【堺台場】幕末大坂に築かれたお台場

堺台場(さかいだいば)は、江戸時代末期に、現在の大阪府堺市堺区大浜北町と波止町に築かれた西洋式砲台(砲撃専用の城)です。

お台場というと、東京に築かれたものが有名なのですが、幕末に外国船の脅威に備え日本各所の海岸(河岸・陸地)に数百〜1000基築城されており、堺台場もこのとき築かれた台場の1つです。

本稿では、堺台場が築かれるに至る経緯・その構造・明治維新後の跡地利用などについて解説したいと思います。 “【堺台場】幕末大坂に築かれたお台場” の続きを読む

【江戸時代後期のロシアの日本接近】

ペリー来航により外圧によって強制的に終了させられた江戸幕府の鎖国体制ですが、その前兆となる事件は相当前から起こっていました。

長崎・対馬・薩摩・松前という4つの対外窓口において、オランダ・中国・朝鮮・琉球・アイヌに限って対外貿易を認めていた江戸幕府に対し、18世紀後半頃からシベリア開発を本格化させたロシア帝国が貿易を求めてきていたのです。

そして、実際に18世紀後半頃から蝦夷地にロシア船が頻繁に現れるようになり、紳士的対応で国交を求めてきたため、江戸幕府としてはその対応が迫られる事態に発展していきます(これに対し、江戸幕府が無礼を働いたために大問題に発展しています。)。

本稿では、日本開国に先立つロシアの日本接近について、そこに至る経緯、それに対する江戸幕府の対応などについて順に説明していきたいと思います。 “【江戸時代後期のロシアの日本接近】” の続きを読む

【クナシリ・メナシの戦い】

クナシリ・メナシの戦いは、寛政元年(1789年)年に道東の国後郡から目梨郡にかけての地域で起きた、アイヌ交易権を濫用していた飛騨屋の横暴にたえかねたアイヌ人の一斉蜂起です。

130人のアイヌ人が蜂起し、71人の和人が殺害されたのですが、発生場所が遠方ということもあり、松前藩の鎮圧部隊が事件発生の2ヶ月後に現場に到着したころには蜂起は終結していたため、実際には松前藩とアイヌとの戦闘が行われることはありませんでした。

大規模戦闘が起こった訳ではありませんでしたが、松前藩から交易権を代行していた飛騨屋の横暴とそれによるアイヌの困窮が明らかとなり、江戸幕府によるアイヌの生活環境改善に向かうに至ったターニングポイントとなった事件です。

本稿では、クナシリ・メナシの戦いについて、その発生に至る経緯から簡単に説明していきたいと思います。 “【クナシリ・メナシの戦い】” の続きを読む

【シャクシャインの戦い】アイヌ民族最大の武装蜂起

シャクシャインの戦いは、寛文9年(1669年)6月に松前藩(とその代行者となっていた和人商人)からの搾取に耐えきれなくなったアイヌ・シブチャリの首長シャクシャインが中心となって起こった武力蜂起です。

大枠はアイヌと和人の諍いなのですが、アイヌ部族間の紛争が激化し、それを収めることができなかった松前藩に対する誤解をシャクシャインが巧みに利用して大規模紛争に発展しました。

松前藩単体との関係では戦いを有利に進めていたアイヌ・シャクシャインでしたが、松前藩側に江戸幕府が関与したことによりアイヌ側に勝ち目がなくなりました。

最終的には、松前藩が、藩のお家芸ともいえる汚いやり方でシャクシャインを騙し討ちしたことによりアイヌが鎮圧され、戦後アイヌが更なる厳しい立場に置かれることとなっています。 “【シャクシャインの戦い】アイヌ民族最大の武装蜂起” の続きを読む

【コシャマインの戦い】蠣崎家躍進のきっかけとなった和人とアイヌの戦い

コシャマインの戦いは、康正3年(1457年)5月から数ヶ月の間繰り広げられた始まったアイヌと和人との戦いです。

夷島と呼ばれた室町時代の北海道において、古くから同地で暮らしていたアイヌに対し、本州から移り住んできた和人が領主的立場に立って搾取を繰り返したため、アイヌ少年殺人事件を端緒として和人に対する抵抗運動の形で始まりました。

一時は和人を追い払う寸前まで戦いを有利に進めたアイヌ軍でしたが、和人方が蠣崎家から派遣された武田信広の下で団結し形成を逆転させて最終的には和人方勝利に終わっています。

なお、アイヌが文字を持たない民族であったこともあったためコシャマインの戦いを伝える文献は多くなく、主たるものは戦いから約200年も経過した後の正保3年(1646年)に記された松前藩編纂藩史(新羅之記録)によるものであるため、その真偽は検証が必要といわれていますので、この点を前提として読んでいただければ幸いです。 “【コシャマインの戦い】蠣崎家躍進のきっかけとなった和人とアイヌの戦い” の続きを読む

【日清戦争の戦線経過】

日清戦争は、明治27年(1894年)7月25日に始まり、翌明治28年(1895年)4月17日に終結するまでの間、日本と清国の間で行われた一連の戦争です。

朝鮮半島で起こった甲午農民戦争と奇貨として、日清両国が朝鮮半島に派兵し、朝鮮の事情を無視した両国が朝鮮半島の権益を巡って戦争に発展しました。

戦いを優位に進めた日本は、朝鮮半島の利権獲得のみならず、北京にまで攻め上ってこれを陥落させて清国を屈服させてしまおうという戦略目標を持ちながら日清戦争が進められていきました。

そして、日本が北京を陥落させるためには、兵站のための制海権の確保と、漢城から北京に向かう途中の各拠点の制圧が必須となるため、前者を帝国海軍が、後者を帝国陸軍が担うこと戦線が展開していきました。

本稿では、以上のとおり進んでいった日清戦争の戦線推移について、時系列に沿って簡単に説明していきたいと思います。 “【日清戦争の戦線経過】” の続きを読む

【日清戦争の戦略目標は何だったのか】

日清戦争は、明治27年(1894年)7月25日に勃発した日本と清国の間の戦争なのですが、何を目的として起こったかについては意外に知られていません。

全ての戦争が外交の延長上にあるものであって達成すべき戦略目標(政治目標)があり、当然日清戦争にもそれがあります。

では、日本と清国は何を求めて戦ったのでしょうか。

結論から先に述べると、宗主国として朝鮮を単独で支配したい清国と、朝鮮を清国の支配下から独立させて自らの支配下に置きたい日本との間における朝鮮半島を巡る利権が双方の目的です。

そして、この朝鮮半島の権益を巡る日清の野望が李氏朝鮮政権下で起こった甲午農民戦争をきっかけとして具体化し、朝鮮半島に駐留するに至った両軍が衝突することで大きな戦争に至ったのです。

本稿では、この日清戦争に至る日清両国の目的及びそこに至る経緯について、日清両国の朝鮮半島に対する支配意図を主たる内容として説明していきたいと思います。 “【日清戦争の戦略目標は何だったのか】” の続きを読む

【韓国併合に至る経緯】清国冊封下にあった朝鮮が日本に併合されるまで

明治維新を成功させた日本では、幕末期に江戸幕府が締結した不平等条約改正を目標として富国強兵政策を進めたのですが、それと並行して周辺国に対する圧力を強めて行きました。

明治時代の日本は、北海道・琉球・千島などを次々と取り込んでいったのですが、さらに大陸進出への野心をもってその橋頭堡となりうる朝鮮や台湾の獲得を目指していきました。

このうち、朝鮮に対しては、清国の冊封下から離脱させた上で、不平等条約を押し付けて日本が優位な立場にあることを示し、その後3度に及ぶ日韓協約によって外交・財政・内政を順に剥奪して保護下に置くという経過を経た後、明治43年(1910年)8月についにこれを併合してしまうに至りました。

本稿では、以上の明治維新後から韓国併合に至るまでの経緯について、簡単に説明していきたいと思います。 “【韓国併合に至る経緯】清国冊封下にあった朝鮮が日本に併合されるまで” の続きを読む

【百姓と農民の概念の違い】百姓≠農民である理由

同じ意味と考えられることが多い「百姓」と「農民」という言葉ですが、歴史的な意味では完全に同義ではありません。

意味合い的に重なる点があることから混同しがちであり、歴史的に見ても江戸時代中期ごろから混同して利用されてきたのですが、実際には異なる概念です。

本稿では、本来的には異なる意味である「百姓」と「農民」の違いについて簡単に説明したいと思います。 “【百姓と農民の概念の違い】百姓≠農民である理由” の続きを読む

【明治維新後の条約改正交渉】明治時代の日本政府の外交政策

本稿で取り上げる条約改正交渉は、江戸時代末期に江戸幕府が欧米列強諸国との間で締結した不平等条約について、これを対等なものに是正するために明治新政府が行った一連の外交交渉です。

具体的には、不平等条約締結直後から、陸奥宗光による明治27年(1894年)の領事裁判権撤廃(第一次条約改正)を経て、小村壽太郎による明治44年(1911年)の関税自主権回復(第二次条約改正)までの交渉をいいます。

以下、不平等条約締結から、その解消に至るまでの流れについて紹介していきます。 “【明治維新後の条約改正交渉】明治時代の日本政府の外交政策” の続きを読む