【護良親王】鎌倉幕府滅亡後の征夷大将軍

護良親王(もりよししんのう)は、鎌倉幕府の討幕に多大な功績を挙げて建武の新政では征夷大将軍に補任された後醍醐天皇の第三皇子です。

幼くして仏門に入っていたのですが、鎌倉時代末期に還俗して討幕の兵を挙げ、畿内各地で幕府軍との戦いを繰り返し、最終的な勝利に大きな貢献をしました。

もっとも、その後、同じく鎌倉幕府討幕に貢献した足利尊氏と対立し、また後醍醐天皇との行き違いなどもあって建武政権下で失脚して鎌倉に幽閉された後、中先代の乱の混乱の中で、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害されるという悲しい最期を迎えています。 “【護良親王】鎌倉幕府滅亡後の征夷大将軍” の続きを読む

【鎌倉幕府による鎌倉開拓】武士の都となった鎌倉発展の歴史

鎌倉は、初めての武士政権である鎌倉幕府の本拠地となった場所です。

あまりにも有名な場所であるため昔から発展していた場所のようなイメージを持ちがちですが、平安時代以前の鎌倉は、都であった京から430kmも離れたど田舎であり、お世辞にも発展しているとは言い難い場所でした。

もっとも、源頼朝が鎌倉に入った後、源頼朝によって三方を山・一方を海で囲まれた防衛拠点としての基礎が築かれ、その後北条泰時によって陸上・海上交通が整えられ、さらに北条時頼によって禅宗寺院を出城として配置することで武士の都として完成を迎えます。

本稿では、この武士の都・鎌倉の発展の経緯について、順に説明していきたいと思います。 “【鎌倉幕府による鎌倉開拓】武士の都となった鎌倉発展の歴史” の続きを読む

【露寇事件(文化露寇)】江戸時代に起こった500年ぶりの外国襲撃

露寇事件(文化露寇)は、19世紀初めにロシア帝国から日本へ派遣された外交使節ニコライ・レザノフが、長期間軟禁と通商要求拒否に対する報復として部下に命じたことにより勃発したロシア兵による日本北方拠点攻撃事件です。

それまでにロシアの脅威に備えて東蝦夷地(北海道の太平洋側と北方領土)を幕領化していた江戸幕府が、太平洋側の防衛だけでは不十分であると判断してさらに西蝦夷地(北海道の日本海側と樺太)をも幕領化するに至るきっかけを作った事件でもあります。 “【露寇事件(文化露寇)】江戸時代に起こった500年ぶりの外国襲撃” の続きを読む

【出島】江戸時代日本における西欧国との唯一窓口であった人工島

出島(でじま)は、寛永13年(1636年)、江戸幕府が日本国内に南蛮人が滞在してキリスト教が普及することを防ぐため、ポルトガルを収容目的で長崎に築造した扇形の人工島です。

築造直後から寛永16年(1639年)までの3年間はポルトガル商館が置かれたのですが、ポルトガルとの断交により寛永18年(1641年)から安政6年(1859年)まではオランダ東インド会社商館が置かれて貿易が行われました。

西欧国家との江戸時代唯一の窓口となり、江戸時代にのべ700隻以上ものオランダ船が来航し、貿易品・文化・情報などを伝えました。

幕末に日本が開国したことによりその役割が終了し、明治以降の長崎港港湾整備に伴う周辺の埋立等により長崎と陸続きとなって扇形の面影は失われました。

その後、平成8年(1996年)に長崎市により出島復元整備事業計画が策定され、江戸当時の出島の姿への復元が進められています。 “【出島】江戸時代日本における西欧国との唯一窓口であった人工島” の続きを読む

【鎖国】江戸幕府の海禁政策

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教の禁教を目的として、オランダを除くキリスト教国の人の来航と日本人の出入国を禁止した状態で行われた対外政策(とそこから生じた孤立状態)をいいます。

その目的は禁教の徹底であり、貿易利益の獲得ではありません(鎖国体制を維持した結果、江戸幕府が貿易利益を独占する結果に至ったに過ぎません。)。

期間としては、寛永16年(1639年)のポルトガル船入港禁止から嘉永7年(1854年)3月3日の日米和親条約締結までを指すことが一般的です。

もっとも、江戸時代に「鎖国」という言葉が広く用いられていたという事実はなく、後世の講学上の概念ですので注意が必要です。 “【鎖国】江戸幕府の海禁政策” の続きを読む

【フェートン号事件】長崎への黒船来航

フェートン号事件は、文化5年(1808年)8月、鎖国体制下の長崎港にイギリス軍艦が侵入し、江戸幕府の遠国奉行(地方機関)である長崎奉行から薪・水・食料を脅し取った事件です。

ヨーロッパにおけるナポレオン戦争で争っていたイギリスとフランスの争いの余波が日本にまで飛び火して発生した事件であり、フランスの支配下に入ったオランダの船舶を追って長崎湾に入って来たイギリス船・フェートン号が、ことのついでに長崎奉行を脅して物資を強奪していきました。

イギリス艦・フェートン号には日本(江戸幕府)と事を構える意思はなく、また日本側にも人的被害が出なかった事件ではあるのですが、国の1つの地方機関が、たった1隻の軍艦の武力に屈するという国辱的事実を全世界に知らしめてしまった事件となりました。

本稿では、フェートン号事件に至る国際情勢を簡単に説明した上で、フェートン号事件の経緯について説明していきたいと思います。 “【フェートン号事件】長崎への黒船来航” の続きを読む

【新撰組結成】幕末京の人斬り集団誕生の経緯

新撰組(新選組・しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に上洛する徳川家茂を護衛するために一般公募で集められた浪士から発展した集団です。

徳川家茂に先立って入京した浪士組でしたが、京に入った直後に引率役であった清河八郎の翻意により袂を分かった試衛館派(近藤勇ら)・水戸派(芹沢鴨ら)・根岸友山一派らによって結成された壬生浪士組がその前身となります。

壬生浪士組では、結成直後に根岸友山一派を廃して試衛館派(近藤勇ら)・水戸派(芹沢鴨ら)による隊となり、会津藩預かりの部隊として京の治安維持や攘夷派志士の摘発に従事しました。

また、八月十八日の政変での活躍を評価され、「新撰組(新選組)」の隊名を与えられています。

その後、水戸派を一掃して試衛館一派で占められるに至った新撰組ですが、池田屋事件で大活躍をしたり、鉄の掟によって内部粛清を繰り返したり、はたまた各地でトラブルを頻発したりするなどしてその名を高めました。

その後、慶応3年(1867年)6月10日に隊士全員が幕臣に取り立てられたこともあり、江戸幕府の滅亡に至る過程で最後まで幕府と行動を共にし、慶応4年(1868年)に甲陽鎮撫隊と改めた後、明治2年(1869年)5月18日の函館戦争における旧幕府軍降伏により事実上消滅するという滅びの美学の体現者として現在に至ってなお有名です。

本稿では、幕末の京で異彩を放った剣客集団である新撰組について、その結成の経緯から隊名拝命に至る経緯について紹介していきたいと思います。 “【新撰組結成】幕末京の人斬り集団誕生の経緯” の続きを読む

【平家政権成立】クーデターにより成立した日本初の武士軍事政権

平家政権は、平安時代末期に軍事貴族であった平家により確立された日本初の軍事政権であり、平正盛が基礎を築き、平忠盛が発展させ、平清盛により完成しています。平清盛の館が京の六波羅にあったことから、六波羅政権ともいわれます。

この辺りの話は、平家物語・愚管抄などを基にした貴族目線での話により理解されることが多いのですが、実態を理解するためには、貴族目線のみならず当時の権力機構ないでの位置付けを基づいて考えていかなければなりません。

すなわち、平家は、朝廷内の出世のみにより権力を高めたのではなく、軍事力を背景として地頭や国守護人を設置するようになり、その結果、従来の国家機構の支配権を掌握することで成立したということの理解が必要です。

もっとも、その成立時期については諸説あり、大別すると仁安2年(1167年)5月宣旨説と、治承三年の政変(1179年)説に分かれるのですが、定義の別は置いておくと、12世紀中期頃に段階的に成立し、遅くとも治承3年(1179年)までに確立されたと解釈するのがわかりやすいと思います。

なお、余談ですが、平氏と平家は別物です。「平氏」とは、皇族が臣下の籍に降りる臣籍降下して天皇から「平」という氏を授けたことにはじまる賜姓皇族の全てを指す概念であり、平家は、平氏の中の伊勢平氏・平清盛を棟梁とする一門を特別に指す概念となっています。

本稿では、平氏政権ではなく、平家政権の紹介となっていますので、これを前提として読み進めていただければ幸いです(平清盛に連なる伊勢平氏一族政権と見れば平家政権であり、建春門院滋子に連なる堂上平氏一族も政権の中枢にいるという意味では平氏政権とも言えます。)。 “【平家政権成立】クーデターにより成立した日本初の武士軍事政権” の続きを読む

【大宰府】軍事拠点として誕生し統治機関へと変化した西の都の歴史

大宰府(だざいふ)は、律令制度確立期に西海道(現在の九州地方)を統治するために筑前の国に設置された統治機関です。

大王の勅を司ることから、和名では「おほ みこともち の つかさ」と言われます。

政治・行政機関として機能した大宰府は、元々は中国・朝鮮に君臨していた王朝から古代日本を守るための軍事施設として成立した軍事都市であり、中国・朝鮮との関係が改善して侵略される危険が薄れたことから、次第にその役割を政治都市に変えていったという歴史的経緯があります。

本稿では、軍事都市兼政治都市として反映した西の都・大宰府の歴史について見ていきたいと思います。 “【大宰府】軍事拠点として誕生し統治機関へと変化した西の都の歴史” の続きを読む

【日明貿易】朝貢貿易を受け入れた室町時代の日中貿易

日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本と当時の中国王朝であった明との間で行われた公的貿易です。

遣隋使・遣唐使の時代から中国王朝との対等貿易を指向していた努力をひっくり返し、経済的利益のみに目をくらませて朝貢・冊封を受け入れた、次代に逆行する屈辱的貿易でもありました。

遣明船の上陸場所が中国の「寧波」に限定された上、そこで外交使節に明の皇帝から発給された倭寇と区別するための通行証(貿易許可証ではなくあくまでパスポートに過ぎませんでした)である勘合の査証が行われ、これをパスした者のみが同港への通行が許されることとなったという貿易携帯から勘合貿易とも言われています。

日明貿易の日本側の担当者は、その時々の日本側の政治情勢により変化し、当初は懐良親王であったのですが、その後は足利義満→足利義教→有力守護大名及び商人→大内氏と変遷し、最終的に日明貿易を独占して巨万の利権を得ることとなった大内氏が下剋上によって滅亡したことにより、担当者を失った日明貿易もまた終了するに至っています。 “【日明貿易】朝貢貿易を受け入れた室町時代の日中貿易” の続きを読む