【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか

江戸の町は、徳川家康により開幕された江戸幕府の本拠地として多くの人が集まる一大政治都市となったのですが、政治都市であったが故に生産力のない武士が多数居住することとなりました。

また、これらの武士を商売相手とする商人までもが江戸の町に流入していったため、江戸時代初期の関東地域の生産力のみではこれら増え続ける江戸の町の非生産人口を支える消費物資(農産物など)を工面することができませんでした。

そこで、江戸幕府としては、江戸の町機能を支えるため、全国各地から大量の物品(農産物・消費財・建築資材など)を江戸に運び込むシステムを構築する必要に迫られました。

では、江戸幕府は、どのようにこの問題点を解決していったのでしょうか。 “【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか” の続きを読む

【太閤下水】豊臣秀吉が原型を造り一部現在も使用されている大阪の背割下水

太閤下水(たいこうげすい)は大阪市に存在する江戸時代またはそれ以前に造られた下水道及び下水溝網です。

大坂の町の整備を始めた豊臣秀吉が、最初に整備を始めたことからその名が付されました。道路に面して建てられた町屋の裏側に下水溝が掘られたことから、建物の裏口(背中)に沿って流れるという意味で背割下水とも呼ばれます。

もっとも、現存する背割下水は、豊臣時代のものではなく、江戸時代前期に素掘りで掘られた下水道が江戸時代後期に石組溝に改造され、さらに明治期の改修を経て現在に継承されたものであり、豊臣秀吉により築造されたものとは別物と考えられています。 “【太閤下水】豊臣秀吉が原型を造り一部現在も使用されている大阪の背割下水” の続きを読む

【徳川吉宗】紀州徳川家末男から宗家当主となった幸運将軍

徳川吉宗(とくがわよしむね)は、第2代紀州藩主の四男として生まれながら、和歌山藩の第5代藩主となった後、徳川宗家を継ぎ江戸幕府第8代将軍にまで上り詰めた幸運な人物です。

将軍職在任中に江戸幕府三大改革の第一弾となる享保の改革を進め、大赤字を垂れ流していた幕府財政を再建したことから、江戸幕府中興の祖と呼ばれることもあります。

他方で、幕府財政再建のために米価の引き上げや大増税を繰り返したため、庶民の生活を苦しくしたことからマイナス評価も強い将軍でもあります(享保の改革は、あくまでも幕府財政とそれを支える武士の生活を維持するためのものであり、庶民の生活を向上させることが目的ではありませんでしたので、政策目標という意味では達成している改革でした。)。 “【徳川吉宗】紀州徳川家末男から宗家当主となった幸運将軍” の続きを読む

【日本における文字の歴史】文字の始まり・種類・現在の指針などについて

現在の日本では、中国文字を日本の言語体系にアレンジした漢字と、そこから生み出したカタカナ・ひらがなを文字とし、これらを併用して使用されています。

このうちの漢字は、訓読み・音読みという別個の基本的な読み方がある上、熟字訓・国訓などの特殊な読み方もあり、さらにら固有名詞ではさらなる例外も存在していることから、とても複雑なものとなっています。

また、諸外国では通常1種類しか存在しない1人称の表記を例にしても、私・僕・麿・当方・小生など思いつくだけでも何十通りもの表現があります。

これらの文字種類・複数読み・単語の多さなどが複雑に絡み合った結果、日本語は世界一複雑な言語となってしまいました。

本稿では、世界一難しい言語となるに至った日本の文字の成り立ち等についての歴史的経緯を簡単に解説していきたいと思います。 “【日本における文字の歴史】文字の始まり・種類・現在の指針などについて” の続きを読む

【伏見宿】東海道五十七次の54番目の宿場町

伏見宿(ふしみじゅく) は、57次に延伸された東海道の54番目の宿場町です。古くから発展していた京南方の港湾都市であったのですが、隠居地として伏見に入った豊臣秀吉の手により大改修がなされ、さらにその後に徳川家康により更なる整備がなされた後、元和5年(1619年)に東海道の宿場町として指定されました。

京と大坂の間に位置する水陸交通の要衝地として大発展をした東海道最大級の大都市だったのですが、鳥羽伏見の戦いの戦火によりその大部分が焼失してしまったため、ほとんど遺構が残されていないのが残念です。 “【伏見宿】東海道五十七次の54番目の宿場町” の続きを読む

【三種の神器の所在】天皇の証はどこにあるのか

三種の神器とは、天照大神(アマテラス)が、天孫降臨する邇邇芸命(ニニギ)に対して授けた①八咫鏡(やたのかがみ)・②天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)・③八尺瓊勾玉という3つ宝物の総称です(古事記)。

神器は、一般に「じんぎ」と呼ばれることが多いのですが、「しんき」・「しんぎ」・「じんき」などと呼ばれることもあります。

これらは、邇邇芸命と共に地上世界に降りてきた後、その子孫である天皇に引き継がれていき、代々の天皇が神の子孫であることの証明とされる宝物となりました。

三種の神器とひとまとめにされているのですが、その格式に序列があることや、それらの所在、三種と言いながら実際には5つ存在していることなどはあまり知られていないように思いますので、その辺りを踏まえて三種の神器の所在について解説していきたいと思います。 “【三種の神器の所在】天皇の証はどこにあるのか” の続きを読む

【ヤマト政権の成立】鉄の独占差配により連合政権盟主となった古墳時代の天皇家

ヤマト政権は、三輪山麓に成立した小国が、弥生時代後期に朝鮮半島との交易によって鉄へのアプローチを手にしたことを利用して全国の小国を束ねることによって勢力を高め、現在の天皇家へと繋がる国家の盟主となった古代王権です。

ヤマト政権が成立・発展していった時代は、王墓として古墳が造られていった時代であることから、そのことにちなんで古墳時代と呼ばれています。

古墳時代にはまだ国内で文字が使われていませんでしたので、ヤマト政権成立の詳細を示す国内文献が残されておりませんが、大陸の文献や考古学的調査から明らかとなった結果がありますので、本稿ではこれらを基に現在の到達点を紹介していきたいと思います。 “【ヤマト政権の成立】鉄の独占差配により連合政権盟主となった古墳時代の天皇家” の続きを読む

【綏靖天皇陵】かつての神武天皇陵跡地に治定された2代天皇の陵

綏靖天皇陵は、第2代天皇であるとされる綏靖天皇の陵です。

宮内庁により奈良県橿原市四条町の遺跡名・俗称「塚山」「塚根山」がこれに治定されており、陵の名としては桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)と呼ばれます。

日本で長い間尊崇を集めてきた天皇の中の墓所ですので、丁重に祀られた上で引き継がれてきた場所だと思われがちなのですが、中世には荒廃してその場所すらわからなくなっています。

そのため、前記の桃花鳥田丘上陵が本当に綏靖天皇陵であるかは必ずしも明らかではありません(そもそも、綏靖天皇が実在していたかすら定かではありません。)。

以下、紆余曲折を経て現在地の治定に至った経緯を基に綏靖天皇陵について説明していきます。 “【綏靖天皇陵】かつての神武天皇陵跡地に治定された2代天皇の陵” の続きを読む

【神武天皇陵】その所在が諸説ある初代天皇の陵

神武天皇陵は、その名のとおり日本の初代天皇とされる神武天皇の陵です。

宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ」がこれに治定されており、陵の名としては畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)と呼ばれます。

日本で長い間尊崇を集めてきた天皇の中でも特別な存在ともいえる初代天皇の墓所ですので、丁重に祀られた上で引き継がれてきた場所だと思われがちなのですが、中世には荒廃してその場所すらわからなくなっています。

そのため、前記の畝傍山東北陵が本当に神武天皇陵であるかは必ずしも明らかではありません。

以下、治定に至る経緯から順に神武天皇陵について説明していきます。 “【神武天皇陵】その所在が諸説ある初代天皇の陵” の続きを読む

【大阪という名称の由来】上町台地北端部の地名が広域行政区域を指すに至った歴史

大阪の名称の由来をご存知ですか。

「おおさか」とは、元々は上町台地北端のみを指す地名であったのが、大坂本願寺寺内町成立とその後の豊臣秀吉による大坂城及び城下町の整備により現在の大阪市中央区近辺一帯を指す言葉に意味が拡張され、明治期に大阪府・大阪市が成立したことによりほぼ現在と同じ範囲を示す名称となるに至りました。

読み方は「ヲサカ」→「オオザカ」→「オオサカ」と変遷し、表記は「大坂」→「大阪」と変遷して現在に至ります。

本稿では、現在の大阪という概念が生まれるに至った歴史的経緯について、簡単に説明していきたいと思います。 “【大阪という名称の由来】上町台地北端部の地名が広域行政区域を指すに至った歴史” の続きを読む