【徳川家康の改名・名字変更の歴史】

戦国武将の中で最も成功した人物と言えば徳川家康。

余りにも有名な武将・徳川家康ですが、その生涯において何度も名を変えていることをご存知ですか。

「徳川家康」というのは、元服後4つ目の名です。

以下、徳川家康の改名・改姓の歴史を見ていきましょう。なお、徳川家康とは短縮名であって最終的な正式名は「徳川次郎三郎源朝臣家康」といい、「徳川」は名字、「次郎三郎」は通称、「源」は姓(かばね)、「朝臣」は家格を表す姓、「家康」は名前です。

幼名・竹千代(1542年12月26日)

徳川家康は、天文11年12月26日(1543年1月31日)、三河国の岡崎城主(今の愛知県岡崎市)松平広忠の嫡男として生まれ、幼名を「竹千代」と名付けられました。

なお、「竹千代」の名は、父・松平広忠が称名寺で行われた連歌会で詠んだ歌(発句「神々の 長き浮き世を 守るかな」に対しする松平広忠の脇句「めぐりは広き 園の千代竹」)にちなんだとも言われています。

元服し松平元信を名乗る(1555年)

徳川家康(このとき7歳で幼名を竹千代といいましたが、本稿では便宜上徳川家康の名で統一します。)が、織田家から人質交換を経て、天文18年(1549年)に駿河国の大大名であった今川家に送られることとなります。

そして、弘治元年(1555年)、今川家で人質生活を送っている中で14歳になった徳川家康は、静岡浅間神社において今川義元からを烏帽子親として元服し、また今川義元から偏諱を受けて、「松平元信」と名乗ります。

今川義元から偏諱を受けていることから、徳川家康が今川家の中で単なる人質扱いを受けていたのではなく将来重臣とするための特別待遇を受けていたことがわかります。

なお、徳川家康が与えられた諱は「元」のみであったため、「信」の字は徳川家康自ら選んでこれらを組み合わせ、「元信」にしています。

松平元康に改名(1557年)

その後、徳川家康は、弘治3年(1557年)年、今川義元の勧めによって、今川一族の武将関口親永の娘であり、今川義元の系図上の姪でもあった瀬名姫を室に迎えます。

瀬名姫は、後に築山殿と呼ばれる人であり、このとき16歳であった徳川家康よりも10歳も年上でしたが、今川義元の姪をもらい受けていることからも今川家中での待遇の高さがわかります。

そして、徳川家康は、この結婚を機会に「松平元康」に改名します。

改名の理由は不明ですが、この頃は、主家である今川家が西進して織田家を滅ぼそうとしている時期であり、そんな時期に織田家当主である織田信長と同じ「信」の字を使っていることが不都合だったのかもしれません。あるいは、同じく今川家に支える重臣に岡部「元信」がいたため、それに対しての配慮だったのかも知れません。

この「元康」への改名に際しては、松平家の中興の祖であり徳川家康の祖父である松平清康の「康」をもらったとも言われていますが、正確な理由は不明です。

松平家康に改名(1563年6月頃)

今川家から距離をとる(1560年5月)

今川方の配下の将として行動をしていた徳川家康ですが、永禄3年(1560年)5月に起こった桶狭間の戦いで状況が一変します。

今川義元が討ち取られた際、徳川家康は今川軍の先鋒として大高城兵糧入れの後、大高城に残っていたのですが、今川義元が討ち取られたどさくさに紛れて駿河国に戻ることなく、かつての松平家の本拠地であった三河国・岡崎城に入り、松平家(後の徳川家)を今川家から独立させる決断をします。

織田信長と同盟を結ぶ(1562年)

そして、今川家と距離をとる徳川家康は、永禄5年(1562年)、今川家と対立する尾張国・織田家と同盟を結びます。

そして、清洲同盟と呼ばれるこの同盟は、永禄6年(1563年)3月に、徳川家康の嫡子・竹千代(後の松平信康)が織田信長の娘である徳姫と婚約することによりさらに強化されます。

今川家からの独立と改名(1563年秋)

今川家と対立する織田信長の後ろ盾を得た徳川家康は、いよいよ今川家との決裂を決断します。

そして、徳川家康は、今川家との決裂の証として、今川義元からもらった「元」の字を捨てることとします。

そして、徳川家康は、永禄6年(1563年)6月から12月の間に、「元」を「家」に改め、「松平家康」に改名します。

なお、「家康」への改名時期については、資料により、永禄4年/1561年説(官本三河記など)、永禄5年/1562年説(徳川実紀、松平記など)などがあって必ずしも定かではありません。

もっとも、永禄6年(1563年)6月に最後の「元康」名での署名文書が作成されており、また同年12月7日に最初の「家康」名での署名文書が作成されていることから、この間に改名したと考えるのが一般的になっています。

この推測は、改名時期について、家忠日記増補において永禄6年(1563年)秋、徳川幕府家譜において同年7月6日とされていることとも整合しています。

なお、「家」の字を選んだ理由としては、源氏の祖とも言える源義家から一字をもらったとも、「書経」の中にある「家用平康」から取ったとも言われていますが、正確なところはわかりません。

徳川家康に名字変更(1566年12月29日)

源氏ルートでの改姓失敗

独立大名としての歩みを始めた徳川家康は、奥三河の国衆を下らせ、三河一向一揆をも鎮めて西三河を治めた後、東三河から今川方の勢力を駆逐することにより三河一国を統治するに至るまでにその勢力を拡大します。

三河国全土に影響を及ぼすに至った徳川家康は、その証として朝廷に対して三河守任官の申請をします。

この点、三河守は従五位下という貴族にあたりますので、その選任には貴族の血筋が必要となります。

ここで徳川家康は、先祖が清和源氏であり、源氏なら貴族の身分として従五位下でもおかしくないと考え、自身が源氏の流れを汲むものであると証明しようと考えます。

もっとも、氏姓の証明は、氏長者により行われるのですが、このときは源氏の氏長者であった足利将軍が不在であったことから、源氏長者のお墨付きを獲得できなかったため、朝廷からは、松平家などいう聞いたことのない国衆から国主となった前例がないとして、徳川家康の申請を却下します。

藤原氏ルートでの改姓成功

困った徳川家康は、自身の素性を源氏以外の貴族に無理やりつなげるよう画策を始めます。

こうして徳川家康は、三河国出身の京都誓願寺住持であった泰翁(たいおう)の仲介により関白・近衛前久に接近します。源氏がダメなら藤原氏というわけです。

そして、近衛前久の力により古い記録を繋ぎ合わせ、松平氏の祖とされる世良田義季が「得川」という名字を名乗っていたこととし、この得川姓が源氏・新田氏に連なる「藤原」という本姓を名乗ったことがあることとします。

そして、この内容を基に、徳川家康の先祖が、藤原氏になったとする藤原氏長者であった近衛前久のお墨付きのある系図を作成して朝廷に提出します。

その上で、徳川家康は、徳河郷にちなみ「徳川」という名字を変更(復姓?)することを朝廷に申し出て、一代のみとの条件の下で「徳川」を名乗ることが許されます。

この結果、永禄9年12月29日(1567年2月18日)、姓を藤原・名字を徳川に変更し、先祖に国主となった前例が出来上がったため、晴れて従五位下・三河守に任じられることとなったのです。

このように、有名な「徳川」という名字は、徳川家康が三河国の国主(三河守)になるために無理やりこじつけて作成したものだったのです。

なお、以上のとおり藤原氏を本姓とし、その後の豊臣政権において豊臣氏を称した徳川家康でしたが、後に貴族姓は相応しくないとしたのか、天正16年(1588年)以降は再び本姓を源氏と称しています。

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