【蘇我理右衛門】南蛮絞りを開発した住友財閥業祖

蘇我理右衛門(そがりえもん)は、天正19年(1591年)に銅と銀の合金(粗銅)から鉛を利用して銀と銅を精錬する技術である南蛮絞り(南蛮吹き)を確立し、日本から明国へ安価な粗銅として銀が流れて行くことにより国富が失われることを停止させた人物です。

また、住友家に養子に出した長男・住友友以が、蘇我理右衛門が開発した南蛮絞りの技法を用いて住友家を日本国内の3分の1とも言われる膨大な量の銅精錬業者に成長させたことから、そのきっかけを作った蘇我理右衛門が住友家の業祖として称されるに至っています。 “【蘇我理右衛門】南蛮絞りを開発した住友財閥業祖” の続きを読む

【渡来銭の歴史】平安時代から昭和時代まで使われた外国銭の歴史と一覧

渡来銭(とらいせん)は、平安時代末期から江戸時代初期に至るまでの長きに亘り、日本国内で流通した外国製の硬貨(銭貨)です。

中国銭が主体なのですが、他にも安南銭・朝鮮銭なども存在しています。

奈良時代には国内で硬貨を鋳造していた日本において、天皇家の権威が低下したことにより絶対的権力者がいなくなったために硬貨の通用をさせることができなくなり、またこのことにより硬貨鋳造能力を失ったために硬貨を外国から仕入れることで国内通貨を賄おうとして大量に輸入されました。 “【渡来銭の歴史】平安時代から昭和時代まで使われた外国銭の歴史と一覧” の続きを読む

【統帥権干犯問題】海軍軍令部暴走の端緒となった政争

統帥権干犯問題は、昭和5年(1930年)のロンドン海軍条約の批准をめぐり、ときの与党であった立憲民政党党首として首相を務めていた濱口雄幸が、海軍軍令部と野党であった政友会から統帥権の侵害行為であるとして糾弾された問題です。

本来であれば条約の締結・批准は、内閣(行政権)が決定すべき事項であり、決定権を持たない海軍軍令部が内閣を糾弾する権利はありません。

そのため、海軍軍令部による糾弾は法的には単なる言いがかりに過ぎず、本来であれば、無視されて終わるはずだったのですが、この問題を、立憲政友会が立憲民政党を攻撃するための根拠として利用したことから政治問題化し大問題となったのです。

そして、海軍軍令部は、野党とはいえ帝国議会内に自分たちの主張を擁護する後ろ盾を得たと考え、この主張を押し通すための暴走を始めるきっかけとしたのです。

その結果、以降、軍部の暴走と日本の軍国主義化が始まりました。

今になって振り返ってみれば、政争が軍部の台頭と暴走を誘発し、結果として戦争に突き進んで国を滅ぼすきっかけを作った事件として現在でも学ぶべきことが多い事件です。 “【統帥権干犯問題】海軍軍令部暴走の端緒となった政争” の続きを読む

【日本の近代・現行硬貨史】造幣局鋳造硬貨の歴史と一覧

日本の近代化が始まった明治維新以降、日本政府は、欧米列強諸国に追いつき追い越すために各種の富国強兵政策を進めていきます。

そして、その一環として近代貨幣制度の整備を始め、明治4年(1871年)に造幣局(創設当時の名称は「造幣寮」)を創設し、硬貨の鋳造に取り掛かります。

その後、日本では各種硬貨が発行されていったのですが、欧米列強諸国に追いつくため、海外との貿易で利を得るため、海外植民地政策を進めるため、長引く戦争により資源が乏しくなっていったためなど、その時代を反映した興味深い造りとなっています。

そこで、本稿では、明治維新以降に日本において発行された(造幣局で鋳造された)近代・現代貨幣について、その歴史と発行硬貨の一覧を紹介していきたいと思います。

なお、記載内容は、本稿を書いた令和7年4月時点のものとなっています。 “【日本の近代・現行硬貨史】造幣局鋳造硬貨の歴史と一覧” の続きを読む

【第二次晋州城の戦い】文禄の役最大の攻城戦

第二次晋州城の戦いは、文禄の役の際に朝鮮方に与して明国が参戦したことにより苦しくなった日本軍が釜山にまで戦線を下げるに至ったのですが、そこで兵站に余裕ができたために全羅道制圧をするために大軍を編成して同城を攻めた戦いです。

攻められることとなった朝鮮軍では、宗主国でもある明国に援軍を要請したのですが、日明間で講和交渉を行っていた明国がこの援軍要請を拒否したため、日本軍対朝鮮軍との戦いとなりました。

文禄2年(1593年)6月21日に9万人を超える大軍で晋州城に取りついて攻撃を開始した日本軍が、1週間かけて同城を攻略したという文禄の役最大規模の戦いであり、勝利した日本軍が同城に籠った朝鮮軍を根切りにした殺戮戦でもありました。 “【第二次晋州城の戦い】文禄の役最大の攻城戦” の続きを読む

【文禄の役の講和交渉】失敗に終わった双方欺罔的交渉

釜山上陸から始まり、快進撃を続けて漢城や平壌などの朝鮮半島の主要都市を次々と攻略していくことで始まった文禄の役でしたが、明国軍の参戦により潮目が変わります。

朝鮮半島全域支配を目指した日本軍に対し、明国軍が敵対したことで侵攻の足が止まっただけでなく、平壌城を奪還されるなどして前線を押し戻されて行くに至りました。

他方で、参戦した明国側も順調だったわけではなく、常に兵站の問題に悩まされており、一進一退の攻防が続けられた後に、両軍共に士気が下がっていって現場レベルから講和を求める声が高まっていきました。 “【文禄の役の講和交渉】失敗に終わった双方欺罔的交渉” の続きを読む

【第三次平壌城の戦い】文禄の役における北方最前線拠点平壌城を失った戦い

第三次平壌城の戦いは、釜山上陸から始まった文禄の役において、破竹の快進撃を続けていた日本軍が、最前線拠点としていた平壌城を明国・朝鮮連合軍に奪還されたというターニングポイントとなった敗戦です。

この敗戦により日本軍の侵攻が止まり、反転攻勢を受けるきっかけとなった戦いでもあります。 “【第三次平壌城の戦い】文禄の役における北方最前線拠点平壌城を失った戦い” の続きを読む

【大同江の戦い】文禄の役において平壌に到達するに至った戦い

大同江の戦い(だいどうこうのたたかい)は、文禄の役において、釜山上陸後に破竹の快進撃を続け、漢城に続いて平壌城近くにまで到達した日本軍に対し、朝鮮軍が夜襲を仕掛けて撃退された戦いです。

朝鮮軍は、日本軍に迎撃されただけでなく、退却する際に平壌城への進行ルートを日本軍に見られてしまったことで、それまで大同江を渡ることが出来なかった日本軍に渡河ルートを教えることとなり、平壌城陥落に繋がってしまった戦いでもあります。 “【大同江の戦い】文禄の役において平壌に到達するに至った戦い” の続きを読む

【忠州の戦い】文禄の役の際の朝鮮首都・漢城に迫る日本軍と朝鮮軍との野戦

忠州の戦い(ちゅうしゅうのたたかい)は、文禄元年(1592年)4月28日、朝鮮の忠州市付近の弾琴台で戦われた文禄の役初期の合戦です。戦場となった場所の地名を取って弾琴台の戦いとも言われます。

同年4月12日に朝鮮に上陸した日本軍は、その後、3隊に分かれて朝鮮首都・漢城を目指して進軍していったのですが、その最先鋒であった一番隊が漢城に肉薄したところで、朝鮮国王・宣祖が、女真族との戦いで数多くの軍功を挙げた三道都巡察使・申砬に日本軍の撃退を命じたことにより勃発しました。

もっとも、朝鮮軍総大将となった申砬が、防衛に適した鳥嶺を放棄してしまったことや、決戦の地に逃げ場のない弾琴台を選択したことなどにより朝鮮軍が惨敗し、首都・漢城陥落のきっかけを作った一戦となっています。 “【忠州の戦い】文禄の役の際の朝鮮首都・漢城に迫る日本軍と朝鮮軍との野戦” の続きを読む

【尚州の戦い】文禄の役で快進撃を続ける一番隊による慶尚道突破最終戦

尚州の戦い(しょうしゅうのたたかい)は、文禄元年(1592年)4月24日に勃発した文禄の役初期の戦いです。

釜山に上陸した後、朝鮮首都である漢城を目指して中路を進軍していく日本軍一番隊による、慶尚道を抜ける前の同道における最終戦です。

朝鮮方の城将(総大将)となっていた李鎰が、練兵のために兵を率いて城外に出ていたタイミングで日本軍が尚州城攻撃を開始したため、朝鮮方は有用な防衛策をとることなく壊滅してすぐに尚州城が陥落したあっけない戦いでもあります。

本稿では、この尚州の戦いについて、そこに至る経緯から簡単に説明します。 “【尚州の戦い】文禄の役で快進撃を続ける一番隊による慶尚道突破最終戦” の続きを読む