【鎖国】江戸幕府の海禁政策

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教の禁教を目的として、オランダを除くキリスト教国の人の来航と日本人の出入国を禁止した状態で行われた対外政策(とそこから生じた孤立状態)をいいます。

その目的は禁教の徹底であり、貿易利益の獲得ではありません(鎖国体制を維持した結果、江戸幕府が貿易利益を独占する結果に至ったに過ぎません。)。

期間としては、寛永16年(1639年)のポルトガル船入港禁止から嘉永7年(1854年)3月3日の日米和親条約締結までを指すことが一般的です。

もっとも、江戸時代に「鎖国」という言葉が広く用いられていたという事実はなく、後世の講学上の概念ですので注意が必要です。

鎖国に至る経緯

南蛮貿易時代(16世紀後半)

嘉靖28年(1549年)を最後に勘合貿易が途絶えたことにより、日明両国間の貿易は密貿易のみとなってしまったのですが、ここにポルトガルが割り入ってきます。

16世紀後半になると、諸大名が格別に諸外国と貿易をしており、明・朝鮮・琉球・アイヌ・南蛮などがその相手国となっていたのですが、その中でも鉄砲や弾薬などを買い求めるため(その後は、中国産の生糸を入手するため)にポルトガル及びスペインとの間の貿易が積極的に進められました(南蛮貿易)。

もっとも、この南蛮貿易は、日本側から見ると2つの大きな問題点がありました。

1つ目は、カトリック国であるスペイン・ポルトガルは、貿易と布教がセットになっており、貿易とあわせてキリスト教(カトリック)宣教師を日本に派遣し、日本国内で奉行活動を行っていたことです。

2つ目は、主たる貿易品であった中国産生糸の値段をスペイン・ポルトガルが決めていたため、そこから上がる利益の多くをスペイン・ポルトガルに持って行かれていたことでした。

そこで、まず豊臣秀吉が、キリスト教布教を防ぐため、天正15年(1587年)6月19日にバテレン追放令を発布して京にあった教会(南蛮寺)を破却させたのですが、利益の大きい南蛮貿易を禁止しなかったため大きな影響は生じませんでした。

他方、江戸幕府は、慶長9年(1604年)に、貿易の管理を試み、南蛮人が独占する生糸貿易に手を入れるため、糸割符制度を導入して生糸の価格統制を行っています。

オランダとの貿易開始(1609年)

そのような状況下において、慶長5年(1600年)、ネーデルラント連邦共和国(後のオランダ、本稿では便宜上「オランダ」の表記で統一します。)船のリーフデ号が日本に漂着します。

この話を聞いた徳川家康が、乗組員を江戸に招いて面談したところ、プロテスタントのオランダは貿易と宗教を切り離して活動しており貿易の見返りとして布教を求めないという話を聞かされます。

そこで、徳川家康は、外交顧問としていたオランダ人・ヤンヨーステンやイギリス人・ウィリアムアダムスなどのアドバイスの下、慶長14年(1609年)、キリスト教の布教を行わないことを条件として朱印状を発行し、平戸藩領にネーデルラント連邦共和国東インド会(VOC)の平戸オランダ商館を設置し、オランダ商人との貿易を開始します。

幕領に禁教令発布(1612年)

もっとも、同年、本多正純の寄力であった岡本大八(洗礼名パウロ)が、肥前国のキリシタン大名有馬晴信を欺くために徳川家康の朱印状を偽造したことが発覚したところ、両者がカトリック信者であったことから、江戸幕府のカトリック信者や南蛮商人に対する弾圧が始まります。

そして、江戸幕府は、慶長17年(1612年)及び翌慶長18年12月22日(1614年1月31日)に、キリスト教を禁ずる法令(禁教令)を発布し、キリスト教の布教を禁じます。

なお、この時点で日本全国には約70万人ものキリスト教徒が存在していたと言われているのですが、以降の信仰は禁じられることとなりました。

また、この頃になると、ヨーロッパにおいてプロテスタント国であるオランダ・イギリスが力をつけ、絶対的王者であったカトリック国のスペインの地位を脅かすにようになります。

イギリスとの貿易開始(1613年)

イギリスでは、セーリスを平戸に派遣し、ウィリアムアダムスの紹介により駿府城の徳川家康・江戸城の将軍徳川秀忠に拝謁して国王ジェームス1世の国書を捧呈し、慶長18年(1613年)9月1日に通商許可を得て日本との貿易を開始します。

この結果、この時点での日本と貿易する西欧国は、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダの4カ国となります。なお、この他、アジア諸国の明・朝鮮・琉球・アイヌとの貿易もなされていました。

もっとも、オランダとイギリスは中国に貿易拠点を有していなかったために両国から日本へのめぼしい輸出品が存在せず、両国の対日貿易は商業理由というよりも政治的理由(ヨーロッパにおけるカトリック国対プロテスタント国の延長)という側面が大きかったと考えられます。

カトリック国対策

江戸幕府は、元和2年(1616年)に西欧船の寄港地を平戸・長崎(1603年から幕領)に制限し、また元和3年(1617年)には堺における外国人の武器購入を禁止します。

元和6年(1620年)、堺の平山常陳が船長をつとめる朱印船が2名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕されるという事件が起こります(平山常陳事件)。

この事件は、スペイン・ポルトガル(カトリック国)とイギリス・オランダ(プロテスタント国)との主権争いの過程でイギリス・オランダが協力してポルトガル交易を妨害した事件なのですが、江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、元和の大殉教といわれる激しい弾圧の引き金となりました。

そして、カトリック国対策として、元和7年(1621年)に日本人がルソンへ渡航することを禁止し、イギリス・オランダに対して武器・人員の搬出と近海の海賊行為禁止を命じました。

もっとも、プロテスタント国であるオランダ・イギリスは中国に貿易拠点を持っていなかったことから、これを有するポルトガルの代替にならず、この時点ではポルトガルとの貿易を打ち切ることまではできませんでした。

イギリス撤退(1623年)

元和9年(1623年)、イギリスがオランダとの競争に敗れて(イギリス商品が売れなかったため)対日貿易から撤退し、平戸商館を閉鎖して引き上げます。

また、寛永元年(1624年)にはスペイン船の来航が禁止されたことから、この時点での日本と貿易する西欧国は、ポルトガル・オランダの2カ国となります。

その後、寛永8年(1631年)、将軍が発給した朱印状に加えて、老中の書いた奉書という許可証を必要とする奉書船制度を開始して貿易に制限を加え、寛永10年(1633年)にら「第1次鎖国令」を発布して奉書船以外の渡航を禁じると共に、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じました。

なお、イギリスは、寛文13年(1673年)、リターン号を派遣して江戸幕府に対して通商再開を求めたのですが、江戸幕府はイギリス人のキリスト教禁令遵守を疑ってこれを拒否しています。

出島完成(1636年)

このころ、江戸幕府により、マカオ商船による司祭の書状運搬が禁止されていたのですが、寛永11年(1634年)、キリシタンの国外追放に伴って長崎からマカオに移住していた日本人司祭であるパオロ・ドス・サントスの書状がマカオ商船内で発見されます。

これに関連して、長崎奉行であった竹中重義の密貿易も発覚し、これらの事件によって、マカオが禁教後にも密かに布教支援をしていたこと、長崎奉行が腐敗していたことなどが明らかとなり、江戸幕府はポルトガルと断交を本格検討していきます。

そして、寛永11年(1634年)、「第2次鎖国令」により第1次鎖国令の再通達をすると共に、ポルトガル人を隔離するために長崎に出島の建設を始めます。

翌寛永12年(1635年)には、「第3次鎖国令」により中国船・オランダ船の入港を長崎のみに限定した上で、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を全面禁止とします。

その後、寛永13年(1636年)、銀200貫(約4000両)の費用を費やして約1万5000㎡の出島(建設当初の呼び名は「築島」)が完成したことから、「第4次鎖国令」により貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放し、残りのポルトガル人を出島に移してしまいます。

ポルトガル船の来航禁止(1639年)

寛永14年(1637年)12月に島原の乱が発生すると、江戸幕府は、オランダに武器弾薬を調達させた上で、ポルトガルに対しては長崎滞在中の使節の参府を禁じて出島に監禁します。

そして、寛永15年(1638年)春に島原の乱が鎮圧されると、江戸幕府は、再び同じようなキリスト教徒の反乱を防止する目的でキリスト教の禁教を徹底し、カトリック国家であるポルトガルとの関係断絶を試みます。

他方で、江戸幕府は、キリスト教の布教を行わないプロテスタント国家であるオランダ東インド会には便宜を図ります。

寛永16年(1639年)、江戸幕府は、オランダが代替品の確保可能であることを確認した上でポルトガルと断絶を決定し、長崎奉行や九州地方の大名に「第5次鎖国令」を発布してポルトガル人を出島から退去させ、翌寛永17年(1640年)には貿易再開を求めるポルトガル使節団の内61名を処刑し改めて貿易再開しない意思を示しました。

なお、島原の乱発生からポルトガル追放までに2年を要した理由は、オランダがポルトガルに代わって中国製品(特に絹と薬)を入手できる保証がなかったことと、日本の商人がポルトガル商人にかなりの金を貸していたために直ちにポルトガル人を追放するとその回収ができなくなるためでした。

ポルトガルとの貿易を断絶させた結果、日本と貿易する西欧国は、オランダのみとなります。

なお、正保4年(1647年)にポルトガル船が2隻来航して国交回復を依頼してきたのですが、江戸幕府がこれを拒否したため、以降ポルトガル船の来航が絶えることとなりました。

オランダ商館の出島移転(1641年)

そして、江戸幕府は、オランダ商館を有していた平戸藩がオランダとの独占的交易により強力な兵備を整えつつあることを危惧し、寛永18年(1641年)、平戸のオランダ商館倉庫に「西暦」が彫られているという些細な出来事を理由として、ポルトガル人を排除して空き地となっていた出島をオランダに貸し付けることとしてオランダ商館を平戸から出島に移転させ、以後、オランダとの貿易はオランダの東インド会社の長崎商館所在地となった出島に限定することとします。

なお、出島は、ポルトガル使用時には年銀80貫で貸し付けていたのですが、オランダに対しては使用開始時に初代オランダ商館長マクシミリアン・ル・メールに賃料を銀55貫(現在価格約1億円)に値切られています。

以降、約200年間もの長きに亘り、オランダ東インド会社は、江戸幕府の監視下で武装と宗教活動を規制された出島においてのみ活動が許され、その範囲で対日貿易を行っていくこととなりました

そして、出島には原則として日本人の公用以外の出入りは禁止され、他方、オランダ人も例外を除いて出島からの外出が禁じられました。このことを、エンゲルベルト・ケンペルは「国立の監獄」と表現しています。

鎖国体制

鎖国体制の完成

西欧の貿易相手が長崎出島のオランダ商館(窓口は幕府)に限定されたことから、以降の貿易国は、オランダ・中国・朝鮮・琉球・アイヌに限られることとなり、後に「鎖国」状態と呼ばれる体制が完成に至ります。

鎖国と言っても、オランダ・中国・朝鮮・琉球・アイヌとの貿易は続いていたため、海外との貿易が閉ざされていた訳ではありません。

そして、貿易相手国のうち、朝鮮と琉球は、江戸幕府に通信士を派遣する日本に対する朝貢貿易(正規外交)でした。

オランダは、歴代のカピタンが毎年11月に定期船が出港した後の翌年夏までの閑期に江戸に上って、将軍に謁見・御礼言上し贈り物を献上していたため(カピタン江戸参府)、形の上では朝貢の外形をとっていたのですが、実質的には朝貢貿易ではなく、貿易形式も国家間貿易ではなくオランダ東インド会社と長崎商人との間の民間貿易にすぎませんでした。

中国は、中国が日本に朝貢することはあり得ない一方で日本側も中国への朝貢を拒否していたこと、当時の中国が海禁政策をとっていたことなどから両国間に国交はなく、あくまでも両国商人間の私貿易にとどまる形となっていました。

「鎖国」という言葉について

なお、「鎖国」という言葉は、享和元年(1801年)に志筑忠雄が、ドイツ人医師ケンペルが記した「日本誌」を翻訳する際にこの状態を開国の反対語という意味で「鎖国」という言葉を用いたのが始まりです。

もっとも、当時は「鎖国」という語は広まらず、江戸幕府にはほとんど使用されませんでした。

用語として広く用いられ出したのは幕末頃であり、定着・普及するのは明治以降です。

鎖国下の対外貿易窓口(四つの口)

鎖国下における貿易は、長崎(オランダ・中国)・対馬(朝鮮)・薩摩(琉球)・松前(アイヌ)で行われており、これらの4つの対外窓口を、「四つの口」と呼ぶことがあります(四つの口という言葉は1980年頃に使われ始めました。)。

江戸幕府は、この四つの口のうち長崎のみを直接管理することとし、その他の3口は貿易相手と付き合いの長い藩に任せることとし、松前口は松前藩に、対馬口は対馬藩に、薩摩口は薩摩藩に管理させていました。

① 松前口【松前藩】:アイヌ(山丹)

松前口は、蝦夷ヶ島の和人地(渡島半島)を治めていた松前藩が行っていたアイヌ(蝦夷)との貿易です。

慶長9年(1604年)に徳川家康からアイヌとの交易独占権を与えられたことによりアイヌを通じて山丹(さらにはその先の中国)との中継貿易を行う目的で行われました。

寛文9年(1669年)、シャクシャインを中心とするアイヌ人らが松前藩と対立して争ったのですが、津軽藩の協力を得た松前藩に鎮圧され、以降アイヌ人らは全面的に松前藩に服従させられる結果となりました。

なお、文化5年(1808年)に江戸幕府が蝦夷地を幕府直轄領とした後は、江戸幕府(函館奉行)の管理下で行われるようになっています。

② 長崎口【幕領】:オランダ・中国

長崎口は、長崎会所が行っていたオランダ・中国との貿易です。

オランダとの貿易は、江戸幕府(長崎奉行)の直轄地としての出島で行われました。

他方、中国(明・清)との貿易は、生糸をはじめとしてその取扱量が多大な量となり、またその量が年々増えていったのですが、その反面、貿易に対する制限も加えられるようになり、元禄元年(1688年)には清船の来航を年間70隻に限定した上で、翌元禄2年(1689年)には長崎の町に雑居していた清国人居留地を長崎の一区画(いわゆる唐人屋敷)に限定するようになりました。

なお、鎖国下の貿易という場合には、この出島におけるというオランダとの貿易が取り上げられることが多いのですが、オランダとの貿易額は中国貿易の半分程度に過ぎず、当時の主力貿易相手国は中国でしたので注意が必要です。

③ 対馬口【対馬藩】:朝鮮

対馬口は、対馬藩が行っていた李氏朝鮮との貿易です。

朝鮮との貿易は豊臣秀吉により行われた文禄慶長の役により一旦断絶していたのですが、慶長14年(1609年)に宗家と朝鮮との間で締結された己酉約定により講和が実現し、貿易が再開されることとなりました。

貿易再開後も、中世期から朝鮮半島との外交・中継貿易を宗家が担っていたことに配慮して江戸幕府が引き続き宗家(対馬藩)に対朝鮮貿易権を認めてこれを継続させたことから、釜山に倭館が設置されるなど宗家が朝鮮外交上の特権的地位を認められました。

また、宗家が江戸幕府の対朝鮮外交を中継ぎする役割も担うこととなったため、朝鮮は対馬藩を通じて日本との正式な国交を有する通信国と扱われ、慶長12年(1607年)以降、江戸時代を通じて計12回の使節が来日しています(1~3回目は文禄慶長の役の際の朝鮮人捕虜の返還目的であり、他方、4回目からは主に将軍就任の慶賀目的だったため4回目以降は朝鮮通信使と呼ばれました。)。

④ 薩摩口【薩摩藩】:琉球

薩摩口は、薩摩藩が行っていた琉球王国との貿易(琉球貿易)です。

慶長14年(1609年)に徳川家康の許可を得た薩摩藩の島津家久が琉球に侵攻してこれを支配下に組み込んだことから貿易が慣習化しました。もっとも、薩摩藩は、中国との関係悪化を懸念し、琉球王国の尚氏を石高8万9000石の独立王国として扱って中国への朝貢貿易は継続させています。

琉球は薩摩藩を通じて日本との正式な国交を有する国(通信国)と扱われ、琉球貿易では、琉球王国を通じて中国(明・清)・朝鮮・東南アジア(南海諸国)などの各国間との中継貿易目的として行われました。

鎖国貿易の管理

江戸時代初期には日本国内に輸出用の商品が育っていなかったため、江戸幕府成立直後から輸入超過による海外への金銀流出が進んで行きました。

そのため、江戸幕府では、慶長9年(1604年)に主たる輸入品であった糸割符制度を設けて絹価格のコントロールを試みたりするなど、対応に追われ始めます。なお、江戸幕府は、各藩における直接的な対外貿易を禁止していたのですが、江戸幕府自身が直接的な貿易を行っているわけではなかったために利潤を江戸幕府が直接的に得ていたわけではありませんでした。

そして、17世紀後半になると、日本国内における金銀の産出量が減ったためにその対応はさらに厳しく行われることが要求されるに至り、貞享2年(1685年)には長崎貿易における貿易量を制限するための定高貿易法が定められて管理貿易に移行しました。

そして、江戸幕府は、オランダ商館長にオランダ風説書を、中国船乗組員からの聴取書である唐船風説書の提出を求めており、これにより海外の情報を手にしていました。

なお、鎖国下の貿易は江戸幕府が直接外国と行っていたわけではありませんので、ここにいう貿易の管理・統制は貿易都市や商人を通して間接的に行われていました。

鎖国体制の評価

以上の鎖国という用語上概念(形式的評価)は、かつては外国との交流を制限するという、いわゆる「海禁政策」という意味で用いられることが多かったように思われます。

もっとも、前記のとおり、鎖国下でも海外貿易は続けられており、「鎖」という語感が強すぎるとの批判が出されるようになりました。

また、時代が進むにつれて議論も進み、従来の「鎖国」概念とは異なる一連の政策は徳川幕府が中世の対外関係秩序再編と考える説も提唱されるようになりました。

他方で、これまで用いてきた「鎖国」という用語を変更することに対する抵抗感もあります。

また、江戸幕府の貿易体制の実質的評価についても、日本独自の文化形成を促した・自給自足の経済体制を構築した・カトリック国の侵攻を防いだなどの肯定的評価がある一方で、海外情勢に疎くなった・技術革新が遅れたなどの否定的評価もあり、実質的評価についても賛否両論あるのが現状です。

鎖国の終結

ロシア船の接近

前記のとおりの鎖国政策を続けて動きの少なかった日本に対し、世界の動きは目覚ましく、1776年7月にイギリスからアメリカが独立し、1795年にはフランス革命により王政と旧体制が崩壊するなど政治構造の大変革が起こっていました。

また、これに加えて、18世紀半から19世紀にかけて、一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命とそれにともなう社会構造の変革が起こり(産業革命)、技術革新が一気に進みます。

こうした世界情勢の中、18世紀後半頃から、日本に外国艦船が接近してくるようになります。

まず最初に近づいてきたのはロシア帝国でした。

東に向かって勢力を拡大させてベーリング海に到達したロシア帝国は、中国向け商品となる毛皮を獲るため北太平洋においてラッコの捕獲を始めます。

このとき、獲れた毛皮を中国に運ぶための中継地点となる蝦夷地の優位性に目をつけます。

① ラクスマンの根室来航(1792年)

ロシア船として、日本近海に現れて大問題となった最初の事件は、寛政4年(1792年)のアダム・ラクスマン来航でした。

ラクスマンは、漂流民となって保護されていた伊勢船頭の大黒屋光太夫ら3名を連れて根室に来航し上陸し、松前藩を通じて江戸幕府に通商交渉を求めます。

これに対し、江戸幕府・老中松平定信らは、漂流民3人を受け取るも、イルクーツク総督イワン・ピールの通商要望信書は受理せず、もしどうしても通商を望むならば長崎に廻航させるよう指示し、長崎への入港許可証である信牌を与えます。

② レザノフの長崎来航(1804年)

ロシア帝国外交官であったレザノフが、文化元年(1804年)9月、バルト・ドイツ人のアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンが率いたロシアの世界一周遠征隊に同行し、日本人漂流民の津太夫一行を送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団として信牌を持って長崎・出島に来航します。

もっとも、江戸幕府は、約半年間もレザノフを留めおいた後、中国・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外の国と通信・通商の関係を持たないのが「朝廷歴世の法」であるとして通商要求を拒絶します。

なお、ロシア船の接近により外国船の脅威が迫っていると判断した江戸幕府は、近づいてくる外国船を穏便に出国させるため、文化3年(1806年)に「文化の薪水給与令(文化の撫恤令)」を発布し、外国船に対して飲料水・燃料の給与を認めることとしています。

③ 文化露寇(1807年)

交渉決裂を言い渡されたレザノフは、日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はないと判断します。

また、レザノフは、半年間にも及ぶ幽閉に近い状態を余儀なくされたことへの報復として、部下であるニコライ・フヴォストフに命じて、樺太や択捉島などを攻撃させます(文化露寇・露寇事件)。

この攻撃は元寇以来500年ぶりの外国からの攻撃であり、想定外の大事件に大きな衝撃を受けた江戸幕府は、急ぎ対外防衛策をとることとします。

この文化露寇により日露間の緊張が一気に高まり、江戸幕府が蝦夷地全域を幕府直轄領とし(アイヌがロシアに与することを危惧したためと考えられます。)、蝦夷地の全域を松前奉行の支配下に置いて東北諸藩にその警護を命じることとします。

なお、このニコライ・フヴォストフの攻撃は、ロシア皇帝の許可を得ていなかったため、文化5年(1808年)、独断行為に不快感を示したロシア皇帝の指示により全軍撤退となり戦いが終わります。

また、文化露寇に加え、同年には長崎でイギリス船による侵犯事件であるフェートン号事件が勃発するなどして外国船の横暴行為によって日本の対外姿勢は硬化したため、文化の薪水給与令が廃止されるに至っています。

④ ゴローニン事件(1811年)

そんな中、文化8年(1811年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンらが、国後島に上陸した際に松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月もの間、日本に抑留されるという事件が起こります(ゴローニン事件)。

これに対し、文化9年(1812年)8月、ロシア艦ディアナ号が国後島に来航し、日露間でゴローニンの身柄交換交渉が行われるが、日本側の拉致被害者である中川五郎治と歓喜丸漂流民6名が脱走したために交渉が決裂します。

そのため、帰途についたディアナ号艦長ピョートル・リコルドは報復として附近を航行していた歓世丸を襲撃して高田屋嘉兵衛やアイヌ船員ら数名を拉致し、カムチャッカ半島に強制連行し文化10年(1813年)年6月まで抑留します。

その後、同年9月、ゴローニンの解放交渉のため、漂流民であった久蔵を伴いたディアナ号が再び箱館に来航しています。

イギリス船の接近

① フェートン号事件(1808年)

ヨーロッパにおけるナポレオン戦争で争っていたイギリスとフランスの争いの余波が日本にまで飛び火し、フランスの支配下に入ったオランダの船舶を追って長崎湾に入って来たイギリス船・フェートン号が、文化5年(1808年) 8月15日、長崎港の南側(現在の女神大橋の南側辺り)に停泊して長崎湾を封鎖し、ボートを出して、長崎港付近でオランダ船を捜索し始めるという事件が勃発します(フェートン号事件)。

この横暴なイギリス艦の行動に江戸幕府側が激怒し、長崎警備を担当していた佐賀藩にフェートン号の排除を命じたのですが、2年に1度の頻度で1000人もの兵を1年間長崎に留めておく費用負担は相当なものであり、藩の財政を圧迫していた佐賀藩は、経費削減のために江戸幕府に無断で警備人員を10分の1である100人程度にまで減らしていたため、人員不足からフェートン号に対して何らの対応もできませんでした。

何らの対応をとることができない江戸幕府の状況を見たフェートン号艦長のペリューは、文化5年(1808年)8月16日、商館員の1人を解放した上で、ことのついでに長崎奉行に対して出港準備のための薪・水・食料を脅し取ってゆうゆうと出航していきました。

② 英船員常陸大津浜上陸(1824年)

文政7年(1824年)3月28日、英国捕鯨船2隻が常陸国大津浜沖(現在の茨城県北茨城市大津)に現れて碇泊した上、鉄砲を持った11名の船員が2艘のボートに分乗して富岡海岸に上陸する事件がありました。

巨大な異国船と異人の姿に村は騒然となったのですが、報を聞いて駆けつけてきた領主により船員が捕らえられます。

これに対し、沖合に碇泊していた捕鯨船から数十発の大筒空砲による威嚇と共に、船員の身柄引き渡し要求がなされます。

その後、水戸藩から兵が送られた上で幕府代官の下向によって取調べが行われ、英国船内に病人が出たために野菜などの補給目的で上陸したことが判明し、同年6月10日、薪・水・食糧などの給与の上で退去させる運びとなっています。

③ 英船員薩摩宝島上陸(1824年)

文政7年(1824年)7月8日、宝島沖に停泊していたイギリスの捕鯨船から船員がボートに乗って豊島に上陸して牛を強奪しようとしたところ、同島に派遣されていた薩摩藩庁の役人・吉村九郎と銃撃戦となりイギリス人船員1名が射殺される事件が起こります。

この事件をきっかけとして薩摩藩主島津斉興は、海岸防備の強化を図ると共に異国船の到来に備える体制をとるようになりました。

異国船打払令(1825年)

以上のように日本近海に頻繁に外国船が出没し始めたため、江戸幕府は、これに備えるため諸藩に対して海岸線に台場を設けて大砲を備えるよう命じます。

その上で、江戸幕府は、文政8年(1825年)、異国船打払令を発布し、日本の沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃さと共に、上陸外国人については逮捕又は処罰をするよう命じます。

天保8年(1837年)、アメリカ商船モリソン号が漂流民を日本に送還するために浦賀に来航したのですが、江戸幕府はこれをイギリス軍艦と誤認して異国船打払令に基づいてこれを砲撃しています(モリソン号事件)。

アヘン戦争(1840〜1842年)

以上のとおり、外国船に対する強行措置をとっていた江戸幕府ですが、清とイギリスの間で2年間に亘る戦争が勃発し、天保13年(1842年)に清の敗北に終わったという事実を知らされます(アヘン戦争)。

超大国と考えていた清が、西欧国に敗れたという報を聞いた江戸幕府は驚愕し、日本がこのまま異国船打払令を実行するなどして西欧諸国と敵対していれば、日本もまた西欧諸国により攻撃される占領されてしまうのではないかとの危惧を募らせます。

そこで、江戸幕府は、鎖国政策自体は維持しつつも、外国船打払という強硬策は取りやめることにし、遭難した船に限り給与を認める天保の薪水給与令を発令します。

アメリカの接近

1795年にフランスの侵攻を受けたネーデルラント連邦共和国(オランダ)が滅亡し、フランスの衛星国バタヴィア共和国となります。

その結果、オランダ東インド会社の日本支店であったオランダ商館の権利もバタヴィア共和国(フランス)に移ることとなったためにイギリスと敵対関係となり、アジア地域におけるオランダ船の航行は難しくなりました。

そこで、オランダ東インド会社は、1797年にイギリスが中立国として航行を認めていたアメリカの船と傭船契約し、アメリカのセーラムとアメリカ船にて貿易を継続した。

なお、このアメリカ船は、長崎入港時にオランダ国旗を掲げることおしていたため、名目上はオランダとの通商を行っていることとなっていました。

このように、名目上はオランダ船でありつつも、アメリカ船が長崎に出入りする状況が1809年まで続いていました。

その後、イギリスが、アヘン戦争に勝利したことにより、清に対する利権を得て対中貿易で巨万の利を得ていきます。

これを見たアメリカもまた、中国との貿易を試みたのですが、アメリカから東回りで中国に向かうとそのルートが遠すぎて費用がかかりイギリスに勝てません。

そこで、アメリカは西回りで中国に向かうルートの開拓を目指したのですが、ここでアメリカと中国との間にある日本を中継地点としようと考えました。

また、産業革命によって欧米の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その潤滑油やランプの灯火としてマッコウクジラの鯨油が使用されていたのですが、この鯨油確保のためにアメリカを含めた欧米各国が日本沿岸で捕鯨を盛んに行っており、その中継基地として日本を利用しようと考えたのです。

① ビッドルの浦賀来航(1846年)

弘化3年(1846年)閏5月27日、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドル代将が、戦列艦コロンバスおよび戦闘スループ・ビンセンスを率いて江戸幕府との開国交渉のために浦賀に入港したのですが、このときは浦賀奉行に交渉を拒否されて数日の滞在で退去します。

もっとも、江戸幕府のお膝元にあたる浦賀にアメリカの軍艦が出現したこと重視した江戸幕府は、異国船打払令の復活を検討するに至ります。

② グリンの長崎来航(1849年)

嘉永2年(1849年)3月27日、米国の帆走戦闘スループ・プレブル艦長のジェームス・グリン大尉が、アメリカ捕鯨船員を救出のため長崎に来航し、軍事介入の可能性をほのめかしつつ開国交渉を行います。

この交渉の結果として船員とラナルド・マクドナルドが解放されたため、アメリカに帰国したグリンは米国政府に対し、日本を外交交渉によって開国させるに際しては、必要であれば「強さ(軍事力)」を見せるべきとの建議を提出し、この提案により後の黒船来航に繋がっていきます。

黒船来航(1853年)

その後、アメリカ大統領であったフィルモアは、東インド艦隊司令官の代将ジョン・オーリックを遣日特使として日本に開国を迫ることとし、嘉永4年(1851年)に蒸気フリゲート「サスケハナ」に乗り込み、東インド艦隊の旗艦となるべく極東に向かって出発しました。

もっとも、司令官オーリックが、途中でサスケハナの艦長とトラブルを起こして解任されたことから、翌1852年2月に、代将であったマシュー・カルブレース・ペリーにその任が繰り上げられます。

その結果、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航するに至りました。なお、このときまで多くの外国船が日本に来航していましたが、蒸気船の来航はこのときが初めてでした。

ペリー艦隊は、嘉永6年(1853年)6月3日午後5時、江戸湾入口である浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入します。

ペリー艦隊によって江戸湾を塞がれて海上貿易路を遮断される危機に陥ったにもかかわらずこれを追い返す力がなかった江戸幕府は、やむなくペリーらの久里浜条理気を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書を受領して翌年までに開国の有無を決めるよう求められました。

日米和親条約締結(1854年3月3日)

そして、嘉永7年(1854年)1月16日、琉球を経由して再び浦賀に来航したペリーは、前年の取り決めのとおり、江戸幕府に対して開国の有無の回答を迫ります。

その後、長い協議の末、同年3月3日、全12か条におよぶ日米和親条約(神奈川条約)が正式に締結されて下田・函館が開港され、江戸幕府3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国体制が崩壊します。

また、この後、安政5年(1858年)に江戸幕府とアメリカ外交官タウンゼント・ハリスと締結された日米修好通商条約により新たに神奈川・長崎・新潟・兵庫が開港されることとなり、鎖国体制は完全に撤廃されるに至りました。

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