【四国という名称の由来】4県だから4国?

四国は、北海道・本州・九州に次ぐ日本列島の主要4島の一つです。

四国島には徳島県・香川県・愛媛県・高知県の4つの県があるのですが、4県が存在するために4国と呼ばれているわけではありません。

本稿では、なぜ四国と呼ばれるようになったのかについて、その歴史的経過を簡単に説明したいと思います。

四国の由来

記録上の初見

四国が最初に登場する文書は、日本最古の歴史書とされる古事記です。

古事記の中で、神々による日本の創造の過程を記した国産み神話として、淡路島に続く日本列島で二番目に創造された島として描かれています。

なお、古事記では「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」、日本書紀ではを「伊予二名洲(いよのふたなのしま)」と表記されています。

南海道の6ヶ国成立

その後、7世紀後期から中国唐朝の律令を取り入れて法体系を整備しそれに基づいた国家制度・統治制度(いわゆる律令制)が始まり、この律令制の下で地方行政区分の整備が行われました。

この行政改革により、日本国内が律令国という基本単位で区分されることとなり、この基本単位を含めた広域地方行政区画(五畿七道・ごきしちどう)で区分することとなりました。

このとき、四国島は、淡路島と紀伊半島とあわせ、五畿七道の南海道のうちの南海道(なんかいどう)として区分されました。

なお、南海道には以下の国が含まれることとなりました。

① 紀伊国(現在の和歌山県、三重県南部)

② 淡路国(現在の兵庫県淡路島、沼島)

③ 阿波国(現在の徳島県)

④ 讃岐国(現在の香川県)

⑤ 伊予国(現在の愛媛県)

⑥ 土佐国(現在の高知県)

4県=4国となった経緯

この南海道のうち、島として離れている紀伊国と淡路国を除いた四国島について、そこに阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国の4つの令制国が存在することとなったことからこの島を「四国」と呼ぶようになったのです。

なお、四国と呼ばれるに至った経緯は、律令国の整備により9ヶ国が整備され九州と呼ばれることとなった九州の名称の由来と同じ構造です。

この律令国という地理的区分は、飛鳥時代から明治初期まで使用されていたのですが、明治4年(1871年)7月14日に、中央集権を目指す明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革を行い(廃藩置県)、300弱あった藩を廃止して国直轄の県として再編成がなされました。

そして、その後、府県統廃合の変遷の過程で宇和島県や名東県などが成立し4県ではなくなった時期もあったのですが、最終的には四国島に徳島県・香川県・愛媛県・高知県に置かれることとなりました。

その意味で現在でも4県=4国というわかりやすいネーミングとして残っています。

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