【武田信玄の領土拡大の軌跡】家督相続から最期までの経緯

大永5年(1525年)ころに甲斐国を統一した武田信虎の嫡男として生まれた武田信玄(武田晴信、本稿では便宜上武田信玄の名で統一します。)は、天文10年(1541年)6月14日、重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らと共にクーデターを起こし、武田信虎を駿河国追放し、武田信玄が武田家の第19代目の家督を相続します。

もっとも、このときのお家騒動のゴタゴタで、武田家は、武田信虎時代に獲得した信濃国・小県郡・佐久郡を失います。

そのため、武田信玄は、甲斐国一国から勢力拡大を始めていきます(武田信玄死亡直前の最大版図時の主要な城は概ね上画像のとおりです。)。

本稿では、武田信玄のここに至る領土拡大の軌跡を、時系列に沿って地図(航空写真)を追いながら見ていきます。

信濃国獲得

諏訪盆地獲得(1542年7月)

① 瀬沢の戦い?(1542年3月)

武田信玄の領土拡大は、甲斐国の北西にある信濃国を目指すこととなります。

東に北条、南に今川という超大国があるためやむを得ない選択です。

このとき、武田信玄が最初に選んだ信濃国進出先は諏訪盆地でした(父・武田信虎は佐久盆地から進みましたが、武田信玄は諏訪盆地を選んでいます。)。

きっかけは、天文11年(1542年)3月、武田信虎を追放したために武田信玄の政権基盤がまだ盤石でないと見た諏訪頼重が、信濃守護・小笠原長時と連合して甲斐への侵攻を始めたことです。

武田信玄は、自ら出陣して諏訪・小笠原連合軍を甲信国境で迎撃し、激戦の上、甚大な被害をだしつつも、諏訪・小笠原連合軍をなんとか退けたのですが(瀬沢の戦い)、この戦いにより武田・諏訪両家の関係は悪化し、以降、両家の国境では小競り合いが始まります。

もっとも、確実な資料で瀬沢の戦いを記録したものはなく、かつて同盟関係にあった諏訪氏を武田信玄が滅亡させたことを正当化するために後年に創作された合戦ではないかとも疑われており、合戦そのものの存在が疑問視されています。

② 桑原城の戦い(1542年6月)

③ 諏訪総領家滅亡(1542年7月)

第1次上伊那侵攻【失敗】

① 高遠頼継の裏切り(1542年9月)

諏訪盆地を得た武田信玄は、高遠頼継との協議の上、諏訪領を二分し、宮川以西を高遠領、以東を武田領と決めます。

ところが、この武田信玄の諏訪分割に高遠頼継が不満を持ちます。

高遠頼継は、諏訪総領家である諏訪頼重が死亡した後は、自分が諏訪総領家として諏訪郡に君臨出来ると考えていたのですが、与えられたのは諏訪郡の半分であり、また武田信玄の下に位置付けられるような立場となったからです。

これに対して,武田信玄は、同年9月25日に約2000人にて宮川まで進軍させ、宮川橋付近(現在の安国寺前古戦場)で高遠軍約2000人と衝突してこれを蹴散らし(宮川の戦い)、高遠頼継を杖突峠を越えた先の本拠地である伊那郡・高遠城に退去させました。

② 荒神山城攻め(1544年11月1日)

その結果、宮川以西も含めた諏訪盆地全域を獲得した武田信玄は、続けて伊那獲得を目指します。

立地上、伊那への侵攻は諏訪から行うこととなりますので、まず攻略対象となるのは伊那郡北部(上伊那)であり、具体的な主たる攻略対象は、藤沢頼親が治める福与城と高遠頼継が治める高遠城です。

武田信玄は、天文12年(1543年)5月、上伊那への入り口となる諏訪盆地の北部にあった上原城を修築し、信濃国侵攻のための拠点として整備し、板垣信方を諏訪郡代として在城させます。

その上で、天文13年(1544年)11月、武田信玄は、弟である武田信繁を総大将とし上原城の板垣信方をつけて出陣させ、有賀峠から上伊那に進入させます。

峠を越えて伊那盆地に入った武田軍は、そのまま藤沢頼親が新たに築いた荒神山城に向かい、天文13年(1544年)11月1日、同城を攻撃しわずかな時間でこれを陥落させます。

③ 松島原の戦い(1544年11月2日)

荒神山城を攻略した武田信繁率いる武田軍は、そのまま南下して藤沢頼親の守る福与城に迫ります。

このとき、藤沢頼親は、福与城から迎撃の兵を出したため、天文13年(1544年)11月2日、福与城の北側にある松島原で武田軍と対峙して合戦となります。

松島原の戦いでは決定的な勝敗はつかず、合戦後に藤沢頼親軍が松島原の陣を払って福与城に撤退したため、武田軍はそれを追って福与城を囲みます。

④ 福与城攻め(1544年11月)

福与城を囲んだ武田軍は、福与城攻撃を続けますが、攻略は難航し、月日だけがいたずらに経過するだけで福与城は一向に落ちませんでした。

このとき、武田軍が福与城に足止めされているのを見て、高遠城主・高遠頼継が軍を率いて手薄となった諏訪郡の上原城を狙ったため、この高遠頼継の動きに危険を感じた武田信繁が、直ちに福与城の包囲を解いて、急ぎ諏訪・上原城に向かって撤退します。

武田信繁軍が高遠軍が諏訪に到達する前に諏訪に帰り着くことができたため、高遠軍に諏訪を攻略されることはありませんでしたが、この武田軍の諏訪帰還により、天文13年(1544年)の武田軍の第1次上伊那侵攻は失敗に終わります。

上伊那獲得(第2次上伊那侵攻)

① 高遠城攻め(1545年4月)

② 福与城攻め(1545年4月)

佐久盆地獲得(1547年8月11日)

① 内山城攻略(1546年5月20日)

② 小田井原の戦い(1547年8月6日)

③ 志賀城攻略(1547年8月11日)

志賀城の陥落により、甘楽郡の上野氏河氏や国峯小幡氏が武田方に下ります。

また、佐久盆地を獲得したことにより、武田信玄に、上田盆地への侵攻ルート(北方面)と西上野への侵攻ルート(東方面)が開けることとなりました。

第1次上田盆地侵攻【失敗】

① 上田原の戦い(1548年2月14日)

破竹の勢いで信濃国南部を制圧した武田信玄でしたが、ここで、家督相続以来連戦連勝であった武田信玄に初めて土がつきます。

天文17年(1548年)2月14日に起こった上田原の戦いです。

この戦いで、武田軍は北信濃の雄・村上義清軍に大敗し、板垣信方・甘利虎泰という当時の甲斐武田家の絶対的2大看板を一度に失うという事態に陥ります。

② 諏訪郡・佐久郡の危機

また、上田原の戦いで村上義清に大敗したことで、武田家の威信が低下したと見た信濃国衆が一斉に蜂起したため、武田家は領土拡大の騒ぎではなくなります。

なお、上田原の戦いにおいて諏訪郡代であった上原城主・板垣信方が死亡して混乱が生じたため、この混乱をを避ける意味もあって天文18年(1549年)に諏訪郡の政治拠点が上原城から高島城に移されました。

松本盆地獲得(1550年7月15日)

① 塩尻峠の戦い(1548年7月19日)

このとき、松本平を治める小笠原長時も、諏訪郡に対する武田家の支配力が衰えたと判断し、天文17年(1548年)4月、武田家から離反した藤沢頼親(小笠原長時の娘婿)、仁科盛能、村上義清らと示し合わせ、諏訪郡へと勢力を拡大するため、諏訪下社へ侵攻を開始します。

その後、小笠原長時は、本拠地である林城から5000人の兵を率いて諏訪郡に向かって進軍し、塩尻峠付近に布陣します。

ところが、天文17年(1548年)7月19日早朝、武田軍が小笠原長時の陣を急襲し、小笠原軍を散々に打ちまかします。

② 松本盆地侵攻

武田軍は、逃げる小笠原長時を追い、塩尻峠の戦いで勝利した勢いにのって塩尻峠を越え、小笠原氏の本拠地・府中(松本)まで追撃し、小笠原長時の本拠地である林城付近を焼き払います。

また、塩尻峠の戦いにおいて小笠原長時の下で戦った村井氏が滅亡したことにより、武田信玄は、現在の松本市芳川小屋にあった村井氏の本拠地・村井城(小屋城)を接収し、松本方面への橋頭堡とします。

③ 林城落城・松本盆地攻略(1550年7月15日)

武田信玄は、躑躅ヶ崎館から軍を進めて、天文19年(1550年)7月10日に村井城に入り、同年7月15日から、林城の出城である犬飼城(犬甘城)・埴原城などを次々と攻略していきます。

本格的な侵攻を受けた小笠原方では、戦線を維持できなくなり、支城が次々と武田に下っていきます。

居城・林城を維持できないと判断した小笠原長時は、林城を捨てて一旦平瀬城に落ち、その後、平瀬城の維持も不可能と判断し、松本平を捨てて上田の村上義清を頼って逃亡します。

この結果、武田信玄は、大きな戦いを経ることなく、松本平(府中)を手に入れることに成功します。

松本平を得た武田信玄は、奥まった林城ではなく、街道沿いの平地にある深志城を修復して松本平の守りの要とし、馬場信春を深志城の城代に任じて、同城を通じて松本盆地の支配を開始します。

第2次上田盆地侵攻【失敗】

① 砥石城の戦い(1550年9月9日)

② 砥石崩れ(1550年10月1日)

上田盆地獲得(第3次上田盆地侵攻)

① 真田幸隆による砥石城乗取(1551年5月26日)

② 村上家中の切り崩し

③ 甲駿同盟成立(1552年11月)

武田家・今川家でそれぞれ婚姻適齢期にある一門衆・姫が探され、天文21(1552)年11月に、今川義元の娘・嶺松院が、武田信玄の嫡男・武田義信に嫁ぎます。

④ 甲相同盟成立(1553年1月)

また,武田家と北条家との同盟関係を強化するため、両家で婚姻適齢期にある一門衆・姫が探され、天文22(1553)年1月、武田信玄の娘・黄桜院と北条氏康の嫡男・北条氏政の婚約が決まります(実際の結婚は、同年12月でした。)。

⑤ 1度目の葛尾城陥落(1553年4月9日)

⑥ 八幡の戦い(1553年4月22日)

⑦ 第1次川中島の戦い(布施の戦い)

下伊那獲得(1554年8月15日)

① 下伊那の国衆への降伏勧告

天文22年(1553年)に上田盆地を獲得した武田信玄は、同年に獲得した上田盆地に位置する小県郡を真田幸隆に与えて守らせ、また天文23年(1554年)に佐久盆地に小諸城を築くなどした上で北側・東側の安全を確保した上で、信濃国南側に位置する下伊那に向かって圧力をかけていきます。

この時点では、もはや下伊那に武田に匹敵する勢力はありませんでしたので、下伊那の国衆達は次々と武田の軍門に下っていきます。

ところが、鈴岡城・小笠原信定と、神之峰城主・知久頼元、吉岡城の下条氏らが武田信玄に抵抗を示します。

② 下伊那獲得(1554年8月15日)

そこで、天文23年(1554年)、武田信玄は、これら抵抗勢力を排除するため、下伊那へ侵攻します。

まず、同年7月24日、小笠原信貴の軍勢が、小笠原信定が守る鈴岡城を攻め、同年8月7日にこれを攻略します。

次に、飯富昌景(後の山県昌景)が、知久頼元が守る神之峰城を攻め、これを攻略します。

そして、同年8月15日、残る下条氏を攻めるため知久郷に火を放ったところで、下伊那南部を勢力範囲としていた吉岡城主・下条氏も武田に降り、下伊那地方全域が武田の傘下に下ることとなりました。

③ 甲相駿三国同盟成立(1554年)

上杉謙信との間で北信濃を巡る攻防戦が始まったことから、後顧の憂いを断ちこれに専念する必要性に迫られたたため、今川家との関係強化と、北条家との関係構築を目指します。

この武田信玄の思惑が、尾張国を目指す今川、関東平野を目指す北条の思惑と合致したため、天文23年(1554年)、武田・今川・北条という三大超大国間の巨大軍事同盟が成立します(甲相駿三国同盟)。甲相駿三国同盟は、武田にとっては北進のための同盟です。

木曽谷獲得(1555年)

① 第1次木曽谷攻略作戦(1555年3月)

武田信玄は、木曽谷の獲得を目指して天文24年(1555年)3月、塩尻方面から木曽谷への侵攻を開始します。

武田信玄は、まず鳥居峠(中山道の難所)を下った藪原側に砦を築いた上、軍勢を2つに分け、一隊を原虎胤に任せて稲核から奈川へ越し荻曽へ出て藪原を狙います。

木曽側は慌てて敗走しましたが、武田信玄は深追いをせずに藪原に陣を構えます。

② 第2次川中島の戦い(1555年・犀川の戦い)

武田信玄が木曽谷に本格侵攻しようとしたところで、上杉謙信が川中島に出陣してきたため、主力を率いて川中島に向かいます。

このときは、武田信玄と上杉謙信とが200日を超える長期間の対陣をした後、天文24年(1555年)閏10月15日に今川義元の仲介により和睦・撤兵しています。

③ 木曽谷獲得(1555年)

その後、武田信玄は、再び木曽谷に軍を進め、小澤川端で木曽軍を撃破したところで、信濃国木曾谷領主(木曽福島城主)・木曾義康が武田家に降伏します。

木曾氏が木曽義仲から続く名門であり、また隣接する美濃・飛騨との国境地帯を押さえていたため、武田信玄は、木曽義康の嫡男であった木曾義昌に三女の真理姫を娶らせ、武田家の親族衆として木曽谷を安堵しています(なお、この真理姫の輿入れについては、同時代の確実な史料で確認することはできていませんので真偽は不明です。)。

善光寺平獲得

① 高坂昌信を海津城代とする(1556年)

弘治2年(1556年)ころから、北信濃を巡り、武田信玄と上杉謙信との直接対決が本格化します。

このとき、武田信玄は、対上杉の最前線となる海津城の城代に武田四天王・高坂昌信を任じ、以降高坂昌信が武田信玄の最大の敵である上杉謙信の攻撃を封じる盾となります。

なお、高坂昌信は、これ以降上杉謙信に対する備えの役割に全勢力をさかれることとなったため、ほぼ海津城から動くことができなくなり、高坂昌信は、これ以降上杉謙信との合戦である川中島の戦い以外の武田家の合戦にほとんど参戦しなくなります(というより、強大な上杉謙信を封じるために兵を出すことが出来なくなったのです。)。

② 第3次川中島の戦い(1557年・上野原の戦い)

③ 出家して信玄を号する(1559年)

永禄2年(1559年)、長禅寺(現在の山梨県甲府市)の住職を導師として出家し、「徳栄軒信玄」(とくえいけんしんげん)と号しています。

④ 第4次川中島の戦い(1561年・八幡原の戦い)

飛騨国に影響を及ぼす(1564年)

① 第5次川中島の戦い(1564年・塩崎の対陣)

このころ飛騨国内で国衆間の争いが勃発し、永禄7年(1564年)に、武田信玄が江馬時盛を、上杉謙信が三木良頼・三木自綱親子を支援し、武田・上杉がこれに介入します。

このとき、上杉謙信が川中島に武田信玄が塩崎城にまで進出し2か月間に亘って対陣した後、両軍が撤退して戦いが終わります。

② 北進策を諦める

このとき、5度に亘る川中島の戦いを経て上杉謙信を打ち破ることが困難と判断した武田信玄は、ここで北進政策を諦め、北信地域における越後上杉氏との抗争を収束させると共に、東(上野国)・西(美濃国)・南(駿河国)へ向かうよう政策転換をします。

③ 織田信長に接近する

南に向かうことを決めた武田信玄は、今川家に見切りをつけて今川の敵である織田信長に接近します。

そして、武田信玄は、永禄8年(1565年)、高遠領主・諏訪勝頼(武田勝頼)の正室として美濃国の国衆である遠山直廉の娘で織田信長の養女・竜勝院を貰い受け、織田家と縁戚関係を作り上げます。

西上野獲得(1566年)

① 坪尻の戦い(1557年4月)

武田信玄は、弘治3年(1557年)4月、北条氏の要請に従って、佐久盆地から西上野へ侵攻を開始し、瓶尻(群馬県安中市磯部)にて長野業正軍を蹴散らして、長野業正の居城・箕輪城を攻めるもその攻略に苦労します。

そして、箕輪城を攻めあぐねている間に川中島に上杉謙信が進出してきたため、武田信玄は、西上野戦線から兵を引きます。

② 若田原の戦い(1559年)

③ 桧平合戦(1560年)

④ 長野業正死去(1561年11月22日)

⑤ 西側から箕輪城の支城群を攻略

武田信玄は、西上野に侵攻し、西側から順に国峰城・安中城・岩櫃城・松井田城を攻略して西上野の盟主たる長野氏の居城である箕輪城に迫ります。

⑥ 箕輪城の戦い(1566年)

武田信玄は、永禄9年(1566年)9月、箕輪城を陥落させ、そのまま残る支城群を攻略し西上野全域を平定します。

また、これにより箕輪城が、武田家における西上野統治の拠点であると共に対北条との最前線となり、以降、重臣である甘利昌忠・真田幸隆・浅利信種らを経て、元亀元年(1570年)ころから、内藤昌豊が城代を務めます。

駿河国獲得(1570年1月)

甲相駿三国同盟の破棄

第1次侵攻(1568年12月)【失敗】

永禄11(1568)年ころ、武田信玄は、徳川家康に双方から攻め込むことによって今川領を切り取ることにより今川領の分割しようと持ちかけた上(駿河国を武田の、遠江国を徳川の領有とする。)、共同して今川領国への侵攻を開始します(第1次駿河侵攻)。

① 第1次薩埵峠の戦い

② 今川館を占拠

③ 第2次薩埵峠の戦い

第2次侵攻(1569年7月・富士郡獲得)

駿府を狙って失敗した第1次作戦の反省を生かし、第2次駿河侵攻作戦については、北条軍を牽制した後で支城群から攻略していく作戦に切り替えました。

そこで、武田信玄は、永禄12年(1569年)6月5日、別動隊を編成して武蔵国・御岳城、同年6月16日、武田信玄自ら本隊を率いて北条綱成が守る相模国・深沢城を攻撃した後、深沢城の包囲を解いて伊豆国に入り、同年6月17日、伊豆国・三島を攻撃して北条軍をけん制します。

その上で、武田信玄は、本体を率いて御殿場から駿河国に入ります。

三島・韮山へと進んだ武田軍は、そのまま進路を西にとり、永禄12年(1569年)6月25日頃、中道往還(なかみちおうかん)を押さえる駿河国・富士郡の要衝である大宮城へ取りつき、武田一門衆・穴山信君と大宮城方との開城交渉の結果、同年7月3日に大宮城は開城します。

こうして、武田信玄は、駿河国・富士郡を獲得し、駿府への道を切り開きます。

第3次侵攻(駿河国獲得)

第3次駿河国侵攻は、1軍で上野国・武蔵国・相模国の国に進軍させて北条をけん制して援軍を封じ、もう1軍で駿河国に攻めむという二正面作戦で行われます。

(1)上野国・武蔵国・相模国方面作戦

① 鉢形城包囲戦(1569年9月10日)

② 滝山城攻城戦(1569年10月1日)

③ 廿里の戦い(1569年10月1日)

④ 小田原城包囲戦(1569年10月1日〜)

⑤ 三増峠の戦い(1569年10月8日)

(2)駿河国方面軍方面作戦

第2次駿河侵攻作戦の際に獲得した大宮城を本拠として、横山城、北条綱重の守る蒲原城などを攻略していき、永禄13年(1570年)1月には駿河西部にまで進出して、武田勝頼らが花沢城と徳之一色城(後の田中城)を攻略します。

そして、その後、馬場信春の縄張りによって清水城(清水袋城)・江尻城を築城し、武田信玄による駿河国支配が完成しますなお、今川氏の本拠地であった今川氏館(後の駿府城)は、武田信玄には捨て置かれました。

そして、武田信玄は、この清水城・江尻城を本拠として武田水軍を編成し、ついに念願だった港と海軍・海上輸送路を獲得しています。

遠江・三河・東美濃侵攻(西上作戦)

第二次信長包囲網

西上作戦(三方面侵攻作戦)

① 岩村城攻略

② 一言坂の戦い(1572年10月14日)

③ 二俣城の戦い

④ 三方ヶ原の戦い(1572年12月12日)

⑤ 野田城の戦い(1573年1月)

刑部城で越年した武田軍は、元亀4年(1573年)1月10日に同城を発つこととしたのですが、浜松城に向かうことはせず、浜名湖北側を西進し、宇利峠を越えて奥三河へ向かって進軍していきます。

このときまでに奥三河・作手の奥平家は調略済であり、また長篠城は既に山県昌景により攻略されていましたので、狙いは菅沼定盈が守る野田城(東三河の要衝であった吉田城の北東約15km、長篠城からは南西10kmに位置しています。)でした。

そして、年が明けるのを待ち、元亀4年(1573年)1月、武田軍は再度進軍を開始して東三河に侵入し菅沼定盈率いる400人が守る野田城を包囲します。

ここで、武田信玄は、野田城主・菅沼定盈に対して降伏勧告を行ったのですが拒否されたため、金堀衆に城の地下に通じる井戸を破壊させて水の手を断ち同年2月10日に野田城を陥落させます。

武田信玄死去(1573年4月12日)

野田城陥落直後から武田信玄の病が悪化し、度々喀血を呈するなどしてそれ以上の進軍に耐えられない状態となったのです。

このため、野田城攻略直後に武田軍の侵攻が停止します。

そして、武田信玄は、同じく奥三河にある長篠城に入って療養をすることとしたのですが、その病状は改善せず、遂には元亀4年(1573年)4月初旬、甲斐に撤退するという判断がなされます。

もっとも、武田信玄は、甲斐国に戻るまでその体調が持つことはなく、同年4月12日、信濃伊那郡駒場(異説あり)において死去します(甲陽軍鑑・天正玄公仏事法語)。

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