【日清戦争の戦略目標は何だったのか】

日清戦争は、明治27年(1894年)7月25日に勃発した日本と清国の間の戦争なのですが、何を目的として起こったかについては意外に知られていません。

全ての戦争が外交の延長上にあるものであって達成すべき戦略目標(政治目標)があり、当然日清戦争にもそれがあります。

では、日本と清国は何を求めて戦ったのでしょうか。

結論から先に述べると、宗主国として朝鮮を単独で支配したい清国と、朝鮮を清国の支配下から独立させて自らの支配下に置きたい日本との間における朝鮮半島を巡る利権が双方の目的です。

そして、この朝鮮半島の権益を巡る日清の野望が李氏朝鮮政権下で起こった甲午農民戦争をきっかけとして具体化し、朝鮮半島に駐留するに至った両軍が衝突することで大きな戦争に至ったのです。

本稿では、この日清戦争に至る日清両国の目的及びそこに至る経緯について、日清両国の朝鮮半島に対する支配意図を主たる内容として説明していきたいと思います。 “【日清戦争の戦略目標は何だったのか】” の続きを読む

【韓国併合に至る経緯】清国冊封下にあった朝鮮が日本に併合されるまで

明治維新を成功させた日本では、幕末期に江戸幕府が締結した不平等条約改正を目標として富国強兵政策を進めたのですが、それと並行して周辺国に対する圧力を強めて行きました。

明治時代の日本は、北海道・琉球・千島などを次々と取り込んでいったのですが、さらに大陸進出への野心をもってその橋頭堡となりうる朝鮮や台湾の獲得を目指していきました。

このうち、朝鮮に対しては、清国の冊封下から離脱させた上で、不平等条約を押し付けて日本が優位な立場にあることを示し、その後3度に及ぶ日韓協約によって外交・財政・内政を順に剥奪して保護下に置くという経過を経た後、明治43年(1910年)8月についにこれを併合してしまうに至りました。

本稿では、以上の明治維新後から韓国併合に至るまでの経緯について、簡単に説明していきたいと思います。 “【韓国併合に至る経緯】清国冊封下にあった朝鮮が日本に併合されるまで” の続きを読む

【明治維新後の条約改正交渉】明治時代の日本政府の外交政策

本稿で取り上げる条約改正交渉は、江戸時代末期に江戸幕府が欧米列強諸国との間で締結した不平等条約について、これを対等なものに是正するために明治新政府が行った一連の外交交渉です。

具体的には、不平等条約締結直後から、陸奥宗光による明治27年(1894年)の領事裁判権撤廃(第一次条約改正)を経て、小村壽太郎による明治44年(1911年)の関税自主権回復(第二次条約改正)までの交渉をいいます。

以下、不平等条約締結から、その解消に至るまでの流れについて紹介していきます。 “【明治維新後の条約改正交渉】明治時代の日本政府の外交政策” の続きを読む

【統帥権干犯問題】海軍軍令部暴走の端緒となった政争

統帥権干犯問題は、昭和5年(1930年)のロンドン海軍条約の批准をめぐり、ときの与党であった立憲民政党党首として首相を務めていた濱口雄幸が、海軍軍令部と野党であった政友会から統帥権の侵害行為であるとして糾弾された問題です。

本来であれば条約の締結・批准は、内閣(行政権)が決定すべき事項であり、決定権を持たない海軍軍令部が内閣を糾弾する権利はありません。

そのため、海軍軍令部による糾弾は法的には単なる言いがかりに過ぎず、本来であれば、無視されて終わるはずだったのですが、この問題を、立憲政友会が立憲民政党を攻撃するための根拠として利用したことから政治問題化し大問題となったのです。

そして、海軍軍令部は、野党とはいえ帝国議会内に自分たちの主張を擁護する後ろ盾を得たと考え、この主張を押し通すための暴走を始めるきっかけとしたのです。

その結果、以降、軍部の暴走と日本の軍国主義化が始まりました。

今になって振り返ってみれば、政争が軍部の台頭と暴走を誘発し、結果として戦争に突き進んで国を滅ぼすきっかけを作った事件として現在でも学ぶべきことが多い事件です。 “【統帥権干犯問題】海軍軍令部暴走の端緒となった政争” の続きを読む

【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期の第8代将軍・徳川吉宗と、第9代将軍・徳川家重の子によって創設された徳川将軍家の一門家です。

紀伊徳川家出身の徳川吉宗が、ライバルである尾張徳川家の影響力を低下させるために創設されたと考えられており、徳川宗武(徳川吉宗三男)を家祖とする田安徳川家、徳川宗尹(徳川吉宗四男)を家祖とする一橋徳川家、徳川重好(徳川家重次男)を家祖とする清水徳川家がこれに該当します。

御三家に次ぐ高い家格を持つとしながらも当初は大名として藩を形成することも政治権力を持つこともなく、将軍の親族でありながら将軍家の部屋住みとして扱われ、将軍家や親藩大名家に後継者がない場合に養子を提供することを主な役割とするに過ぎない家でした。

もっとも、幕末期には幕政にも関与するようになり、江戸幕府最後の将軍である第15代将軍・徳川慶喜が一橋家から輩出されたことでも知られています。 “【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家” の続きを読む

【三国干渉】臥薪嘗胆を合言葉にロシアを仮想敵国にするに至った国辱事件

三国干渉(さんごくかんしょう)は、明治28年(1895年)4月23日、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の列強三国が、日本に対して、6日前である同年4月17日に調印(国家代表者間による交渉・条約文作・署名による内容確定)された日清戦争の講和条約である下関条約(批准は同年5月8日)の内容うちの1つである日本による遼東半島所有を放棄して清に返還するよう求めた勧告です。

日本側としては、日清戦争において多くの損害を被りながら獲得した遼東半島を失うことに抵抗が多かったのですが、当時の日本陸海軍に列強三国を相手にして戦うだけの国力はなく、やむを得ずに勧告に従って遼東半島を返還するという決断に至っています。

この点については、日本政府のみならず日本国民全体が悲憤慷慨し、この屈辱を忘れないために「臥薪嘗胆」をスローガンとして、国力増強・軍事力増強に努めていくようになりました。 “【三国干渉】臥薪嘗胆を合言葉にロシアを仮想敵国にするに至った国辱事件” の続きを読む

【徳川御三家】徳川将軍家版宮家が尾張・紀伊・水戸の3家となった経緯

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代に徳川宗家(将軍家)に次ぐ家格を持ち、将軍就任資格を持つとして徳川の苗字を称することを許された3つの分家です。

最終的に尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の3家に落ち着いたため、あたかも最初からこれらの家で始まったようなイメージを持ちがちですが、実際は紆余曲折を経て最終的にこの3家に落ち着いています。

そこで、本稿では、徳川御三家が現在のイメージに沿う形となるに至った歴史的経緯を順に説明していきたいと思います。 “【徳川御三家】徳川将軍家版宮家が尾張・紀伊・水戸の3家となった経緯” の続きを読む

【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落

宿場(宿場町)は、江戸幕府が、開幕直後に交通の要地として街道沿いに認定した上で、その統治下に置いた集落です。

古くからあった城下町などがそのまま転用された場所もあれば、江戸幕府によって新たに住民・町屋が集められて形成された場所もありました。

宿場が置かれた目的は、豊臣家及びその恩顧の大名達と対峙するための軍事的意味から公用人馬の調達・公用文書の輸送を第一とするものでした。

もっとも、豊臣家が滅亡して太平の世が訪れると、前記のような軍事目的のみならず、参勤交代の際の大名宿泊地や、一般庶民が旅する際の旅人宿泊地としても利用されるに至りました。

これらの経緯から、宿場町は、時期を経るに従って軍事的機能→政治的機能→社会的機能を獲得していくこととなり、軍事的機能(問屋場・木戸・見附・枡形・寺社仏閣)・政治的機能(本陣・脇本陣)・社会的機能(旅籠・木賃宿・茶屋・商店・高札場)などが混在する複合場所として成長していきました。 “【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落” の続きを読む

【参勤交代】江戸幕府封建制度下における平時の軍役奉公

参勤交代(さんきんこうたい)とは、江戸時代に各藩主や交代寄合が交替で江戸にいる将軍の許に出仕し、門番・火番・作事などの大名課役を交代で行った制度です。

自分の領地から江戸へ赴く旅である「参勤(参覲)」と、自領に帰還する旅である「交代(就封)」とを合わせて名付けられました。

大名が江戸と藩を往復する際に家臣らが隊列を組んで歩くというそのインパクトから有名となった制度ですが、その制度目的は、豊臣家が滅亡したことにより太平の世となった江戸時代において、軍事政権たる江戸幕府に対する軍事動員に代わる奉公手段(参勤交代=平時の軍役)を果たさせることにより幕藩体制を維持するというものでした。

もっとも、この制度の下では、諸大名は1年に1度江戸と自領を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならないという重たい負担を強いられました。 “【参勤交代】江戸幕府封建制度下における平時の軍役奉公” の続きを読む

【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか

江戸の町は、徳川家康により開幕された江戸幕府の本拠地として多くの人が集まる一大政治都市となったのですが、政治都市であったが故に生産力のない武士が多数居住することとなりました。

また、これらの武士を商売相手とする商人までもが江戸の町に流入していったため、江戸時代初期の関東地域の生産力のみではこれら増え続ける江戸の町の非生産人口を支える消費物資(農産物など)を工面することができませんでした。

そこで、江戸幕府としては、江戸の町機能を支えるため、全国各地から大量の物品(農産物・消費財・建築資材など)を江戸に運び込むシステムを構築する必要に迫られました。

では、江戸幕府は、どのようにこの問題点を解決していったのでしょうか。 “【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか” の続きを読む