【河内百済寺】人質として日本に残された百済王族が大坂枚方に創建した氏寺跡

百済寺(くだらでら・くだらじ)は、天平勝宝2年(750年)頃に百済王敬福によって建立されたと言われる河内国・交野郡中宮郷に存在した寺であり、現在でいうと大阪府枚方市内の淀川及び天野川沿いの小高い丘(交野ヶ原)上に位置します。

人質としてヤマト政権の下に送られた百済皇子が百済王氏の氏を与えられ、祖国滅亡後にヤマト政権下で力をつけて有力氏族となった後、その氏寺とするために建立した寺院でもあります。

ヤマト政権下で力を持った百済王氏は、百済寺の北部に一族を住まわせるための集落を形成していたとも考えられており、百済王氏の活躍の舞台として氏寺としてのみならずその周囲に広がった集落全体としての価値があります。

藤原摂関政治の確立により百済王氏が力を失ったために百済寺もまたいずれかの時点で失われてしまったのですが、その歴史的価値から昭和27年(1952年)3月29日に国の特別史跡に指定され、現在まで長い時間をかけて発掘調査が進められてきました。 “【河内百済寺】人質として日本に残された百済王族が大坂枚方に創建した氏寺跡” の続きを読む

【太閤下水】豊臣秀吉が原型を造り一部現在も使用されている大阪の背割下水

太閤下水(たいこうげすい)は大阪市に存在する江戸時代またはそれ以前に造られた下水道及び下水溝網です。

大坂の町の整備を始めた豊臣秀吉が、最初に整備を始めたことからその名が付されました。道路に面して建てられた町屋の裏側に下水溝が掘られたことから、建物の裏口(背中)に沿って流れるという意味で背割下水とも呼ばれます。

もっとも、現存する背割下水は、豊臣時代のものではなく、江戸時代前期に素掘りで掘られた下水道が江戸時代後期に石組溝に改造され、さらに明治期の改修を経て現在に継承されたものであり、豊臣秀吉により築造されたものとは別物と考えられています。 “【太閤下水】豊臣秀吉が原型を造り一部現在も使用されている大阪の背割下水” の続きを読む

【伏見宿】東海道五十七次の54番目の宿場町

伏見宿(ふしみじゅく) は、57次に延伸された東海道の54番目の宿場町です。古くから発展していた京南方の港湾都市であったのですが、隠居地として伏見に入った豊臣秀吉の手により大改修がなされ、さらにその後に徳川家康により更なる整備がなされた後、元和5年(1619年)に東海道の宿場町として指定されました。

京と大坂の間に位置する水陸交通の要衝地として大発展をした東海道最大級の大都市だったのですが、鳥羽伏見の戦いの戦火によりその大部分が焼失してしまったため、ほとんど遺構が残されていないのが残念です。 “【伏見宿】東海道五十七次の54番目の宿場町” の続きを読む

【綏靖天皇陵】かつての神武天皇陵跡地に治定された2代天皇の陵

綏靖天皇陵は、第2代天皇であるとされる綏靖天皇の陵です。

宮内庁により奈良県橿原市四条町の遺跡名・俗称「塚山」「塚根山」がこれに治定されており、陵の名としては桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)と呼ばれます。

日本で長い間尊崇を集めてきた天皇の中の墓所ですので、丁重に祀られた上で引き継がれてきた場所だと思われがちなのですが、中世には荒廃してその場所すらわからなくなっています。

そのため、前記の桃花鳥田丘上陵が本当に綏靖天皇陵であるかは必ずしも明らかではありません(そもそも、綏靖天皇が実在していたかすら定かではありません。)。

以下、紆余曲折を経て現在地の治定に至った経緯を基に綏靖天皇陵について説明していきます。 “【綏靖天皇陵】かつての神武天皇陵跡地に治定された2代天皇の陵” の続きを読む

【神武天皇陵】その所在が諸説ある初代天皇の陵

神武天皇陵は、その名のとおり日本の初代天皇とされる神武天皇の陵です。

宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ」がこれに治定されており、陵の名としては畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)と呼ばれます。

日本で長い間尊崇を集めてきた天皇の中でも特別な存在ともいえる初代天皇の墓所ですので、丁重に祀られた上で引き継がれてきた場所だと思われがちなのですが、中世には荒廃してその場所すらわからなくなっています。

そのため、前記の畝傍山東北陵が本当に神武天皇陵であるかは必ずしも明らかではありません。

以下、治定に至る経緯から順に神武天皇陵について説明していきます。 “【神武天皇陵】その所在が諸説ある初代天皇の陵” の続きを読む

【守口宿】東海道五十七次最後の宿場町

守口宿(もりぐちしゅく)は、現在の大阪府守口市本町1・2丁目、竜田通1丁目、浜町1・2丁目付近にあった東海道最後の宿場町(東海道五十七次の57番目の宿場町)です。

淀川洪水対策として大坂と伏見を結ぶ全長約27kmの淀川堤防上の道(文禄堤)沿いに建ち並ぶ特徴的な宿場町でした。

大坂からわずか2里(約8km)・枚方宿からも3里(約12km)という距離の近さから、当初から馬継ぎがなく人足のみの勤めとなっていた上、淀川に面していながら川舟との連絡がなかったために淀川舟運の発展につれて次第に客を失っていった宿でもあります。 “【守口宿】東海道五十七次最後の宿場町” の続きを読む

【石清水八幡宮】京の裏鬼門を守る国家第二の宗廟の歴史

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、現在の男山山頂(京都府八幡市八幡高坊30)に位置する八幡大神(誉田別命=応神天皇・比咩大神=宗像三女神・息長帯姫命=神功皇后)を祀る神社です。

かつては八幡宮寺とも言われて神仏習合の霊地とされ、伊勢神宮(天照大神)に次ぐ国家第二の宗廟とされていました。

第56代天皇である清和天皇の健康を祈願して平安京の裏鬼門(南西)の方角に創建された神社であるために清和天皇の子孫(清和源氏)の氏神となったのですが、後に清和源氏(源頼朝・足利尊氏)が武士になって武家政権を開くなど隆盛を極めるに至ったことから、信仰対象となっていた石清水八幡宮が武神として扱われるようになりました。

男山山頂から山麓に至る一帯が境内となっているところ、宇治川・桂川・木津川の合流点近くにあり、淀川を挟んで山崎天王山と相対するという交通・軍事の要衝地にあったため、実質的な意味でも京防衛の拠点と位置付けられました。 “【石清水八幡宮】京の裏鬼門を守る国家第二の宗廟の歴史” の続きを読む

【碧血碑】函館戦争における旧幕府軍戦死者を祀った石碑

碧血碑(へきけつひ・へっけつひ)は、戊辰戦争最終戦となった函館戦争において旧幕府軍に与して戦死した約800人の戦死者を祀った碑です。

函館戦争に勝利した新政府側戦死者が函館護国神社(函館招魂社)にて英霊として祀られたのに対し、敗れた旧幕府軍側戦死者が放置されていたことを哀れに思った函館の侠客であった柳川熊吉の尽力により建てられました。

碑文を一読しても意味が分からないのが通常ですが、歴史を勉強してから見るとイメージが大きく変わります。 “【碧血碑】函館戦争における旧幕府軍戦死者を祀った石碑” の続きを読む

【出島】江戸時代日本における西欧国との唯一窓口であった人工島

出島(でじま)は、寛永13年(1636年)、江戸幕府が日本国内に南蛮人が滞在してキリスト教が普及することを防ぐため、ポルトガルを収容目的で長崎に築造した扇形の人工島です。

築造直後から寛永16年(1639年)までの3年間はポルトガル商館が置かれたのですが、ポルトガルとの断交により寛永18年(1641年)から安政6年(1859年)まではオランダ東インド会社商館が置かれて貿易が行われました。

西欧国家との江戸時代唯一の窓口となり、江戸時代にのべ700隻以上ものオランダ船が来航し、貿易品・文化・情報などを伝えました。

幕末に日本が開国したことによりその役割が終了し、明治以降の長崎港港湾整備に伴う周辺の埋立等により長崎と陸続きとなって扇形の面影は失われました。

その後、平成8年(1996年)に長崎市により出島復元整備事業計画が策定され、江戸当時の出島の姿への復元が進められています。 “【出島】江戸時代日本における西欧国との唯一窓口であった人工島” の続きを読む

【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて

市中引き回し(しちゅうひきまわし)は、江戸時代の日本で行われた、死罪以上の判決を受けた罪人が受ける付加刑でした(独自の刑罰ではなく、あくまでも付加刑です。)。

死罪以上の判決を言い渡された者が馬に乗せられ、罪状を書いた捨札等を持ったものと共に刑場まで連れられて行くという公開連行制度(見せしめ)であり、抑止的効果をも狙ったものでした。

市中引き回しは、元々江戸幕府将軍のお膝元であった江戸で行われた刑罰だったのですが、豊臣家が滅んで大坂が徳川家の直轄地になると、ここを西国統治の拠点と定めた江戸幕府が大坂に江戸の統治システムを持ってきます。

その結果、大坂でも江戸で行われていたものと同様の刑罰システムが採用され、その一環として市中引き回しも採用されることとなったのです。 “【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて” の続きを読む