撤退したため、幸州山城の戦いが1日で終わりました。

朝鮮軍が放棄したことにより、最終的には幸州山城を確保した日本軍でしたが、幸州山城攻城戦で甚大な被害を被ったことにより戦力が大きく損なわれた上、碧蹄館の戦いに勝利して高揚した士気も一気にしぼんでしまいました。

両軍の食料不足(1593年3月)

他方、碧蹄館の戦いに敗れて開城に逃げ帰った明将の李如松は、咸鏡道から漢城に向かっていた日本軍二番隊に平壌城を攻撃する動きがあるとの流言を真に受けて文禄2年(1593年)2月16日に平壌防衛を理由として開城を出て平壌まで撤退します。

平壌に戻った明国軍でしたが、碧蹄館の戦いに敗れて士気が下がったことにより戦線が膠着して進軍が止まり、兵站が十分でなかったこともあり補給が滞り始めます。

食料に窮した明国軍は、朝鮮軍に食糧の手配を命じたため、朝鮮方では明国軍を朝鮮半島に駐留させるために朝鮮半島全域の住民から強制的に取り上げて明国軍に届けようとしたのですが十分な量が調達できず、明国軍の士気がさらに低下していきました。

そこで、明国側から、日本側に対して講和交渉の申し出がなされます。

他方、文禄2年(1593年)3月中旬、明将の宋応昌が、日本軍の朝鮮攻略本拠地・漢城の兵站基地であった龍山食糧庫を焼き討ちにすることに成功したため、日本軍もまた兵糧を一気に失って行き詰まります。

この結果、兵糧を失って苦しくなった日本側が明国側が求める講和交渉のテーブルにつくこととなったため、ここから文禄の役における日明間の講和交渉が始まることとなりました。

文禄の役の講和交渉

日明間の講和交渉は、文禄2年(1593年)4月に明国側から沈惟敬、日本側から小西行長及び加藤清正が担当者として出席することにより、この三者により実務担当者レベルでの講和交渉が始められます(なお、国土を侵略されている朝鮮は日明間の講和交渉に反対したのですが、明国は朝鮮の主張を無視して日本との交渉を始めています。)。

この交渉では、まず、①日本側が捕らえている朝鮮王子(臨海君・順和君)とその従者を返還する、②日本軍は釜山に撤退する、③明国側は開城に撤退する、④その他の詳細な講和内容は明国側から日本に使者を派遣して進めることとするという4つの内容の基本合意がまとめられました。

日本軍が漢城から撤退(1593年4月18日)

前記基本合意に従い、日本軍は、文禄2年(1593年)4月18日に漢城を出た上で、明の勅使である沈惟敬及び朝鮮の2人の王子を連れて釜山まで後退します。なお、この日本軍の後退に際し、朝鮮側から明国軍に対して追撃を求める嘆願がなされたのですが、明国軍はこれを無視し、そればかりか朝鮮軍に対して日本軍への攻撃を禁止する命令が出されました。

他方、明国側から日本側に使者を出すという合意については、沈惟敬が明国王に無断で勝手に合意したものであり、明国からの正式な使者を手配することはできませんでした。

そこで、明国側において宋応昌及び沈惟敬が共謀し、部下である謝用梓及び徐一貫を前記基本合意に従った皇帝からの勅使であると偽装して、日本に派遣されることになりました。なお、日本側では、この偽りの勅使は、明国からの詫び言(謝罪の意)を伝える使者であると報告されました。

講和七条の提示(1593年5月15日)

その後、文禄2年(1593年)5月8日、基本合意に基づいて明勅使(実際は沈惟敬が準備した偽りの勅使)が、小西行長と三奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)に連れられて釜山を出港し、豊臣秀吉に会うために日本に向かいます。

この偽りの明勅使が到着したことにより、同年5月15日、名護屋城で豊臣秀吉と会見したのですが、明国が降伏したものと考えていた(報告を受けていた)豊臣秀吉は、以下の7つの講和条件を明国に提示します。

① 明の皇女を天皇の妃として送ること

② 勘合貿易を復活させること

③ 日本と明、双方の大臣が誓紙をとりかわすこと

④ 朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲し、他の四道および漢城を朝鮮に返還すること

⑤ 朝鮮王子および家老を1、2名、日本に人質として差し出すこと

⑥ 捕虜にした朝鮮王子2人は沈惟敬を通じて朝鮮に返還すること

⑦ 朝鮮の重臣たちに、今後日本に背かないことを誓約させること

これに対し、当然ですが、明国としてこのような講和条件を応諾できるはずはありません。

そこで、日本側の小西行長と石田三成から、明国側に対し、明国には都合よく書き直して報告して講和を成立させてしまえば後は何とかなると進言されたため、実務者レベルの限りにおいて、双方の為政者を騙して講和にこぎつけるという方法をとることに決まります。

この結果、偽りの明勅使が、豊臣秀吉の示した7つの講和条件を明国王に確認するという内容で初回交渉が終わります。

第二次晋州城の戦い

朝鮮南部支配を図る日本軍

 

日明間の基本合意により主力が漢城から釜山周辺へ移動したことにより、日本側の制圧地域は大きく減ることとなったのですが、他方で前線が後退したことにより日本側の兵站の問題も解消されました。

前線を下げて兵站に余裕ができた日本側は、明国に突きつけた講和七条の1つである朝鮮南四道の日本への割譲を応諾させるため(漢江以南の割譲を認めさせるため)に全羅道方面への支配権拡大を目指すこととします。

そこで、まずは全羅道進出への橋頭堡を確保するために、以前に失敗した晋州城攻略を再び目指すこととします。

日本軍全羅道攻略隊の編成(1593年5月)

本拠地を釜山に戻した日本軍において、再編成した第一隊2万5201人(黒田長政・加藤清正・島津義弘・鍋島直茂ら)と第三隊1万7290人(宇喜多秀家・石田三成ら)で城を攻撃する作戦を立案して晋州城に向かうこととなりました。

なお、この他にも朝鮮南部に倭城建築を進める普請役として2万2344人(毛利秀元・小早川隆景・立花宗茂ら)、釜山浦と各拠点間の輸送と拠点在番として2万6182人(小西行長・細川忠興・宗義智ら)が割り当てられ、晋州城に向かっています。

明国軍に見捨てられる朝鮮軍

このとき、朝鮮半島に影響力を及ぼすために漢城以南に明国軍として慶州(副総兵・王必迪)・善山(游撃・呉惟忠率いる5000人)・星州(副総兵・劉綎率いる5000人)・許昌(副総兵・祖承訓、游撃・李寧、葛逢夏)・南原(参将・査大受、駱尚志、游撃・宋大斌ら率いる6000人)に合計3万人が展開していました。

そこで、日本軍の進軍に恐怖した朝鮮軍は、朝鮮半島南部に進出していたこれらの明国軍に対し、迫りくる日本軍を迎撃するために力を貸して欲しいと願い出ます。

ところが、日本との講和を進めていた明国側には日本軍との交戦意思はなく、明国は朝鮮からの援軍願いを拒否します。

そればかりか、明国側は、協力を求めてきた朝鮮の金命元に対して、晋州城から退去して日本軍に同城を明け渡すよう勧告する始末でした。

この回答により、朝鮮側は明国から見捨てられたことを悟り、独力での日本軍対応を強いられることとなりました。

日本軍の迎撃に向かう朝鮮軍

文禄2年(1593年)6月12日、朝鮮各地から朝鮮軍諸将が宜寧に集結し、迫りくる日本軍に対する対応が協議されます。

議論の席上では、様々な意見が出されたのですが、全羅巡察使・権慄は迫りくる日本軍を野戦で撃退するべきであると述べたところ、幸州山城で日本軍に勝利していた実績からその意見が採用され、朝鮮都元帥・金命元、平安巡辺使・李薲、全羅巡察使・権慄、全羅兵使・宣居怡、防禦使・李福男、助防将・李継鄭、鄭名世、慶尚左兵使・高彦伯、右兵使・崔慶会、忠清兵使・黄進、京畿助防将・洪季男、星州牧使・郭再祐、倡義使・金千鎰、義兵・高従厚らで編成された5万人の軍が咸安に向かい、同地で日本軍と対峙することに決まります。

咸安の戦い

他方、日本軍は、文禄2年(1593年)6月15日、9万人もの大軍で昌原を出発し、晋州城に向かって進んで行きました。

昌原を出発した日本軍は、道中を焼き討ちし、また接敵した朝鮮兵を殲滅しながら西進して行きました。

そして、日本軍を迎撃するために咸安に向かった朝鮮軍が、同地で日本軍と接敵するに至ったのですが、日本軍の大軍が迫ると聞いた朝鮮軍は動揺したため日本軍から放たれた鉄砲音でパニックになって崩壊します(咸安の戦い)。

戦いに敗れた朝鮮軍では、全羅巡察使・権慄や朝鮮都元帥・金命元らが宜寧に(その後、宜寧をも捨てて全州にまで逃亡しています)、金千鎰らは晋州城に向かって逃亡します。

兵が離散した朝鮮軍では晋州城に向かう日本軍を止めることは出来ず、日本軍が咸安から宜寧に向かって進軍するのを見ていることしかできませんでした。

そのため、日本軍は順調に西進を続けた日本軍では、同年6月16日に先遣隊が咸安に入り、その後の同年6月18日に宜寧に入っています。

いよいよ迫りくる日本軍に対し、晋州城では対応策に対する意見がまとまらずに城から逃亡する将兵が続出し、最終的に籠城するために晋州城に残った朝鮮軍は崔慶会・黄進・金千鎰らが率いる7000人の兵(及び避難民等1万3000人)のみでした。

晋州城包囲戦(1593年6月21日)

文禄2年(1593年)6月21日、日本軍が晋州城に取り付きます。

そして、北門に加藤清正・島津義弘・黒田長政・鍋島直茂・毛利吉成ら率いる2万5624人、西門に小西行長・宗義智・細川忠興・伊達政宗・浅野長政・松浦鎮信ら率いる2万6182人、東門に宇喜多秀家・石田三成・大谷吉継・木村重茲ら率いる1万8822人の陣容で晋州城を包囲します(その他、毛利秀元1万3600人・立花宗茂8744人が後方に控えていました。)。

以上のとおり、9万人を超える大軍勢で晋州城を包囲日本軍は、翌同年6月22日、総攻撃を開始します。

もっとも、堅城で知られる晋州城の守りは堅く、日本軍はなかなか晋州城の城壁に取りつくことができませんでした。

そこで、日本軍は、同年6月23日から工兵による晋州城の堀の水を抜く土木工事(西北方面の堀を南江まで掘り進めて水を流し、干上がった後に土砂で堀を埋めて渡れるようにする工事)を開始します。

また、同年6月25日、東門近くに井楼を築いて兵を上げ、高地から晋州城内への鉄砲射撃を始めます。

以上の経過により晋州城の守りが壊されていく中で、同年6月27日、攻城戦を指揮していた宇喜多秀家から晋州城内に降伏勧告がなされたのですが、晋州城内の朝鮮軍から拒絶されます。

降伏勧告が拒否されたことから、文禄2年(1593年)6月27日、晋州城北側に対する加藤清正と黒田長政が指揮する亀甲車を用いた攻撃が行われました。

さらに、同年6月28日には、日本軍による晋州城西側石垣の破壊が成功して西門に対する攻撃が本格化し、この戦いで朝鮮方の黄進が戦死します。

晋州城陥落(1593年6月29日)

文禄2年(1593年)6月29日、加藤清正と黒田長政の奮闘によって晋州城北側を突破したことをきっかけとして、北門から日本軍が一気に晋州城になだれ込んで行きました(このとき、黒田長政家臣である後藤又兵衛や加藤清正家臣の森本一久などが先駆けを争っています。)。

城内への侵入を許した晋州城に日本軍を押し返す力はなく、続けて東西の城門も破られたことにより晋州城は三方向からの侵入を受けることとなりました。

そして、晋州城は、なだれ込んでくる日本軍に蹂躙され、朝鮮側の将である倡義使・金千鎰・金象乾・崔慶会・黄進・徐礼元・高従厚・李宗仁・金俊民などが討死して陥落します。

その後、晋州城に籠っていた朝鮮軍では、晋州城南側を流れる南江から脱出を図るものが続出したのですが、待ち受けていた日本軍によりことごとくなで斬りにされ、城内に残った者も全て皆殺しにされました。

第二次晋州城の戦いの後

全羅道平定戦

晋州城を攻略した日本軍は、全羅道全域を平定するべく晋州城を発ち、文禄2年(1593年)7月5日に求礼、同年7月7日に谷城へと進軍していきました。

もっとも、南原城の堅い守りに阻まれて進軍が止まったところ、このタイミングで明国軍が全羅道にも進出してきたために、同年7月9日に一旦晋州城へ撤退します。

朝鮮との停戦

明国軍が進出してきたことにより、講和交渉中の明国と対峙することなく全羅道を攻略することが難しくなります。

そこで、日本軍は、全羅道侵攻を断念せざるを得なくなり、朝鮮軍との関係でも休戦期に入ります。

朝鮮南部に倭城築城

以上の結果、講和交渉中の明国のみならず、事実上朝鮮との関係でも停戦の運びとなったため、日本軍は、新たな領土拡大をストップさせ、それまでに獲得した朝鮮都市の恒久的な支配を確立させるため、獲得した都市にと防衛拠点となる城(倭城)を築くことに注力しくようになりました。

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