【綏靖天皇陵】かつての神武天皇陵跡地に治定された2代天皇の陵

綏靖天皇陵は、第2代天皇であるとされる綏靖天皇の陵です。

宮内庁により奈良県橿原市四条町の遺跡名・俗称「塚山」「塚根山」がこれに治定されており、陵の名としては桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)と呼ばれます。

日本で長い間尊崇を集めてきた天皇の中の墓所ですので、丁重に祀られた上で引き継がれてきた場所だと思われがちなのですが、中世には荒廃してその場所すらわからなくなっています。

そのため、前記の桃花鳥田丘上陵が本当に綏靖天皇陵であるかは必ずしも明らかではありません(そもそも、綏靖天皇が実在していたかすら定かではありません。)。

以下、紆余曲折を経て現在地の治定に至った経緯を基に綏靖天皇陵について説明していきます。 “【綏靖天皇陵】かつての神武天皇陵跡地に治定された2代天皇の陵” の続きを読む

【神武天皇陵】その所在が諸説ある初代天皇の陵

神武天皇陵は、その名のとおり日本の初代天皇とされる神武天皇の陵です。

宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ」がこれに治定されており、陵の名としては畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)と呼ばれます。

日本で長い間尊崇を集めてきた天皇の中でも特別な存在ともいえる初代天皇の墓所ですので、丁重に祀られた上で引き継がれてきた場所だと思われがちなのですが、中世には荒廃してその場所すらわからなくなっています。

そのため、前記の畝傍山東北陵が本当に神武天皇陵であるかは必ずしも明らかではありません。

以下、治定に至る経緯から順に神武天皇陵について説明していきます。 “【神武天皇陵】その所在が諸説ある初代天皇の陵” の続きを読む

【守口宿】東海道最後の宿場町

守口宿(もりぐちしゅく)は、現在の大阪府守口市本町1・2丁目、竜田通1丁目、浜町1・2丁目付近にあった東海道最後の宿場町(東海道五十七次の57番目の宿場町)です。

淀川洪水対策として大坂と伏見を結ぶ全長約27kmの淀川堤防上の道(文禄堤)沿いに建ち並ぶ特徴的な宿場町でした。

大坂からわずか2里(約8km)・枚方宿からも3里(約12km)という距離の近さから、当初から馬継ぎがなく人足のみの勤めとなっていた上、淀川に面していながら川舟との連絡がなかったために淀川舟運の発展につれて次第に客を失っていった宿でもあります。 “【守口宿】東海道最後の宿場町” の続きを読む

【石清水八幡宮】京の裏鬼門を守る国家第二の宗廟の歴史

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、現在の男山山頂(京都府八幡市八幡高坊30)に位置する八幡大神(誉田別命=応神天皇・比咩大神=宗像三女神・息長帯姫命=神功皇后)を祀る神社です。

かつては八幡宮寺とも言われて神仏習合の霊地とされ、伊勢神宮(天照大神)に次ぐ国家第二の宗廟とされていました。

第56代天皇である清和天皇の健康を祈願して平安京の裏鬼門(南西)の方角に創建された神社であるために清和天皇の子孫(清和源氏)の氏神となったのですが、後に清和源氏(源頼朝・足利尊氏)が武士になって武家政権を開くなど隆盛を極めるに至ったことから、信仰対象となっていた石清水八幡宮が武神として扱われるようになりました。

男山山頂から山麓に至る一帯が境内となっているところ、宇治川・桂川・木津川の合流点近くにあり、淀川を挟んで山崎天王山と相対するという交通・軍事の要衝地にあったため、実質的な意味でも京防衛の拠点と位置付けられました。 “【石清水八幡宮】京の裏鬼門を守る国家第二の宗廟の歴史” の続きを読む

【碧血碑】函館戦争における旧幕府軍戦死者を祀った石碑

碧血碑(へきけつひ・へっけつひ)は、戊辰戦争最終戦となった函館戦争において旧幕府軍に与して戦死した約800人の戦死者を祀った碑です。

函館戦争に勝利した新政府側戦死者が函館護国神社(函館招魂社)にて英霊として祀られたのに対し、敗れた旧幕府軍側戦死者が放置されていたことを哀れに思った函館の侠客であった柳川熊吉の尽力により建てられました。

碑文を一読しても意味が分からないのが通常ですが、歴史を勉強してから見るとイメージが大きく変わります。 “【碧血碑】函館戦争における旧幕府軍戦死者を祀った石碑” の続きを読む

【出島】江戸時代日本における西欧国との唯一窓口であった人工島

出島(でじま)は、寛永13年(1636年)、江戸幕府が日本国内に南蛮人が滞在してキリスト教が普及することを防ぐため、ポルトガルを収容目的で長崎に築造した扇形の人工島です。

築造直後から寛永16年(1639年)までの3年間はポルトガル商館が置かれたのですが、ポルトガルとの断交により寛永18年(1641年)から安政6年(1859年)まではオランダ東インド会社商館が置かれて貿易が行われました。

西欧国家との江戸時代唯一の窓口となり、江戸時代にのべ700隻以上ものオランダ船が来航し、貿易品・文化・情報などを伝えました。

幕末に日本が開国したことによりその役割が終了し、明治以降の長崎港港湾整備に伴う周辺の埋立等により長崎と陸続きとなって扇形の面影は失われました。

その後、平成8年(1996年)に長崎市により出島復元整備事業計画が策定され、江戸当時の出島の姿への復元が進められています。 “【出島】江戸時代日本における西欧国との唯一窓口であった人工島” の続きを読む

【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて

市中引き回し(しちゅうひきまわし)は、江戸時代の日本で行われた、死罪以上の判決を受けた罪人が受ける付加刑でした(独自の刑罰ではなく、あくまでも付加刑です。)。

死罪以上の判決を言い渡された者が馬に乗せられ、罪状を書いた捨札等を持ったものと共に刑場まで連れられて行くという公開連行制度(見せしめ)であり、抑止的効果をも狙ったものでした。

市中引き回しは、元々江戸幕府将軍のお膝元であった江戸で行われた刑罰だったのですが、豊臣家が滅んで大坂が徳川家の直轄地になると、ここを西国統治の拠点と定めた江戸幕府が大坂に江戸の統治システムを持ってきます。

その結果、大坂でも江戸で行われていたものと同様の刑罰システムが採用され、その一環として市中引き回しも採用されることとなったのです。 “【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて” の続きを読む

【橋本遊郭】明治時代に再興された京都南端の遊郭街

橋本遊廓(はしもとゆうかく)は、明治10年(1877年)ころから昭和33年(1958年)ころまでの間、京都府綴喜郡八幡町字橋本(現・八幡市)に存在した遊廓です。

昭和5年(1930年)に刊行された「全国遊廓案内』」では八幡町遊廓という名が付されていました。

京街道・渡し舟・石清水八幡宮・京阪電車の各利用客により繁盛した橋本遊郭でしたが、昭和33年(1958年)の売春防止法施行により公娼制度が廃止されたことにより消滅し、現在に至っています。

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【琵琶湖疏水の扁額一覧】疏水工事関与者・明治元勲の揮毫

明治維新後の東京奠都に伴って人口が激減した京の復興策として行われた巨大プロジェクトが琵琶湖疏水です。

明治22年(1889年)に水運・灌漑・上水道・水車動力の源泉として第1疏水が完成して京の復興に大きく寄与し、その後、この大成功を受けて延伸工事や第2疏水工事などが進められていきました。

これらの琵琶湖疏水が京経済に寄与した功績を讃え、疏水流域には、疏水工事関与者・当時の元勲によって書かれたありがたいお言葉が扁額として掲げられることとなりました。

現在では、疎水流域が散歩道となっていますので、歩きながら、また第1疏水を運行する観光船に乗りながらこれらの扁額を見ることができますので、以下、観光の一助として琵琶湖疏水の簡単な歴史と掲げられている扁額の位置及びその内容を紹介したいと思います。 “【琵琶湖疏水の扁額一覧】疏水工事関与者・明治元勲の揮毫” の続きを読む

【樟葉宮】大阪府枚方市にあった継体天皇即位宮殿跡

樟葉宮(くすはのみや)は、古墳時代に即位した大王(第26代)天皇である継体天皇が即位した宮殿です。

先代であった第25代武烈天皇が後継者なくして崩御されたため、越前国を治めていた継体天皇が次期大王(天皇)として迎えられることとなりました。

このとき、継体天皇は、越前国を出て当時の都であった大和国に向かっていたのですが、その道中で即位することとなり、即位をし、さらにその後4年間に亘って滞在した場所が河内国樟葉の樟葉宮です。

大和国に向かっていたのになぜ河内国樟葉で即位したのか、その後なぜ樟葉宮に4年間も滞在したのかなどの詳しいことはわかっていません。

また、樟葉宮跡地についても伝承地とされており、必ずしも正確とは言えないのかもしれませんが、古代を偲ぶ一助となればと思い、本稿では樟葉宮について簡単に紹介したいと思います。 “【樟葉宮】大阪府枚方市にあった継体天皇即位宮殿跡” の続きを読む