【皇朝十二銭が失敗した理由】律令国家発行貨幣はなぜ使われなくなったのか

皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)は、律令制度下にあった日本において、和銅元年(708年)から応和3年(963年)にかけての間に鋳造され、流通に供された12種類の円形方孔銅銭の総称です。本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)や皇朝十二文銭(こうちょうじゅうにもんせん)とも呼ばれます。

日本において、初めて貨幣の基礎金属(地金)価値ではなく、貨幣に記された額面を価値とするものであり、その貨幣価値は律令政府が定めた通貨単位である1文として始まりました。

もっとも、当時の支配層である皇族・貴族・僧侶などが経済学の知識を持っていなかったため、次々と誤った政策を実行していき、時間を経るに従ってその信頼性が失われていき、11世紀頃までに流通現場=市場で忌避され、使用されなくなってしまいました。

本稿では、皇朝十二文銭発行の経緯・失敗に至った理由・その失敗が現在どのように生かされているのかについて順に説明していきたいと思います。 “【皇朝十二銭が失敗した理由】律令国家発行貨幣はなぜ使われなくなったのか” の続きを読む

【伏見で始まった江戸幕府】徳川家康が豊臣秀吉死後も伏見に残った理由

徳川家康は、三河国衆からのし上がり国替で関東に移された後は江戸に本拠地を置いたことから、その主たる所在地ご東海地方や江戸であったというイメージが強いと思います。

このことは概ね間違ってはいないのですが、江戸幕府の創成期に限って言えば誤りです。

徳川家康は、文禄3年(1594年)9月から慶長5年(1600年)末までの間で2304日中1546日間、また関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601年)から慶長11年(1606年)までの間で2185日中1240日間も伏見に滞在しています。

そのため、徳川家康は、征夷大将軍任命に至る前からその在職期間に至るまで、多くの期間を伏見城に在城して執務しています。

また、江戸幕府初代である徳川家康、2代徳川秀忠、3代徳川家光と3代続けて伏見城で将軍宣下を受け、後に御三家となった9男・徳川義直(後の尾張藩祖) 、10男・徳川頼宣(後の紀伊藩祖)11男・徳川頼房(後の水戸藩祖)が伏見の地で育っています。

以上のことから、江戸幕府は伏見で始まったと言っても過言ではありません。

では、なぜ徳川家康は江戸幕府創成期に伏見にいたのでしょうか。

本稿では、徳川家康がなぜ伏見に残ったのかについて簡単に説明したいと思います。 “【伏見で始まった江戸幕府】徳川家康が豊臣秀吉死後も伏見に残った理由” の続きを読む

【天下三戒壇】律令制度下における僧侶資格取得場所

天下三戒壇とは、奈良時代に、日本中でたったの3寺にのみ設けられた僧侶が正式な戒律を授かるための施設である戒壇の総称です。

具体的には、東大寺(奈良市)、下野薬師寺(栃木県下野市)、観世音寺(福岡県太宰府市)に置かれた3つの戒壇の総称であり、本朝三戒壇とも言われます。

呪術的・統治的要素を重視した国家宗教として発展した日本の仏教では、出家者の悟りの境地などの側面が重要視されなかったために出家者の規律が軽視され、戒律や授戒の制度が発展しませんでした。

そのため、日本では僧侶資格があいまいとなっており、各種義務を免れる目的で僧侶を名乗る者(私度僧)が続出するようになりました。

この事態を苦慮した朝廷は、中国から鑑真を迎えて正式な授戒(受戒)制度を整え、厳格な僧侶資格制度を定めたのです。

その結果、奈良時代中期以降には、日本において僧侶となるためには授戒を経なければならないとされ、その授戒の場とされたのが天下三戒壇だったのです。 “【天下三戒壇】律令制度下における僧侶資格取得場所” の続きを読む

【豊臣秀吉の後継ぎ候補者の推移】混乱する豊臣政権後継者選定問題

豊臣秀吉は、男色が当たり前だった時代に女性のみを愛し、ルイスフロイスが記した日本史には側室が300人いたとも記されているのですが、なかなか子宝に恵まれませんでした。

生涯で3人の男児を儲けたとされているものの、長男・次男は早世し、三男・豊臣秀頼は年老いて産まれた子であったために豊臣家に混乱をもたらしました。

本稿では、思うように後継者を定めることができなかった豊臣秀吉が、その時々で誰を豊臣家(羽柴家)の後継者としていたかについて、時系列順に説明して行きたいと思います。

なお、豊臣秀吉は、木下藤吉郎→木下秀吉→羽柴秀吉→豊臣秀吉と名乗りを変遷させていますが、本稿では便宜上「豊臣秀吉」の表記で統一することとします。 “【豊臣秀吉の後継ぎ候補者の推移】混乱する豊臣政権後継者選定問題” の続きを読む

【宮部継潤】羽柴政権下において対毛利家山陰方面最前線の壁となった大名

宮部継潤(みやべけいじゅん)は、北近江の国衆から羽柴秀吉に降ることによって出世を果たし、最終的には但馬国を得て山陰の要衝である鳥取城主となった戦国大名です。

宮部継潤に対しては、後に天下人となる豊臣秀吉(当時の名は木下秀吉)が、後に関白となる豊臣秀次(当時の名は治兵衛)を人質として差し出すほどの力と器量を有し、また羽柴秀吉による中国攻めの際には羽柴秀長と共に山陰方面攻略を成功させ、その後の豊臣政権下における対毛利家の最前線に配されるほどの信頼を勝ち得た有する人物でもありました。

本稿では、その功績が大きいにも関わらず、過小評価されてマイナー扱いとされている宮部継潤の生涯について、簡単に紹介していきたいと思います。 “【宮部継潤】羽柴政権下において対毛利家山陰方面最前線の壁となった大名” の続きを読む

【ヤマト政権の蝦夷征討】東北地方の日本組入政策と抵抗の歴史

畿内(大和)から始まったヤマト政権は、次第にその勢力範囲を東西南北に拡大していき、古墳時代には主に畿内から北九州までの範囲をその勢力下に置きました。

その後、ヤマト政権は、現在の関東地方にまで勢力範囲を拡大させたのですが、飛鳥時代頃になっても、現在の東北地方や南九州にはヤマト政権に従わない勢力がありました。

ヤマト政権では東北地方以北の非服従部族をエミシ(蝦夷)、南九州の非服従部族を隼人と呼び、これらの部族を支配下に置くため様々な施策が講じていきました。

本稿では、このうち、ヤマト政権における現在の東北地方獲得のための蝦夷征討・交流の歴史についてその概略を説明していきたいと思います(なお、勘違いしがちなのですが、ヤマト政権による東北獲得政策では戦いよりも交流政策によるものが主であり、戦いによる征服はそれほど多くありません)。 “【ヤマト政権の蝦夷征討】東北地方の日本組入政策と抵抗の歴史” の続きを読む

【ロシア帝国の日露戦争の目的】なぜロシアは東アジアに向かったのか

明治37年(1904年)から明治38年(1905年)9月までの間、大日本帝国とロシア帝国との間で戦われた日露戦争ですが、なぜこの戦争が起こったのでしょうか。

日本側から見ると、日清戦争により獲得したはずの遼東半島が三国干渉により奪われた対ロ悪感情や、朝鮮半島の支配権を巡るロシアとの軋轢が主たる原因と説明されるのが一般的です。

では、ロシアの戦争目的は何だったのでしょうか。

ロシアの政治的・経済的中心地はモスクワやサンクトペテルブルクがある領土西端部です。

そのため、極東の地は、ロシアから見ると辺境地に過ぎません。

それにも関わらず、ロシアは、国家・国民に多大な犠牲を強いてまで獲得しなければならない利益がこの極東の地あったのです。

本稿では、なぜロシアは日本と戦争してまで極東の地に進出して来たのか、その理由について歴史的経緯を順に説明していきたいと思います(なお、本稿は、あくまでも日本史ブログであり、日本史を理解する限度で必要な範囲の説明に留め、世界史分野となる詳細な説明は割愛します。)。 “【ロシア帝国の日露戦争の目的】なぜロシアは東アジアに向かったのか” の続きを読む

【4世紀ヤマト政権の朝鮮半島進出】空白の150年の日朝関係

古代日本に文字はなく、3世紀頃までは中国の歴史書の記載によってそれまでの日本の生活が一部明らかとなっていますのですが、266年に邪馬台国の女王台与が朝貢したとする晋書倭人伝の記載を最後に、倭の五王が記載される宋書の記載までの150年間は、中国の歴史書に倭の記載が残されていません(空白の150年)。

もっとも、中国の歴史書に記録が残されていないからといって、この間に、日本に歴史的な動きがなかったわけではありません。

それどころか、考古学的調査結果から、この150年の間に畿内を中心にヤマト政権が成立し、このヤマト政権が朝鮮半島の鉄を差配することにより日本国内で勢力を高め、さらには朝鮮半島への進出を図っていたことが明らかとなっています。

この点、中国の歴史書はないものの、413年9月に建てられた高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた広開土王碑や、石上神宮に伝来した古代の七支刀銘文などの歴史的遺物から、当時の日本と朝鮮半島の関係性を一部推認できるようになっています。

本稿では、この空白の150年の間の日本と朝鮮半島の関係性につき、当時の朝鮮半島情勢を踏まえながら説明していきたいと思います。 “【4世紀ヤマト政権の朝鮮半島進出】空白の150年の日朝関係” の続きを読む

【日露戦争後の日露関係】日露戦争後に親密になった日本とロシア

朝鮮半島・満州を巡る軍事的な緊張が高まった結果、明治37年(1904年)、日本とロシアとの間で日露戦争が勃発します。

この戦争では、大きな陸戦・海戦が何度も起こり、日露双方に多くの犠牲者が出ます。

当然ですが、犠牲者1人1人に家族がおり、戦争の結果、日露双方に相手方に対する悪感情が爆発するはずです。

ところが、意外なことに、日露戦争終結後に日露関係は急速に改善し、同盟関係といえるほどの親密な関係となります。

これは、日露戦争後にアメリカが満州にちょっかいをかけてきたのですが、これが日本とロシア双方の利益を脅かすものであったため、日露が協力して対応しようというところから両者の接近が始まりました(共通の敵がいると仲良くなるということです。)。

本稿では、この日露戦争後の日露関係について、詳しく説明していきたいと思います。 “【日露戦争後の日露関係】日露戦争後に親密になった日本とロシア” の続きを読む

【三貨制度】江戸幕府の金貨・銀貨・銭貨流通体制について

三貨制度とは、江戸時代に日本で採用された金・銀・銭を基本とする貨幣制度です。

もっとも、同一地域で金貨・銀貨・銭貨が併用されたわけではなく、西日本では銀貨+銭貨、東日本では金貨+銭貨で商取引が行われており、これらを総称して三貨制度といいます(なお、江戸幕府が三貨制度という認識をもっていたわけではなく、三貨制度とは現在から当時を顧みた際に用いる用語です。実際、三貨という用語も文化12年/1815年に両替屋を営んでいた草間直方が刊行した「三貨図彙」に始まります。)。

全国統一政権を樹立して貨幣発行権を得た江戸幕府でしたが、商人の商慣習を変更させることができず、日本国内に金貨経済圏と銀貨経済圏という2つの異なる制度を作ってしまったことから、複雑な貨幣システムとなってしまいました。

また、金貨・銀貨・銭貨の交換比率についても、触書による御定相場が存在したものの、実際には変動相場により取引がなされており、その結果として両替商が発展する基となりました。 “【三貨制度】江戸幕府の金貨・銀貨・銭貨流通体制について” の続きを読む