【徳川家康独立】今川家からの独立と松平家再興

戦国時代を終わらせて天下泰平の江戸時代を築いた徳川家康ですが、その人生は苦難の連続でした。

三河国の国人領主の家に生まれ、生まれた直後から織田弾正忠家と今川家との軍拡競争に巻き込まれ、織田弾正忠家で2年、今川家で11年もの人質生活を強いられています。

その後、桶狭間の戦いで今川義元が討死したどさくさに紛れてなんとか岡崎城に入り、紆余曲折を経てなんとか独立にこぎつけています。

本稿では、この徳川家康独立について、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。

岡崎城入城

織田人質時代(1547年8月)

徳川家康(幼名は竹千代と言いましたが、本稿では徳川家康で統一します。)は、天文11(1543年)12月26日、西三河の国人であった岡崎城主松平広忠の嫡男として生まれます。

この頃の西三河は、尾張国を治める織田弾正忠家と、駿河国・遠江国を治める今川家による勢力争いの地となっていました。

天文15年(1546年)10月、織田弾正忠家の織田信秀が西三河に侵入してきた際、松平広忠が今川家に救援の要請をしたため今川家が大軍にて西三河に介入します。

その後、今川義元が松平広忠に圧力をかけて帰順させ、天文16年(1547年)8月2日、6歳であった嫡男の徳川家康を人質として今川家に差し出すこととに決まりました。

そこで、徳川家康が今川家への人質として駿府へ送られることとなったのですが、その護送の途中に三河渥美郡田原(現在の愛知県田原市)にあった田原城立ち寄ったところで義母の父・戸田康光に騙されて船に乗ったところで裏切りにあって身柄を奪われ、尾張国の織田信秀の下へ送られることとなります。

そして、尾張国に送られた徳川家康は、熱田の豪族であった加藤図書助順盛の屋敷「羽城」に幽閉されます。

また、織田信秀は、この竹千代の身柄を交渉材料として、松平広忠に対して臣従を迫ります。

ところが、松平広忠は、この織田信秀の要求を拒否し、今川家の臣下としての立場を貫きました。

なお、織田信秀は、この松平広忠の対応を評価し、竹千代を殺害することはせず、織田家の菩提寺である万松寺に預け出て生活を送らせることとします。

他方、竹千代を織田信秀に奪われた今川義元は激怒し、太原雪斎率いる軍を編成して進軍させ、天文16年(1547年)9月5日、竹千代を織田信秀の下に送った戸田宗光が守る田原城を陥落させます。

その後、今川義元は、獲得した田原城に伊東祐時を入れ、さらに西に向かって進軍していったのですが、その後、織田信広(織田信秀の長男)が守る安祥城を境として一進一退の戦いが続きます。

この戦いの最中である天文18年(1549年)3月6日、竹千代の父・松平広忠が死去し、松平家の本拠地であった岡崎城は今川家から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配されることとなります。

今川人質時代(1549年11月)

天文18年(1549年)11月8日、太原雪斎率いる今川軍は、安祥城を攻略し、城主であった織田信広(織田信秀の長男)を生け捕りにします(第四次安祥合戦)。

ここで、太原雪斎は、織田信秀に対し、織田信広と徳川家康との人質交換を提案してこれを成功させます(「徳川実紀」東照宮御実記巻一・天文十八年)。

これにより織田家から今川家の下に送られることとなった徳川家康は、駿府に移され、太原雪斎が住職を務める臨済寺においてその教育を受けて今川氏真を支える人材となるべく英才教育を施されます。

今川家で育てられた徳川家康は、弘治元年(1555年)3月、14歳で元服し、今川義元から偏諱を賜って「松平次郎三郎元信」と名乗ります。なお、人質でありながら今川義元の偏諱を賜っていることから、竹千代が今川家で特別待遇を受けていたことがわかります。

その後、徳川家康は、弘治3年(1557年)年、今川義元の勧めによって、今川一族の武将関口親永の娘(今川義元の義妹の娘)である築山殿(瀬名姫)を妻に迎え、この結婚を機会に「松平蔵人佐元康」に改名しています。

大高城からの退き口(1560年5月19日)

その後、沓掛城・鳴海城・大高城を確保して尾張国への橋頭堡を確保した今川家からの侵攻を防ぐため、織田軍が鳴海城には丹下砦・善照寺砦・中島砦を、大高城には丸根砦・鷲津砦を構築するなどしてこれらを囲み、その奪還を目指すという軍事行動を起こします。

これに対し、今川義元としても、尾張国への橋頭保となる鳴海城・大高城を失うわけにはいきませんので、永禄3年(1560年)5月、両城の解放とその後の尾張国侵攻を目指し、駿河国・遠江国・三河国から2万5000人とも言われる大軍を動員して尾張国に侵攻するという作戦を立案します。

そして、今川の大軍を支える兵站先行部隊を派遣し、対織田戦線の最前線となる大高城に兵糧を運び入れ、後から来る今川軍を迎え入れる作戦をとることとなったのですが、この任を任されたのが徳川家康でした。

その後、徳川家康は、永禄3年(1560年)5月19日早朝までに見事な作戦で大高城への兵糧入れを成功された後、そのまま佐久間盛重が守る丸根砦に攻め込み、激戦の末にこれを陥落させるという大戦果を挙げます。

そして、兵を休めるために大高に入り今川義元が到着するのを待っていた徳川家康の下に、永禄3年(1560年)5月19日夕刻、桶狭間で今川義元が討死し2万5000人を擁する今川軍がちりぢりになって退却をしているとの報が届きます。

しばらく同城内で思案していた徳川家康でしたが、織田方に与していた叔父・水野信元からの使者である浅井道忠が訪れ、今川義元の敗死の知らせと大高城を出るようにとの忠告があったこともあり、大高城から撤退するという決断を下します。

こうして、大高城に本多光忠を残して大高城を出た徳川家康は、正確なルートは不明ですが、浅井道忠の道案内に従って知立を経て今村まで進みます。

途中、落ちていく大将首を狙った織田兵や落ち武者狩りに遭遇しますが、先導していた水野信元の使者であった浅井道忠がその都度「水野下野守信元カ使浅井六之助」と名乗りをあげて阻止したり、時には武力でこれを返り討ちにしたりしながらの逃走劇でした。

大樹寺に入る(1560年5月20日)

今村で、道案内の浅井道忠と別れた徳川家康は、増水する矢作川を渡り、ようやく岡崎にたどり着いたのですが、岡崎城には今川家臣が入っていたため入ることができず、永禄3年(1560年)5月20日、一旦岡崎にある松平家の菩提寺である大樹寺に入ります(家忠日記増補・三河物語など)。

なお、大樹寺に入った徳川家康を追って織田軍が押し寄せてきたため、観念した徳川家康が先祖代々の墓所の前で自害しようとしたのですが、同寺住職であった登誉上人に代々平和な世の中を創ろうとしてきた松平家を松平元康の代で終わらせてはならないと諫められ、穢れた国土である娑婆世界(穢国)を厭い離れ、清浄な国土である阿弥陀如来による極楽世界への往生を切望するという意味の言葉である「厭離穢土・欣求浄土」を授けられます。

この登誉上人の言葉に勇気づけられた徳川家康は、平和国家建設のために尽力することを決意し、代々の松平家の当主が眠る墓前に大願成就を願い、以降、戦場では、「厭離穢土・欣求浄土」の旗印と、「天下泰平」と記した軍配を振るうようになったと言われています。

真偽は不明ですが。

岡崎城入城(1560年5月23日)

その後、岡崎城に入っていた今川家臣が、今川義元の死を知って駿河国に退却したため、岡崎城が空城となります。

そこで、徳川家康は、永禄3年(1560年)5月23日、11年ぶりにかつての松平家本拠地である岡崎城への入城を果たします。

このときの岡崎城への入城については、徳川家康の独断であったとする説のほか、今川氏真の同意の下であったとする説もあり、その経緯は不明です(岡崎に戻ってから入城まで3日を要していること、今川家としては織田家への備えとして岡崎城が有用であったこと、その後松平元康が今川氏真から直ちに謀反人扱いされた訳ではないことをあわせ考えると、今川氏真の同意があったと考えるのが自然かもしれません。)。

独立への布石

織田弾正忠家への接近

岡崎城に入った徳川家康は、直後は今川方の将として織田領に攻撃を仕掛けるなどしていたのですが、いつまでたっても織田方への反撃に動き出さない今川氏真を見限り、今川家からの完全独立を計画して織田家の重臣となっていた伯父・水野信元の誘いに乗って旧敵であった尾張国・織田弾正忠家に接近します。

そこで、徳川家康は、永禄4年(1561年)にまだ今川家の人質として駿府に取り残されていた嫡男・竹千代(後の松平信康)と織田信長の娘・徳姫(五徳)との婚約を成立させてしまいます。

もっとも、正室(築山殿)と嫡男(竹千代)を今川家に押さえられているということは、徳川家康にとっても交渉の際に絶対的な不利益を受けることを意味し、解消しなければならない問題となります。

松平家(徳川家康)が、今川家から独立することを宣言することを宣言すると、駿府に残してきた築山殿・竹千代・亀姫が、裏切者の妻子として処断されることが明らかだからです。

そこで、徳川家康は、妻子を取り戻す策を練りつつ、三河国の支配回復に取り掛かります。

三河国平定戦

徳川家康は、永禄4年(1561年)2月、室町幕府第13代将軍・足利義輝に駿馬(嵐鹿毛)を献上して室町幕府との直接的な関係を築くことで、独立領主としての幕府承認を取り付けようとします。

また、その後、徳川家康は、吉良家が治める三河国内の親今川勢力などを攻撃しはじめます(善明堤の戦い及び藤波畷の戦いなど)。

人質交換により妻子奪還

こうして徳川家康が三河国内で勢力を伸ばしていったため、三河国内でも今川方を離れて松平方に転向する勢力が出始めます。

勢いに乗る徳川家康は、永禄5年(1562年)2月4日、東三河国・上ノ郷城を攻略して城主・鵜殿長照らを殺害し、その子である鵜殿氏長・鵜殿氏次兄弟を捕縛します。

鵜殿氏が今川家の一門衆であったため鵜殿氏長・鵜殿氏次を捨て置かないと判断した徳川家康は、今川氏真に対し、鵜殿兄弟と築山殿らとの人質交換を持ちかけます。

なお、この徳川家康による人質交換は、師である太原雪斎が天文18年(1549年)11月8日に織田家にいた徳川家康(当時は竹千代)を今川家に取り戻したのと全く同じ策でした。

一門衆を見捨てることができなかった今川氏真は、やむなく鵜殿兄弟の身柄と交換にて、築山殿・竹千代・亀姫を解放するという判断を下します。

この結果、築山殿・竹千代・亀姫が、ようやく徳川家康のいる岡崎に移ることとなりました(もっとも、今川家重臣の娘である築山殿には岡崎城入城が許されませんでした。)。

今川家からの独立

清洲同盟締結(1562年)

妻子を奪還したことにより今川家と敵対しても問題がなくなった徳川家康は、正確な日時は不明ですが永禄5年(1562年)正月ないし3月、正式に織田信長と同盟を締結します(清洲同盟)。

この清洲同盟締結により、徳川家康は、正式に今川家からの独立を果たします。

なお、今川氏真は、室町幕府将軍の足利義輝や北条氏康などに今川家と松平家との関係修復・和睦仲介を依頼するなどして、松平家を繋ぎとめようとしたのですが失敗に終わっています。

改名(1563年7月6日)

また、徳川家康は、今川家からの独立を周囲に知らしめるため、

永禄6年(1563年)7月6日、今川義元からの偏諱である「元」の字を返上し、名を松平「元康」から松平「家康」に改めています。

織田家への臣従

今川家からの完全独立を果たし、三河国平定、対今川政策を進めていった徳川家康は、永禄10年(1567年)5月には、松平信康と婚約していた織田信長の娘である徳姫を正式に室として貰い受け、関係を強固なものとしています。

もっとも、当初は対等関係として始まった清洲同盟でしたが、対抗勢力を次々に滅ぼして勢力を拡大させる織田家に対し、武田家をはじめとする周辺勢力に苦戦する徳川家はその立場を相対的に低下させていきます。

その結果、清洲同盟における対等関係という名目は形式化していきます。

この点については、同じく織田家と同盟関係にあった徳川家康の伯父・水野信元も同様でした。

水野信元が、天正3年12月(1576年1月)に武田勝頼との内通を疑われて討伐対象とされ徳川家康を頼ってきたのですが、このとき徳川家康は織田信長の命に従って水野信元を処断していることからすると、この頃には徳川家康が織田信長に臣従していたことが伺えます。

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