碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)は、文禄2年(1593年)1月26日に朝鮮国京畿道高陽県の碧蹄館(ピョクチェグァン、現在の京畿道高陽市徳陽区碧蹄洞)で勃発した文禄の役における激戦の1つです。
朝鮮半島に上陸した後に連戦連勝を重ねて平壌城まで占拠するに至っていた日本軍でしたが、明国が朝鮮方について参戦したことによりその勢いが削がれ、反転攻勢を受ける苦しい時期に起こりました。
平壌・開城を立て続けに奪還して勢いに乗って漢城(現在のソウル)の奪還のために進んで来た李如松率いる2万人もの明国軍を、日本軍先遣隊2万人で迎撃して撃破し、その戦意を喪失させるに至ったという文禄の役の転換点となった戦いでもあります。
隣国との政治的問題から教科書で紹介されることが少なく、また大河ドラマなどでもほとんど描かれることがないため知名度は今一つですが、日本の戦国有名大名の共同作戦であり、名将・小早川隆景の生涯最後の戦いでもある歴史ファンにはたまらない戦いです。
本稿では、この碧蹄館の戦いについて、その発生に至る経緯から簡単に説明したいと思います。
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碧蹄館の戦いに至る経緯
豊臣秀吉の唐入り計画
天正18年(1590年)7月から8月にかけて行われた奥羽地方に対する領土仕置(奥州仕置)により日本全国の武力統一を果たした豊臣秀吉は、新たな敵の創設と、家臣に対する新たな領土配分をもたらすべく広大な明国の領土獲得(唐入り)計画を立案します。
明国への進出を検討していた豊臣秀吉でしたが、船舶用磁気コンパスが存在していなかった当時、「山あて」と呼ばれる船団が沿岸を目視できる範囲を確認しながら位置を特定しつつ航行する方法が主流であり、日本から海を越えて直接明国に上陸する航海技術は存在していませんでした。
そこで、日本から明国に攻め入るため、海路で最短ルートとなる肥前名護屋→壱岐→対馬南部→対馬北部→釜山を経由し、そこから朝鮮半島南部沿岸を西回りで明国に向かうというルートが策定されることとなりました。
豊臣秀吉は、早速、肥前名護屋→壱岐→対馬南部→対馬北部→釜山という兵站ルートの策定・整備を始め、大軍を編成して、明国に向かうために国内通過を拒否された朝鮮半島に向かわせます。
快進撃を続ける日本軍
天正20年(1592年)4月12日午後2時、小西行長率いる1番隊の軍船700艘が朝鮮半島に上陸し、翌同年4月13日に釜山城を制圧して橋頭保となる釜山を制圧した日本軍は、続けて兵站ルートの確保を図るべく、慶尚道水軍を駆逐し(全羅道水軍による救援拒否により孤立していました)、釜山周辺の制海権を確保します。豊臣秀吉による唐入り作戦第一弾の文禄の役の始まりです。
そして、同年4月17日以降、確保された兵站ルートを利用して日本軍の二〜六番隊も続々と釜山に到着してきます。
釜山に上陸を果たした日本軍は、一番隊~三番隊が先行隊として、朝鮮首都である漢城を目指して進んで行きます。
その後、同年5月2日に日本軍一番隊及び二番隊が漢城府に到着し、国王不在となって混乱を極めていた漢城府を占拠します。
漢城制圧後に同城に入った日本軍諸将は、七番隊の総大将宇喜多秀家と奉行衆に漢城と全体の総指揮を任せた上で、まずは朝鮮半島に上陸しているその他の一番隊から六番隊までの諸将を朝鮮半島全域に展開した上で、以下のとおり朝鮮半島八道の占領作戦を進めることによりその安定化を図ることを決めます。
そして、同年5月28日には開城府を、同年6月16日には平壌城を攻略し、明国に迫っていきます。
平壌城失陥(1593年1月8日)
ところが、朝鮮国王宣祖は、宗主国であった明国に援軍を求めたことにより、天正20年(1592年)7月16日、明国が朝鮮方に付いて参戦します。
明国軍と日本軍との複数回に亘る戦いを経て、文禄2年(1593年)1月5日、平壌城が5万人を超える兵(李如松率いる明国軍4万3000人・ 朝鮮軍8000人)に包囲され、第3次平壌城の戦いが始まります。
同年1月7日、1万5000人で平壌城に籠る小西行長でしたが、多勢に無勢で支えきれないと判断して平壌城を脱出したため、翌同年1月8日に平壌城を明国軍に奪還されます(なお、平壌城を包囲されていた小西行長は、鳳山城にいた大友義統に援軍要請をしたのですが、大友義統は、小西行長が討死したとの誤報を信じて鳳山城を放棄して先に撤退してしまいました。)。
平壌城を奪還した明国軍は、撤退する小西行長を追って南進し、同年1月18日には開城府を奪還し、その勢いのままさらに南進しながら日本軍に占領された朝鮮都市を解放していきました。
明国軍迫るという方を受けた日本側は、朝鮮半島北部各地に展開していた諸将を一旦漢城に集め、伸びきった戦線を整理した上で戦力の立て直しを図ることとします。
明国側による漢城攻略作戦
平壌を発って開城に入った明国軍は、文禄2年(1593年)1月23日、査大受を偵察に出して情報を集めさせ、その結果をもって漢城攻略作戦を立案することとします。
同年1月24日、査大受率いる明国軍の偵察隊が漢城方面に偵察に出た際、日本側偵察隊であった加藤光泰隊・前野長康隊と接敵して戦闘となり、日本側偵察隊60人余りを討ち取ります(朝鮮王朝実録では100~1000人と記載。)。
日本側偵察隊を蹴散らした査大受は、この勝利を開城の李如松に報告したのですが、その際に朝鮮人兵から「日本軍の精鋭は平壌で壊滅し漢城には弱兵が残るのみ」との報告もあわせてなされたため、明国軍は油断し、平壌からの移動で疲れている歩兵と楊元率いる砲兵隊を開城府に待機・温存させて、遼東半島騎兵を中心とする2万人の陣容で漢城攻撃を行うことを決めます(参謀本部編「日本戦史・朝鮮役」)。
明国軍が開城出陣(1593年1月25日)
そこで、文禄2年(1593年)1月25日、李如松(大将)・査大受(先鋒)・李如梅(左軍)・李如柏(中軍)・張世爵(右軍)らが率いる明国軍が開城を出発し、漢城に向かって進んで行くこととなりました。
日本側の対応
明国軍が開城を出発したとの報を受けた日本側では、迫りくる明国軍への対応を協議するため軍議を開きます。
この軍議では、石田三成・大谷吉継ら奉行衆が籠城戦を主張したことにより一時議論が紛糾したのですが、立花宗茂が武士として恥かしい戦い方はできないとして野戦での迎撃を主張し、これに小早川隆景ら歴戦の諸将が賛同したため、漢城から迎撃軍を出して明国軍を迎え討つことに決まります。
そこで、日本側は、退却直後で疲れきっている小西行長隊と大友吉統隊1万4000人を漢城に残し、宇喜多秀家を総大将・小早川隆景を先鋒大将とする以下の陣容で編成した4万1000人を明国軍の迎撃に向かわせることに決まります。
(1)先鋒隊:計2万人
①先陣:立花宗茂・高橋直次3200人
②二陣:小早川隆景【先鋒隊大将】8000人
③三陣:小早川秀包・毛利元康・筑紫広門5000人
④四陣:吉川広家4000人
(2)本隊:計2万1000人
①先陣:黒田長政5000人
②二陣:石田三成・増田長盛・大谷吉継ら5000人
③三陣:加藤光泰・前野長康3000人
④四陣:宇喜多秀家【総大将】8000人
碧蹄館の戦い
先鋒隊先陣が礪石嶺に布陣
文禄2年(1593年)1月26日午前2時頃、未明の内に明軍が進軍してくると予測した日本軍は、森下釣雲・十時惟由らを含む斥候隊30人が先行した後、続けて先鋒隊先陣の立花宗茂隊・高橋直次隊が出陣し、同日午前6時頃に斥候隊と合流して碧蹄館南面の礪石嶺北側2箇所に布陣します(本隊として立花宗茂及び高橋直次率いる2000人・中備として十時惟道及び内田統続率いる500人・先備として小野和泉及び立花三右衛門率いる700人)。
なお、このとき日本軍先鋒隊先陣先備隊が明国軍側の斥候隊と接敵してこれを撃破しています。
前哨戦(1593年1月26日午前6時)
礪石嶺に布陣した先遣隊先鋒は、疲れの見えるそれまでの先備隊と中備隊の陣形を入れ替え、十時惟道及び内田統続率いる500人を先備として前線に上げ、小野和泉及び立花三右衛門率いる700人を中備に下げます。
前線に布陣することとなった十時惟道と内田統続は、500人の兵としては少ない軍旗を立てて明国側に寡兵と思わせ、明国軍の攻撃を誘引します。
明国軍先鋒の査大受2000人は、日本側の少ない軍旗を見て寡兵と誤認し、越川峠南面に進んで正面で先遣隊先鋒先備への攻撃を開始します。
これに対し、立花宗茂・高橋直次本隊2000人が左方(西側)に回り込んで明国軍先鋒隊の後方に攻撃を仕掛けてこれを撤退に追い込みます。
その後、後退していく明国軍先鋒隊を追って立花宗茂率いる800騎が猛追しますが、深追いしすぎてその先にいた明国軍中軍7000人と接敵してしまいます。
勢いに乗っていた立花宗茂隊でしたが、さすがに多勢に無勢で苦しくなり、明国軍中軍に中央突撃した後反転して退却に追い込まれてしまいました(この退却戦の際に戸次統直・池辺永晟・十時惟道らが戦死しています。)。
先鋒隊二陣〜四陣が到着
立花宗茂隊が礪石嶺に戻った頃、後続の日本軍先鋒隊二陣〜四陣が碧蹄館南面の望客硯に到着したため、戦いの指揮権が先鋒隊大将とされていた小早川隆景に移されます。
そして、立花宗茂隊から状況報告を聞いた小早川隆景は、まずは戦い疲れた日本軍先鋒隊先陣を北西の小丸山に移陣させて休息させることとします。
両軍の再布陣
その上で、小早川隆景は、遅れて到達した日本軍先鋒隊二陣~四陣1万7000人について、正面に小早川隆景隊(先遣隊二陣)8000人をとどまらせた上で、吉川広家隊(先遣隊四陣)を立花宗茂隊が陣取る北東方面(小丸山方面)に潜行させ、また小早川秀包・毛利元康・筑紫広門隊(先遣隊三陣)を北西方面に潜行させ、日本軍を鶴翼の陣形に配置します。
他方、明国軍は、日本軍先遣隊三陣と四陣の潜行を知らなかったために日本側の援軍がわずか8000人という寡兵であると誤認していたため、立花宗茂隊を追い返した勢いに任せて日本軍を粉砕しようと考え、文禄2年(1593年)1月26日午前10時頃までに高陽原において左軍・右軍・中央軍の三隊に分けて魚鱗の陣形に布陣します。
本戦開戦(1593年1月26日午前11時)
前記の流れに従い、鶴翼の陣を敷く日本軍と、魚鱗の陣を敷く明国軍とが相対する形となって、開戦準備が整います。
そして、文禄2年(1593年)1月26日午前11時ころ、明国軍が、小早川隆景率いる日本軍先遣隊二陣のうちの先鋒の粟屋景雄隊に対し総攻撃を仕掛けることで碧蹄館の戦いの本戦が始まります。
日本軍による包囲攻撃
圧倒的な大軍で攻めせてくる明国軍に対し、寡兵である日本軍二陣先鋒の粟屋景雄隊はこれを支えることが出来ず、大きな損害を出して後退を始めます。
当然ですが、この日本軍二陣先鋒の退却を見た明国軍は、勢いに乗って追撃を始めます。
ところが、この退却は日本軍の罠でした。
日本軍二陣先鋒・粟屋景雄隊を追って南進して来る明国軍に対し、井上景貞隊がその側背に回り込んで鉄砲などで攻撃を始めます。
また、小丸山に布陣していた立花宗茂隊・高橋直次隊が、鉄砲隊の一斉射撃を行うと共に、太鼓を鳴らしながら明国軍に向かって突撃したのです。
追撃戦をしていたはずの明国軍は、予想外の方向からの攻撃を受けて大混乱に陥ります。
さらに、これを好機と見た日本軍先遣隊三陣の小早川秀包・毛利元康・筑紫広門隊も埋伏していた北西方向から明国軍攻撃に加わり、加えて南側に布陣した日本軍二陣の小早川隆景本隊(宇喜多家臣の戸川達安・国富貞次・花房職之も参加)、北東に埋伏していたと日本軍四陣の吉川広家隊・安国寺恵瓊隊も攻撃に加わります。
三方向からの同時包囲攻撃を受けた明国軍は大混乱に陥り、指揮系統が乱れて、北側の碧蹄館に布陣する李如松率いる本隊目指して退却する兵が続出します。
こうなると明国軍は戦線を維持できません。
明国軍本隊に迫る(1593年1月26日正午)
明国軍前衛隊を撃破した日本軍は、退却する明国軍を追って北進し、文禄2年(1593年)1月26日正午ごろ、北の碧蹄館に布陣していた李如松本隊に迫ります。
これに対し、砲兵隊を開城に置いてきた李如松本隊には日本軍に応戦するための火器がありません(それどころか、騎兵を中心としていたため歩兵も足りませんでした。)。
そのため、李如松本隊とそこに突っ込んで来た日本軍とが直接ぶつかる大混戦となりました。
この後、立花家家臣の安東常久が李如松自身に迫って一騎打ちに至る事態になり、安東常久は李如梅が放った矢を受により討ち死にしたのですが、李如松もまたその後に落馬して、小早川家家臣の井上景貞隊に迫られます。
この状況下で、李有聲らが盾となって日本軍を食い止め、親衛隊80人もの戦死と引き換えに李如松は李如梅・李如柏らによって救出されます。
この大混戦の報は開城にも届けられ、急ぎ開城から明国軍副総兵・楊元率いる砲兵隊が援軍として派遣されることとなったのですが、砲兵隊は部隊特性上機動力に乏しい上、前夜よりの雨で泥濘地と化していた狭隘地を上手く進むことが出来ず、同日午後1時頃には支えきれなくなった明国軍が碧蹄館から潰走を始めます。
日本軍による追撃戦
その後、日本軍は、文禄2年(1593年)1月26日午後2時頃から4時頃までの間、潰走する明国軍を追って碧蹄館北方の峠・恵陰嶺まで追撃した後(立花宗茂隊・宇喜多秀家隊はさらに北方の虎尾里まで追撃)、同日午後5時頃に日暮れにあわせて漢城に凱旋帰還しています。
他方、敗れた明国軍は、這う這うの体で開城まで撤退しています。
なお、日本軍は、以上の戦果を先鋒隊(一陣~四陣)のみで挙げており、本隊の大部分は参戦することはありませんでした。
碧蹄館の戦い後の戦線膠着
明国側の戦意喪失
諸説あって正確な数は不明であるものの前記の一連の戦いにより、明国軍は戦死者6000人・死傷者数千人とも言われる大損害を被ります。
碧蹄館の戦いの敗北によって、平壌・開城奪還後勢いに乗っていた明国軍の戦力・戦意が大きく削がれたため、明国軍としてもそれ以上の損害発生を防ぐために講和の道を模索するようになりました。
日本軍の苦境
他方、勝利した日本側も兵站が滞っていた上で朝鮮半島各地でのゲリラ的抵抗に苦しめられていた事実に変化はなかった上、文禄2年(1593年)3月に明国軍兵に漢城近郊・龍山の兵糧倉を焼き払われたことから継戦が困難となっていました。
以上の結果、明国側・日本側のいずれもが打つ手を失い、戦線が膠着するに至ります。