東海道五十三次概略

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が慶長6年(1601年)に全国支配のために江戸と各地を結ぶ5つの街道を整備し始めた際、最重要視した東海道上に順次設けた53の宿場町です。

しかし、東海道の宿場町数は53ではなく、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした江戸幕府が、元和5年(1619年)に大坂を直轄地とし、その経済力を取り込むために京・大坂間を結んでいた京街道を東海道に直結させ、京街道を東海道とした取り込んだ上、新たな東海道(旧京街道)沿いの伏見、淀、枚方、守口に宿場町を整備したため、東海道には57の宿場町が造られています。

そのため、東海道五十三次に、京から大坂までの4宿(伏見、淀、枚方、守口)を加え「東海道五十七次」と呼ぶ場合もあります。

本稿では、この東海道上に設けられた宿場町について、浮世絵なども取り上げつつ簡単に紹介していきたいと思います。

東海道五十三次

東海道の整備(1601年)

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長6年(1601年)に全国支配のために江戸と各地を結ぶ5つの街道を整備し始め、その後、これら5つの街道が2代将軍秀忠の代になって陸上基幹街道に定められます。
これらの5街道の1つである東海道は、幕府がある江戸・日本橋から小田原、駿府、浜松、宮、桑名、草津を経て、都がある京・三条大橋までの124里8丁(487.8km)を結ぶ道を指すこととなります。なお、延長部にあたる京街道 (大坂街道)の4宿も加えて、五十七次とも言われます。
そして、政治的・軍事的に重要な五街道は幕府直轄とされ、一里(約4 km)ごとに一里塚を築いて街道沿いに並木が植えられ、道標として一里塚が、また江戸幕府の参勤交代のために各宿場に本陣・脇本陣・旅籠などが置かれました。

なお、京と江戸を繋ぐ道としては東海道の他にも中山道もあったのですが、山道の迂回路のため距離が長いものの川の影響が少ない中山道と比べ、大河に度々遮断されるも比較的平坦で距離も短いものの東海道の方が大動脈として選ばれる傾向にありました。

東海道五十三次の整備

東海道には、起点となる江戸・日本橋と、終点となる京・三条大橋との間に53地点の宿場が置かれ、東海道五十三次と呼ばれました。
東海道五十三次の宿場の規模は様々でしたが、全体としては旅籠が約3000軒あったといわれています。
人口の多い江戸や京周辺や難所を控える宿場に旅籠の数が多く、七里の渡しの港があった宮宿(熱田宿)が247軒・その対岸の桑名宿にも120軒もの旅籠があったと言われます。

なお、「次」とは、継ぎ送りを意味であり、江戸幕府の荷物を次の宿場まで送り届けることを意味する言葉だったそうです。

東海道五十三次一覧

起点

東海道五十三次の起点は、武蔵国豊島郡にあった江戸日本橋(現在の東京都中央区)です。

宿場(武蔵国)

1. 品川宿(武蔵国荏原郡・現在の東京都品川区)2里・93宿

品川宿(しながわしゅく)は、東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿とあわせて江戸四宿と呼ばれました。

また、品川宿は、五街道の中で最も重視された東海道の初宿であり、陸海両路の江戸の玄関口として賑わっており、他の江戸四宿と比べても旅籠屋の数や参勤交代の大名通過の数が多かった宿場町です。

2. 川崎宿(武蔵国橘樹郡・現在の神奈川県川崎市川崎区)2里半・72宿

川崎宿(かわさきしゅく)は、東海道の2番目の宿場町ですが、東海道成立時点では正式な宿場ではありませんでした。

東海道成立後、品川宿・神奈川宿間の距離が片道5里・往復10里と長かったために伝馬の負担が重いとして、元和9年(1623年)に新たに設置された宿場町です。

3. 神奈川宿(武蔵国橘樹郡・現在の神奈川県横浜市神奈川区)2里半

神奈川宿(かながわしゅく)は、神奈川湊の傍に併設され、相模国や武蔵国多摩郡への物資の経由地として栄えた宿場町です。

4. 保土ヶ谷宿(武蔵国橘樹郡・現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区)1里9丁

保土ケ谷宿(ほどがやしゅく)は、武蔵国の最西端に位置する宿場町です。

宿場(相模国)

5. 戸塚宿(相模国鎌倉郡・現在の神奈川県横浜市戸塚区)2里9丁・75宿

戸塚宿(とつかしゅく)は、東海道の5番目の宿場町であり、日本橋からの旅程がちょうど1泊目にあたることから有数の旅籠数を誇る宿場町でした。

6. 藤沢宿(相模国高座郡・現在の神奈川県藤沢市)1里30丁・45宿

藤沢宿(ふじさわしゅく)は、慶長6年(1601年)、後北条時代の小田原城と江戸城・八王子城・玉縄城とを結ぶ小田原街道の分岐点に設けられた宿場町です。

7. 平塚宿(相模国大住郡・現在の神奈川県平塚市)3里半・54宿


8. 大磯宿(相模国淘綾郡・現在の神奈川県中郡大磯町)27丁・66宿


9. 小田原宿(相模国足下郡・現在の神奈川県小田原市)4里・95宿


10. 箱根宿(相模国足下郡・現在の神奈川県足柄下郡箱根町)4里8丁

箱根宿(はこねしゅく)は、元和4年(1618年)、東海道五十三次の中で最も標高の高い場所に置かれた宿場です。

険しい山を越えていかなければならないため、東海道の中で一、二を争う難所でした。

宿場(伊豆国)

11. 三島宿(伊豆国君沢郡・現在の静岡県三島市)3里28丁・74宿

三島宿(みしましゅく)は、箱根峠を超えた先(西側)にある最初の宿場町です。

宿場町であると同時に三嶋大社の門前町でもあります。

宿場(駿河国)

12. 沼津宿(駿河国駿東郡・現在の静岡市沼津市)1里半・55宿


13. 原宿(駿河国駿東郡・現在の静岡市沼津市)1里半

原宿(はらしゅく)は、東海道13番目の宿場町です。

天保12年(1841年)の時点で家数387軒・人口1777人・本陣1軒・脇本陣1軒とされています(東海道宿村大概帳)。

14. 吉原宿(駿河国富士郡・現在の静岡市富士市)3里6丁

吉原宿(よしわらしゅく)は、陸上交通や水運の拠点であるとともに、富士参詣の宿駅でもあった宿場町です。

15. 蒲原宿(駿河国庵原郡・現在の静岡市清水区)2里30丁

蒲原宿(かんばらしゅく)は、吉原宿から富士川を渡って最初にある宿場町です。

歌川広重の東海道五十三次では上のとおり雪景色で描かれているのですが、温暖で降雪の少ないはずの蒲原宿が雪景色となっている理由が不明とされています。

16. 由井宿(駿河国庵原郡・現在の静岡市清水区)1里

由井宿は、本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠32軒という小さな宿場でした。

由比宿と興津宿の間の海岸沿いに位置する断崖絶壁の薩埵峠は、東海道の難所として知られており、同じく日本海側の難所であった親不知(新潟県)に倣って「東海道の親不知」とも言われていました。

また、薩埵峠は、東海道の要衝であったため何度も合戦の舞台となっており、その中でも南北朝時代の足利尊氏・足利直義の戦い、戦国時代の武田信玄・今川氏真の戦いなどが有名です。

かつては急斜面と海に囲まれた地形から道を造ることが困難な交通の難所として知られていた薩埵峠も、現在では、交通の大動脈ともいえるJR東海道本線・国道1号線・東名高速道路など様々な交通網が張り巡らされた交通の大動脈となっています。

由井の地は、古くから富士山が望める景勝地として知られており、現在でも当時とほぼ同じ景色が望める唯一の場所と言えますので、興味がある方は是非(上記写真は、薩埵峠展望台から)。

17. 興津宿(駿河国庵原郡・現在の静岡市清水区)2里12丁

18. 江尻宿(駿河国庵原郡・現在の静岡市清水区)1里3丁

江尻宿(えじりしゅく)は、駿河湾に注ぐ巴川の河口付近に栄た宿場町です。

戦国時代に武田四天王の馬場信春によって築かれた江尻城の城下町として発展し、江戸時代に入ると清水港と利用した江戸への物流拠点ともなっています。

19. 府中宿(駿河国有度郡・現在の静岡市葵区)2里29丁


20. 鞠子宿(静岡県有度郡・現在の静岡市駿河区)1里半・24宿

鞠子宿(まりこしゅく)は、東海道の中で最も小さい宿場であり、天保14年(1843年)の記録で旅籠24軒・民家211軒でした。

21. 岡部宿(駿河国志太郡・現在の静岡県藤枝市)1里29丁

22. 藤枝宿(駿河国志太郡・現在の静岡県藤枝市)1里29丁・37宿

23. 島田宿(駿河国志太郡・現在の静岡県島田市)2里8丁

嶋田宿(しまだしゅく)は、大井川の左岸(江戸寄り)にある宿場町です。

「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と詠われた東海道の難所の一つを抱え、増水で大井川の渡河が禁止されると足止めされた客で賑わいを見せる場所でした。

宿場(遠江国)

24. 金谷宿(遠江国榛原郡・静岡県島田市)1里

金谷宿(かなやしゅく)は、大井川の右岸(京寄り)にある遠江国最東端にある宿場町です。

牧之原台地が迫る狭隘地にあるため、増水で大井川の渡河が禁止されると足止めされた客で賑わいを見せる場所でした。

25. 日坂宿(遠江国佐野郡・現在の静岡県掛川市)1里24丁

日坂宿(にっさかしゅく)は、東海道の三大難所(峠)の1つである小夜の中山の西麓に位置する宿場町です。

26. 掛川宿(遠江国佐野郡・現在の静岡県掛川市)1里19丁

27. 袋井宿(遠江国山名郡・現在の静岡県袋井市)2里16丁

28. 見付宿(遠江国磐田郡・現在の静岡県磐田市)1里半

見附(見付)は、元々遠江国府が置かれていた場所であり、鎌倉時代には国衙や守護所置かれた東海道屈指の規模を持つ宿場町として栄えていました。

戦国時代に遠江国を獲得した徳川家康が、岡崎から見附に本拠を移そうとして新城を築城していたことでも有名です(なお、このとき築城していた城之崎城は完成前に放棄され、徳川家康もまた見附ではなく浜松【曳馬】に本拠地を移転しています。)。

29. 浜松宿(遠江国敷知郡・現在の静岡県浜松市中区)4里7丁・94宿

30. 舞坂宿(遠江国敷知郡・現在の静岡県浜松市西区)2里30丁

31. 新居宿・荒井宿(遠江国敷知郡・現在の静岡県湖西市)海上1里

32. 白須賀宿(遠江国浜名郡・現在の静岡県湖西市)1里24丁

宿場(三河国)

33. 二川宿(三河国渥美郡・現在の愛知県豊橋市)2里16丁

二川宿(ふたがわしゅく)は、三河国最東端に位置する幕府の天領たる宿場町です。

34. 吉田宿(三河国渥美郡・現在の愛知県豊橋市)1里20丁

35. 御油宿(三河国宝飯郡・現在の愛知県豊川市)2里22丁


御油宿(ごゆしゅく)は、東海道の35番目の宿場町であり、東に追分があり、本坂通(姫街道)の西の拠点となっています。

36. 赤坂宿(三河国宝飯郡・現在の愛知県豊川市)16丁

赤坂宿(あかさかしゅく)は、御油宿とわずか16丁(2km弱)の距離に設けられた東海道で最も短い区間に設けられた宿場町です。

御油宿や吉田宿と共に飯盛女を多く抱え、「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と唄われた程の活気のある宿場町でした。

37. 藤川宿(三河国額田郡・現在の愛知県岡崎市)2里9丁・36宿

藤川宿(ふじかわしゅく)は、三河高原を横断する御油断層の谷間から西の平地への出入口にある古くからの交通の要衝地であり、慶長6年(1601年)の伝馬制度により設置された宿場町です。

天保14年(1843年)の時点で家数302軒・人口1213人・本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠36軒とされています(東海道宿村大概帳)。

38. 岡崎宿(三河国額田郡・現在の愛知県岡崎市)1里25丁・112宿

39. 池鯉鮒宿(三河国碧海郡・現在の愛知県知立市)3里30丁

宿場(尾張国)

40. 鳴海宿(尾張国愛知郡・現在の名古屋市緑区)2里30丁

41. 宮宿(熱田宿,尾張国愛知郡・現在の名古屋市熱田区)1里半・247宿

宮宿(熱田宿)は、桑名宿とを結ぶ東海道唯一の海上路であり、7里の海路という難所を前に準備を整えるために247軒の旅籠を擁する東海道を含めた日本一大きな宿場町でした。

また、美濃路(東海道の宮宿から中山道の垂井宿までの約60kmを結ぶ東海道の脇往還)との分岐点でもありました。

さらに、宮宿から次の宿場までは海路となり、桑名宿との間に「七里の渡し」が、四日市宿との間に「十里の渡し」があり、公用及び諸大名の通行には桑名宿とを結ぶ七里の渡しが、一般大衆は大部分の通行には四日市宿とを結ぶ十里の渡しが主に利用されていたようです。

宿場(伊勢国)

42. 桑名宿(伊勢国桑名郡・現在の三重県桑名市)7里(川舟)・120宿

桑名宿(くわなしゅく)は、桑名藩の城下町として栄えた宿場町であり、ここから脇往還佐屋街道が分岐しています。

天保14年(1843年)の時点で家数2544軒・人口8848人・本陣2軒・脇本陣4軒・旅籠120軒とされており(東海道宿村大概帳)、東海道の旅籠数では宮宿に次ぐ2番目の規模を誇っていました。

43. 四日市宿(伊勢国三重郡・現在の三重県四日市市)3里8丁・98宿

四日市宿(よっかいちしゅく)は、天領であった伊勢国三重郡に置かれた宿場町です。

宮宿との間に「十里の渡し」がありました。

天保14年(1843年)の時点で人口7114人・本陣2軒・脇本陣1軒・旅籠98軒とされています(東海道宿村大概帳)。

44. 石薬師宿(伊勢国鈴鹿郡・現在の三重県鈴鹿市)2里27丁

石薬師宿(いしやくししゅく)は、元和2年(1616年)に、天領であった伊勢国鈴鹿郡に置かれた宿場町です。

45. 庄野宿(伊勢国鈴鹿郡・現在の三重県鈴鹿市)27丁


46. 亀山宿(伊勢国鈴鹿郡・現在の三重県亀山市)2里

亀山宿(かめやましゅく)は、亀山城下に設けられた宿場町です。

47. 関宿(伊勢国鈴鹿郡・現在の三重県亀山市)1里半

関宿(せきしゅく)は、東の追分からは伊勢別街道が、西の追分からは大和街道が分岐する鈴鹿山脈の山裾に位置する宿場町です。

古くから交通の要衝であり、かつては古代三関の1つである「伊勢鈴鹿関」が置かれていたため、この鈴鹿「関」から「関」宿と名付けられました。

48. 坂下宿(伊勢国鈴鹿郡・現在の三重県亀山市)1里24丁

坂下宿(さかしたしゅく、坂ノ下宿・阪之下宿)は、難所である鈴鹿峠を控えて賑わった宿場町です。

宿場(近江国)

49. 土山宿(近江国甲賀郡・現在の滋賀県甲賀市)2里半・44宿

土山宿(つちやましゅく)は、伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道ルートとなって以降難所を控える宿駅として発展し、江戸幕府の宿場町指定からさらなる発展を迎えた宿場町です。

天保14年(1843年)の時点で家数は351軒・人口1505人・本陣2軒・旅籠44軒とされています(東海道宿村大概帳)。

50. 水口宿(近江国甲賀郡・現在の滋賀県甲賀市)2里25丁・41宿

水口宿(みなくちしゅく)は、水口藩・水口城の城下町として栄えた宿場町です。

天保14年(1843年)の時点で家数は692軒・人口2692人・本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠41軒とされています(東海道宿村大概帳)。

51. 石部宿(近江国甲賀郡・現在の滋賀県湖南市)3里12丁・32宿

石部宿(いしべしゅく)は、京を出て1日の行程にあったため「京立ち石部泊り」と言われた宿場です。

52. 草津宿(近江国栗太郡・現在の滋賀県草津市)2里25丁・72宿

草津宿(くさつしゅく)は、古くから伊勢参宮の際の京と伊勢の中継地点として発展した宿場町であり、中山道と合流する(分岐する)草津追分があります。

天保14年(1843年)の時点で家数は586軒・人口2351人・本陣2軒・脇本陣2軒・旅籠72軒とされています(東海道宿村大概帳)。

53. 大津宿(近江国滋賀郡・現在の滋賀県大津市)3里24丁・71宿


大津宿(おおつしゅく)は、中山道と共有して北陸道と結び、また伏見街道との分岐点ともなる東海道五十三次中最大の宿場でした。

大津と京を結ぶ東海道の区間については、牛車の往来をスムーズにするため車石と呼ばれる花崗岩の石が敷かれるなどの工夫もなされていました。

終点

東海道五十三次の終点は、山城国愛宕郡にあった京・三条大橋(現在の京都市東山区・3里)です。

なお、余談ですが、上の絵(版画)は東海道五十三次の三条大橋なのですが、三条大橋は天正17年(1589年)に豊臣秀吉の命により橋柱63本の全てを石柱に改修されているため、歌川広重が作成した天保5年(1834年)頃の実際の三条大橋の大橋の姿とは異なります(そのため、歌川広重は実際の三条大橋を見ることなく想像で制作したものと考えられています。)。

東海道五十七次一覧

東海道の伸長(1619年)

大坂の陣で豊臣家を滅ぼした江戸幕府は、元和5年(1619年)に大坂を直轄地とし、その経済力を取り込むために京・大坂間を結んでいた京街道を東海道に直結させ、京街道を東海道とした取り込むこととします。

その上で、新たな東海道(旧京街道)沿いの伏見、淀、枚方、守口に宿場町を整備していきました。

もっとも、江戸幕府は、京街道を通って参勤交代をする大名が京に入って朝廷に接近することを警戒し、接続点を東海道の終点である三条大橋とせず、髭茶屋追分(大津市追分町)としました。

この結果、東海道から大坂に向かうとすると、大津宿の次は伏見宿となって京に入らず、その後、伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿と進み、高麗橋に至ることとなるため、日本橋から京までの東海道五十三次に、京から大坂までの4宿(伏見、淀、枚方、守口)を加え「東海道五十七次」と呼ぶ場合もあります。

宿場(山城国)

54. 伏見宿(山城国紀伊郡・現在の京都市伏見区)

伏見城に築かれた宿場町として成立した伏見宿でしたが、元和9年(1623年)に伏見城が廃城となったことにより伏見の大名屋敷が次々と駿府や江戸に移され、多くの町人たちも京や大坂への移住を始めたことから伏見は一時勢いを失います。

もっとも、その後、伏見城の外堀であった宇治川派流に架かる京橋界隈を京・大坂を結ぶ港町として位置づけ再び繁栄を始めます。

55. 淀宿(山城国久世郡・現在の京都市伏見区)1里14丁・16宿

淀宿は、江戸幕府により築かれた淀城内にあった三町と、淀小橋でつながった城外の三町とによって形成された宿場町であり、本陣や脇本陣はなく旅篭も僅か16軒だったのですが、水陸交通の要衝として「問屋場」、「伝馬所」が設けられ、500隻もの淀船の母港となって発展します。

宿場(河内国)

56. 枚方宿(河内国茨田郡・現在の大阪府枚方市)3里12丁

枚方宿は、京と大坂のほぼ中間に位置する交通の要衝にあり、陸上交通だけでなく、街道とほぼ平行して流れる淀川を利用した水上交通の中継港としても繁栄しました。

57. 守口宿(河内国茨田郡・現在の大阪府守口市)3里・27宿

守口宿は、大坂街道の宿場町であり、大坂を出ると最初の、東海道五十七次とすると最後の宿場町となります。

江戸時代後期頃の宿場町の長さは南北11町51間、問屋場1軒・本陣1軒・旅籠27軒とされているも(東海道宿村大概帳)、枚方宿へ3里、大坂へ2里という近さのため当初から馬継ぎはなく人足のみの勤めであったとされています。

終点

東海道五十七次の終点は、江戸時代には大坂城北側の京橋とされ、明治期に入ると高麗橋(摂津国西成郡・現在の大阪市中央区)に変更されました。

なお、高麗橋は、大坂城築城の際に西惣構堀として東横堀川が開削されてに架橋された橋であり、その後は周辺に豪商の店舗が立ち並び、日本第一の商都・大坂の富が集中する大坂の心臓部でなっていたことから公儀橋として幕府によって維持管理されていた橋でした。

なお、明治時代に入っても、京街道・中国街道・暗越奈良街道・紀州街道・亀岡街道などの起点とされ、明治政府によって高麗橋東詰に里程元標が、大正8年(1919年に)には道路元標が置かれて西日本の道路の距離計算の起点とされた場所です。

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