【大宝律令制定】法的な意味での日本国成立

大宝律令(たいほうりつりょう)は、大宝元年(701年)に制定された日本の法典です。

それまでのような力の強い豪族の意見に左右される政治ではなく、天皇を頂点とする法体系を作り上げ、天皇の意を下々民で実現するための政治体制を構築することを目指し、それまで検討・発布された令の総決算として編纂・発布されました。

内容は、現代の法律に相当するものであり、6巻からなる律(現在でいう刑法)・11巻からなる令(現在でいう行政法)と、その追加法たる格・施行細則たる式を定めることで天皇を中心とした中央集権を進め、天皇を支える官僚機構を構築することでこれらを通じて全国の土地・人民に支配を及ぼし、天平宝字元年(757年)の養老律令に引き継がれていきました。

なお、大宝律令における律については唐律をほぼそのまま導入しているのですが、令については唐令に倣いつつも当時の日本社会の実情に則した独自の改変が行われています。 “【大宝律令制定】法的な意味での日本国成立” の続きを読む

【恭仁京】奈良時代に数年間だけ存在した山背国の都

恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、奈良時代の天平12年(740年)から僅かの間だけ山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に置かれた日本の都です。

正式名称は、「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」といいます。

恭仁京は、天然痘流行や藤原博嗣の乱により平城京が穢れたと考えた聖武天皇が、霊力を取り戻すためにかつて壬申の乱の際に天武天皇が辿ったルートを行幸し、そこで得た霊力を基に仏教を基にした新たな時代を造ろうとした野心的な都でした。

もっとも、恭仁京遷都後も、難波宮や紫香楽宮(甲賀宮)への遷都を試みるなどして人臣の信頼を失い、最終的には平城京に戻されることで遷都計画が失敗に終わりました。なお、この間の聖武天皇の動きは、彷徨五年と呼ばれ、複数回の遷都の理由についても謎が多い面白い行動でもあります。

 

本稿では、聖武天皇の発案により遷都された恭仁京(またそのうちの恭仁宮)について、遷都に至る経緯から順に説明していきたいと思います。 “【恭仁京】奈良時代に数年間だけ存在した山背国の都” の続きを読む

【桓武天皇柏原陵】明治初期に再建された平安時代最初の天皇陵

桓武天皇柏原陵(かんむてんのうかしわばらのみささぎ)は、京都市伏見区桃山町永井久太郎に存在する桓武天皇(在位:天応元年/781年4月3日~延暦25年/806年3月17日)を祀った古墳です。

宮内庁により「柏原陵(かしわばらのみささぎ)」として第50代桓武天皇陵に治定されているのですが、現在の陵墓は様々な考証の結果、明治時代に治定されたものに過ぎず、その正式な場所は必ずしも明らかではありません。

その理由は、かつて伏見山中に仁徳陵よりも大規模であったと記録されているのですが、鎌倉時代・室町時代までに所在不明となり、さらに豊臣秀吉により一帯に伏見城が築城された際に陵も破壊されてしまったためです。

本稿では、桓武天皇陵が現在の場所に定まり祀られるに至った経緯について簡単に説明していきたいと思います。 “【桓武天皇柏原陵】明治初期に再建された平安時代最初の天皇陵” の続きを読む

【皇朝十二銭が失敗した理由】律令国家発行貨幣はなぜ使われなくなったのか

皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)は、律令制度下にあった日本において、和銅元年(708年)から応和3年(963年)にかけての間に鋳造され、流通に供された12種類の円形方孔銅銭の総称です。本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)や皇朝十二文銭(こうちょうじゅうにもんせん)とも呼ばれます。

日本において、初めて貨幣の基礎金属(地金)価値ではなく、貨幣に記された額面を価値とするものであり、その貨幣価値は律令政府が定めた通貨単位である1文として始まりました。

もっとも、当時の支配層である皇族・貴族・僧侶などが経済学の知識を持っていなかったため、次々と誤った政策を実行していき、時間を経るに従ってその信頼性が失われていき、11世紀頃までに流通現場=市場で忌避され、使用されなくなってしまいました。

本稿では、皇朝十二文銭発行の経緯・失敗に至った理由・その失敗が現在どのように生かされているのかについて順に説明していきたいと思います。 “【皇朝十二銭が失敗した理由】律令国家発行貨幣はなぜ使われなくなったのか” の続きを読む

【伏見で始まった江戸幕府】徳川家康が豊臣秀吉死後も伏見に残った理由

徳川家康は、三河国衆からのし上がり国替で関東に移された後は江戸に本拠地を置いたことから、その主たる所在地ご東海地方や江戸であったというイメージが強いと思います。

このことは概ね間違ってはいないのですが、江戸幕府の創成期に限って言えば誤りです。

徳川家康は、文禄3年(1594年)9月から慶長5年(1600年)末までの間で2304日中1546日間、また関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601年)から慶長11年(1606年)までの間で2185日中1240日間も伏見に滞在しています。

そのため、徳川家康は、征夷大将軍任命に至る前からその在職期間に至るまで、多くの期間を伏見城に在城して執務しています。

また、江戸幕府初代である徳川家康、2代徳川秀忠、3代徳川家光と3代続けて伏見城で将軍宣下を受け、後に御三家となった9男・徳川義直(後の尾張藩祖) 、10男・徳川頼宣(後の紀伊藩祖)11男・徳川頼房(後の水戸藩祖)が伏見の地で育っています。

以上のことから、江戸幕府は伏見で始まったと言っても過言ではありません。

では、なぜ徳川家康は江戸幕府創成期に伏見にいたのでしょうか。

本稿では、徳川家康がなぜ伏見に残ったのかについて簡単に説明したいと思います。 “【伏見で始まった江戸幕府】徳川家康が豊臣秀吉死後も伏見に残った理由” の続きを読む

【天下三戒壇】律令制度下における僧侶資格取得場所

天下三戒壇とは、奈良時代に、日本中でたったの3寺にのみ設けられた僧侶が正式な戒律を授かるための施設である戒壇の総称です。

具体的には、東大寺(奈良市)、下野薬師寺(栃木県下野市)、観世音寺(福岡県太宰府市)に置かれた3つの戒壇の総称であり、本朝三戒壇とも言われます。

呪術的・統治的要素を重視した国家宗教として発展した日本の仏教では、出家者の悟りの境地などの側面が重要視されなかったために出家者の規律が軽視され、戒律や授戒の制度が発展しませんでした。

そのため、日本では僧侶資格があいまいとなっており、各種義務を免れる目的で僧侶を名乗る者(私度僧)が続出するようになりました。

この事態を苦慮した朝廷は、中国から鑑真を迎えて正式な授戒(受戒)制度を整え、厳格な僧侶資格制度を定めたのです。

その結果、奈良時代中期以降には、日本において僧侶となるためには授戒を経なければならないとされ、その授戒の場とされたのが天下三戒壇だったのです。 “【天下三戒壇】律令制度下における僧侶資格取得場所” の続きを読む

【豊臣秀吉の後継ぎ候補者の推移】混乱する豊臣政権後継者選定問題

豊臣秀吉は、男色が当たり前だった時代に女性のみを愛し、ルイスフロイスが記した日本史には側室が300人いたとも記されているのですが、なかなか子宝に恵まれませんでした。

生涯で3人の男児を儲けたとされているものの、長男・次男は早世し、三男・豊臣秀頼は年老いて産まれた子であったために豊臣家に混乱をもたらしました。

本稿では、思うように後継者を定めることができなかった豊臣秀吉が、その時々で誰を豊臣家(羽柴家)の後継者としていたかについて、時系列順に説明して行きたいと思います。

なお、豊臣秀吉は、木下藤吉郎→木下秀吉→羽柴秀吉→豊臣秀吉と名乗りを変遷させていますが、本稿では便宜上「豊臣秀吉」の表記で統一することとします。 “【豊臣秀吉の後継ぎ候補者の推移】混乱する豊臣政権後継者選定問題” の続きを読む

【宮部継潤】羽柴政権下において対毛利家山陰方面最前線の壁となった大名

宮部継潤(みやべけいじゅん)は、北近江の国衆から羽柴秀吉に降ることによって出世を果たし、最終的には但馬国を得て山陰の要衝である鳥取城主となった戦国大名です。

宮部継潤に対しては、後に天下人となる豊臣秀吉(当時の名は木下秀吉)が、後に関白となる豊臣秀次(当時の名は治兵衛)を人質として差し出すほどの力と器量を有し、また羽柴秀吉による中国攻めの際には羽柴秀長と共に山陰方面攻略を成功させ、その後の豊臣政権下における対毛利家の最前線に配されるほどの信頼を勝ち得た有する人物でもありました。

本稿では、その功績が大きいにも関わらず、過小評価されてマイナー扱いとされている宮部継潤の生涯について、簡単に紹介していきたいと思います。 “【宮部継潤】羽柴政権下において対毛利家山陰方面最前線の壁となった大名” の続きを読む

【ヤマト政権の蝦夷征討】東北地方の日本組入政策と抵抗の歴史

畿内(大和)から始まったヤマト政権は、次第にその勢力範囲を東西南北に拡大していき、古墳時代には主に畿内から北九州までの範囲をその勢力下に置きました。

その後、ヤマト政権は、現在の関東地方にまで勢力範囲を拡大させたのですが、飛鳥時代頃になっても、現在の東北地方や南九州にはヤマト政権に従わない勢力がありました。

ヤマト政権では東北地方以北の非服従部族をエミシ(蝦夷)、南九州の非服従部族を隼人と呼び、これらの部族を支配下に置くため様々な施策が講じていきました。

本稿では、このうち、ヤマト政権における現在の東北地方獲得のための蝦夷征討・交流の歴史についてその概略を説明していきたいと思います(なお、勘違いしがちなのですが、ヤマト政権による東北獲得政策では戦いよりも交流政策によるものが主であり、戦いによる征服はそれほど多くありません)。 “【ヤマト政権の蝦夷征討】東北地方の日本組入政策と抵抗の歴史” の続きを読む

【ロシア帝国の日露戦争の目的】なぜロシアは東アジアに向かったのか

明治37年(1904年)から明治38年(1905年)9月までの間、大日本帝国とロシア帝国との間で戦われた日露戦争ですが、なぜこの戦争が起こったのでしょうか。

日本側から見ると、日清戦争により獲得したはずの遼東半島が三国干渉により奪われた対ロ悪感情や、朝鮮半島の支配権を巡るロシアとの軋轢が主たる原因と説明されるのが一般的です。

では、ロシアの戦争目的は何だったのでしょうか。

ロシアの政治的・経済的中心地はモスクワやサンクトペテルブルクがある領土西端部です。

そのため、極東の地は、ロシアから見ると辺境地に過ぎません。

それにも関わらず、ロシアは、国家・国民に多大な犠牲を強いてまで獲得しなければならない利益がこの極東の地あったのです。

本稿では、なぜロシアは日本と戦争してまで極東の地に進出して来たのか、その理由について歴史的経緯を順に説明していきたいと思います(なお、本稿は、あくまでも日本史ブログであり、日本史を理解する限度で必要な範囲の説明に留め、世界史分野となる詳細な説明は割愛します。)。 “【ロシア帝国の日露戦争の目的】なぜロシアは東アジアに向かったのか” の続きを読む