【三種の神器の所在】天皇の証は日本のどこにあるのか

三種の神器とは、天照大神(アマテラス)が、天孫降臨する邇邇芸命(ニニギ)に対して授けた①八咫鏡(やたのかがみ)・②天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)・③八尺瓊勾玉という3つ宝物の総称です(古事記)。

神器は、一般に「じんぎ」と呼ばれることが多いのですが、「しんき」・「しんぎ」・「じんき」などと呼ばれることもあります。

これらは、邇邇芸命と共に地上世界に降りてきた後、その子孫である天皇に引き継がれていき、代々の天皇が神の子孫であることの証明とされる宝物となりました。

三種の神器とひとまとめにされているのですが、その格式に序列があることや、それらの所在、三種と言いながら実際には5つ存在していることなどはあまり知られていないように思いますので、その辺りを踏まえて三種の神器の所在について解説していきたいと思います。

三種の神器の誕生

三種の神器の生まれについては、いずれも古事記にその経緯が記されており、以下のとおりとされています。

八咫鏡と八尺瓊勾玉は天照大神の岩戸隠れの際に、天照大神を引き出すために神楽をすることとしたのですが、この神楽の際の道具とするために作られたとされています。

他方、天叢雲剣は、高天原から追放された須佐之男命が八岐大蛇を退治した後、その亡骸の尾から出てきたとされるものであり、これを和解目的で須佐之男命が天照大神に献上したことから、一旦は3つの神器の全て高天原にいる天照大神の下に集いました。

八咫鏡の誕生

八咫鏡は、天照大神の岩戸隠れの際に、イシコリドメ(伊斯許理度売命・古事記、石凝姥命・日本書紀)が作ったとされる鏡です。

非公開であるため、その大きさ・材質等の情報が不明であり、銅鏡と解釈されることが多いのですが、古事記に天の安河に集まった高天原の八百万の神々が、金山の鉄を用いて、川上の堅石を金敷にして作成したと記されていることから鉄製の可能性も指摘されています。

余談ですが、三種の神器として一括りにされてはいるのですが、実はその中において明確な格式の差が設けられています。

八咫鏡は、天照大神がこれを自分自身だと思って祀るようにと神勅したことからもわかるように(八咫鏡=天照大神)、三種の神器の中でも別格のものとされています。

そのため、八咫鏡は、天皇よりも高い格式を持つ神器(八咫鏡=天照大神>天皇)とされており、天皇ですら同じ空間にいることが憚られるために天皇の行動に同行することなどない特別な神器です(他方、草薙剣と八尺瓊勾玉については、八咫鏡程の格式はなく、天皇の行幸の際に侍従がこれらを携えて随行すること=剣璽動座が許される扱いとなっています。)。

そのため、特別の用事がある場合には、天皇が八咫鏡の下に赴くという扱いとなっています。

八尺瓊勾玉の誕生

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま・八坂瓊曲玉とも)は、天照大神の岩戸隠れの際に、玉祖命(タマノオヤ)が作ったとされる大きな玉で作った勾玉です。

八尺の緒に繋いだ勾玉ではないかとも言われます。

岩戸隠れの際には、八咫鏡とともに榊の木に掛けられて利用されました。

天叢雲剣の誕生

天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ、古事記では草那藝之大刀)は、高天原から追放された須佐之男命(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した後にその尾から出てきたとされる剣です(古事記上巻)。

この剣を手に入れた須佐之男命は、許しを請うために姉神である天照大神に献上したために天照大神の下に届けられました。

なお、天孫降臨する邇邇芸命と共に地上世界に下りた天叢雲剣は、後に日本武尊の手に渡ったのですが、賊に襲われた日本武尊が、天叢雲剣を用いて葦を薙ぎ倒した上で火を放って賊衆を迎え打って難を逃れたと言われたという出来事があったことから別名として草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも言われます。

三種の神器が地上世界へ

葦原中国平定が終わったことにより、天照大御神(と高木神/高御産巣日神)が、孫にあたる邇邇芸命(瓊瓊杵尊・ニニギ)に対し、葦原の中つ国の統治を委任して天降りを命じます。

その結果、邇邇芸命が、葦原の中津国を治めるために高天原から筑紫の日向の襲の高千穂峰へ下ることとなります(天孫降臨)。

そして、この天孫降臨の際に、天照大神が、瓊瓊杵尊に対して三種の神器を持たせたことにより、三種の神器が地上世界へもたらされることとなりました。

なお、天照大神は、瓊瓊杵尊に対して三種の神器を渡す際に、八咫鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)を下したとされています。

三種の神器の継承

その後、瓊瓊杵尊の曾孫であり初代天皇となった神武天皇まで三種の神器が引き継がれました。

そして、その後も天皇の代替わりごとに継承されることとされ、欠史八代とされている2代綏靖天皇→3代安寧天皇→4代懿徳天皇→5代孝昭天皇→6代孝安天皇→7代孝霊天皇→8代孝元天皇→9代開化天皇へと引き継がれたとされています。

八咫鏡が神宮・天叢雲剣が熱田に祀られる

八咫鏡が神宮の御神体となる

以上のとおり、高天原から下された三種の神器は、宮中に納められた上で代々天皇に引き継がれて祀られていったのですが、第10代・崇神天皇が、天照大神と同殿共床にあるのは畏れ多いという理由から、八咫鏡(と天叢雲剣)を当時の宮があった磯城瑞籬宮(師木水垣宮・現在の奈良県桜井市)とは別の場所で祀ろうと考えます。

そこで、崇神天皇は、崇神天皇6年、まずは八咫鏡を皇女・豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の奈良県桜井市所在の檜原神社)に移し、これを祀らせます。

そして、その後、豊鍬入姫命の後を継いだ第11代垂仁天皇第四皇女・倭姫命が、垂仁天皇25年、八咫鏡を祀るための土地を求めて各地を巡ります。

この後、倭姫命は、垂仁天皇26年、伊勢にたどり着いた際に、天照大神から「是の神風の伊勢の国は常世の波の重浪の帰する国なり。傍国の可怜し国なり、この国におらんと欲ふ」という神託を受けたため、倭姫命が五十鈴川上流に祠を建てて祀り、磯宮と称しました。

こうして、伊勢の地に八咫鏡が祀られることとなり、これが神宮(伊勢神宮内宮)となったのです。

なお、余談ですが、後に景行天皇の命により東征に向かった日本武尊が、道中に立ち寄った神宮で天叢雲剣を受け取ったとされていますので、八咫鏡が神宮に祀られた際、同時に天叢雲剣も同様に神宮に祀られたものと推測されます。

八咫鏡と天叢雲剣の形代が宮中で祀られる

崇神天皇により宮中外で祀られることとなった八咫鏡と天叢雲剣ですが、いずれも天皇の権威の源となる三種の神器の1つであり、これらを失うと皇位の根拠がなくなってしまいます。

そこで、八咫鏡と天叢雲剣の形代を作り、これらを新たな神の依り代として宮中で祀ることで現物の代用にしようと考えられました(古語拾遺)。

そして、八咫鏡については天照大神の依り代となるに耐える鏡が作られて八咫鏡の分霊を宿し、また、天叢雲剣についても御霊の依り代として相応しい刀をもう一振り打った上でそこに天叢雲剣の分霊を宿し、これらが現物に変わって宮中に祀られることとなったのです。

天叢雲剣が熱田神宮の御神体となる

景行天皇の御子であったヤマトタケルノミコト(古事記では倭建命、日本書紀では日本武尊)が、景行天皇40年10月2日、景行天皇の命を受けて東征に向かいます。

日本武尊は、東に向かう途中で神宮に立ち寄り、姨である倭姫命から嚢と共に天叢雲剣を賜ります(このとき、天叢雲剣が神宮にあった理由は不明です。)。

その後、尾張国愛知郡に至った日本武尊は、同地で建稲種命の妹である宮酢媛と恋に落ちます。

その後、同地を発って東征し、これを成し遂げた日本武尊が再び同地に戻ってきます。なお、日本武尊は、駿河国に到達した際に地元の賊衆に襲われたのですが、このときに天叢雲剣を用いて葦を薙ぎ倒した上で火を放って賊衆を迎え打って難を逃れたと言われており、この出来事から天叢雲剣は別名として草薙剣とも言われます(また、放たれた火が燃え盛った様子からこの出来事が起こった地は焼津と名付けられています。)。

その後、都に戻ることとなった日本武尊は、宮酢媛に天叢雲剣を差し出し、持ち床の守りとするよう言って渡してしまいます。

ところが、天叢雲剣の神力を失った日本武尊は、途中にある暴悪の神がはびこる伊吹山で暴風雨にさらされ、尾張国に戻ろうとしたものの鈴鹿山を越えたあたりで力尽き、鈴鹿川の中瀬で亡くなってしまいました。

他方、宮酢媛は、日本武尊との約束を守って天叢雲剣を祀りながら独りで床を守っていたのですが、老いて死期が迫ると、日本武尊との思い出の天叢雲剣を鎮守するに相応しい場所を探し求めます。

そして、水田に倒れても消えない炎を発する楓の木がある場所を見つけ、炎により熱くなった田にちなんで熱田と号し、同地に天叢雲剣を祀ることとします。

こうして、熱田の地に天叢雲剣が祀られることとなり、これが熱田神宮となったのです。

三種の神器が現在に引き継がれる

八咫鏡天叢雲剣八尺瓊勾玉
実物神宮(伊勢神宮内宮)熱田神宮皇居「剣璽の間」
形代初代:宮中三殿「賢所」初代:喪失
2代:皇居「剣璽の間」

以上の結果、八咫鏡の実物は神宮(伊勢神宮内宮)・形代は宮中に、天叢雲剣の実物は熱田神宮・形代は宮中に、八尺瓊勾玉の実物は宮中においてそれぞれ祀られることとなりました。なお、八尺瓊勾玉は形代が作られておりません。

そして、その後、これらが現在まで引き継がれていったのですが、現在に至るまでの間に紆余曲折がありましたので、現在に至る経緯の概略を説明します。

なお、皇位承継の儀式の際に使用されるのは、八咫鏡の形代・天叢雲剣の形代・八尺瓊勾玉の実物であり、八咫鏡及び天叢雲剣の現物が使用されることはありません。

また、天皇の面前に神器が移御される剣璽等承継の儀では、天叢雲剣形代と八尺瓊勾玉の現物が天皇の前で承継されるのですが、格式の高い八咫鏡の形代が天皇の前に持ってこられることはなく、天皇が八咫鏡の形代に報告に行くというたてつけとなっています。

八咫鏡の行方

(1)現物(伊勢神宮内宮)

前記のとおり、八咫鏡の現物は、神宮(伊勢神宮内宮)の御神体として祀られています。

神宮にある八咫鏡は、御桶代と呼ばれる密閉された箱状の容器に入って祀られ、現在まで引き継がれて現存するといわれています。

そして、20年に一度行われる神宮式年遷宮の際には、夜間、行列を組んだうえで人目に触れぬよう白布で覆った状態で移御されることとなっています。

(2)形代(宮中三殿「賢所」)

他方、八咫鏡の形代は、第10代・崇神天皇治世に作られた後、宮中の賢所で祀られています。

もっとも、宮中は度々火災に遭って焼失しており、八咫鏡の形代もまたわかっているだけで天徳4年(960年)9月23日(日本紀略・小右記)、天元5年(982年)11月17日(愚管抄)、寛弘2年(1005年)11月15日(御堂関白記)、長暦4年(1040年)9月9日(春記)の火災被害を受けています。

そのため、今日までに鏡の形状を失い、わずかな灰となって器の中に保管されているとも言われています。

また、八咫鏡の形代は、源平争乱の際に都落ちする平家によって宮中から平家によって持ち出され、その後の元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日の壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇と共に入水しました。

もっとも、八咫鏡の形代はその後に浮かび上がってきたために、回収されています。

水よりも比重が重いはずの八咫鏡が浮かび上がってくるというのは物理的におかしいのではないかと思うところ、この点については空気が入った箱に密閉した状態で入っていたからと言われているのですが、実際には八咫鏡の形代が灰の状態であったためとも考えられそうです。

そして、壇ノ浦から回収された八咫鏡の形代は、再び宮中に戻されて現在まで引き継がれ、現在は宮中三殿「賢所」で祀られています。

天叢雲剣の行方

(1)現物(熱田神宮)

前記のとおり、天叢雲剣の現物は、熱田神宮の御神体として祀られています。

天叢雲剣は、天智天皇7年(668年)に盗難事件に遭った後のですがその18年後の朱鳥元年(686年)6月10日に熱田社に戻って来たとされ(日本書紀・熱田太神宮縁記)、またその他にも盗難未遂事件があった文書も残されています(古語拾遺)。

さらに、アメリカ軍占領による喪失に備えるため、昭和20年(1945年)8月21日から同年9月19日までの間、飛騨一宮水無神社に仮遷座されたのですが、その後に熱田神宮に戻され、最終的には熱田神宮に戻されて現在に至っています。

(2)2代目形代(皇居「剣璽の間」)

他方、天叢雲剣の形代は、第10代・崇神天皇治世に作られた後、宮中で祀られていたのですが、源平争乱の際に都落ちする平家によって宮中から平家によって持ち出され、その後の元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日の壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇と共に入水しました。

このとき、海に沈んだ天叢雲剣の形代をその後に発見することができなかったため、初代の天叢雲剣の形代は失われてしまいました(吾妻鏡)。

そこで、朝廷では、やむなく伊勢神宮より剣の献上を受けた上で、熱田神宮にある天叢雲剣の実物から御霊を分霊させることにより新たな「形代の剣」を作り、これを2代目の天叢雲剣の形代としました。

この2代目の天叢雲剣の形代が現在まで引き継がれ、現在は皇居「剣璽の間」で祀られています。

八尺瓊勾玉の行方

(1)現物(皇居「剣璽の間」)

八尺瓊勾玉については、形代が作られることがありませんでしたので、第10代・崇神天皇治世に八咫鏡・天叢雲剣の実物が外に出た後も、八尺瓊勾玉だけはその現物が宮中に残され祀られていました。

そして、八尺瓊勾玉の現物は、源平争乱の際に都落ちする平家によって宮中から平家によって持ち出され、その後の元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日の壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇と共に入水しました。

もっとも、八尺瓊勾玉の現物はその後に浮かび上がってきたために、回収されています。

壇ノ浦から回収された八尺瓊勾玉の現物は、再び宮中に戻されて現在まで引き継がれ、現在は皇居「剣璽の間」で祀られています。

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