大阪環状線は、その名のとおり大阪市街地を環状に走行するJR路線です。
大阪市内で最も有名ともいえるこの路線ですが、完成したのはそれほど昔ではありません。
また、環状と言いつつも円形ではない変な形をしており、その理由は、
既に市街地を形成していた大阪の町の内部に線路を引き込むことが出来なかったことから、外周に沿って線路が敷設されるに至ったことによります。
本稿では、大阪環状線が現在の形になるに至った経緯について順に説明していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
大阪鉄道が湊町~梅田敷設
明治7年(1874年)5月11日、官営鉄道として大阪・神戸間の営業運転が開始され、この路線が明治9年(1876年)7月26日に東方面(京都方面)の向日町まで延伸された後、東京の新橋まで繋げられたことにより明治28年(1895年)4月1日に新橋・神戸間が東海道線と名付けられました。なお、明治8年(1875年)5月1日、官営鉄道として、大阪・安治川間の営業運転が開始されましたが、明治10年(1877年)12月1日に同路線は廃止されています。
近代化を目指した明治維新政府は、殖産興業政策の一環として全国に鉄道を建設しようとしていたのですが、まだまだ国のみでこれを貫徹する予算はありませんでした。
そこで、明治政府としては、民間による鉄道建設(私鉄)を認めて鉄道を敷設させた上で、その整備後に買収して国有化するという政策を進めることとしました(そのため、官営鉄道と並行する私鉄路線は許可せず、また許可する際の軌間も1067mmに統一させました)。
湊町~玉造敷設(1895年5月28日)
以上の状況下において、現在に繋がる大阪環状線の前身となる大阪鉄道が、明治22年(1889年)5月14日、大阪の起点を湊町(現在のJR難波駅)とし、天王寺を経由して柏原まで繋ぐ区間の営業運転を開始させます。
大阪鉄道は、官設鉄道との接続を条件として設立され鉄道敷設を開始していましたので、続けて梅田駅への延伸接続が義務付けられていました。
もっとも、湊町と梅田駅との間は既に市街地が形成されていたので、この間に線路を敷設することはできませんでした。
そこで、大阪鉄道は、次善の策として、その路線から梅田駅に向かうルートとして、市街地の西側(海側)を迂回して行くルートと、市街地の東側を迂回して行くルートの2ルートを検討します。
そして、西側(海側)には大阪湾と大阪市街を結ぶ二大水路であった安治川と木津川が存在していたため、これらの河川の船舶交通を停止して架橋工事を実施することができず海側ルートを断念し、天王寺から梅田へ繋ぐために市街地の東側を迂回して北進し、梅田駅を目指すこととなりました。
そこで、大阪鉄道は、市街地の東側にて天王寺から梅田に向かって延伸工事を進め、まずは明治28年(1895年)5月28日に、天王寺・玉造間を延伸します。
なお、同年8月22日、浪速鉄道(明治30年/1897年に関西鉄道に路線譲渡)において、片町・四条畷間の営業運転が開始されています。
玉造~梅田敷設(1895年10月17日)
また、大阪鉄道は、明治28年(1895年)10月17日、さらに玉造から梅田までの延伸に成功します。
この点、城東線は、四天王寺・大坂城址や、天王寺村・清堀村・玉造町などを迂回するため、市街地から大きく東へ離れた位置に敷設されることとなりました。
そして、大阪市街の東半分を取り囲む関西本線と城東線が市街地から離れたところに敷設されるに至ったため、現在の私鉄各社は 現在の大阪環状線の内側に市街地に繋がるターミナルを設置する必要に迫られてしまいました(天王寺駅・難波駅・湊町駅【現在のJR難波駅】・片町駅・汐見橋駅・天王寺西門前駅・阪神梅田駅・阪急梅田駅・天満橋駅・恵美須町駅・大阪上本町駅など)。また、これらのターミナルと大阪市中心市街地との間の輸送は専ら大阪市電が担うこととなりました。
なお、明治30年(1897年)2月9日、浪速鉄道が関西鉄道に路線譲渡しています。
また、大阪鉄道は、明治31年(1898年)4月27日に桜ノ宮駅を新設し、明治34年(1901年)12月21日に網島・桜ノ宮間を延伸しています。
さらに、明治38年(1905年)3月1日、桃山駅を桃谷駅に改称しています。
西成鉄道が梅田~安治川口敷設
梅田~安治川口敷設(1898年4月5日)
また、この頃、水深が浅く大型船の航行・停泊に適していなかった大阪港の改修工事が急ピッチで進められていまきた。
この工事のための資材・人員の現場搬送を取り込むため、明治31年(1898年)4月5日、西成鉄道において、梅田・安治川口間の営業運転が開始されました(当初、梅田~福島間は貨物のみ)。
なお、現在の北区から福島区を経由して此花区まで結ばれた路線ですが、当時はこの地域の行政区画は西成区とされており、西成区を通る路線であったために西成鉄道と名付けられました。
西成鉄道路線は、前記のとおり大阪港工事のための路線でしたので南ではなく港のある西に向かっての敷設となりました(臨港路線)。
比較的市街地に近接していた西成鉄道路線でしたが、船舶の出入が多いため橋が橋が架けられていない安治川を越えることができず(安治川架橋は昭和36年/1961年)、天王寺のある南に向かって延伸されることもありませんでした。
なお、西成鉄道は、同年10月1日、同路線上に西九条駅を新設しています。
関西鉄道が大阪鉄道を吸収
明治31年(1898年)11月18日に、関西鉄道が放出・網島間を延伸開業すると共に、放出・片町間の旅客営業を廃止します。
その後、明治32年(1899年)3月1日の大阪鉄道・今宮駅新設、同年5月1日の西成鉄道の大阪・福島間の旅客営業開始を経て、明治33年(1900年)に関西鉄道が大阪鉄道の路線譲渡を受けて(翌年合併)、巨大企業に成長していきます。
そして、このタイミングで、梅田駅が大阪駅に統合され、大阪駅が大阪キタの大ターミナルに発展していきます。
その後、関西鉄道は、明治38年(1905年)1月1日、放出・片町間の旅客営業を再開しています。
また、同年4月1日には、西成鉄道の安治川口・天保山間が延伸開業されました。
関西鉄道及び西成鉄道の国有化
鉄道国有法施行(1906年4月20日)
日露戦争後頃になると大陸に影響力を及ぼしていくようになった日本では、朝鮮・中国大陸との一貫輸送体制を構築すると共に、軽工業から重工業への産業構造を転換するという目的達成のため、明治39年(1906年)4月20日に鉄道国有法が施行されました。
これにより、政府主導による全国的な私鉄鉄道網の国有化と官設鉄道への一元化作業が進められるようになります。
関西鉄道及び西成鉄道の国有化(1907年)
もっとも、政府にはこのときまでに日本全国に張り巡らされていった全私鉄を買収する予算がなかったため、主要幹線鉄道のみを国有化し、その他のローカル線は国有化を見送る流れとなりました。
このとき大阪地区で国有化対象となったのは、大阪の主要路線となっていた関西鉄道と西成鉄道の2社であり、明治39年(1906年)12月1日に西成鉄道が、また明治40年(1907年)10月1日に関西鉄道がそれぞれ買収されて国有化されるに至りました。
そして、明治42年(1909年)年10月に東海道線が東海道本線に、西成鉄道が西成線に、関西鉄道の木津・桜ノ宮感が桜ノ宮線に、放出・片町間が片町線に、天王寺・大阪間が城東線に、湊町・名古屋間が関西本線に名称変更されました。
その後、国による国有鉄道路線整備が行われ、明治45年(1912年)に片町駅と京橋駅との接続が行われた後、大正2年(1913年)11月15日には桜ノ宮線の放出・桜ノ宮間を廃止し、片町駅の京橋口乗降場を京橋駅に組み込みました。
残る私鉄路線
なお、当時、関西鉄道及び西成鉄道の他にも、関西には巨大私鉄として南海があったのですが、南海はその巨大さから買収費用を工面できなかった政府は、その国有化を見送りました。
また、その前後に開設された大手私鉄として阪神・京阪・阪神急行 (阪急)・大軌 (近鉄奈良線・大阪線系統))なども存在していたのですが、これらは一部に路面区間を作り「軌道(路面電車)」扱いとされて認可を受けて営業していたため、鉄道ではないとして国有化の対象とされませんでした。なお、これらは路面電車扱いであったため、標準軌であったものの官営鉄道の並行路線が許されるという裏技鉄道だったのです(当時の鉄道と軌道の管轄省庁が異なっていたための裏技)。
関西本線貨物支線
関西本線貨物支線開業(1928年)
昭和3年(1928年)、大阪港(築港)の埋立造成工事の一環として進められていた木津川架橋工事が完成し、長らく問題となっていた木津川の横断が可能となります。
これにより、関西本線が木津川を超えることが可能となったため、同年12月1日、今宮から大阪港までの貨物路線となる関西本線貨物支線(大阪臨港線)が開業されました。
なお、この後、昭和7年(1932年)4月21日に城東線・森ノ宮駅が、同年7月16日に同・寺田町駅が、同年9月21日に同・鶴橋駅が新設されました。
また、昭和19年(1944年)5月1日、南海山手線が国有化されて阪和線と改称し、南海天王寺駅が天王寺駅に統合されます。
戦前の環状線構想
関西本線貨物支線開業により同線と西成線との距離が接近したため、ここで大阪環状線構想が持ち上がります。
もっとも、安治川架橋に対する反対運動や、海側に十分な利用者数が見込めないのではないかとの疑問があったため、戦前に環状線計画が実現することはありませんでした。
環状運転開始
戦後の環状線構想
第二次世界大戦後、戦災復興都市計画によって再び環状線構想が立案施行され、大阪市長・中井光次の尽力により海側の未成区間への新線敷設と港区・大正区における旅客駅の開設検討が進められ、昭和28年(1953年)に大阪環状線建設促進協議委員会発足の上、昭和31年(1956年)3月20日に大阪市内環状線起工式が挙行されました。
西九条~境川信号場接続(1961年4月)
そして、昭和36年(1961年)4月25日、安治川に橋梁が完成し、同橋を通過する路線を用いて西九条駅と境川信号場の間の国鉄路線が繋がりました。
この結果、西九条駅から大正を経由して天王寺までが開通します。
環状線全通(1961年4月25日)
以上の国鉄による未開通区間延伸により(西九条駅〜境川信号場)、当該区間に①関西本線(今宮駅〜天王寺駅)、②城東線(天王寺駅〜玉造駅〜大阪駅)、③西成線(大阪駅〜西九条)、④関西本線貨物支線(大阪臨港線、境川信号場〜今宮駅)を加え環状線路となる大阪環状線が完成するに至りました。
なお、このときに環状線を構成しなかった西成線のうちの西九条・桜島間は桜島線として分離され、また大阪臨港線は起点を大正駅に変更して大阪環状線貨物支線として扱われることとなりました。
双方向環状運転(1964年3月22日)
もっとも、全通当初の大阪環状線では、西九条駅で線路が繋がっていなかったために双方向の環状運転をすることが出来ず、桜島駅→大阪駅→京橋駅→天王寺駅→西九条駅の逆「の」の字運転として始まりました。
その後、昭和39年(1964年)3月22日に新今宮駅を新設すると共に全線を複線化した上で、西九条駅を高架化して線路を繋げたことにより環状運転が開始されるに至りました。
なお、この後、昭和41年(1966年)4月1日に芦原橋駅、昭和58年(1983年)10月1日に大阪城公園駅が新設されています。
国鉄民営化(1987年4月1日)
そして、昭和62年(1987年)4月1日、国鉄分割民営化により大阪環状線もまた西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)に引き継がれています。