【河内百済寺】人質として日本に残された百済王族が大坂枚方に創建した氏寺跡

百済寺(くだらでら・くだらじ)は、天平勝宝2年(750年)頃に百済王敬福によって建立されたと言われる河内国・交野郡中宮郷に存在した寺であり、現在でいうと大阪府枚方市内の淀川及び天野川沿いの小高い丘(交野ヶ原)上に位置します。

人質としてヤマト政権の下に送られた百済皇子が百済王氏の氏を与えられ、祖国滅亡後にヤマト政権下で力をつけて有力氏族となった後、その氏寺とするために建立した寺院でもあります。

ヤマト政権下で力を持った百済王氏は、百済寺の北部に一族を住まわせるための集落を形成していたとも考えられており、百済王氏の活躍の舞台として氏寺としてのみならずその周囲に広がった集落全体としての価値があります。

藤原摂関政治の確立により百済王氏が力を失ったために百済寺もまたいずれかの時点で失われてしまったのですが、その歴史的価値から昭和27年(1952年)3月29日に国の特別史跡に指定され、現在まで長い時間をかけて発掘調査が進められてきました。

百済寺建立に至る経緯

百済皇子の豊璋と善光が人質として日本へ

百済寺の歴史は、その名のとおり、朝鮮半島の国家であった百済に由来します。

始まりは、百済の31代国王であった義慈王が、迫りくる新羅・唐・高句麗の脅威に対抗するために、義慈王13年(653年)頃に王子である豊璋と善光(扶余勇・禅広王・余禅広)を人質としてヤマト政権(倭国)に送ってその協力を要請したことでした。

その後、義慈王20年(660年)に唐・新羅の連合軍によって滅亡した百済でしたが、百済遺民であった鬼室福信や黒歯常之らが、同年8月2日ころ、人質として倭国にとどめ置かれていた百済太子豊璋を擁立して百済復興運動を始めようと考え、ヤマト政権に救援を求めてきます。

豊璋の失脚

この援軍要請に対し、中大兄皇子(後の天智天皇)がヤマト政権の総力を挙げて百済復興を支援することを決定し、豊璋を百済復興の旗頭として、安曇比羅夫・狭井檳榔・朴市秦造田来津が率いる軍船170艘・5000人をこれに付けて朝鮮半島に派兵します。

天智天皇元年(662年)5月、朝鮮半島に上陸したヤマト政権軍先行隊は、次々と百済の旧領を奪還していき、これに勢い付いた百済軍が、朝鮮半島南西部(旧百済領土のほぼ中央)の白江(現錦江)河口部に本拠となる城(周留城)を建築します。

ところが、本拠地を得た豊璋が国王として即位し、いよいよこれからとなった百済に激震が走ります。

豊璋に政治能力・統率力がないと見た鬼室福信・黒歯常之ら諸将が独自行動を開始し、これを苦々しく思った豊璋が鬼室福信を処刑してしまったのです。

鬼室福信の死により百済軍は一気に弱体化し、これを好機と見た唐・新羅軍が復興百済軍の王都・周留城を包囲されました。

そこで、ヤマト政権から追加派兵が行われ、天智2年(663年)8月28日、白村江河口付近に布陣する唐・新羅水軍にヤマト政権水軍が突撃することにより白村江の戦いが起こります。

ヤマト政権水軍は三軍編成をとって攻撃をしますが、唐・新羅水軍の潮の満ち引きを踏まえた巧みな操船術と火矢を用いた的確な攻撃により次々と撃沈されて行き(400隻もの倭船が沈んだと言われています。)、白村江の戦いは、唐・新羅水軍の一方的な勝利に終わります。

白村江の戦いでヤマト政権水軍を下した唐・新羅水軍は、そのままヤマト政権陸軍を殲滅するために百済・ヤマト政権陸軍の攻撃に向かいます。

唐・新羅陸軍は、唐将である孫仁師・劉仁願と新羅王である金法敏(文武王)の指揮の下で百済・ヤマト政権陸軍と対峙していたのですが、ここに白村江の戦いに勝利した後で熊津江に沿って下り回り込んできた唐・新羅水軍到着し、百済・ヤマト政権陸軍を挟撃し、これを殲滅した結果、陸上戦もまた唐・新羅陸軍の勝利に終わります。

この結果を見た百済方は、百済王・豊璋が城兵らを見捨てて周留城から脱出して同年8月13日にヤマト政権軍に合流したのですが、敗色が濃くなるとそこからも脱出して数人の従者と共に高句麗に亡命したため、復興百済王朝は完全滅亡に至ります(なお、668年に高句麗が滅ぼされた後、高句麗王族らとともに唐の都に連行され嶺南地方へ流刑とされています。)。

日本に残った善光に百済王の氏が与えられる

他方、日本に残ったもう1人の百済皇子であった善光は、天智天皇3年(664年)に祖国を失ったことを哀れんだ天智天皇から難波に居住することを許され、その後に百済王族唯一の生存者として持統天皇から「百済王(くだらのこにきし)」の氏が与えられます。なお、「こにきし」とは、古代朝鮮語に由来する古代朝鮮の三韓の王を指す言葉と考えられています。

この結果、善光は、当初の他国皇子という賓客(人質)という立場から、律令官人へとその立場を変更するに至りました。

百済王善光が摂津国に本拠地を置く

百済王の姓を与えられた善光は、摂津国・難波京(現在の天王寺区東部・生野区周辺)に本拠地を置き、難民となって逃れてきた百済王族・官人の受け皿となってその周囲に小百済ともいえる小集団を形成してきました。

また、これら百済系難民の精神的支柱とするべく、摂津国難波京に百済寺(現在の大阪市天王寺区堂ヶ芝廃寺・豊川稲荷大阪別院敷地内と比定)・百済尼寺(現在の天王寺区細工谷遺跡と比定)を建立するに至ります。なお、同地に百済寺・百済尼寺が7世紀中頃から10世紀頃までの間存在していたことは、日本霊異記第14話に「難波百済寺」との記載があること、平成9年(1997年)に細工谷遺跡から「百済尼」「百尼寺」との墨書のある奈良時代の土器が出土したことなどから間違いないと考えられています。

こうして百済系難民を受け入れることにより百済王氏は大集団化し、その宗主としての地位を確立していきました。

百済王敬福が本拠を河内国に移す

善光の曾孫である百済王敬福が天正18年(746年)に従五位上陸奥守に任ぜられて同地に赴任し、天平21年(749年)に陸奥国小田郡(現在の宮城県遠田郡涌谷町付近)で発見した黄金900両を聖武天皇に献じたところ東大寺大仏造営のために金を欲していた朝廷に喜ばれ、その功により天平勝宝2年(750年)5月に従三位宮内卿・河内守に任じられたとされています。

破格の位階昇進を果たした百済王氏は、正確な時期は不明ですが、それまで難波に置いていた居館を河内国・交野郡中宮郷(現在の大阪府枚方市中宮)に移し、その周辺に一族の集落を形成していきます。

なお、百済寺の北側にある禁野本町遺跡において、奈良時代後半から平安時代初期のものとみられる東西南北方向の道路状遺構・区画溝・掘立柱建物・井戸などの遺構が発見されており、特に南北方向の道路状遺構は百済寺の南北中軸線を北に伸ばした線状と重なり、またこれとほぼ直角に交わる東西方向の道路状遺構も見つかっています。

このことから,百済寺北側に、南北約900m(109m×8)・東西約450m(109m×5)の範囲で碁盤目状の街路や方形街区が形成されていたと推定されます。

そして、この街区の最盛期が8世紀末~9世紀前半とされていることから百済王氏が中央政界で活躍していた時期とも一致するため、これらの街区は百済王氏の居館を含めた一族の居住域を含む集落であったと考えられます。

その後、百済王敬福の孫である百済王明信が女官として桓武天皇の寵愛を受けると、百済王氏が桓武天皇や嵯峨天皇の信任を受けて交野行幸の饗応の担い手となるなどしてその権力を高めていき(続日本紀に延暦2年/783年10月16日に桓武天皇が交野行幸に際して百済王が供をしたと記載されています。)、百済王氏は一族の絶頂期を迎えます。

百済寺の伽藍配置

以上の経過を経て大きな力を持った百済王氏により、百済王氏の氏寺として、河内国交野郡の一族の集落南端に建立されたのが百済寺です。

創建されたのは奈良時代後期とされているのですが、七堂伽藍が完成したのは平安時代初期であると考えられています。

百済寺の伽藍配置は、1辺約140mの正方形の敷地を築地塀で囲い、その南端中央部に南門を設けて入口とし、その北に中門・金堂跡・講堂・食堂が南北中軸線上に並ぶよう配された後に北門で来たに抜ける構造となっていました(その伽藍配置は、新羅の感恩寺と同形式であると言われています。)。

中心建物とされた金堂は、そこから東西に延びた後で南に向かう回廊によって四角形に取り囲んだ堂塔院地区を形成し、その中に東塔と西塔を配しています。

外郭施設

① 築地塀

百済寺は、その寺域を1辺約140m四方とする正方形形状とされており、その周囲には同長さの築地塀により取り囲まれていました。

② 南門

そして、百済寺の正面入口は南側に配されていたため、南門が正面の門とされていました。

南門跡には土壇の高さ約1尺で4箇所の礎石と、4箇所の礎石を抜き取った跡が確認され(南側の礎石を抜き取った跡は削平されていたため不明)、このことから東西3間(約10.2m)・南北2間(約5.5m)規模であったと考えられています。

③ 北門

北門は、北側築地塀中央部に位置する門です。

④ 東門

⑤ 西門

垣院地区

垣院地区は、百済寺の中心に配された寺院の中心地区である堂塔院地区・僧院地区の東西に配された4つの区画(東南・東北・西南・西北)です。

① 東南院

東南院地区は、百済寺の東南部に位置した地区です。

② 東北院

東北院地区は、百済寺の東北部に位置した地区です。

③ 西北院

西北院地区は、百済寺の西北部に位置した地区です。

西北院の北部・西部は外周の築地塀で、東部は僧院とを隔てる築地塀で区画されていました。

西北院からは、百済寺の中での最大面積となる東西5間(約12.0m)・南北4間(約10.5m)という大型掘立柱建物の他、その北部に東西柱列・南北溝が見つかっています。

④ 西南院

西南院地区は、百済寺の西南部に位置した地区です。

往時の役割は不明ですが、遅くとも延宝9年(1681年)までに、同地に百済王氏の霊廟となる百済王神社が創建され、現在に至っています。

僧院地区

僧院地区は、百済寺の中心となる堂塔院地区の北側に設けられた僧侶のための施設と考えられます。

百済寺の出入口である南端の南門から中門・金堂へと連なる南北中軸線に連なる形で、講堂・北方建物(食堂?)が配され、そのまま北門に繋がって北側の集落に抜けることができる構造となっていました。

そして、この南北中軸線上の建物の東側には数棟の大型掘立柱建物が建ち並んでいました(西側も同様であった可能性があります。)。

① 北方建物(食堂?)

北方建物は、百済寺中軸線上の講堂北側に建つ東西5間(約15m)・南北3間(約8.1m)の建物です。

金堂や東南院の礎石建物と同じ自然石を基礎とする礎石建物であり(礎石は2基残存)、柱の中心間間隔は東西が約3.0m・南北が約2.7mとされています。

金堂・講堂と比してやや小規模であることから、僧が集まって食事をする食堂であったと推定されています。

② 講堂

講堂は、経典の講義などを行う建築物であり、寺院の中心的建物の1つです。

百済寺講堂は、礎石が残っていないものの、発掘調査により東西7間(約21.0m)・南北4間(約12.0m)、柱の中心間間隔は東西・南北ともに約3.0mの建築物であったことがわかっています。

また、北側中央付近では瓦積の基壇外装の一部が確認されています。

③ 掘立柱建物群

堂塔院地区

堂塔院地区は、寺院の主要建築物である金堂や塔を擁する仏的空間です。

百済寺の堂塔院の伽藍配置は、南から南門・中門・金堂を南北中軸線に配した上で、金堂と中門の間を方形の回廊で取り囲み、その内部に東西2塔を配する構造となっています。

主要建物に回廊を取り付け、その回廊内に東西2塔を配する伽藍配置は薬師寺式伽藍配置と似ているのですが、講堂ではなく金堂に取りつけられている点で異なります。

なお、堂塔院地区の復元に際し、その東半分(東塔・回廊の東半分・中門)は往時の礎石や基壇外装を復元し、他方西半分(西塔・回廊の西半分・金堂・南門)は現在まで残って来た風化した状態のまま復元をしていますので対比するとその違いがわかります。

① 回廊

百済寺回廊は、単廊回廊であり、金堂と中門の間を方形で取り囲む構造となっていました。

回廊の礎石は西側が最もよく残っており、回廊西半分は現在まで残って風化状態のまま復元し、東半分は往時の礎石や基壇外装を復元しています。

② 中門

中門は、堂塔院に入るために回廊南側正面中央に設けられた門です。

中門跡には3箇所の礎石が確認されており、これから東西3間(約10.2m)・南北2間(約5.5m)規模であったと考えられています。

また、柱の中心間の間隔は、東西中央が約4.2m・両脇が約3.0m・南北はいずれも約2.7mであり、中央の柱間に1組の観音開きの扉が設けられていたと考えられています。

なお、中門は往時の礎石や基壇外装を復元しています。

③ 東塔

塔は、釈迦の遺骨である仏舎利(またはその代替物)を納める建築物であり、仏教寺院における重要建築物です。

百済寺には東西2塔建築され、そのうちの東塔は5基(2基の四天柱礎と3基の側柱礎)の礎石が残り、基壇外縁の凝灰岩性の延石列が検出されています。

基壇の大きさは1辺17尺9寸(約12.0m)であり西塔よりもやや小ぶりであることがわかっています。

東塔に使用された軒丸瓦や軒平瓦の文様が他の堂塔と異なっていることから、東塔は他の堂塔とは異なる時期・背景の下で建築されたとも考えられます。

なお、東塔は往時の礎石や基壇外装を復元しています。

④ 西塔

西塔には中心の心礎を含めて10基(亦心礎1基・四天柱礎2基・側柱礎7基)の礎石が残り、柱の中心間隔は中央が約2.1m・両脇が1.7mとなっています。

基壇外縁の凝灰岩性の延石列が検出され、基壇の大きさは約12.2m・高さ約1.4mであり、版築工法(土を何層もつき固める工法)で造られたことがわかっています。

なお、西塔は現在まで残って来た風化した状態のまま復元をしています。

⑤ 金堂

金堂は、本尊(仏像)を祀る仏教寺院の中心建物です。

百済寺の金堂は、両塔跡の中心線上より約65尺離れた位置に存し、高さ約2尺5寸の土壇を擁しています。

創建当初の建物規模は不明なのですが、発掘調査の結果見つかった土壇周囲の墫列繞り5個の礎石・16個所の柱礎下栗石群により、平安時代に再建された柱間3.0m間隔の東西7間・南北4間建物があったこと、その中央に東西3間・南北2間の須弥壇が設けられていたことがわかっています。

なお、金堂は現在まで残った風化した状態のまま復元をしています。

百済寺喪失

百済寺喪失

8世紀末頃から9世紀初頭頃にかけて最盛期を迎えた百済王氏でしたが、藤原家が勢力を強めて権力を独占していくのに反比例して、9世紀中頃から百済王氏はその力を失っていき、10世紀に入ると記録にその名が表れなくなっていきます。

また、百済寺もまた弘仁8年(817年)を最後に記録から消え、河内国交野郡も歴史の表舞台から消えていきます。

文献の記録がないため明らかではないのですが、この後のいずれかの時期に、百済寺が失われてしまいました。

百済王神社創建(江戸時代初期?)

その後、遅くとも延宝9年(1681年)までに、百済寺の西南院跡地に百済王氏の霊廟となる百済王神社が創建されます。

そして、百済王神社は、興福寺の支配下に入って再興が図られ、文政10年(1827年)に興福寺と関係が深い春日大社の本殿が移築され(春日移し)、現在に至ります。

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