【大同江の戦い】文禄の役において平壌に到達するに至った戦い

大同江の戦い(だいどうこうのたたかい)は、文禄の役において、釜山上陸後に破竹の快進撃を続け、漢城に続いて平壌城近くにまで到達した日本軍に対し、朝鮮軍が夜襲を仕掛けて撃退された戦いです。

朝鮮軍は、日本軍に迎撃されただけでなく、退却する際に平壌城への進行ルートを日本軍に見られてしまったことで、それまで大同江を渡ることが出来なかった日本軍に渡河ルートを教えることとなり、平壌城陥落に繋がってしまった戦いでもあります。 “【大同江の戦い】文禄の役において平壌に到達するに至った戦い” の続きを読む

【忠州の戦い】文禄の役の際の朝鮮首都・漢城に迫る日本軍と朝鮮軍との野戦

忠州の戦い(ちゅうしゅうのたたかい)は、文禄元年(1592年)4月28日、朝鮮の忠州市付近の弾琴台で戦われた文禄の役初期の合戦です。戦場となった場所の地名を取って弾琴台の戦いとも言われます。

同年4月12日に朝鮮に上陸した日本軍は、その後、3隊に分かれて朝鮮首都・漢城を目指して進軍していったのですが、その最先鋒であった一番隊が漢城に肉薄したところで、朝鮮国王・宣祖が、女真族との戦いで数多くの軍功を挙げた三道都巡察使・申砬に日本軍の撃退を命じたことにより勃発しました。

もっとも、朝鮮軍総大将となった申砬が、防衛に適した鳥嶺を放棄してしまったことや、決戦の地に逃げ場のない弾琴台を選択したことなどにより朝鮮軍が惨敗し、首都・漢城陥落のきっかけを作った一戦となっています。 “【忠州の戦い】文禄の役の際の朝鮮首都・漢城に迫る日本軍と朝鮮軍との野戦” の続きを読む

【尚州の戦い】文禄の役で快進撃を続ける一番隊による慶尚道突破最終戦

尚州の戦い(しょうしゅうのたたかい)は、文禄元年(1592年)4月24日に勃発した文禄の役初期の戦いです。

釜山に上陸した後、朝鮮首都である漢城を目指して中路を進軍していく日本軍一番隊による、慶尚道を抜ける前の同道における最終戦です。

朝鮮方の城将(総大将)となっていた李鎰が、練兵のために兵を率いて城外に出ていたタイミングで日本軍が尚州城攻撃を開始したため、朝鮮方は有用な防衛策をとることなく壊滅してすぐに尚州城が陥落したあっけない戦いでもあります。

本稿では、この尚州の戦いについて、そこに至る経緯から簡単に説明します。 “【尚州の戦い】文禄の役で快進撃を続ける一番隊による慶尚道突破最終戦” の続きを読む

【鵲院関の戦い】文禄の役における最初の野戦

鵲院関の戦い(じゃくいんかんのたたかい)は、文禄の役の最初期の文禄元年(1592年)4月17日に勃発した1戦であり、文禄の役における初めての野戦でもあります。

釜山に上陸した後、釜山→東萊→梁山を攻略し、朝鮮の首都・漢城に向かって進軍する日本軍を迎撃するため、朝鮮軍が密陽市南東に位置する洛東江の隘路を利用してこれを迎撃しようとして失敗したため、日本軍の進軍を止めるには至りませでした。 “【鵲院関の戦い】文禄の役における最初の野戦” の続きを読む

【釜山攻略戦】文禄の役の橋頭堡確保作戦

16世紀末、日本国内を統一した豊臣秀吉は、2度に亘って朝鮮半島に兵を送っています。

一度目は天正20年(1592年)から文禄2年(1593年)までの文禄の役であり、このときの戦いは、対馬から朝鮮半島に海路で上陸した日本軍一番隊1万8700人による釜山攻撃から始まっています。

そこで、本稿では、この文禄の役の初戦となる釜山攻略戦の概略について簡単に説明したいと思います。 “【釜山攻略戦】文禄の役の橋頭堡確保作戦” の続きを読む

【幸州山城の戦い】碧蹄館の戦いで高揚した士気が地に落ちた戦い

幸州山城の戦い(こうしゅうさんじょうのたたかい)は、文禄の役の終盤の文禄2年(1593年)2月12日、漢城西方に位置する幸州山城(現在の高陽市徳陽区幸州内洞)を巡って朝鮮軍と日本軍との間で行われた攻城戦です。

明国軍の参戦により押されていま日本軍が、直前に起こった碧蹄館の戦いに勝利して勢いを取り戻しつつあったところ、続けて行った幸州山城攻めで甚大な被害を出して苦しくなり、明国と講和交渉を進めざるを得なくなるに至るターニングポイントとなった戦いでもあります。

本稿では、この幸州山城の戦いについて、そこに至る経緯から簡単に紹介していきたいと思います。 “【幸州山城の戦い】碧蹄館の戦いで高揚した士気が地に落ちた戦い” の続きを読む

【碧蹄館の戦い】文禄の役における明国軍の反転攻勢を断念させた日本軍の大勝利

碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)は、文禄2年(1593年)1月26日に朝鮮国京畿道高陽県の碧蹄館(ピョクチェグァン、現在の京畿道高陽市徳陽区碧蹄洞)で勃発した文禄の役における激戦の1つです。

朝鮮半島に上陸した後に連戦連勝を重ねて平壌城まで占拠するに至っていた日本軍でしたが、明国が朝鮮方について参戦したことによりその勢いが削がれ、反転攻勢を受ける苦しい時期に起こりました。

平壌・開城を立て続けに奪還して勢いに乗って漢城(現在のソウル)の奪還のために進んで来た李如松率いる2万人もの明国軍を、日本軍先遣隊2万人で迎撃して撃破し、その戦意を喪失させるに至ったという文禄の役の転換点となった戦いでもあります。

隣国との政治的問題から教科書で紹介されることが少なく、また大河ドラマなどでもほとんど描かれることがないため知名度は今一つですが、日本の戦国有名大名の共同作戦であり、名将・小早川隆景の生涯最後の戦いでもある歴史ファンにはたまらない戦いです。

本稿では、この碧蹄館の戦いについて、その発生に至る経緯から簡単に説明したいと思います。 “【碧蹄館の戦い】文禄の役における明国軍の反転攻勢を断念させた日本軍の大勝利” の続きを読む

【文禄の役】豊臣秀吉による唐入り作戦第一弾

16世紀末、日本国内を統一した豊臣秀吉は、2度に亘って朝鮮半島に兵を送っています。

一度目が天正20年(1592年)から文禄2年(1593年)までの文禄の役であり、二度目が慶長2年(1597年)からの慶長3年(1598年)までの慶長の役です。

明国を攻略するための戦争だったのですが、明国までの通り道となった朝鮮半島が主戦場となったため、朝鮮出兵とも言われます。

この2度の戦いは、老害化した豊臣秀吉が、当時の多くの大名の反対を押し切って行われた暴挙であり、豊臣家臣団を武断派と文治派に分ち、兵力を温存した徳川家康によってこの分断を利用されて豊臣政権が失われるに至らしめた愚策であると言われることが多いのですが、そのような事実はありません。

結果的に失敗したために酷い言われようがなされているのですが、他国を侵略するという道義的評価は置いておいて、豊臣政権維持という政策目的からすると本質的には愚策であったとは考え難い作戦です。

本稿では、豊臣秀吉による政権盤石化政策の一環として行われた朝鮮出兵のうちの第一段である文禄の役について簡単に説明していきたいと思います。 “【文禄の役】豊臣秀吉による唐入り作戦第一弾” の続きを読む

【吉野城の戦い】金峯山寺に籠った護良親王の籠城戦

吉野城の戦い(金峯山城の戦い)は、吉野に入って倒幕運動を続けていた後醍醐天皇の皇子である護良親王を討つため、鎌倉幕府方の六波羅探題が大軍を動員して力攻めを行った戦いです。

最終的には鎌倉幕府軍の勝利に終わり敗れた護良親王は高野山に落ちていくのですが、その過程で村上義光が身代わりとなって自刃したり、村上義隆が1人で殿を務めたりするなど、多くの泣かせるエピソードがある戦いでもあります。

本稿では、元弘の乱初期の大戦である吉野城の戦いについて、発生に至る経緯から簡単に説明していきたいと思います。 “【吉野城の戦い】金峯山寺に籠った護良親王の籠城戦” の続きを読む

【刀伊の入寇】摂関政治全盛期に起こった女真族襲来事件

刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、 寛仁3年(1019年 )3月27日から4月13日までなされた女真族による壱岐・対馬・九州襲撃事件です。

1019年に起こった、10(と)1(い)の九州(9)襲撃として、日本史上、最も覚えやすい語呂合わせの年に発生し、記録されただけでも死者365人・拉致被害者1289人・牛馬被害380匹・家屋45棟以上喪失という甚大な被害を被った一大事件です。

もっとも、刀伊の入寇は、なぜか教科書などではほとんど紹介されておらず、マイナー事件の扱いを受けています。

そこで、本稿では、刀伊の入寇について、事件発生の経緯からその概略を説明していきたいと思います。 “【刀伊の入寇】摂関政治全盛期に起こった女真族襲来事件” の続きを読む