【第56代・清和天皇】藤原摂関政治の基礎を作ってしまった日本史上初の幼帝

清和天皇(せいわてんのう)は、日本の第56代天皇です。

母が臣籍降下して初めて臣下に嫁いだ嵯峨天皇皇女であったこともあり、文徳天皇の第四皇子でありながら生後8か月で立太子し、その後、文徳天皇の突然の崩御によってわずか9歳で天皇となった日本初の幼帝です。

幼くして天皇となったことから、母方祖父である藤原良房の傀儡となり、藤原良房を人臣初の摂政に任命することによって藤原摂関政治の基礎を作ってしまった天皇でもあります。

他方で、多くの子を儲けてこれらを臣籍降下させ、その中から後に武門の棟梁となる清和源氏を誕生させたことから清和源氏の祖としても有名です。 “【第56代・清和天皇】藤原摂関政治の基礎を作ってしまった日本史上初の幼帝” の続きを読む

【守口宿】東海道最後の宿場町

守口宿(もりぐちしゅく)は、現在の大阪府守口市本町1・2丁目、竜田通1丁目、浜町1・2丁目付近にあった東海道最後の宿場町(東海道五十七次の57番目の宿場町)です。

淀川洪水対策として大坂と伏見を結ぶ全長約27kmの淀川堤防上の道(文禄堤)沿いに建ち並ぶ特徴的な宿場町でした。

大坂からわずか2里(約8km)・枚方宿からも3里(約12km)という距離の近さから、当初から馬継ぎがなく人足のみの勤めとなっていた上、淀川に面していながら川舟との連絡がなかったために淀川舟運の発展につれて次第に客を失っていった宿でもあります。 “【守口宿】東海道最後の宿場町” の続きを読む

【石清水八幡宮】京の裏鬼門を守る国家第二の宗廟の歴史

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、現在の男山山頂(京都府八幡市八幡高坊30)に位置する八幡大神(誉田別命=応神天皇・比咩大神=宗像三女神・息長帯姫命=神功皇后)を祀る神社です。

かつては八幡宮寺とも言われて神仏習合の霊地とされ、伊勢神宮(天照大神)に次ぐ国家第二の宗廟とされていました。

第56代天皇である清和天皇の健康を祈願して平安京の裏鬼門(南西)の方角に創建された神社であるために清和天皇の子孫(清和源氏)の氏神となったのですが、後に清和源氏(源頼朝・足利尊氏)が武士になって武家政権を開くなど隆盛を極めるに至ったことから、信仰対象となっていた石清水八幡宮が武神として扱われるようになりました。

男山山頂から山麓に至る一帯が境内となっているところ、宇治川・桂川・木津川の合流点近くにあり、淀川を挟んで山崎天王山と相対するという交通・軍事の要衝地にあったため、実質的な意味でも京防衛の拠点と位置付けられました。 “【石清水八幡宮】京の裏鬼門を守る国家第二の宗廟の歴史” の続きを読む

【石山本願寺(大坂本願寺)】戦国時代に一向宗本拠地となった城郭寺院

石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代に戦国大名に匹敵する勢力を誇った浄土真宗本願寺派が、摂津国東成郡生玉荘大坂(現在の大坂城所在地)に本山として構えた寺院です。

その前の拠点であった山科本願寺が法華一揆・六角連合軍に焼き払われて信仰の中心を失ったことへの反省から、本山の本願寺を中心として、堀と土塁で取り囲まれた寺内町で防衛し、さらにその外側に51もの支城を張り巡らせて防衛する城構え構造(城郭寺院)で成立しました。

その防衛力は強く、織田信長が10年の歳月をかけても攻め落とせなかった城としても有名です。

なお、当時は大坂本願寺と呼ばれており、江戸時代に入るまでに石山本願寺と呼ばれていた事実は確認できていないのですが、本稿では便宜上石山本願寺の名称で統一します。 “【石山本願寺(大坂本願寺)】戦国時代に一向宗本拠地となった城郭寺院” の続きを読む

【四等官制】律令制度における官僚制度

律令制度では、「律」によって刑罰を、「令」によって政治機構等を定めることにより軍事政権の中心人物たる天皇による中央集権化が進められました。

そして、「令」の整備によって、行政官庁の再編を行った上で、それまで各豪族に任せられていた政治権力を朝廷に一旦吸い上げこれを朝廷が該当人に任命するという形で官僚制度が整備されていきました。

このとき、行政官庁の再編として中央では二官八省一台五衛府が整備され、そこに勤める役人は行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。

また、あわせて地方の行政官庁の整備もなされたのですが、ここでも行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。

このように各行政官庁の幹部行政官は、いずれも4人が選任されたことから四等官制(しとうかんせい)と呼ばれました。

そして、この四等官は、いずれも長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)と呼ばれたのですが、官庁ごとに違う漢字があてられるというとても覚えにくい用語となっています。

なお、この四等官には、位階に応じて割当てがなされましたので(官位相当の制)、そのこともあわせて覚えると理解が進みます。 “【四等官制】律令制度における官僚制度” の続きを読む

【崇徳上皇怨霊伝説】日本史上最強の怨霊の誕生からその鎮魂まで

崇徳上皇は、日本の歴史上で最強の怨霊となったとされる人物です。

日本では、強い恨みを残してこの世を去った人物は怨霊になって禍をもたらすと言われており、またその禍の程度は恨みの程度に加えてその者の生前の地位に比例すると言われています。

強い怨霊となった人物が日本三大怨霊として括られ、菅原道真・平将門・崇徳上皇がそこに挙げられるのですが、このうちでも崇徳上皇が最強の怨霊としてその地位を盤石なものとしています。

その理由は、血縁上は鳥羽天皇の子として産まれながら、実際は鳥羽上皇の妻と鳥羽上皇の祖父である白河上皇との不倫により産まれ子であったことから、鳥羽上皇に徹底的に嫌われた人生を送ったことに始まります。

そして、その結果として、弟である後白河天皇と朝廷を2分する争いを起こして敗れて讃岐国に流され、同地で非業の死を遂げたことによります。

この悲しい末路から、後に宮中に起こった不幸の全てが崇徳上皇の怨霊によるものであるとされ、伝説的な怨霊伝説に繋がることとなったのです。 “【崇徳上皇怨霊伝説】日本史上最強の怨霊の誕生からその鎮魂まで” の続きを読む

【碧血碑】函館戦争における旧幕府軍戦死者を祀った石碑

碧血碑(へきけつひ・へっけつひ)は、戊辰戦争最終戦となった函館戦争において旧幕府軍に与して戦死した約800人の戦死者を祀った碑です。

函館戦争に勝利した新政府側戦死者が函館護国神社(函館招魂社)にて英霊として祀られたのに対し、敗れた旧幕府軍側戦死者が放置されていたことを哀れに思った函館の侠客であった柳川熊吉の尽力により建てられました。

碑文を一読しても意味が分からないのが通常ですが、歴史を勉強してから見るとイメージが大きく変わります。 “【碧血碑】函館戦争における旧幕府軍戦死者を祀った石碑” の続きを読む

【第59代・宇多天皇】臣籍降下後に皇族復帰し皇位継承した唯一の天皇

宇多天皇(うだてんのう)は、摂関政治の真っただ中の時代において、藤原氏を外戚としない立場で第59代天皇として即位し、摂関家藤原氏の政治力を排斥して天皇親政を試みて大胆な政治改革を行った天皇です。

臣籍降下した後に皇籍に復帰して即位した稀有な天皇でもあります。 “【第59代・宇多天皇】臣籍降下後に皇族復帰し皇位継承した唯一の天皇” の続きを読む

【乃木希典】名将か愚将か?死に場所を探し求めた軍神の生涯

乃木 希典(のぎ まれすけ)は、日露戦争での旅順攻囲戦の指揮をとり日本を勝利に導いた陸軍軍人です。

その質実剛健の性格を評価されて第10代学習院長となって迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係を務めたことや、明治天皇の後を追って殉死(割腹自殺)したことでも有名です。

旅順攻囲戦の指揮により「軍神」との評価されたり、陸軍大将となって贈正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級伯爵を受けたりした上で「乃木神社」や「乃木坂」などに名前を残したりする成功者である一方で、戦歴に関しては必ずしも華々しいものではなく、失敗続きの屈辱にまみれた人生でもありました。

西南戦争・日露戦争などで後悔を積み重ねて精神的に疲弊し、死に場所を探していた人生と言っても過言ではないかも知れません。

本稿では、苦難に満ちた軍神の生涯を紹介していきたいと思います。 “【乃木希典】名将か愚将か?死に場所を探し求めた軍神の生涯” の続きを読む

【日本三大土塀】太閤塀・信長塀・大練塀

日本三大土塀とは、日本全国に点在する土塀の中で、歴史のある3つの土塀をいいます。

誰が・いつ・どういう根拠で定めたのかは不明ですが、古来より「三大・・」が好きな日本人は土塀についてもランク付けをしており、太閤塀・信長塀・大練塀が日本三大土塀とされるのが一般的ですので、それぞれ簡単に紹介したいと思います。 “【日本三大土塀】太閤塀・信長塀・大練塀” の続きを読む