【徳川吉宗】紀州徳川家末男から宗家当主となった幸運将軍

徳川吉宗(とくがわよしむね)は、第2代紀州藩主の四男として生まれながら、和歌山藩の第5代藩主となった後、徳川宗家を継ぎ江戸幕府第8代将軍にまで上り詰めた幸運な人物です。

将軍職在任中に江戸幕府三大改革の第一弾となる享保の改革を進め、大赤字を垂れ流していた幕府財政を再建したことから、江戸幕府中興の祖と呼ばれることもあります。

他方で、幕府財政再建のために米価の引き上げや大増税を繰り返したため、庶民の生活を苦しくしたことからマイナス評価も強い将軍でもあります(享保の改革は、あくまでも幕府財政とそれを支える武士の生活を維持するためのものであり、庶民の生活を向上させることが目的ではありませんでしたので、政策目標という意味では達成している改革でした。)。

徳川吉宗の出自

出生(1864年10月21日)

徳川吉宗は、貞享元年(1684年)10月21日、第2代紀州藩主であった徳川光貞の四男(末男)として和歌山城下の吹上邸において産まれます。

幼名は源六・通称を新之助といい、血液型はO型だったとされます。

母は、巨勢利清の娘である紋子(浄円院)であり、和歌山城の大奥の湯殿番であった紋子に対する徳川光貞のお手つきにより徳川吉宗が誕生したと言われます。

なお、徳川吉宗は、その生涯で源六→松平頼久→松平頼方→徳川吉宗と名を変えていますが、本稿では便宜上「徳川吉宗」の名称で統一します。

紀州藩家老の家で育てられる

徳川吉宗が産まれた当時、「四十二の二つ子(四十一のときに生まれた子供)」では子供は元気に育たないという迷信があったことから、一旦和歌山城中の松の木のそばに捨て、それを家老・加納政直が拾うという体裁を取った上で、おむつという乳母を付けられて5歳まで加納家で育てられました。

江戸紀州藩邸に移る

徳川吉宗には3人の兄がいましたので、徳川吉宗が紀州藩主を継ぐ可能性はほとんどないと考えられており、部屋住みとして生涯を送るはずであった徳川吉宗に対しては質素倹約が叩き込まていきました。

もっとも、部屋住みで終わるはずだった徳川吉宗でしたが、その立場が、次兄・次郎吉の病死により少しだけ変化が見られることとなります。

次兄の死により徳川吉宗が紀州藩から江戸紀州藩邸に移されることとなったのです。

越前葛野藩主となる

将軍御目見(1697年4月)

江戸に入った徳川吉宗は、元禄9年(1696年)末、13歳で従四位下右近衛権少将兼主税頭に任ぜられて松平頼久と名乗ることとなります。

そして、この後、徳川吉宗に大きな幸運が訪れます。

その理由は不明ですが、元禄10年(1697年)4月11日、徳川吉宗が、江戸紀州藩邸を訪問した将軍徳川綱吉の御目見に預かったのです。

この将軍御目見により、偶然、部屋住みの日陰者として終わるはずであった徳川吉宗が将軍家ご存知の者となります。

こうなると徳川吉宗を部屋住みのままで放っておくことができなくなり、将軍家・紀州藩としても何とかしてその身を立てさせる必要に迫られました。

越前国内3万石を得て葛野藩主となる

そこで、徳川吉宗にあてがうことができる空所領が探されました。

このとき、あてがうことができる越前国丹生郡・坂井郡内45か村3万石が徳川吉宗に与えられた結果、名を松平頼方と改め徳川吉宗は葛野藩主となりました(なお、このとき、あわせて兄の松平頼職も越前国丹生郡内に3万石を賜って高森藩主となっています。)。

もっとも、徳川吉宗は、家臣を和歌山から派遣して葛野藩は統治し、自身は和歌山城下に留まっていたため、葛野藩は「紀伊領」と呼ばれていました。

紀州藩主となる

長兄・徳川綱教死去(1705年5月)

宝永2年(1705年)5月、長兄である和歌山藩主・徳川綱教が死去し、三兄・松平頼職が跡を継ぎます(徳川頼職)。

これにより、徳川頼職が領していた高森藩が幕府に収公され、その後に高森藩3万石のうちから1万石分が葛野藩主である徳川吉宗に加増編入され、葛野藩は4万石となりました。

三兄・徳川頼職死去(1705年9月8日)

その後、宝永2年(1705年)8月、父・徳川光貞が危篤に陥り、和歌山藩主となったばかりの三兄・徳川頼職がその臨終に駆けつけるべく江戸から早馬で和歌山へ向かいました。

ところが、このときに無理を押して国元へ駆けつけたのが災いしたのか、徳川頼職もまたその後に病に倒れ、同年9月8日に26歳の若さで死去しました。

紀州藩主となる(1705年10月6日)

兄3人が全て死去したため、宝永2年(1705年)10月6日、徳川吉宗が22歳で紀州家を相続して第5代紀州藩主に就任します(なお、このとき徳川吉宗の旧領であった葛野藩領は幕府に収公された上、徳川綱吉から偏諱を賜って徳川吉宗と改名しています。)。

余談ですが、宝永2年(1705年)に長兄・三兄・実父が立て続けに亡くなったことにより徳川吉宗が紀州藩主となっていることから、サスペンス的な事件があった可能性が示唆されることもあります(紀州藩による暗殺説あり)。

結婚(1706年11月)

徳川吉宗は、宝永3年(1706年)11月1日、伏見宮貞致親王の娘であった理子女王(まさこじょおう)を正室(御簾中)に貰い受けます。

宝永7年(1710年)に懐妊した理子女王でしたが、同年5月27日に死産となった上、理子女王自身も産後の肥立ちが悪く同年6月4日に死去しています。

この後、徳川吉宗は、大久保須磨子(深徳院・徳川家重生母)・古牟(本徳院・田安宗武生母)・梅(深心院・源三・徳川宗尹生母)・久免(覚樹院・芳姫生母)・おさめ・お咲などの側室は迎えたものの、二度と正室を迎えることはありませんでした。

和歌山藩政改革(1710年)

宝永7年(1710年)4月に江戸から紀伊へのお国入りを果たした徳川吉宗は、相次ぐ藩主の葬儀費用や宝永4年(1707年)の宝永地震の復興費用などにより悪化していた財政再建を目指し、紀州藩の藩政改革に着手します。

藩政改革とは、端的にいうと藩の収支について収入<支出であったものを、収入>支出にするというものであり、その方法としては①収入を増やすか、②支出を減らすか、③収入を増やして支出を減らすかの3通りしかありません。

この点、徳川吉宗は、自身が質素倹約を是として生きてきた経験を活かし、支出を減らす方法(②の方法)により紀州藩主の収支を改善させることとします。

そこで、徳川吉宗は、まずは自らも木綿の服を着るなどして紀州藩中に質素倹約を徹底させると共に、藩政機構を簡素化するなどしていきます。

また、藩政への不満や有意義な政策施行を汲み上げるために和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して広く庶民から直接訴願を募りました。

このとき行った徳川吉宗の藩政改革により紀州藩の財政は劇的に改善し、徳川吉宗は政治改革を成し遂げた名君として世間に知れ渡るようになりました。

江戸幕府第8代将軍就任

第7代将軍死去(1716年4月30日)

享保元年(1716年)4月30日、第7代将軍徳川家継が8歳で早世したことにより、徳川本家である徳川秀忠の男系が絶えてしまいます。

この結果、江戸幕府開幕以来初めて御三家から次期将軍が選ばれることとなりました。

ここで次期将軍候補者となったのは、尾張徳川家(御三家筆頭)の徳川継友25歳と、紀州徳川家の徳川吉宗35歳の2人でした(御三家のうち水戸徳川家は一ランク下とされていましたので、このときの候補からは外れています。)。

なお、この他にも徳川家継の叔父に当たる館林藩主・松平清武、及びその子で従兄弟にあたる松平清方という徳川家光の男系子孫が存在していたのですが、館林藩では重税を理由とする一揆が頻発して統治が安定していなかった上、他家に養子に出た身分であったことから選考対象から外れていました(この点については、保科正之に始まる徳川秀忠の男系子孫の会津松平家も同様です。)。

第8代将軍就任(1716年7月18日)

当然ですが、紀州藩よりもランクが上とされた尾張藩主であり、第7代将軍徳川家継から「継」の偏諱を受け、また関白太政大臣・近衛家熙の次女であり大奥の実力者であった徳川家宣の正室であった天英院(近衛熙子)の姪でもあった安己姫と婚約し、さらには間部詮房や新井白石ら幕閣からも支持されていた徳川継友が最有力候補とされます。

ところが、大奥(天英院や徳川家継の生母である月光院など)が、藩政改革を行って紀州藩の財政を立て直した徳川吉宗を高く評価した上で徳川家康との世代的な近さを理由に徳川吉宗を推し、これに反間部詮房・新井白石を唱える幕臣が同調します。

そして、天英院が徳川吉宗を指名したこともあり、最終的には徳川吉宗が御三家筆頭の尾張藩主を抑えて江戸幕府第8代将軍に就任することに決まりました。

この結果、徳川吉宗は、享保元年(1716年)7月18日、征夷大将軍・源氏長者宣下を受け、さらに内大臣・右近衛大将に昇進しています。

なお、藩主が将軍の継嗣となった場合には当該藩は廃藩・絶家にされていたのが先例だったのですが(徳川綱吉の館林藩・徳川家宣の甲府藩)、徳川吉宗は、御三家が徳川家康から拝領した特別な聖地であるとして、伊予西条藩第2代藩主であった再従兄弟の徳川宗直を養子に迎えて同人に家督を譲ることで紀州藩を存続させています。

幕府権力の掌握(1716年~1722年)

以上の結果、外部から徳川宗家当主を相続して将軍に就任した徳川吉宗ですが、当然ですが、外部から将軍となった徳川吉宗には将軍としての権力基盤がありません。

それどころか、紀州藩から徳川宗家に連れてきた紀州藩士も、たまたまその日当番だった者をそのまま帯同した加納久通・有馬氏倫ら大禄でない者を40名余りだけという有様でした。

そこで、徳川吉宗は、将軍に就任した直後である享保元年(1716年)ころから享保6年(1722年)ころまでの時間をかけて、自らの権力基盤の構築に取り掛かります。

まずは、少しずつ紀州藩士を幕臣に編入していき、幕府人事を紀州色に染めていきます。

また、徳川吉宗は、紀州藩で隠密御用を務めていた藩士達を幕臣に取り立て将軍直属の隠密として従事させて諸藩や反逆者の取締りを担わせ(御庭番)、諸藩・遠国奉行所・代官などの動静、幕臣達の評判・世間の風聞などを調査した上でこれを「風聞書」にまとめて提出させることにより、大名・幕臣・社会の動きの把握を進めていきました。

加えて、生類憐みの令によって撤廃されていた鷹狩を復活させて軍事調練としての側面を持たせることにより将軍の御膝元である江戸近隣を統制して軍事基盤を整備し、さらに見分などの名目で江戸周辺各所の実情を把握していきました。

正徳の治の否定

幕府人事の掌握を進める徳川吉宗は、表向きには老中による幕閣政治に重きを置くように振舞って譜代大名の支持をとりつけて第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人を務めて力を持っていた間部詮房や新井白石を罷免し、彼らが進めていた正徳の治を否定していきます。

譜代大名が不満を持っていた側用人制度を廃止した徳川吉宗は、新たに御側御用取次を新設してそこに幕臣に取り立てた元紀州藩士を配置していき、実質上の側近政治制度を構築していきました。

また、新井白石らが制定した多くの法令を廃止し(新井白石が作った武家諸法度も廃して徳川綱吉時代のものに戻しています。)、また新井白石の著書を廃棄するなどの学問的な弾圧をも加えました。

もっとも、正徳の治の全てが否定されたわけではなく、正徳の治で進められた政策のうちで特に有用と考えられたものについては維持されています(海舶互市新例・良貨政策など)。

享保の改革

徳川吉宗が江戸幕府第8代将軍に就任した際、幕領からの年貢や主要鉱山・御林などからの収入が頭打ちとなり、第6代将軍徳川家宣の時期には収入約76万両・支出約140万両という大赤字となって江戸幕府は財政難に陥っていました。

石高制を採用することにより米主体の経済政策(農本主義)を基本としていた江戸幕府における将軍と大名・幕臣らと間の主従関係は、将軍から石高を給付され、それに見あった領地をあてがわれると同時に、その石高に応じた軍役を負担することにより成立していました(そして平時における軍役に準ずる奉公が参勤交代であった)。また、大名による百姓支配も石高制にもとづいて行われ、大名は百姓に対して石高に応じた年貢を賦課していました。

この石高制下での年貢は米納が原則となるのですが、参勤交代費用や都市消費生活資金が貨幣にて運用されたため、貨幣を入手することが必要となっていたため、大名・幕臣らは年貢米を売却して幕府貨幣を入手することが必要となっていました。

ところが、新田開発などにより米の生産量が増大し、東西廻り航路が整備されて全国的流通網が確立したことにより中央市場に大量の年貢米が廻送され、その結果として米価安が生じ、俸給を米で受け取る大名・幕臣らの生活が苦しくなっていました。

そこで、将軍となった徳川吉宗は、幕内での権力を確立した享保7年(1722年)頃から紀州藩主時代に紀州藩で成功させた藩政改革(質素倹約)と米価維持政策を江戸幕府においても本格的に実行していくこととします。

人材登用

(1)側近政治体制

前記のとおり、徳川吉宗は、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人を務めて力を持っていた間部詮房や新井白石らを罷免し、新たに御側御用取次を新設してそこに幕臣に取り立てた元紀州藩士を配置していき、実質上の側近政治制度を構築していきました。

その上で、享保2年(1717年)9月27日、三河岡崎藩第4代藩主・水野忠之を老中に任命し、以下の幕府財政再建策を強硬に進めていきました。

なお、水野忠之は、米価の急落や負担増による不満の受け皿となり、「無理で人をこまらせる物、生酔と水野和泉守」と書かれた落書が流行するほどでした。

(2)足高の制(1723年)

徳川吉宗による政治改革を実現させるためには、その身分に関係なく広く有能な人物を登用し、職務を行わせることが有用です。

そして、有能な人物を登用するためには、役職相当の俸給を支給する必要があります。

この点、それまでの制度下では、相当の俸給を支給するためにはその人物を加増するしか方法はなく、有能な人物を加増してしまうとその子孫にもその俸給が受け継がれてしまうため、無能な2代目・3代目に高禄を与えてしまうという問題が生じます。

この不都合性を払拭するため、享保8年(1723年)6月に導入されたのが足高の制です。

この制度は、基準石高より禄高が低い者が役職についた際、「就任期間に限って」その禄高を役職相当の俸給引き上げるというものでした。

これにより、基準石高より禄高が低い者も、高い役職=高い俸禄によって格式を高めることができ、高い役職に就けるようになったため、幕府による能力の高い人物の採用が進んでいきました。

そして、徳川吉宗は、この制度を利用し、下級役人や民間から積極的に人材を登用していきます。

有名なところを列挙すると、のちに田中丘隅は民政で実績を上げた田中丘隅(宿駅名主)、町奉行に就任し公事方御定書の編纂・町火消の整備に尽力した大岡忠相(旗本)、勘定奉行として財政収入の増加に活躍した神尾春央などが挙げられます。

幕府財政再建

(1)倹約

① 倹約令

徳川吉宗は、幕府財政を立て直すため、倹約令を出して質素倹約に努めるよう大名に命じます。

また、徳川吉宗自らも、紀州藩の藩政改革時と同様、肌着や鷹狩の際の羽織や袴を木綿に限ってそれ以外のものは着用せず、質素倹約に勤めました。

さらに、平日の食事は朝夕の二食とし、その内容も一汁一菜を原則としました。

そして、徳川吉宗は、大名や武士だけでなく、一般庶民にまで倹約を強いました。

ところが、紀州藩で成功したこの倹約政策が、江戸幕府では大失敗に終わります。

江戸幕府将軍という日本の事実上のトップの倹約命令は、一気に日本全国に波及し、日本全国の経済活動を冷え込ませてしまったからです。

倹約令によって全国的な商品・サービスの売り上げ激減が起こり、全国的な事業規模の縮小や大リストラが発生し、日本経済が大混乱に陥りました。

なお、徳川吉宗の倹約政策に対し、御三家筆頭尾張家の徳川宗春はこれと異なる積極政策による自由経済政策をとったため、尾張藩と幕府との関係が悪化しています。

② 大奥の整理

次に、徳川吉宗は、幕府予算の1〜2割もの維持費用を費消していた大奥の整理に取り掛かります。

徳川吉宗就任当時に4000人いたとされる大奥から、後の嫁ぎ先が見つけやすいとの理由で家柄の良い者・美女を選んでリストラし、その人員を1300人にまで減員させ、要する予算を圧縮しました。

もっとも、徳川吉宗は、自身を将軍に指名した天英院と月光院は特別扱いし、天英院には年間1万2千両という格別な報酬を与え、月光院には年間1万両を与えると共に居所として吹上御殿を建設するなどしており、天英院の影響下にある大奥の上層部の経費削減には手を付けませんでした。

③ 本所上水・青山上水・三田上水・千川上水の廃止(1722年)

江戸時代初期に江戸市中へ水を供給するために6つの上水道(江戸の六上水)が開削されたのですが、その維持・改修に多額の費用が必要となるため、享保7年(1722年)、儒学者・室鳩巣の上申に従って江戸の六上水のうち本所上水・青山上水・三田上水・千川上水が廃止され、上水が神田上水と玉川上水の両上水に限定されることとなりました(享保撰要類集)。

(2)産業振興

① キリスト教に関係のない洋書の輸入緩和(1720年)

この頃までの江戸幕府ではその内容の如何を問わず洋書の輸入一切を禁止していたのですが、徳川吉宗は、享保5年(1720年)にこれを改め、キリスト教に関係のない洋書(特に、技術書・農政書・外国情勢書など)の輸入を緩和し、進んだ技術等の取り込みを図りました。

② 流地禁止令(1722年~1723年)

流地禁止令は、享保7年(1722年)4月6日に施行された、質流れによる田畑の所有権の移転を禁止する法令です。

その目的は、この当時は農民が質入れした農地が豪農や商人の手に渡って農地が荒廃することが増えていたため、農地を農民に留めて米の生産を維持する目的で制定されました。

もっとも、同法を適用して質流れになった土地の所有権を元の持ち主に戻す義務が生じたことで全国的な大混乱を引き起こし、またこの措置によってかえって農民の金融に支障を来すこともあったことから、享保8年(1723年)8月28日には早々に同法が撤回されるに至っています。

③ 新田開発の奨励(1722年)

石高制を採用していた江戸幕府では、その俸給は米によって支払われました。

そのため、幕府役人は、俸給として受け取った米を食し、また余った分は換金することによって生計を維持していました。

そこで、江戸幕府における財源アップの本命は、米の増産でした。

もっとも、享保期までの江戸幕府では、幕府以外の者が勝手に土地を耕して力をつけることを防ぐために町人や代官による新田開発を規制していたのですが、幕府財政難からそのようなことも言っていられなくなり、町人・代官による新田開発を解禁し、享保7年(1722年)には新田開発奨励の高札を日本橋に掲げるなどして積極的に民間資金に依存した新田開発を促していきました(町人開発新田を町人請負新田、代官開発新田を代官見立新田といいました。)。

また、徳川吉宗は、町奉行大岡忠相命じて武蔵野の開発を進め、勘定所内に新田方掛を新設させて勘定奉行・筧正鋪に新田開発を進めさせます。

そして、新田方に勘定組頭2名と勘定5名が発令されることとなって、そこに紀州藩から招聘した土木技術・河川管理技術者である井沢弥惣兵衛為永らが任じられました。

この紀州流治水術(築堤と水制工を用いた河川流路制御技術)によって川除(かわよけ)を行うことができるようになった結果、それまで河川管理の困難性から放置されていた大河川の中下流域の開発が可能となり、広範囲に亘る沖積平野や河口デルタ地帯の開発が可能となりました。

そして、新たに開発可能となった大河川の中下流域を、勃興する町人の資本力により開発させた結果、享保期に幕領の石高が約50万石増大(440万石となる)させる大幅税収を幕府にもたらしました。

④ 田畑勝手作禁止令の見直し(1735年)

石高制を採用して米主体の経済政策(農本主義)を基本としていた江戸幕府では、田畑において木綿・煙草・菜種などの商品作物の栽培を禁止していました(田畑勝手作禁止令・1643年)。

もっとも、田方勝手作仕法は幕府からの各藩の経済・産業政策に対する干渉であるとして不評であった上、新田開発などにより米の生産量が増加したことに伴って米価が低下していったことから同法を無視して商品作物を生産し始める藩も現れ始めていました。

また、江戸幕府でも米価の維持のために米の生産過剰を防ぐ必要にも迫られていました。

そこで、江戸幕府は、享保20年(1735年)、田方勝手作仕法を発布することによって田畑勝手作禁止令を事実上見直すこととし、年貢増徴を条件に商品作物栽培を黙認する政策に移行していきました。

⑤ サツマイモ栽培の奨励(1734年)

享保17年(1732年)の享保の大飢饉の際に日本全土に多数の餓死者を出す大きな被害が発生したのですが、甘藷(サツマイモ)が伝来していた薩摩国ではその被害が大きくありませんでした。

この事実を知った青木昆陽が、享保19年(1734年)、甘藷を栽培して救荒食とすべきことを徳川吉宗に上書して認められます。

その結果、下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)・小石川薬園(小石川植物園)・上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)などが甘藷試作地として選定され、元文元年(1736年)に薩摩芋御用掛を拝命した青木昆陽により甘藷栽培研究が進められていきました。

なお、この頃になると、甘藷の他にも、朝鮮人参・なたね油・薬草などの商品作物の栽培奨励、酪農の推奨、桃・桜などの植林も進められていきました。

また、それまで清からの輸入に頼っていた砂糖の国産化を図るためサトウキビの栽培に着手し、国産砂糖(和三盆)の商品化にも成功しています。

(3)増税

① 三分一米納令(1722年)

石高制を採用していた江戸幕府では、年貢は米で納めることを原則としていました。

もっとも、農民が育てているのは米だけではありません。

当然、畑で米以外の作物を育てている場合もあります。

そこで、江戸幕府では、米以外の作物を育てている場合には、米の代わりに貨幣で納付させるという方法を採っていました(石代納・こくだいのう)。

そして、その際の徴税方法は地方毎に異なり、関東地方では田方米納畑方永納、東北地方では半石半永制などが採用され、西日本幕府直轄領では三分一銀納(さんぶいちぎんのう)が採用されていました。

このうちの三分一銀納は、畑の面積は村毎に異なるのですが、計算上の便宜から、西日本に関しては村落全体の石高の3分の1を畑とみなし、そこにかかる年貢は米ではなく、銀貨で納めることを認めるという方法でした。

その上で、事実上定免制が採用され、村毎に一定の換銀率が定められ、実際の収入の如何に関わりなく定額を納付すればよいとされていました。

徳川吉宗は、享保7年(1722年)8月にこの三分一銀納法を廃止し、米で納めるよう求めました。

この結果、畑作を行う農民は、収穫した作物を売却して銀に換え、さらにその銀で米を購入して年賀を納めなくてはならなくなりました。

このとき、幕府は、それまでの換算相場よりも増銀となる場合には銀納を認めることとしたため、困惑した農民からそれまで以前よりも多くの銀納を受けることができるようになったのです。

② 上米の制(1722年~1730年)

徳川吉宗は、幕府財政を安定させるため、享保7年(1722年)、参勤交代における江戸在府期間を1年から半年に緩和する代償として、1万石につき100石の割合で献上米を諸藩に課すという上米の制を制定します。

この制度により幕府の収入は増加したのですが、幕府財政を各藩に依存することから幕府権威の低下をもたらし、また江戸藩邸における経費削減により諸藩の経済力が拡大するという問題点が生じました。

そこで、徳川吉宗は、問題点が多いとして享保15年(1730年)に上米の制を廃止しています。

③ 定免法導入(1722年)

江戸幕府では、年貢の徴収については、年毎に収穫量を見てその量を決める検見法(けみほう)が採用されていたのですが、この方法だと収穫高に応じて年貢の量が増減することになり収入が安定しませんでした。

そこで、徳川吉宗は、享保7年(1722年)、年貢徴収方法について、過去5年間・10年間・20年間の収穫高の平均から年貢率を決め、豊凶に関わらず数年間は一定の年貢高を納める定免法に改めました。

定免法によると、幕府の収入が安定するだけでなく、開墾や農法改良等による増分が農民の収入となるために、農民の増産意欲を助長するというメリットがありました。

他方、凶作時には農民を困窮させ、年貢を納められない農民を逃散に追いやるというデメリットもありました。

④ 五公五民制(1728年)

徳川吉宗は、享保13年(1728年)、幕府創設以来の「四公六民制」を破棄し、「五公五民制」を導入することにより大幅増税を行います。

この制度変更は、農民にとって相当の増税となりますので、一気に農民の生活が苦しくなり、各地で百姓一揆が頻発してしまいました。

米価維持政策

石高制をとっていた江戸幕府では、幕臣は米で給与を受け取り、それを売却して銭を得ていました。

そのため、米価がそのまま武士の所得に直結しました。

与えられる米の量が同じなら、高く売れた方が得られる銭が多くなるからです。

ところが、新田開発などによって米の増産が進んだことなどにより米価は低下していき、それに比例して幕臣の生活も苦しくなっていきました。

こうして苦しくなった幕臣の生活を改善するため、徳川吉宗は、生涯をかけて米価引き上げと物価引下げに腐心し続けました(米価の維持に奔走したため「米将軍」や米の字を分解した「八十八将軍」・「八木将軍」とも呼ばれています。)。

物価は需要と供給で決まりますので、行われた政策は、米流通量の制限と、貨幣流通量の増加というインフレ策でした。

(1)米流通量の制限

① 堂島米会所の公認(1730年8月)

米の流通量を制限するためには、その市場を1つに限り、そこを管理することが最も簡便です。

そこで、徳川吉宗は、享保15年(1730年)8月13日、摂津国西成郡の大坂堂島(現在の大阪市北区堂島浜1丁目堂島公園)に米の取引所となる堂島米会所(どうじまこめかいしょ)を設置・公認し、同所においてのみ「帳合米取引」を公許されることとしました。

これにより、堂島周辺に全国各藩の諸大名の蔵屋敷が次々と立ち並び、米商人も全国から多く集まるようになった結果として蔵米を中心として数千〜数万石単位の米が日常的に取引きされることとなり、その結果、全国で収穫された米はまず大坂に集まり、その後に「正米取引(現物取引)」と「帳合米取引」(先物取引)が行われて米価が決まっていくこととなりました。

ここで江戸幕府が大名や商人に米を買わせて流通量を減らすなどして米相場に積極的に介入し、米価のコントロールを図ることとなったのです。

なお、江戸時代は、金貨、銀貨、銅貨(銭)の交換比率が市場に委ねられた変動相場制であったのですが、東日本は金・西日本は銀が主体であったことから貨幣が全国的に統一されておらず、米が基軸通貨的役割を果たしていたため、堂島米会所は単なる先物取引市場ではなく米を介して金銀銅の交換比率を決定する為替市場としての役割をも担っていました。

② 買米令発布(1730年)

また、江戸幕府は、自ら市場の米を買い上げた上でこれを貯蔵することによって米価の引き上げを促すとともに、享保15年(1730年)に諸藩に対し、翌享保16年(1731年)に江戸・大坂の有力商人達に対してそれぞれ買米令を発布することによって強制的に同様の措置を行わせることで市場に流通する米量を減少させて米価のコントロールを図ることとします。

また、米の延べ売買とすることで米の売出しの先送りとさせるためにで米切手の為替化を容認するなどし、囲米の奨励、諸藩年貢米の江戸・大坂への廻米・米売却の制限なども行われました。

(2)貨幣価値の低下策

開幕当初の江戸幕府は、強固な財政基盤を持っていたため、金の含有量が極めて高い金貨を鋳造していたのですが(慶長小判:17.7g・金含有量86.3%など)、時代を経るに従ってその財政は苦しくなり始めます。

そこで、江戸幕府は、元禄8年(1695年)に元禄の改鋳を行い、貨幣流通量を増やして幕府財政の立て直しを図るため、それまでの金銀比率を大きく下げた貨幣を鋳造し始めました(元禄小判:17.8g・金含有量56.4%など)。

金銀比率が低下した貨幣を発行したことにより一時的に多額の改鋳差益(出目)を得た江戸幕府でしたが、その結果として大きな貨幣価値下落=物価上昇が起こります。

そして、元禄13年(1700年)ころには、交換割合は金1両=銀60匁(225.0g)=銭4000文(銀4貫文)に変更されています。

① 宝永の改鋳の失敗(1710年ころ)

物価の急騰に見舞われた江戸幕府は、宝永7年(1710年)ころ、この事態を打開するために慶長小判時代の金銀比率に戻すこととしたのですが、この時点では初代徳川家康時代の財力はありませんでしたので、金銀比率を戻しつつもその大きさを小さくすることで誤魔化しにかかります(宝永小判:9.3g・金含有率83.4%など)。

もっとも、宝永の改鋳は、元禄の改鋳で悪化した金銀の含有量を増やすことなく不純物を取り除いて小さくしただけのものであり、元禄の改鋳で失われた貨幣に対する信頼は戻らず、物価上昇も収まることはありませんでした。

② 正徳の改鋳による正常化(1714年)

困った江戸幕府は、正徳4年(1714年)5月、さらなる貨幣の改鋳を行い(正徳の改鋳)、慶長小判に匹敵するクオリティの貨幣を鋳造します(正徳小判:17.8g・金含有量85.7%など)なお、その翌年にはさらにクオリティを挙げた小判が鋳造されています(享保小判)。

この正徳の改鋳により、物価上昇は治まったのですが、結果として発行できる貨幣量が激減し、経済活動の停滞がもたらされました。

③ 元文の改鋳(1736年)

正徳の改鋳により物価上昇が抑えられていたのですが、8代将軍徳川吉宗により行われた享保の改革により全国で米の増産が行われた結果、米の価格が全国的に暴落します。

米価の下落は一見するとよいことのようにも思えるのですが、米価の下落は手当を米で受け取っていた武士の生活を急激に悪化させます。

この生活に困窮した武士を見た大岡忠相ら経済官僚が、徳川吉宗に対し、金銀の品質を悪くして通貨供給量を増やさないと米高にはならないと進言します。

この結果、徳川吉宗は、米価を上昇させる=物価を上昇させるため、元文元年(1736年)、再び金銀比率を大きく下げた貨幣を鋳造し始めます(元文小判:13.1g・金含有量65.3%など)。

このとき、江戸幕府は、金銀比率を下げた貨幣を発行して米価を上昇させた上で、その他の商業品については株仲間を組織させて冥加金(上納金)を納めさせる代わりに販売独占させてその商売を管理して価格の統制を行いました。

この方法は上手くいき、これら一連の享保の改革と呼ばれる改革によって経済情勢は好転し、元文小判もまたその後約80年にわたり安定的に流通するようになりました。

またこの貨幣改鋳にあわせて、商品流通の拡大に伴い不足して銭高になっていたため錢貨(元文4年/1739年の寛永通宝など)を大量に鋳造し流通させることにより米価・物価を上げることに成功し、幕府財政を黒字にさせました。

幕政改革

(1)勘定所改革(1723年)

徳川吉宗は、享保8年(1723年)、それまで上方と関東で天領が二分支配されて上方御勘定・関東方御勘定とに分かれていたものを統合して勘定奉行の一元支配下に置きました。

その上で、財政業務から訴訟業務等を切り離して勘定所の職掌を公事方(司法)と勝手方(財務)の二つに区分させます。

そして、江戸城内所蔵の財政関係公務書の整理と目録化にも着手し、9万4200冊もの書類を再編しました。

この結果、過去の先例検索や新規情報追加が容易となり、勘定所の事務運営効率化・合理化が進んでいきました。

(2)金銭トラブルは当事者解決とする(1719年~1729年)

江戸時代以前の日本では、お上が行う裁判は主に犯罪者を裁くいわゆる刑事訴訟を対象としており、当事者間の紛争であるいわゆる民事訴訟は為政者によるサービスにすぎませんでした。

ところが、江戸時代にはこのいわゆる民事訴訟の申し立てが激増しており、享保3年(1718年)に持ち込まれたものは3万5790件とされ、そのうち金銭トラブルにまつわるものが3万3037件となっていました。

余りの申し立ての多さから、その年に処理できた件数は約3分の1の1万1651件に過ぎずに残りは翌年回しにされるような状況であり、評定所が金銭に絡む訴訟の処理にかかりきりになって本来の仕事がほとんどできなくなるという事態に陥りました。

そこで、徳川吉宗は、享保4年(1719年)11月9日、江戸幕府は金公事(金銀貸借関係の訴訟)を取り上げず、当事者同士で解決すべしという示談促進法令を出しました(相対済令・あいたいすましれい)。もっとも、利息を伴わない金公事や宗教目的による祠堂銭(名目金)や相対済令を悪用した借金の踏み倒し行為は例外とされています。

もっとも、買米資金の調達を順調にするため、相対済令は享保14年(1729年)12月に廃止されています。

(3)刑事裁判の迅速化(1742年)

徳川吉宗は、松平乗邑を主任とし、寺社奉行・町奉行・勘定奉行を中心として、それまでの刑事裁判例を法規化した江戸幕府の基本法典を編纂させ、寛保2年(1742年)、上巻・下巻の2巻からなる公事方御定書(くじかたおさだめがき)として制定します。なお、公事方御定書は、制定後も改訂作業が続けられ、最終確定は宝暦4年(1754年)となっています。

公事方御定書上巻は警察や行刑に関する基本法令81通、下巻(御定書百箇条)は旧来の判例を抽象化・条文化した刑事法令などを収録しました。

江戸の都市整備

① 目安箱設置(1721年)

江戸中期になると、農村からの人口流入により江戸の人口が急増したこともあり、江戸の町には都市下層民が一大困窮民層を形成していました。

これらの下層民は、江戸の治安・風俗・衛生環境に大きな影響を及ぼすようになっていったため、これに対する対策が急務となっていました。

そこで、徳川吉宗は、享保6年(1721年) 7月、和田倉御門近くの評定所前に毎月2日、11日、21日の月3回、目安箱を設置することを日本橋に高札を立て公示し、目安箱内に投書させることにより町人や百姓などに対する要望・不満の直訴を可能としました。

目安箱の本来目的は民衆不満のガス抜き目的のものであり、そこになされた投書のほとんどは黙殺されて焼き捨てられたのですが、小石川養生所や町火消などの採用事例もあり、完全無意味なものでもありませんでした。

② 江戸町火消制度化

木造建築が密集して立ち並んでいた江戸の町にはす火事が多かったのですが、江戸時代初期には火消の制度が定められておらず、頻発する火事に対応する防火・消火制度の対応が求められていました。

そこで、度重なる大火を契機として、まずは武士によって組織された武家火消が制度化されていました。

その後、徳川吉宗が、享保5年(1720年)に町人によって組織された町火消が制度化され、享保15年(1730年)には江戸町火消しいろは四十八組(その後、深川に十六組)を設置して本格的な町火消制度を発足させました。

また、防火建築を奨励し、火除地の設定などを行ないました。

③ 小石川養生所設置(1722年)

小石川養生所は、目安箱に投書された町医者・小川笙船による施薬院の設置の嘆願書を端緒として、享保7年(1722年) に小石川薬園内に創設された貧病民救済目的の施設です。

小石川養生所では、設置後、江戸幕府滅亡に至るまでの約140年間に亘って、江戸の貧民層に対する医療の無償提供が行われました。

④ 神田天文台設置(1744年)

延享元年(1744年)に神田に天文台設置を設置した上、延享3年(1746年)に天文方(てんもんかた)を置いて天体運行・暦の研究が始められました。

享保の改革の評価

前記のとおり、享保の改革の目的は、あくまでも幕府財政とそれを支える武士の生活を維持することであり、庶民の生活向上など全く考慮していませんでした。

そのため、享保の改革は、①幕府収入の増加(産業振興・増税)、②幕府支出の低減(倹約)、③幕臣の手取り額維持(米価の維持)という政策方針に基づいて行われていきました。

インフレ政策・増税により収入を増加させ、倹約により経済を冷え込ませる結果をもたらしながら幕府財政の再建が行われ、幕府財政とそれを支える武士の生活維持という政策目標は成功に終わりました。

他方、幕府財政再建のための米価高騰と増税は庶民の生活を圧迫し、百姓一揆の頻発を招くという負の一面をもたらしたことも事実です。

徳川吉宗の最期

御両卿(後の御三卿)創設

徳川吉宗は、四男一女を儲けており、そのうち三男は夭折したものの、長男・次男・四男は成人を迎えています。

この徳川吉宗の子のうち、長男は・徳川家重は家督を継いだのですが、徳川吉宗は、残りの二男・徳川宗武や四男・徳川宗尹について他家に養子に出すことはせず、江戸城内に屋敷を与えて手元に置き続けました。

その上で、徳川吉宗は、二男・徳川宗武を家祖とする田安家と、四男・徳川宗尹を家祖とする一橋家(あわせて御両卿といいます。)が創設しました。

また、徳川吉宗の死後に、徳川吉宗の長男である徳川家重の次男・徳川重好を家祖とする清水家が創設されて御三卿となり、この御三卿に徳川将軍家に後嗣がないときに後嗣を出す資格を与えました。

御三卿の創設により、将軍後嗣を出し得る家が、御三家(尾張・紀伊・水戸)、御三卿(田安・一橋・清水)の6家となり、このうち水戸が格下として事実上のランク外とされたため、実質的には5家とされ、そのうちの4家(紀伊・田安・一橋・清水)が紀州藩の血筋となることにより、事実上の尾張藩締め出しに成功しています。

将軍引退(1745年9月25日)

徳川吉宗は、延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・徳川家重に譲って隠居したのですが、徳川家重は幼少期に患った脳性麻痺により言語不明瞭で政務を執ることが困難であったため、以降も徳川吉宗が大御所として実権を握り続け、徳川家重の子である徳川家治の成長を待つこととなりました。

なお、病弱な徳川家重ではなく、聡明な二男・徳川宗武や四男・徳川宗尹を推す動きもあったのですが、将軍継嗣争いを避けるため、長子相続という将軍家の慣例に従ってあえて長兄である徳川家重を選んだとも言われています。

右半身麻痺と言語障害を患う(1746年)

大御所政治を始めた徳川吉宗でしたが、延享3年(1746年)に脳血管障害(中風)を患い、右半身麻痺と言語障害を残してしまいます。

死去(1751年6月20日)

その後、徳川吉宗は、リハビリに励んで、一時は江戸城西の丸から本丸まで歩ける程に回復したものの、寛延4年(1751年)6月20日、再発性脳卒中により死去します。享年は68歳(満66歳)でした。

遺体は、東叡山寛永寺円頓院(現在の東京都台東区上野桜木一丁目)に葬られ、同年閏6月10日、正一位・太政大臣が贈られています。

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