【倭と呼ばれていた頃の日本】中国歴史書から見る古代日本の歴史

倭とは、中国に朝貢していた時期である古代日本の呼び方です。

奈良時代に入るまでの日本には記録を残す文化がなく、現存する最古の書物である古事記ですら和銅5年(712年)に完成したものですので「倭」の時代を日本の同時代資料から確認することはできません。

そのため、主に中国に残された歴史書により、「倭」と呼ばれた古代日本について振り返っていきたいと思います。 “【倭と呼ばれていた頃の日本】中国歴史書から見る古代日本の歴史” の続きを読む

【鎌倉仏教の興り】貴族の特権から民間信仰に変遷した仏教革命

鎌倉仏教は、鎌倉時代初期、比叡山延暦を下りた幾人かの高僧によって開かれた一般庶民・武士向けの仏教です。

それまでの仏教は、国家の判断によって導入された皇族・貴族の特権的文化であったのですが、鎌倉仏教では、これを易行・選択・専修を特色とする「簡単な修行を1つだけ選びそれだけを行えば足りる」とすることで一般大衆に門戸を開き、日本全国への爆発的な普及のきっかけとなりました。

この鎌倉仏教の広がりは、大きく分けると他力本願を是とするグループと、自力本願を是とするグループという2つの派閥で広がっていき、他力本願グループは主に庶民層に、自力本願グループは主に武士階級の支持を得ました。

そして、他力本願を是とするグループでは法然・親鸞・一遍・日蓮などを開祖とする宗派が生まれ、自力本願をとするグループでは栄西・道元などを開祖とする宗派が生まれています。

本稿では、この皇族・貴族から庶民・武士へと担い手が変化するに至った革命的ともいえる鎌倉仏教について、その成立に至る経緯から簡単に説明したいと思います。 “【鎌倉仏教の興り】貴族の特権から民間信仰に変遷した仏教革命” の続きを読む

【第52代・嵯峨天皇】律令体制の再編成を行った平安時代初期の名君

嵯峨天皇(さがてんのう)は、先代の平城上皇方との政争である薬子の変に勝利して朝廷をまとめ上げた上で、律令体制の崩壊が進むとともに国家財政が悪化していた9世紀前半に、天皇直属の令外官を設置するなどして官庁を再編し、また天皇の権威・権力を強化させた天皇です。

天台宗・真言宗などの密教を保護して神仏習合を進め、また安定した政治力を基に平穏な治世を送る一方で、伝統的社会を変容させて唐風の儀式や文化を浸透・定着しさせたことでも有名です。 “【第52代・嵯峨天皇】律令体制の再編成を行った平安時代初期の名君” の続きを読む

【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて

市中引き回し(しちゅうひきまわし)は、江戸時代の日本で行われた、死罪以上の判決を受けた罪人が受ける付加刑でした(独自の刑罰ではなく、あくまでも付加刑です。)。

死罪以上の判決を言い渡された者が馬に乗せられ、罪状を書いた捨札等を持ったものと共に刑場まで連れられて行くという公開連行制度(見せしめ)であり、抑止的効果をも狙ったものでした。

市中引き回しは、元々江戸幕府将軍のお膝元であった江戸で行われた刑罰だったのですが、豊臣家が滅んで大坂が徳川家の直轄地になると、ここを西国統治の拠点と定めた江戸幕府が大坂に江戸の統治システムを持ってきます。

その結果、大坂でも江戸で行われていたものと同様の刑罰システムが採用され、その一環として市中引き回しも採用されることとなったのです。 “【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて” の続きを読む

【橋本遊郭】明治時代に再興された京都南端の遊郭街

橋本遊廓(はしもとゆうかく)は、明治10年(1877年)ころから昭和33年(1958年)ころまでの間、京都府綴喜郡八幡町字橋本(現・八幡市)に存在した遊廓です。

昭和5年(1930年)に刊行された「全国遊廓案内』」では八幡町遊廓という名が付されていました。

京街道・渡し舟・石清水八幡宮・京阪電車の各利用客により繁盛した橋本遊郭でしたが、昭和33年(1958年)の売春防止法施行により公娼制度が廃止されたことにより消滅し、現在に至っています。

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【日本の貨幣の歴史】

貨幣制度とは、硬「貨」+紙「幣」という貨幣によって商品・サービスの交換を媒介する経済制度です。

この制度の下では、中央国家などが、貨幣(通貨)の発行方法・種類・単位・価値などを決め、それを基に商品流通が行われることが一般的となります。

もっとも、貨幣自体にはその額面が表す価値があるわけではありませんのでその流通には発行者(統治機関)に対する信頼が絶対条件となるのですが、現在に至るまで統治機関の変遷がありその信頼にも大きな波がありましたので、貨幣制度についても紆余曲折あるという歴史的経過を経ています。

そこで、以下、貨幣制度の導入から、現在の管理通貨制度確立に至るまでの貨幣の歴史について見ていきたいと思います。 “【日本の貨幣の歴史】” の続きを読む

江戸時代以降の日本で宗教戦争が起きなくなった理由とは

現在の日本では、宗教との関わりが希薄と言われており、確固たる信仰を持っている人はそう多くはありません。

そのため、その多くが仏教徒とされる日本人も、冠婚葬祭などでお坊さんに接するくらいしか宗教に関わり合いがなく、またお坊さんの姿から宗教に平和的イメージを持つ人が多いのではないでしょうか。

このイメージは、江戸時代以降の僧が丸腰であり、軍事力・武力をもって物事を解決しようとしていないために宗教が平和的な存在であるかのように見えているのですが、歴史的に見ると全くそのようなことはありません。

むしろ、歴史的に見ると、日本の宗教においては何度も宗教戦争が起こり、これまでに多くの血が流れているのです。

現在の平和的イメージは、宗教団体を無力化させた戦国武将と、再びそのような事態に陥らないようにするために考えられた対応策の結果なのです。

本稿では、これらの宗教戦争の歴史と、江戸時代以降にこれらが封じられるに至った経過について見ていきたいと思います。 “江戸時代以降の日本で宗教戦争が起きなくなった理由とは” の続きを読む

【日本三大石鳥居】日光東照宮一之鳥居・八坂神社旧三之鳥居・鶴岡八幡宮一之鳥居

日本三大石鳥居とは、日本全国に点在する石造鳥居の中で、さらに歴史のある大きな3つの鳥居をいいます。

古来より「三大・・」が好きな日本人は、平和になって庶民が旅行をする余裕が出来始めた江戸時代になると、石鳥居についても日本三大石鳥居と称してランク付けをしてきました。

誰がどういう根拠で定めたのかは知りませんが、日光東照宮・一之鳥居、八坂神社・旧三之鳥居、鶴岡八幡宮・一之鳥居が日本三大石鳥居とされるのが一般的ですので、それぞれ簡単に説明したいと思います。

なお、いずれもあまりにも大きな鳥居であるため、その柱に切れ目があり、二つの石をつなぎ合わせて造られています。 “【日本三大石鳥居】日光東照宮一之鳥居・八坂神社旧三之鳥居・鶴岡八幡宮一之鳥居” の続きを読む

【琵琶湖疏水の扁額一覧】疏水工事関与者・明治元勲の揮毫

明治維新後の東京奠都に伴って人口が激減した京の復興策として行われた巨大プロジェクトが琵琶湖疏水です。

明治22年(1889年)に水運・灌漑・上水道・水車動力の源泉として第1疏水が完成して京の復興に大きく寄与し、その後、この大成功を受けて延伸工事や第2疏水工事などが進められていきました。

これらの琵琶湖疏水が京経済に寄与した功績を讃え、疏水流域には、疏水工事関与者・当時の元勲によって書かれたありがたいお言葉が扁額として掲げられることとなりました。

現在では、疎水流域が散歩道となっていますので、歩きながら、また第1疏水を運行する観光船に乗りながらこれらの扁額を見ることができますので、以下、観光の一助として琵琶湖疏水の簡単な歴史と掲げられている扁額の位置及びその内容を紹介したいと思います。 “【琵琶湖疏水の扁額一覧】疏水工事関与者・明治元勲の揮毫” の続きを読む

【武田二十四将】武田信玄に仕えた武名高い家臣24人

武田二十四将(たけだにじゅうししょう/たけだにじゅうよんしょう)は、後世に講談や軍記物語などの題材となった、武田信玄に仕えた武将のうち特に評価の高い24人を選んで付された武田家家臣団の呼称です。

武田信玄が生きていた時代にそのような名称があったわけではなく、江戸時代に軍記者などを基に抽出された武将の集合体であるため、その内容に確定性・客観性があるものではありません。

もっとも、この武田二十四将は、現在よりも往時に近かった江戸時代に武田家の主要家臣が誰であったかを推認させる資料となっており、その構成などは戦国最強武田軍の運用の一端を検討する素材として有用であると考えます。

そこで、本稿では、この武田二十四将について検討していきたいと思います。 “【武田二十四将】武田信玄に仕えた武名高い家臣24人” の続きを読む