【ヤマト政権の成立】鉄の独占差配により連合政権盟主となった古墳時代の天皇家

ヤマト政権は、三輪山麓に成立した小国が、弥生時代後期に朝鮮半島との交易によって鉄へのアプローチを手にしたことを利用して全国の小国を束ねることによって勢力を高め、現在の天皇家へと繋がる国家の盟主となった古代王権です。

ヤマト政権が成立・発展していった時代は、王墓として古墳が造られていった時代であることから、そのことにちなんで古墳時代と呼ばれています。

古墳時代にはまだ国内で文字が使われていませんでしたので、ヤマト政権成立の詳細を示す国内文献が残されておりませんが、大陸の文献や考古学的調査から明らかとなった結果がありますので、本稿ではこれらを基に現在の到達点を紹介していきたいと思います。

ヤマト政権誕生前

小国乱立時代

狩猟採集生活を行っていた時代には大きな身分差がなかったのですが、縄文時代晩期から弥生時代前期に稲作が入ってきたことにより富(米)の備蓄が可能となり、富の差による身分差が生まれます

また、稲作による富(米)の集積が生じた結果、その奪い合いという人間同士の戦いが始まることとなりました。

この結果、弥生時代は戦いの時代となり、弥生時代の集落はそれぞれが防衛のための環濠を巡らした防衛構造を有するようになり(環濠集落)、それぞれの集落が独立の村となり、またそれが国を形成していきました。

稲作が広がり始めた弥生時代前期頃は、稲作技術も未熟であり、その方法は川に近い低湿地に出来た湿地を用いて湿田とし、そこを木製農具を用いて耕す水稲耕作の方法が取られました。

この水稲耕作は、耕作地が制限される上、洪水の被害などを受けやすいなど、生産性の高くない耕作方法でした。

そのため、湿田での水稲耕作時代は各村(国)が抱えることの人口には限りがあり、各村(国)がそれほど大きな規模となることはなく、全国各地に小国が乱立する状況となるにとどまっていました。

文献に残る小国乱立の記録

(1)「漢書」地理志

この頃の日本に文字はありませんので、小国乱立時期の詳細についての状況を記した国内文書は存在していないのですが、中国の歴史書に記録が残されています。

1世紀ころに班固(32年~92年)により編纂された「漢書」地理志によると、「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となり、歳時をもって来たり献見すと云う」という記載があり、これにより現在の北朝鮮辺り(漢の植民地であった楽浪郡)から南東に進んだ海の先に倭人が、100を超える小国(環濠・土塁などで囲んだ自治共同体)を形成してその中で暮らしており、定期的に前漢王朝(の出先機関であった楽浪郡)へ朝貢していたということがわかります。

なお、 この頃の小国家の長の墓と考えられる甕棺群(福岡平野の須玖遺跡など)には、銅鏡・銅剣・銅鐸・ガラス製大勾玉などの多くの副葬品が納められていることが確認されることから、考古学的に見ても、その政治構造は不明であるものの、各小国がそれぞれに漢(銅鏡)や朝鮮半島(銅剣・銅鐸)との盛んに交流していたことがわかります。

(2)魏志東夷伝倭人条

この小国乱立状態は3世紀中国における魏国の歴史書である魏志東夷伝倭人条に「今使訳通ずる所三十国」と記載されていることから、3世紀にいたるまで続いていたことがわかります。

この弥生時代日本の小国乱立と戦乱の事実は、弥生時代の集落にはその周囲に深い濠や土塁をめぐらされていたこと(環濠集落)、稲作に不適なはずの高所に集落が造られていたこと(高地性集落)、当時の墓に納められた人骨には戦争によって死傷したことを示す痕跡が多く残されていることなどから考古学的見地からも証明されています。

いっときの平穏

戦乱に疲れた弥生時代日本の一部地域の小国では、争いを収めるための手段が検討され、卑弥呼を邪馬台国の「女王」として擁立した上で、魏に遣使して「親魏倭王」に任じられて金印を授与されることにより(魏志東夷伝倭人条)、中国王朝の威光を借りて小国を取りまとめる工夫が試みられました。

なお、このとき卑弥呼が治めたとされる邪馬台国の所在地は明らかではなく、有力な候補としては、近畿にあったとする説と九州にあったとする説の2つがあります。

この点、近畿説によると3世紀に近畿から北部九州に及ぶ統一的な広域政体がすでに成立していたことになり、他方、九州説によると北部九州一帯の地方勢力ということになります。

もっとも、その後に卑弥呼が死去すると再び内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女壱与(臺與)が王となって再び治まったとされています。

ヤマト政権前身の誕生

ヤマト政権前身の誕生

前記の邪馬台国との関係は不明なのですが、弥生時代後期頃に後にヤマト政権と言われる政権の前身が三輪山麓の地に誕生し、そこに纒向という巨大な古代都市を造営して本拠地とします(纏向からは巨大宮殿跡が見つかっている一方で、環濠・武具・農具などの生活痕の発掘が認められませんので、計画的な政治都市であったと考えられています。)。

なお、ヤマトの名称の由来は、かつて三輪山麓一帯を「みわやまのふもと」という意味で「やまと(大和)」と呼んでいたことにちなむものであり、7世紀ころから使われた律令国にいう大和という概念とは異なるものです。

この点、時期は合っていないのですが、記紀には、垂仁天皇元年(紀元前29年)に即位した第11代・垂仁天皇は纒向珠城宮(師木玉垣宮)に、景行天皇元年(71年)に即位した第12代・景行天皇は纒向日代宮に宮を置いたと記されています(年代があっていないため、正確性は不明ですが、ヤマト政権の大王が纏向を本拠としていたことの根拠の1つになると考えます。)。

なお、この纏向遺跡は、昭和期の大規模発掘調査によって3世紀初頭に造営されたことが明らかとなりましたので、考古学的に発見された纏向の存在時期は、魏志倭人伝にある邪馬台国の存在時期と同時期となっています。

そのため、邪馬台国について畿内説をとると邪馬台国=纏向となり、邪馬台国について北九州説をとると邪馬台国か纏向のどちらかが他方を吸収したと考えるのが合理的です(日本書紀仲哀天皇8年には仲哀天皇が北九州に行ったと記載されていますので、ヤマト政権が北九州各国を統合したとも考えることもできそうです。)。

鉄製農具による農業革命

ここで、いったん前記の邪馬台国の末期における中国の歴史書を離れ、国内の考古学的発掘結果を検討します。

弥生時代の後期になると朝鮮半島から鉄製農具が入ってきます。

鉄製農具があると、堅い土を掘り返すことができますので土木作業が可能となり、水源と田を結ぶ水路を掘削することにより灌漑施設を作って条件の良い土地まで水を引けるようになります。

その結果、水源との関係でそれまで利用できなかった場所が水田として使用できることとなり、また洪水による被害の及ばない田が多くできるようになります(乾田の成立)。

この結果、稲作は、それまでのような生産性の低い湿田での水稲耕作ではなく、生産性の高い乾田での耕作が行われるようになっていきます。

そして、この乾田耕作の広がりにより、鉄製農具を手に入れることが出来た国の生産力は一気に跳ね上がり、鉄器を手に入れられなかった国を経済力で凌駕することとなりました。

ヤマト政権の前身が鉄を入手

弥生時代後期の時点では、国内で鉄を手に出来たのは、鉄の産地である朝鮮半島に近いことを利用して朝鮮半島と交易していた北九州諸国のみでした。

ところが、正確な時期と手段は不明なのですが、3世紀に至る頃までに、後にヤマト政権と言われる政権の前身が、元々朝鮮半島から鉄を得ていた北九州各国に代わって交易により朝鮮半島から鉄を手に入れたことで力をつけていきました

ヤマト政権の勢力拡大(古墳時代前期)

ヤマト地方での勢力拡大

ヤマト政権の前身がヤマトの地に誕生した当初は、その周囲には同じような小国が乱立し、それらの小国はそれぞれに独自の文化を持つ独自の文化圏を作っていたと考えられます。

この状況下において、ヤマト政権(の前身)は、何らかの方法により朝鮮半島との貿易により鉄器流通権益を持っていた北九州の小国と連携して朝鮮半島の鉄を手にして力を手にしていきます(なお、北九州からは朝鮮との交流を示す漢鏡・刀剣類などが大量に出土しているのに対し、纒向ではこれらは出土していませんので、成立当初のヤマト政権が朝鮮半島と直接貿易していたとは考え難いと言われています。)。

前方後円墳の誕生

そして、勢力拡大に伴い、ヤマト政権の下に全国各地の技術や富が纏向(やまと)に集積していくようになります。

その結果、ヤマト政権の長であった大王=おおきみ(彦=ヒコ、別=ワケとも)に権力が集中し、その死後には権威を示すための巨大な鍵型墓である前方後円墳が纏向の地に造られるようになります。

なお、弥生時代の近畿地方において鍵型の墓が造られたことはなく、一部吉備地方にあっただけなのですが、纏向に君臨した王の墓として鍵型が取り入れられたこと、その他、全国各地にあった王墓の特徴を取り入れたことにより前方後円墳(纏向型)が成立するに至りました。

そして、このことから、この時点で纏向が、全国各地にあった各国と関係を持っていたことがわかります。

纏向には、奈良盆地南東部に分布する「オオヤマト古墳集団」(萱生古墳群・柳本古墳群・纒向古墳群・磯城の古墳)を構成する4グループの1つに分類される纏向古墳群が形成され、以下のような巨大な前方後円墳が次々と造られました。

① 纏向石塚古墳(2世紀末〜3世紀前半)・墳丘長96m

② 纏向矢塚古墳(3世紀中葉以前)・墳丘長96m

③ 纏向勝山古墳(3世紀中葉以前)・墳丘長110m

④ 東田大塚古墳(3世紀中葉以前)・墳丘長110m

⑤ ホケノ山古墳(3世紀中葉)・墳丘長80m

⑥ 箸墓古墳(3世紀中葉〜後半)・墳丘長278m

このように、3世紀前半頃のほぼ同時期に90m級の前方後円墳が5基と、その直後にさらにその3倍もある巨大な箸墓古墳が造営されていることからすると、纏向の地にこれらの巨大古墳を造る力を持つ勢力が出現した(成長した)ことがわかり、この勢力がヤマト政権であると考えられています。

全国的勢力拡大

そして、3世紀後半頃になると、近畿をはじめとした西日本各地に、前方後円墳(または前方後方墳)式の墳丘・竪穴式石室の内部に長さ数mの木棺を配して遺体を埋葬する埋葬施設・呪術的意味を持つ副葬品などの共通した画一的な特徴を有する大規模古墳が現れ始めます(出現期古墳)。

この点、纏向におけるヤマト政権の前方後円墳の造営が日本国内における前方後円墳の先駆けといえる上、ヤマトの箸墓古墳(280m・現在の奈良県桜井市)や西殿塚古墳(234m・現在の奈良県天理市)の古墳が突出して大きいことなどから、政権の中枢はヤマトに置かれており、その後の西日本への古墳群の拡大は、ヤマト政権の勢力拡大(広域政治連合の形成)を示していると考えることができます。

そして、4世紀中葉までには、前方後円墳が東北地方南部から九州地方北部にまで波及して日本列島の大半の地域で古墳時代がはじまっていることから、この頃までにヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)が誕生していることがわかります。

この点、前方後円墳は日本全国に4800基〜5200基あるとされ、北は岩手県奥州市の角塚古墳、南は鹿児島県肝属郡肝付町の塚崎古墳群第51号墳にまで広く分布していることから、最終的にヤマト政権の影響力が現在の北海道・青森県・秋田県・沖縄県の4道県を除く地域にまで広く及んでいたことがわかります。

このヤマト政権の勢力拡大として注目すべきは、鉄器提供と連合政権参加という戦争ではない形で繰り返されたことです(この時期に国内で大きな戦いがあったことを示す考古学的資料がありません)。

この結果、国力をすり減らすことなくヤマト政権の勢力が大きな力をつけていき、日本国内で争いがなくなっていった結果、それまでの防衛を主眼とした弥生式の環濠集落が破棄されていき、纏向のすぐ北西にも弥生式の唐古・鍵遺跡があったのですが、纏向の造営期に失われています。

朝鮮半島南部に支配力を及ぼす

前記のとおり、国内で勢力を高めていったヤマト政権ですが、その国内統治ツールは朝鮮南部算出の鉄であったことから、ヤマト政権はこの権益を維持するため兵を頻繁に朝鮮半島に派遣し朝鮮半島南部の小国家群に対して支配力を及ぼしていました(宋書など)。

このことについては、朝鮮側の史書である「三国史記」にも度重なる倭の侵攻があり、さらには新羅・百済が倭に王子を人質として差し出していたと記されていることからも明らかであり、派兵の結果としてヤマト政権が朝鮮半島南部に影響力を持っていたことは間違いないと思われます。

ところが、 4世紀半ば頃、朝鮮半島においてヤマト政権の鉄利権を脅かす事件が起こります。

朝鮮半島北部の峡谷であった高句麗が、勢力拡大を目論んで南下政策を始めたのです。

このとき、391年、ヤマト政権は加羅の鉄利権を守るために朝鮮半島に軍隊を送って百済(百済は、372年に七支刀・七子鏡を献上して倭国と国交を結んでいます。)や新羅を服属させて朝鮮半島南部を制圧したのですが、南下してきた高句麗軍に敗れます(好太王碑)。

もっとも、ヤマト政権は、この戦いの後も朝鮮半島南部に相当範囲の支配領域を有しており、413年から478年までの間に中国南朝(東晋・宋・斉など)に遣使入貢した倭国の5代の王であった讃・珍・済・興・武が、中国から使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任じられており、倭国王(ヤマト政権の王?)が朝鮮半島の新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓を支配していたと認められていました。

また、4世紀末頃になると、戦乱を避けて朝鮮半島から日本に亡命してくる者(渡来人)が多く現れ、ヤマト政権ではこれらの者を厚遇して積極的に大陸の技術・文化を取り入れていきました。

ヤマト政権確立へ(古墳時代中期)

前方後円墳の巨大化(4世紀末ころ)

4世紀末頃になると、古墳群の中心が奈良盆地から大阪湾に近い大阪南部に移り、さらにそれまでと比べものにならない大きさにまで巨大化します。

このことから、4世紀末頃になると、ヤマト政権では大きな古墳を造ることが可能になるほどの巨大な力を持つに至っていることがわかります。

なお、この頃のヤマト政権の長は、中国・朝鮮半島諸国に対しては「倭国王」「倭王」と称していたのですが、5世紀ごろから国内向けには「治天下大王」・「大王」・「大公王」などと称し始め、中華思想からの脱却を模索し始めています。

王権の確立へ

そして、4世紀末頃にはヤマトから畿内全域に勢力を拡大し、さらにその他全国の小国とも連合して巨大政権を作り上げたヤマト政権は、倭と呼ばれていた古代日本の代表者として大陸と独占交渉を行うことによって鉄を始めとする貿易利権を独占し、これを国内の小国に差配することによって協力する小国は連合に参画させ、反対する小国を統合するなどを繰り返して初期国家を建設し、王権を完成させていきます。

この点、考古学において古墳時代中期とされる4世紀末から5世紀の時期になると、国内古墳の副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具もあらわれて短甲や冑など騎馬戦用の武具も増えていくことから、ヤマト政権が高句麗騎馬軍団との戦争を続けるなどして軍事政権的要素を強めていったものと考えられます。

また、5世紀頃になると朝鮮半島南部(百済南方~伽耶西方の馬韓地域など)にも前方後円墳が現れ始めますので、ヤマト政権が朝鮮半島への影響力を強めていたこともわかります。

この後、5世紀後半頃には国内での鉄器の製造が始まるなどしてヤマト政権の完成と共に、倭の五王や王朝交代説の話となっていくのですが、話が長くなる上、ヤマト政権の成立という本稿の主題から外れて行きますので、それらの話は別稿に委ねたいと思います。

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