【大垣城の戦い】関ヶ原の戦い本戦当日に発生した攻城戦

大垣城の戦い(おおがきじょうのたたかい)は、関ヶ原の戦い当日に、本戦のすぐそばで発生した東軍による攻城戦です。

元々は西軍主力の本陣を置いていた大垣城が主戦場となるはずだったのですが、前日に石田三成らが西軍主力の本陣を関ヶ原に移してしまったために本戦ではなくなった戦いでもあります。

関ヶ原の戦い本戦の直前に始まった大垣城の戦いですが、本戦がわずか1日で東軍勝利にて決着したため、その影響を受けた大垣城もわずか1週間余りで陥落してしまいます。 “【大垣城の戦い】関ヶ原の戦い本戦当日に発生した攻城戦” の続きを読む

【杭瀬川の戦い】関ヶ原の戦いの前日に西軍が勝利した局地戦

杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、関ヶ原の戦いの前日である慶長5年(1600年)9月14日に、本来戦場となるはずであった大垣城の北西で勃発した前哨戦です。

西軍の士気が、東軍に徳川家康本隊が合流したことにより低下したため、これを鼓舞するために行われました。

この戦いは、島左近と明石全登の活躍によって西軍が勝利したのですが、小さな戦いであったこと、翌日に石田三成らが場所的優位性のある大垣城を出てしまったことから関ヶ原の戦い本戦について西軍勝利に導くまでの効果をあげるには至りませんでした。 “【杭瀬川の戦い】関ヶ原の戦いの前日に西軍が勝利した局地戦” の続きを読む

【天正壬午の乱】織田信長死後に起こった武田旧領争奪戦

天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、織田信長が本能寺の変で横死した後、旧武田領で勃発した一連の争乱です。

織田信長の死亡により武田旧臣などが一斉に反乱を起こし、織田氏の領国支配体制が固まっていなかった旧武田領国(甲斐・信濃・上野西部)は混乱し、権力の空白状態となります。

この権力空白地帯となった旧武田領国をめぐって、隣接する北条家・徳川家・上杉家が争奪戦を繰り広げ、そこに武田氏の傘下に入っていた木曽家や真田家らの国衆などの動きが絡んで大きな起きた争いとなりました。

この一連の争乱のうち、どの範囲を天正壬午の乱と呼ぶのかについて諸説あるのですが、本稿ではその定義付けは無視して一連の争乱の概略について見ていきたいと思います。 “【天正壬午の乱】織田信長死後に起こった武田旧領争奪戦” の続きを読む

【野田城の戦い】武田信玄の人生最後の戦い

野田城の戦い(のだじょうのたたかい)は、三方ヶ原の戦いに勝利しつつも浜松城を攻略しきれなかった武田軍がその攻略を諦めて西進し、奥三河に向かって攻めるに至った攻城戦です。

武田信玄の西上作戦の一環として元亀4年(1573年)1月から始まり、概ね1ヶ月の攻城戦を経て野田城が武田家に下っています。

もっとも、野田城陥落直後に武田信玄の体調が悪化して死去しておりますので、武田信玄の人生最後の戦いでもあります。

本稿では、この野田城の戦いについて説明していきたいと思いますが、西上作戦の一環として行われていますので、前提を少し長めに紹介した後で野田城の戦いを説明することとします。 “【野田城の戦い】武田信玄の人生最後の戦い” の続きを読む

【第一次高天神城の戦い】武田勝頼と徳川家康との間の遠州争奪戦の初戦

第一次高天神城の戦い(だいいちじたかてんじんじょうのたたかい)は、天正2年(1574年)に、武田勝頼率いる武田軍が、徳川方の最東端拠点であった遠江国・高天神城を攻略した戦いです。

元亀3年(1572年)10月に始まった武田信玄の西上作戦によって領内が蹂躙された徳川家と、その後に武田信玄が死去したことにより家督相続での家内統制に苦慮した武田家との間で繰り広げられた一進一退の攻防戦の1つです。

戦術的に見ると、武田勝頼が大軍を動員して高天神城を攻撃したのに対し、後詰を出せなかった徳川家康・織田信長の威信を大きく下げるという結果をもたらしました。

他方で、戦略的に見ると、遠江国内に拠点を得てしまったがために、この後、高天神城を防衛するために相当の戦力を費やす必要が生じたため、武田家を大きく疲弊させる結果をもたらしています。

本稿は、このように後の武田・徳川・織田の勢力関係に大きな影響をもたらした戦いとなった第一次高天神城の戦いについて、そこに至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【第一次高天神城の戦い】武田勝頼と徳川家康との間の遠州争奪戦の初戦” の続きを読む

【長島一向一揆】願証寺の蜂起と泥沼の消耗戦となった殲滅戦

長島一向一揆(ながしまいっこういっき)は、元亀元年(1570年)8月に石山本願寺第11世顕如が三好三人衆と同調して蜂起したことをきっかけとし、これに長島願証寺も呼応して当時の願証寺住持証意や本願寺の坊官下間頼成の檄文によって長島の一向宗門徒が一斉に蜂起し、さらにこれに呼応して「北勢四十八家」と呼ばれた北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻したことにより発生した一連の戦いです。

織田軍による三度の鎮圧戦が繰り広げられ、最終的に長島の一揆勢が殲滅されるまでに約4年の歳月を要し、その間に織田方にも織田一門衆を含む多くの犠牲者を出しています。

本稿では、泥沼の消耗戦となった長島一向一揆の蜂起とその殲滅戦について、発生に至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【長島一向一揆】願証寺の蜂起と泥沼の消耗戦となった殲滅戦” の続きを読む

【比叡山焼き討ち】織田信長が第六天魔王と呼ばれるに至った殺戮戦

比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は、元亀2年(1571年)9月12日、織田信長が、比叡山麓の寺内町と延暦寺に対して総攻撃をしかけてこれらを焼き払うと共に僧侶・学僧・上人・児童に至るまで虐殺し尽くしたと言われてきた戦いです。

この点については、織田信長が比叡山延暦寺を無効化したことは争いがないのですが、その規模やそこに至る合戦の経緯は諸説あり、その真偽は必ずしも明らかではありません。

そればかりか、近年の発掘調査によると、織田信長による焼き討ちの前から比叡山の施設の多くは廃絶していた可能性が指摘され、これまで伝えられていたような戦いではなかったとする説も有力になってきています。

本稿では、これらも踏まえ、織田信長によって行われた比叡山焼き討ちについて、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【比叡山焼き討ち】織田信長が第六天魔王と呼ばれるに至った殺戮戦” の続きを読む

【志賀の陣】織田信長が朝倉義景・浅井長政・比叡山延暦寺に惨敗した戦い

志賀の陣(しがのじん)は、元亀元年(1570年)9月から12月に亘って行われた、比叡山延暦寺に立てこもった浅井長政・朝倉義景を攻めきれなかった織田信長が屈辱的な内容での和睦を結ぶに至ったという戦いです。

第1次信長包囲網成立の切っ掛けとなった戦いでもあります。

また、この戦いに際して浅井・朝倉連合軍に味方したことを理由として、その後に比叡山延暦寺焼き討ちに繋がったという重要な意味を持つ一戦でもあります。 “【志賀の陣】織田信長が朝倉義景・浅井長政・比叡山延暦寺に惨敗した戦い” の続きを読む

【金ヶ崎の退き口】織田信長の人生最大の危機となった撤退戦

金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)は、越前国を治める朝倉義景を討伐するために越前国に侵攻していた織田・徳川連合軍が、北近江を治める浅井長政の裏切りによって窮地に陥り、命からがら越前国から京まで逃げ帰るという撤退戦です。金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)とも言われます。

織田信長の生涯の中で、最も死ぬ危険が高まった戦いでもあります。

敵地であった越前国からの撤退戦は困難を極めたのですが、後に天下人となった木下秀吉や、後に織田家筆頭となった明智光秀などの活躍により何とか作戦を成功させています。

なお、越前国攻略戦に徳川軍が参戦していたことは間違いないのですが、殿戦に徳川家康が加わっていたのかについては必ずしも明らかとなっておりません。

本稿では、この困難な撤退戦となった金ヶ崎の退き口について、その発生に至る経緯から順に見ていきたいと思います。 “【金ヶ崎の退き口】織田信長の人生最大の危機となった撤退戦” の続きを読む

【関ヶ原の戦い・当初布陣】直前に決戦場所が変更された天下分け目の合戦

天下分け目の戦いとして有名な関ヶ原の戦いですが、実は前日までは戦いの場所として予定されていたのが大垣城であり、約1ヶ月前に西軍諸将が入城し、決戦までの間にその他の西軍諸将や東軍諸将もまた大垣城に向かっていました。

ところが、決戦前日に大垣城に入っていた西軍諸将が城を出て関ヶ原に布陣してしまったため、急遽決戦の場が関ヶ原に移ることとなります。

本稿では、関ヶ原の戦いに至る経緯、合戦当初の布陣に加え、なぜこのような布陣となったのかについて説明したいと思います。 “【関ヶ原の戦い・当初布陣】直前に決戦場所が変更された天下分け目の合戦” の続きを読む