【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期の第8代将軍・徳川吉宗と、第9代将軍・徳川家重の子によって創設された徳川将軍家の一門家です。

紀伊徳川家出身の徳川吉宗が、ライバルである尾張徳川家の影響力を低下させるために創設されたと考えられており、徳川宗武(徳川吉宗三男)を家祖とする田安徳川家、徳川宗尹(徳川吉宗四男)を家祖とする一橋徳川家、徳川重好(徳川家重次男)を家祖とする清水徳川家がこれに該当します。

御三家に次ぐ高い家格を持つとしながらも当初は大名として藩を形成することも政治権力を持つこともなく、将軍の親族でありながら将軍家の部屋住みとして扱われ、将軍家や親藩大名家に後継者がない場合に養子を提供することを主な役割とするに過ぎない家でした。

もっとも、幕末期には幕政にも関与するようになり、江戸幕府最後の将軍である第15代将軍・徳川慶喜が一橋家から輩出されたことでも知られています。 “【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家” の続きを読む

【三国干渉】臥薪嘗胆を合言葉にロシアを仮想敵国にするに至った国辱事件

三国干渉(さんごくかんしょう)は、明治28年(1895年)4月23日、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の列強三国が、日本に対して、6日前である同年4月17日に調印(国家代表者間による交渉・条約文作・署名による内容確定)された日清戦争の講和条約である下関条約(批准は同年5月8日)の内容うちの1つである日本による遼東半島所有を放棄して清に返還するよう求めた勧告です。

日本側としては、日清戦争において多くの損害を被りながら獲得した遼東半島を失うことに抵抗が多かったのですが、当時の日本陸海軍に列強三国を相手にして戦うだけの国力はなく、やむを得ずに勧告に従って遼東半島を返還するという決断に至っています。

この点については、日本政府のみならず日本国民全体が悲憤慷慨し、この屈辱を忘れないために「臥薪嘗胆」をスローガンとして、国力増強・軍事力増強に努めていくようになりました。 “【三国干渉】臥薪嘗胆を合言葉にロシアを仮想敵国にするに至った国辱事件” の続きを読む

【徳川御三家】徳川将軍家版宮家が尾張・紀伊・水戸の3家となった経緯

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代に徳川宗家(将軍家)に次ぐ家格を持ち、将軍就任資格を持つとして徳川の苗字を称することを許された3つの分家です。

最終的に尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の3家に落ち着いたため、あたかも最初からこれらの家で始まったようなイメージを持ちがちですが、実際は紆余曲折を経て最終的にこの3家に落ち着いています。

そこで、本稿では、徳川御三家が現在のイメージに沿う形となるに至った歴史的経緯を順に説明していきたいと思います。 “【徳川御三家】徳川将軍家版宮家が尾張・紀伊・水戸の3家となった経緯” の続きを読む

【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落

宿場(宿場町)は、江戸幕府が、開幕直後に交通の要地として街道沿いに認定した上で、その統治下に置いた集落です。

古くからあった城下町などがそのまま転用された場所もあれば、江戸幕府によって新たに住民・町屋が集められて形成された場所もありました。

宿場が置かれた目的は、豊臣家及びその恩顧の大名達と対峙するための軍事的意味から公用人馬の調達・公用文書の輸送を第一とするものでした。

もっとも、豊臣家が滅亡して太平の世が訪れると、前記のような軍事目的のみならず、参勤交代の際の大名宿泊地や、一般庶民が旅する際の旅人宿泊地としても利用されるに至りました。

これらの経緯から、宿場町は、時期を経るに従って軍事的機能→政治的機能→社会的機能を獲得していくこととなり、軍事的機能(問屋場・木戸・見附・枡形・寺社仏閣)・政治的機能(本陣・脇本陣)・社会的機能(旅籠・木賃宿・茶屋・商店・高札場)などが混在する複合場所として成長していきました。 “【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落” の続きを読む

【参勤交代】江戸幕府封建制度下における平時の軍役奉公

参勤交代(さんきんこうたい)とは、江戸時代に各藩主や交代寄合が交替で江戸にいる将軍の許に出仕し、門番・火番・作事などの大名課役を交代で行った制度です。

自分の領地から江戸へ赴く旅である「参勤(参覲)」と、自領に帰還する旅である「交代(就封)」とを合わせて名付けられました。

大名が江戸と藩を往復する際に家臣らが隊列を組んで歩くというそのインパクトから有名となった制度ですが、その制度目的は、豊臣家が滅亡したことにより太平の世となった江戸時代において、軍事政権たる江戸幕府に対する軍事動員に代わる奉公手段(参勤交代=平時の軍役)を果たさせることにより幕藩体制を維持するというものでした。

もっとも、この制度の下では、諸大名は1年に1度江戸と自領を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならないという重たい負担を強いられました。 “【参勤交代】江戸幕府封建制度下における平時の軍役奉公” の続きを読む

【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか

江戸の町は、徳川家康により開幕された江戸幕府の本拠地として多くの人が集まる一大政治都市となったのですが、政治都市であったが故に生産力のない武士が多数居住することとなりました。

また、これらの武士を商売相手とする商人までもが江戸の町に流入していったため、江戸時代初期の関東地域の生産力のみではこれら増え続ける江戸の町の非生産人口を支える消費物資(農産物など)を工面することができませんでした。

そこで、江戸幕府としては、江戸の町機能を支えるため、全国各地から大量の物品(農産物・消費財・建築資材など)を江戸に運び込むシステムを構築する必要に迫られました。

では、江戸幕府は、どのようにこの問題点を解決していったのでしょうか。 “【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか” の続きを読む

【ヤマト政権の成立】鉄の独占差配により連合政権盟主となった古墳時代の天皇家

ヤマト政権は、三輪山麓に成立した小国が、弥生時代後期に朝鮮半島との交易によって鉄へのアプローチを手にしたことを利用して全国の小国を束ねることによって勢力を高め、現在の天皇家へと繋がる国家の盟主となった古代王権です。

ヤマト政権が成立・発展していった時代は、王墓として古墳が造られていった時代であることから、そのことにちなんで古墳時代と呼ばれています。

古墳時代にはまだ国内で文字が使われていませんでしたので、ヤマト政権成立の詳細を示す国内文献が残されておりませんが、大陸の文献や考古学的調査から明らかとなった結果がありますので、本稿ではこれらを基に現在の到達点を紹介していきたいと思います。 “【ヤマト政権の成立】鉄の独占差配により連合政権盟主となった古墳時代の天皇家” の続きを読む

【藤原摂関政治の始まり】外戚の地位を利用した藤原北家による権力独占の経緯

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代前期に摂政が天皇の代理人(天皇が幼少・病弱などの理由により政務を行うことができない場合にこれに代わって政治を行う役職)となり、また関白が天皇の補佐人(太政官からの意見を成人天皇に奏上する役職・令外官)となることにより、これらが天皇に代わって政治を行う政治形態を言います。

藤原氏が外戚の地位を利用して摂政・関白をはじめとする朝廷の要職を独占したことから藤原摂関政治とも言われます。

摂政という役職自体は奈良時代からあり、当初は天皇の代理人という職責の強さから元々は皇族のみが就任できる役職だったのですが、貞観8年(866年)に藤原良房が人臣初の摂政に任じられ、また仁和3年(887年)11月17日に新たに関白職が設置されて藤原基経が就任したことにより、藤原氏の人間がこれらの職に就いて天皇に代わって政治を行う政治形態となり、平安時代前期の藤原氏の栄華の代名詞となりました。

この藤原摂関政治は、貞観8年(866年)に藤原良房が人臣初の摂政に任じられた後、白河院が院政を始めた応徳2年(1086年)まで約220年間もの長きに亘って続きました。

本稿では、藤原氏による政治=藤原摂関政治の始まりについて、そこに至る経緯から順に説明していきたいと思います。 “【藤原摂関政治の始まり】外戚の地位を利用した藤原北家による権力独占の経緯” の続きを読む

【飛鳥時代】飛鳥に都が置かれていた7世紀日本の時代区分概略

飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つであり、推古天皇が即位して飛鳥豊浦宮に都が置かれた推古天皇元年(593年)から奈良盆地に平城京を造営して遷都する和銅3年(710年)までの117年間を飛鳥時代と言うのが一般的です。

この117年の間には、一時的に難波宮・大津宮に都が置かれていたことがあるものの、主に飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村・橿原市・高取町付近)に都が置かれていたことからその名称が付されました。

飛鳥時代は、大別すると蘇我氏独裁政権時代(前期)・唐と新羅からの侵攻対策に追われた混乱時代(中期)・律令国家形成時代(後期)の3つの時代に区分されます。

以下、これらを順に見ながら飛鳥時代の概要について説明していきたいと思います。 “【飛鳥時代】飛鳥に都が置かれていた7世紀日本の時代区分概略” の続きを読む

【四等官制】律令制度における官僚制度

律令制度では、「律」によって刑罰を、「令」によって政治機構等を定めることにより軍事政権の中心人物たる天皇による中央集権化が進められました。

そして、「令」の整備によって、行政官庁の再編を行った上で、それまで各豪族に任せられていた政治権力を朝廷に一旦吸い上げこれを朝廷が該当人に任命するという形で官僚制度が整備されていきました。

このとき、行政官庁の再編として中央では二官八省一台五衛府が整備され、そこに勤める役人は行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。

また、あわせて地方の行政官庁の整備もなされたのですが、ここでも行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。

このように各行政官庁の幹部行政官は、いずれも4人が選任されたことから四等官制(しとうかんせい)と呼ばれました。

そして、この四等官は、いずれも長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)と呼ばれたのですが、官庁ごとに違う漢字があてられるというとても覚えにくい用語となっています。

なお、この四等官には、位階に応じて割当てがなされましたので(官位相当の制)、そのこともあわせて覚えると理解が進みます。 “【四等官制】律令制度における官僚制度” の続きを読む