【大阪浪華八百八橋】江戸時代の橋を中心とした水都大坂の中心部主要橋一覧

大坂があった河内国は、太古の時代は大阪湾が東は生駒山麓から西の六甲山脈まで入り込んだ海の中だったのですが、長い年月をかけて運んできた土砂が河口部に堆積していき大小多数の島や洲が点在する地形となっていきました(そのため、八十島と呼ばれていました。)。

その後、更なる土砂の堆積や、点在する島々を人の手によって繋ぐなどして陸地化が進められ、大坂の地が市街化されていきました。

もっとも、市街化したとはいえ、依然として街中には多くの川が流れており、またこれらの川の氾濫を防ぐためにいくつもの運河が開削されていったため、大坂の町にはこれらの川・運河を渡るための多くの橋が架けられていきました。またこれらの水運を利用して巨大なマーケットが形成され、さらにはこれらを見込んで川沿いに各藩の大坂蔵屋敷が林立することとなりました。

浪華八百八橋と言われた大坂の橋ですが、八百八という具体的な数字がついているものの800を超える橋があったというわけではなく、末広がりを意味する八を重ねるほど多くの橋があったという意味です。

実際の橋の数は、天明7年(1787年)時点で155橋であり、最盛期でも200橋程度でした(現在は1200橋以上あります。)。

200橋が808橋と評価された理由は、大坂では江戸幕府が架設・架替・修復をした公儀橋(主として大坂城に登城するために使用する橋)は12橋しか存在せず、その他多くの橋は町人がその必要性から自腹を切ってどんどん建てていったことに由来しています。

江戸幕府が建てずとも、町人によりどんどん川に橋が架けられて増えていく、そんな末広がりに増えていく様から比喩表現として「浪華八百八橋」と言われるようになったのです。

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寝屋川(付替前の大和川)に架けられた橋

かつての大和川は、現在の大阪府柏原市から大坂東部を北上し、大坂城のすぐ北側で淀川と合流する流れとなっていました。

このかつての大和川は、低地である河内平野を縦横無尽に流れ、途中で長瀬川と玉串川に分流し、玉串川が菱江川と吉田川に分流し、さらに平野川が玉串川に合流すると言った複雑な流れとなっていました。

またかつての大和川の西側に上町台地があったために平野地域の水はけが悪く、大雨が降ったりすると河口付近の堤防が破れて水没し、民家や田畑に甚大な被害をもたらしていました。

そこで、江戸幕府によって、宝永元年(1704年)10月から付け替え工事が行われ、飛鳥川・葛城川・高田川などの多くの川を吸収しながら河内平野を流れ、現在の大阪市と堺市との境を西進して大阪湾に注ぐ新流路が完成したために大坂に流れ込まなくなりました。

なお、それまでの大和川からの流路を除いた上流からの水の流れは、寝屋川として残されています。

京橋(架橋時期不明【公儀橋】)

京橋は、東海道が五十七次に延伸された直後に京街道の起点(東海道五十七次の終点・江戸日本橋から137里4町1間)とされた場所に架けられたためその名がつけられた橋です。なお、野崎街道を兼ねる大和街道の出発点にもなっていました。

架橋時期は不明であり、豊臣秀吉の治世にはすでに存在し、元和9年(1623年)に江戸幕府によって架け替えがなされ、その重要性から公儀橋とされました。なお、後に京街道の起点は高麗橋に変更されています。

京橋北詰では、京街道沿いに相生西町・相生東町・野田町などが形成され、川魚市場なども開かれて大坂の玄関口として栄えました。

江戸時代の橋は、その擬宝珠に元和9年(1623年)造立との銘があったとされ、最長時には100mを超える長さを誇る巨大な橋でした。

大正13年(1924年)に現在の橋の基となる鋼橋が架橋された後、昭和5年(1930年)から始まった寝屋川の改修事業によって3径間の橋に手直しされ、さらに昭和56年(1981年)の改修・拡幅工事によって現在の姿となっています。

鴫野橋(1620年以降架橋【公儀橋】)

鴫野橋は、事実上大坂城内に架けられた公儀橋であり、下京橋口定番の下屋敷が置かれた弁天島と大坂城北外曲輪を結ぶために用いられた橋であり、一般の用に供される橋ではありませんでした。

架橋時期は不明であり、豊臣期の大坂城絵図や大坂の陣図などに描かれていないことから、元和6年(1620年)以降に行われた徳川家による大坂城修復工事の際に架けられたものと考えられいます。

なお、余談ですが、昭和6年(1931年)に寝屋川に架橋された大阪市道上新庄生野線の橋に鴫野橋との命名がなされてしまった結果,元々あった「公儀橋の鴫野橋」が改称されることとなり、現在では、長い歴史を持つ鴫野橋が「新鴫野橋」と呼ばれ、昭和期に新しく架けられた橋が「鴫野橋」と呼ばれる矛盾が生じています。

鯰江川に架けられた橋

鯰江川は、周囲の湿地帯(現在の大阪市城東区・鶴見区近辺)の排水目的で開削された河川であり、大川と寝屋川の間を寝屋川とほぼ並行して流れた後、大川と寝屋川の合流地点に流れ込む構造の長さ約1.5km・幅約30mの川でした。

この川に鯰が多く生息したことから鯰江川と称されたと言われています。

野田橋【公儀橋】

野田橋は、旧鯖江川のかつての京街道の入り口にあたる場所に架けられていたかっていた交通上重要な橋であり、そのため公儀橋に指定されていました。

鯖江川が昭和5年から6年年にかけての寝屋川改修に伴って埋め立てられたため、野田橋もそれに伴って撤去されています。

備前島橋【公儀橋】

大川に架けられた橋(浪速三大橋)

大川は、毛馬で南へ分岐してた後、堂島川・安治川へと名を変えて大阪湾に注ぐ旧淀川本流です。淀川放水路が開削された明治40年(1907年)に旧川扱いとなっています。

中之島より上流が大川、中之島沿いが堂島川(及び南側の土佐堀川)、中之島より下流が安治川と言われます。

天満橋【公儀橋】

天満橋は、江戸時代に公儀橋に指定された浪華三大橋の1つです。

天満橋の南側に東西の町奉行所が置かれるなど(後に西町奉行所は本町橋の東北詰へ移転)、谷町筋から東側に様々な役所がおかれていました。

また、橋の北側には役所の倉庫や町与力の屋敷が並んでいたため、天満橋はこれらの役人の通勤経路や役所間の移動にも利用された、公の性格が強い橋でした。

明治18年(1885年)7月の大洪水によって流失したため、ドイツ製の鉄橋に架け替えられた後、昭和10年(1935年)にゲルバー式鋼桁橋に架け替えられました。

第2次世界大戦後の自動車交通の発達により交通上のボトルネックとなったため、昭和45年(1970年)高架橋が建設された後、平成元年(1989年)に旧橋部が改装され現在に至っています。

天神橋(1594年架橋【公儀橋】)

天神橋は、文禄3年(1594年)に架けられたと伝えられる橋であり、当初は橋名は付されておらず、単に新橋と呼ばれていたのですが、天満天神社が管理することから後に天神橋と呼ばれるようになりました。

寛永11年(1634年)に江戸幕府によって管理される公儀橋となり、西の難波橋・東の天満橋と合わせて浪華三大橋と称されました。

天神橋は、淀川に大洪水が起こるたびに流失するなどしていたため、幾度となく木橋にて架け替えられてきたのですが、明治21年(1888年)7月の流失後にドイツから輸入した鉄橋(トラス橋)が架けられました。

その後、昭和9年(1934年)の松屋町筋の拡幅に合わせて、ほぼ現在の形である219.7mの3連アーチ橋の構造となりました。

難波橋【公儀橋】

難波橋は、幕府直轄の公儀橋であり、天満橋・天神橋と並ぶ浪華三大橋に数えられていました。

難波橋は、浪華三大橋のうちでは最古かつ最大の橋であり、長さ128間(約230m)・幅3間(約5.4m)を誇り、大川・堂島川・土佐堀川は、米や物産品を積載した船の往来が盛んであったため、帆柱がつかえないよう、中央を高くしたアーチ橋(反橋)とされました。

なお、現在の難波橋は堺筋の北端に架けられていますが、当時は1本西の筋である難波橋筋に架けられており、堺筋が拡張と市電敷設のために大正4年(1915年)に鋼製の橋に架け替えらえています。

現在の難波橋は、昭和47年(1972年)に架け替えられたものなのですが、難波橋の四隅には架け替え前に倣ってライオンの石像が設置されています。

このライオン像の設置理由は資料が残っていため明らかとなっておりません(ヨーロッパにはライオン像が設置された橋が多いためにそれに倣ったとか、天王寺動物園開園の際の宣伝目的であったなどいう様々な説があります。)

曽根崎川に架けられた橋(蜆川十橋)

曽根崎川は、かつて堂島川から分かれて東西に流れていた川であり、俗に蜆川とも呼ばれました。

貞享・元禄年間に河村瑞賢によって改修され、貞享2年(1685年)に左岸(南側)に堂島新地が、宝永5年(1708年)に右岸(北側)に曽根崎新地が拓かれて一大歓楽街として発展し、多くの人々の動きのために曽根崎川には10本もの橋が架けられていました(蜆川十橋)。

繁栄を続けていた曽根崎川周辺ですが、明治42年(1909年)7月31日、空心町から出火した火が強風に煽られて西側に延焼して一昼夜燃え続け、20町・37万坪・1万戸以上を焼失して福島まで延焼して鎮火するという被害をもたらします(キタの大火)。

このときの大火で燃えた家屋の瓦礫によって曽根崎川の上流域が埋まり、また大正13年(1924年)までに下流域も埋め立てられたため曽根崎川は失われてしまいました。

難波小橋

難波小橋は、蜆橋の次に架けられた蜆川2番目の橋です。

河村瑞賢が開発を始める前の延宝9年(1681年)頃には既に存在していました。

蜆橋

蜆橋は、蜆川に最初にかけられた橋であり、河村瑞賢が開発を始める前の明暦3年(1657年)頃には既に存在していました。

文久3年(1863年)年6月3日に、当時の新撰組筆頭局長であった芹沢鴨が小野川部屋の力士の集団とかち合ってトラブルとなった現場の橋としても有名です。

曽根崎橋

桜橋

助成橋

緑橋

梅田橋

梅田橋は、河村瑞賢が開発を始めた直後の元禄年間初期(1690年頃?)に架けられた橋です。

北側にあった梅田墓への参道として古くに架けられた橋であり、浄瑠璃などではあの世に繋がる象徴として描かれることがありました。

曽根崎心中でお初がいた茶屋の近くにあった橋であり、お初が徳兵衛との心中のために天神の森に向かう際にまず渡った橋でもあります。

浄正橋

汐津橋

汐津橋は、河村瑞賢が開発を始めた直後の元禄年間初期(1690年頃?)に架けられた橋です。

堂島小橋

堂島川に架けられた橋

堂島川は、元々は北側にある蜆川及びその中間にある堂島の大部分を流域とする川幅の広い川でした。

そのため、貞享年間に埋め立てによる堂島の拡張がなされて川幅が狭められるまで堂島川に橋は架けられていませんでした。

その後、整えられた川幅に元禄期に5つの橋(大江橋・渡辺橋・田蓑橋・堀江橋・船津橋)が架かけられたことを始まりとしてその整備が進められていきました。

鉾流橋(1918年架橋)

鉾流橋は、大正7年(1918年)に、中之島近辺の整備(大阪控訴院・中央公会堂・大阪市庁舎等)の一環として架けられた橋です。

橋の名称は、天神祭の宵宮に際して神鉾を川に流す行事である「鉾流しの神事」にちなんで付されました(現在も、同神事は鉾流橋のたもとで行われています。)。

その後、昭和4年(1929年)に架け替えがなされ、高欄・照明灯・親柱などが付されたのですが、第2時世界大戦の金属供出などによって一旦は高欄・照明灯が失われたのですが、昭和55年(1980年)に再整備がなされ現在に至っています。

水晶橋(1929年架橋)

水晶橋は、元々は昭和4年(1929年)3月に完成した、堂島川の水質改善を目的として建設された可動堰です。

昭和57年(1982年)に橋面の改装が行われて法律上の橋となり、現在は歩行者専用橋として機能しています。

大江橋(元禄年間架橋)

大江橋橋は、元禄年間に堂島開発の一環として堂島川に架けられた5つの橋(大江橋・渡辺橋・田蓑橋・堀江橋・船津橋)の1つです。

大江橋は、明治42年(1909年)に発生した大阪市北区の一帯の大火災(北の大火)で焼失した後、翌明治43年(1910年)に幅員幅員12間の鋼鈑桁橋に架け替えられ、大阪市電南北線支線が開通しています。

その後、第一次大阪都市計画事業の一環としての御堂筋の拡幅工事に伴い、昭和10年(1935年)に架け替えが行われ、現在に至っています。

渡辺橋(元禄年間架橋)

渡辺橋は、元禄年間に堂島開発の一環として堂島川に架けられた5つの橋(大江橋・渡辺橋・田蓑橋・堀江橋・船津橋)の1つです。

その名称は、渡辺津にちなんで付されたと考えられています。

明治18年(1885年)の淀川大洪水によって当時の渡辺橋が流失したため、明治21年(1888年)にイギリスから輸入された鉄橋に架け替えられました。

その後、大阪市電南北線建設のために明治41年(1908年)に、第一次都市計画事業による道路の拡幅のために昭和2年(1927年)に、地下鉄四つ橋線建設と高潮対策のために昭和41年(1966年)にそれぞれ架け替えられ現在に至っています。

田蓑橋(1693年架橋)

田蓑橋は、元禄6年(1693年)、堂島開発の一環として堂島川に架けられた5つの橋(大江橋・渡辺橋・田蓑橋・堀江橋・船津橋)の1つです。

架橋当初の田蓑橋は、長さ46間半9寸5歩(約91.9m)・幅員2間8寸(約4.2m)の木造橋でした。

難波八十島の1つである田蓑島(たみののしま)にちなんで橋名が付されたと考えられています(もっとも、架橋地点が田蓑島に該当しているのかは不明です。)。

その後、田蓑橋は、明治18年(1885年)に発生した洪水により流失し、一旦は木桁橋で復旧された後、明治34年(1901年)に鉄柱橋として、その後、昭和4年(1929年)に鉄筋コンクリート柱橋として改築されました。

その後、昭和39年(1964年)に鋼床版桁橋に架け替えられ現在に至っています。

堀江橋・玉江橋(元禄年間架橋)

堀江橋は、元禄6年(1693年)、堂島開発の一環として堂島川に架けられた5つの橋(大江橋・渡辺橋・田蓑橋・堀江橋・船津橋)の1つです。

当初は堀江橋と称されていたのですが、元禄11年(1698年)に堀江新地の開発に伴って堀江川に同名の橋が架橋されたことから、混乱を避けるために玉江橋に改称されました。

玉江橋は、明治18年(1885年)に発生した洪水により流失し、一旦は復旧されたのですが、明治42年(1909年)に発生した大阪市北区の一帯の大火災(北の大火)で焼失します。

その後、昭和4年(1929年)9月に上流側の橋が架け替えられ、昭和44年(1969年)に高潮対策によるかさ上げと幅員13mへの拡張工事が行われ、同時に下流側の橋が架橋されました。

そして、平成3年(1991年)に改装工事が行われて現在に至っています。

船津橋(元禄中期以降架橋)

船津橋は、元禄中期以降に堂島開発の一環として堂島川に架けられた5つの橋(大江橋・渡辺橋・田蓑橋・堀江橋・船津橋)の1つです。

北詰が中洲としての堂島ではない唯一の橋であり、当初は湊橋と対になる位置に架けられていました。

その後、中之島西端(下福島村・野田村へ至る道)へ架け替えられ、その大きさは、長さ四三間半一尺(約86m)・幅員二間(約3.9m)でした。

船津橋は、明治18年(1885年)に発生した洪水により流失し、一旦は復旧されたのですが、大阪市電西野田線の建設に伴って大正3年(1914年)にやや下流側に鋼桁橋として新橋が架橋されました(同橋は昭和20年代まで残存し、撤去されるまで新船津橋と呼ばれていました。)。

その後、地盤沈下及び高潮への対策として橋梁の嵩上げ工事が行われることとなり、昭和38年(1963年)に橋の架け替えがなされ現在に至っています。

土佐堀川に架けられた橋

土佐堀川(とさぼりがわ)は、旧淀川(大川・堂島川・安治川)の分流の一つであり、中之島の東端で旧淀川から分岐したのち、中之島の西端で旧淀川に再び合流する流れとなっています。

川の名は、豊臣秀吉が大坂城を築城した際に土佐の長宗我部家が、土佐商人が商いをする土佐座が設けたことによるといわれています(徳川時代には土佐藩主となった山内家がこれを引き継いでいます。)。

栴檀木橋(江戸時代初期架橋)

栴檀木橋(せんだんのきばし)は、江戸時代初期に、船場と蔵屋敷が立ち並ぶ中之島とを行き来するために架けられた橋と考えられています。

橋筋に栴檀の大木があったことからその名が付けられました。

明治18年(1885年)に発生した淀川大洪水により流され喪失しましたが、大正3年(1914年)に再建され、また昭和10年(1935年)の架け替えを経て昭和60年(1985年)に最終的な架け替えがなされて現在に至っています。

淀屋橋

淀屋橋は、江戸時代に橋の南西に居を構えていた豪商の淀屋が、米市での利便を図るために架橋した橋です。なお、当初、淀屋橋の南詰で行われていた米市が、元禄10年(1697年)に堂島に移っています。

淀屋が架橋したために淀屋橋と言われました。

その後、淀屋橋は、明治18年(1885年)の大洪水によって流失した後、明治44年(1911年)に幅員12間の鋼鈑桁橋に架け替えられ、翌明治45年(1912年)には大阪市電堺筋線が開通しています。

その後、昭和10年(1935年)に現在の橋に架け替えられています。

土佐堀川可動堰・錦橋(1931年架橋)

錦橋は、昭和6年(1931年)に設置された可動堰であり、土佐堀川可動堰とも呼ばれた大阪市内6カ所(堂島川・土佐堀川・長堀川・道頓堀川・江戸堀川・京町堀川)に設置されてた可動堰の1つです。

中央の2径間は支間約15mの鉄筋コンクリートアーチで、かつては内部にテンターゲート・ローラーゲートが備わっていました。

両側はコンクリートアーチで、上路へアクセスするための階段と一体構造になっており、設置当初から歩行者専用橋として利用されました。

昭和53年(1978年)に使用が停止された後は歩行者専用橋としてその遺構が残され、その後の昭和60年(1985年)に行われた橋面の美化改修に際し、新たに「錦橋」の名称がつけられました。

肥後橋

肥後橋(ひごばし)は、西横堀川東岸の横堀筋北端から中之島に架けられた橋です。

肥後橋の北詰に肥後熊本藩の蔵屋敷があったことからその名が付けられました(なお、熊本藩蔵屋敷は、元禄期に中之島西部の越中藩北詰に移転したのですが、橋名はそのまま残りました。)。

その後、明治18年(1885年)の淀川大洪水での流出した後、明治21年(1888年)に渡辺橋と対になる現在の位置に移転して鉄橋としての架け替えを経て、大正15年(1926年)の第一次都市計画事業の際に、中央部スパン27.0mの鋼アーチ、両側に橋台兼用のコンクリートアーチ橋として架け替えられました。

そして、昭和41年(1966年)に大阪市営地下鉄四つ橋線建設に伴って現在の橋に架けられ、平成15年(2003年)に橋面と高欄部の改修が行われて現在に至っています。

筑前橋(江戸時代初期架橋)

筑前橋は、江戸時代初期に、現在同橋がある地点より一筋上流に、北側にあった筑前福岡藩の黒田家蔵屋敷の交通の便宜を図るために架けられた私設橋です。

筑前黒田家によって架けられたためにその名(筑前殿橋とも)が付されました。

明治初期に現在の場所である田蓑橋と対になる場所に架け替えられた後、明治18年(1885年)の淀川大洪水での流出後の木造再建を経て、昭和7年(1932年)に汽車製造株式会社の施工により架け替えられ、現在に至っています。

常安橋(田辺屋橋)

常安橋(じょうあんばし)は、中之島の開発に尽力した大坂の豪商・淀屋常安にちなんで名づけられた橋です。なお、常安橋南詰で営業していた現在の田辺三菱製薬創業者である田邊屋五兵衛にちなんで田辺屋橋とも俗称されました。

また、常安橋の北詰は、淀屋常安請所となっていたため、後に常安町・常安裏町という町名が付されました。

昭和4年(1929年)に上流側の架橋がなされ、また昭和44年には下流側の架橋もなされて現在に至っています。

越中橋(1657年より前に架橋)

越中橋(えっちゅうばし)は、北側にあった肥後藩蔵屋敷・阿波藩蔵屋敷付近と、南側にあった薩摩藩蔵屋敷付近とを結ぶ橋です。

架橋時期は明らかとなっていませんが、明暦3年(1657年)の絵図に記載されているため、遅くとも同年以前に架橋された橋です。

現在架かる橋は、昭和4年(1929年)に架けられたもので、昭和39年(1964年)高潮対策としてかさ上げがなされ現在に至っています。

土佐堀橋(1921年架橋)

土佐堀橋は、大正10年(1921年)、大阪市電桜川中之島線敷設のために架設された橋であり、昭和44年(1969年)に改修されています。

湊橋(貞享年間ころ架橋)

元禄時代に堂島と中之島の間に次々と五つの橋が架けられたころに中之島西端部に新しい築地が造られました。

湊橋が、「南は土佐堀2丁目、北は潮屋六左衛門と、湊橋町の街に渉る。このところは中之島の西のはしにあたる。貞享年間に公の命令によって島崎に築地をし、町屋と市店を建て、新しく湊橋町・湊橋ができた」(摂陽群談)と記載され、また元禄4年(1691年)の絵図に描かれていることから、貞享年間ころに架けられたと考えられています。

その後、昭和15年(1940年)、上船津橋と直線でつながる位置に長さ約88.5m・幅員は11.2mの三径間のゲルバー式鋼鈑桁構造の橋に架け替えられました。

そして、昭和57年(1982年)、都市計画道路尼崎堺線の拡幅工事によって、幅員約17mの橋が両側に架かり中央に高架の阪神高速道路大阪神戸線と一体となる基礎構造の橋に架け替えられて現在に至っています。

橋建蔵橋(明治時代架橋)

江戸時代の中之島にはその西端に至るまで各藩の蔵屋敷が立ち並んでいたため、西端部は端建蔵と呼ばれていました。

明治時代に入った後、この端建蔵の地に架橋された橋が端建蔵橋です。

橋脚が鉄柱で建てられていた橋建蔵橋は、明治18年(1885年)に起こった大洪水の際も残存しました。

その後 明治42年(1909年)に市電九条中之島線の開通に際して鋼桁橋に架け替えられ、その後、大正10年(1921年)にも再度架け替えがなされました。

第2次世界大戦後には、西大阪一帯の地盤沈下対策として堤防の嵩上げとともに橋の嵩上げ工事が行われ、その一環として端建蔵橋も昭和38年(1963年)に橋面の約2m持ち上げと橋体を軽くするためコンクリート床版から鋼床版に換えられ、さらに耐震性を増すために補助の橋台が造られています。

江戸堀川【1617年開削・1955年埋立】に架けられた橋

江戸堀川は、元和3年(1617年)、大坂夏の陣の後に大坂城主となった松平忠明の命によって大坂復興事業の一環として川端頼長・桔梗屋五郎右衛門・紀伊国屋藤左衛門らによって開削された堀川です。

昭和30年(1955年)9月に埋め立てによって失われています。

撞木橋

撞木橋(しゅもくばし)は、江戸堀川と西横堀川との合流点にT字型に架けられた橋です(構造としては、すぐ南東部の西横堀川に架けられた筋違橋の初期形状と同様です。)。

その形状が鐘や半鐘などを打ち鳴らす丁子形の棒である撞木に似ていることから、撞木になぞらえて撞木橋と呼ばれました。

現在は、跡地に往時を偲ぶ石碑が置かれいます。

江戸橋

犬斉橋

阿波殿橋

大目橋

大目橋(だいもくばし・おおめばし)は、江戸堀川を開削した川端家によって架けられた橋であり、川端家が法華経の信者であったことからその名が付けられ、題目橋とも記されました。

花乃井橋

江戸堀橋

西北橋

崎吉橋

京町堀川【1617年開削・1955年埋立】に架けられた橋

京町堀は、元和3年(1617年)、大坂の振興策として徳川家康によって伏見城下の京町から移住させられた商人によって開削された堀川です。

当初は伏見堀川とも呼ばれ、西端には大坂三大市場の1つである雑喉場市場がありました。

占領軍から靭飛行場の返還を受けてその跡地が公園として整備され、昭和30年(1955年)、その開園に合わせその北端を流れる京町堀川の埋め立てがなされました。

東上橋

伏見橋

羽子板橋

紀伊国橋

新難波橋

千秋橋

千両橋

両国橋

茂左衛門橋

海部堀川【1624年開削・1951年埋立】に架けられた橋

海部堀川(かいふぼりがわ)は、元和8年(1622年)に北浜から干物海産物市場の一部が靭に移転してきたことから、寛永元年(1624年)、これらの荷上げの便宜のために商人達によって開削された運河です。

そのため、海部堀川沿いには海産物を扱う問屋街が形成されましました。

阿波堀川と海部堀川とを繋ぐ永代堀の屈曲点を永代浜(江戸幕府から永代使用許可を得たことに由来して名付けられました。)といい、海産物の荷揚げ浜として栄えました。

その後、昭和6年(1931年)に大阪市福島区に中央卸売市場が開設されたために靭海産物海部組合市場が閉鎖されて永代浜が使われなくなり、また役目を終えた海部堀川近辺は占領軍に接収されて飛行場として利用され、堀川も同時に埋め立てられました(昭和26年/1951年埋立完了)。

門樋橋

永代橋

上之橋

中之橋

下乃橋

阿波堀川【1600年開削・1956年埋立】に架けられた橋

阿波堀川は、慶長5年(1600年)に、下船場で最初に開削された運河です。

占領軍から靭飛行場の返還を受けてその跡地が公園として整備され、昭和31年(1956年)、その開園に合わせその南端を流れる阿波堀川の埋め立てがなされました。

阿波堀橋(幸橋)

靱橋

花屋橋(新橋)

奈良屋橋(下奈良屋橋)

太郎助橋

松栄橋

岡崎橋

豊橋

薩摩堀川【1630年開削・1951年埋立】に架けられた橋

鳴門橋

薩摩橋

広教橋

中筋橋

島津橋

江東橋

立売堀川【1626年開削・1956年埋立】に架けられた橋

立売堀川は、元和6年(1620年)に開削工事が始まり、その後の一時中断を経て、宍喰屋次郎右衛門によって寛永3年(1626年)に完成された開削運河です。

大坂の陣の際に、伊達家が布陣した場所から伊達堀川と名付けられたのですが、「だて」を「いたち」と誤読したことに由来して「いたちほりかわ」と呼ばれるようになり、その後に立売御免の材木市が開かれる場所となったことから「立売」の字があてられるようになりました。

その後、立売堀川は、昭和31年(1956年)に埋め立てられています。

新一橋

阿古島橋

槌橋

明治橋

阿波橋

立売堀

宍喰屋橋

西仁橋

髙橋

長堀川【1622年開削・1971年埋立】に架けられた橋

長堀川(ながほりがわ)は、元和8年(1622年)、伏見から移住してきた有力町人である三栖清兵衛、池田屋次郎兵衛、伊丹屋平右衛門、岡田新三らにより、元々あった小河川を拡張する形で開削されたと言われています(浪華長堀心斎橋記)。なお、西長堀川の区間は同年より前に完成していたと考えられています。

その規模は、東横堀川の末吉橋から分流して西に向かって流れ、木津川伯楽橋下流に注ぐ長さ約2.5km・幅約30~40mというものでした。

最上流部付近では、船場側となる長堀橋本町に平野七名家の筆頭であった末吉孫左衛門たの別邸があり、島之内側となる長堀茂左衛門町には大坂銅吹屋筆頭であった泉屋が本店を構えていました。

また、西長堀川の区間には土佐藩や阿波藩などの材木には問屋が多く立ち並び、鰹座橋付近には土佐藩蔵屋敷が置かれました。

昭和35年(1960年)より長堀川埋め立てが始まり、昭和46年(1971年)には完全に陸地化してその機能が失われました。

安綿橋

安綿橋(やすわたばし)は、南組の総年寄・安井九兵衛と綿屋某が協力して架けられた橋です。

長堀川の最上流に架けられた橋として利用された後、長堀川の埋め立てにより昭和39年(1964年)に役目を終えて失われています。

新橋(板屋橋)

新橋は、長堀川の上流から2本目の橋であり、元禄期に新橋と呼ばれていた橋なのですが、幕末頃には板屋橋と言われていました。

その後、、昭和35年(1960年)から始まった長堀川の埋め立てによりその役目を終えた新橋(板屋橋)は、昭和39年(1964年)に役目を終えて失われています。

長堀橋(1625年架橋【公儀橋】)

長堀橋(ながほりばし)は、寛永2年(1625年)に架けられた橋であり、紀州街道の一部を構成する街道筋である堺筋に架けられた橋という重要性から公儀橋に指定されました。

元禄期の長堀橋の構造は長さ18間6寸(約35.6m)・幅3間(約5.9m)であり、江戸期後記では橋台の背後地を含め長さ21間6寸(約43.2m)とされていました。

明治10年(1877年)の鉄橋への架け替えを経て、明治45年(1912年)に大坂市電堺筋線敷設工事に伴って本格的な近代橋となりました(有効幅員21.6mの3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋)。

その後、昭和35年(1960年)から始まった長堀川の埋め立てによりその役目を終えた長堀橋は、昭和38年(1963年)に撤去されています。

藤中橋

中橋

三休橋

心斎橋(1622年)

心斎橋は、元和8年(1622年)の長堀川開削と同時に、岡田心斎ら4人の商人の協力により架けられた橋といわれています(心斎系譜)。

当時の心斎橋は、長さ18間(約35m)・幅2間半(約4m)の木橋でした。

明治6年(1873年)3月には、ドイツから輸入された鉄製アーチ橋(橋長約37.1m・幅約5.2m)に架け替えられました。なお、このとき導入された鉄橋は、日本全国で5橋目・大阪で2橋目の鉄橋という当時としてもかなり初期の貴重な橋でした。このとき架けられた鉄橋の心斎橋は、その後に境川橋(明治41年/1908年)→新千舟橋(昭和3年/1928年)→すずかけばし(昭和48年/1973年)へと代用された後、平成元年(1989年)以降はボウストリングトラス桁の主構を転用して現在の大阪市鶴見区内に存する緑地西橋として使用される形で現存しています(日本最古の現存鉄橋なのですが、橋床にあたる部分には鋼桁橋が架かっているため、トラス桁が橋床を支える構造とはなっていません。)。

その後、明治41年(1908年)に石造りのアーチ橋に架けられた後、昭和37年(1962年)に長堀川が埋め立てられたことにより役目を終えた心斎橋も撤去されることとなり、昭和39年(1964年)には心斎橋があった場所に石造りの陸橋が造られました。

その後、平成年間のクリスタ長堀の建設にあわせて石造りの陸橋も撤去されたのですが、心斎橋跡地の横断歩道・中央分離帯に前記石造りの陸橋横断歩道の石材を利用した欄干などが配置されています。

新橋

佐野屋橋

炭屋橋(四つ橋の東側橋)

吉野屋橋(四つ橋の西側橋)

西長堀橋

宇和島橋

西大橋

富田屋橋

問屋橋(上白髪橋)

白髪橋(1615年ころ架橋)

慶長20年(1615年)大坂の陣で焼失した大坂の町を復興するため、土佐藩が江戸幕府の許可を得て立売堀に材木市場(長堀材木座)を開きました。

そして、土佐藩は、そのすぐそばに土佐藩邸を建て、長堀川の水運を利用して土佐藩で伐採した材木を大坂に運んできました。

このとき、土佐藩の白髪山で伐採された材木が大量に運ばれてきて、この付近で荷揚げされたことにちなみ、同地に架けられた橋が白髪橋と名付けられました。

新鰹座橋

鰹座橋

鰹座橋は、前記のとおりすぐ近くにあった土佐藩邸を頼りとして土佐の鰹節商人が集まったことにちなんで名付けられました。

玉造橋

洲崎橋

堀江川【1698年開削・1960年埋立】に架けられた橋

堀江川は、堀江新地開発に際し、河村瑞賢の手により、西横堀川の清水橋下流側より分流して西に向かって流れ木津川に注ぐ構造で開削された長さ約1.3kmの運河です。

堀江川沿いには藍玉屋(阿波産・西成郡難波村産の藍玉が使われました)が多く立地し、大正時代までは藍商人が多く見られました。

その後、堀江川は、昭和35年(1960年)に埋め立てられています。

堀江橋

浪速江橋

隆平橋

賑江橋

高台橋

阪栄橋

瓶橋

黒金橋

水分橋

道頓堀川【1615年開削】に架けられた橋

道頓堀川は、大坂城築城の際に開削された東横堀川と、西側にある木津川とを結ぶための東西水路として慶長17年(1612年)から大坂の豪商であった安井道頓によって開削が始まりました。

安井道頓が道頓堀完成前に死去すると、徒弟であった安井道卜が工事を引き継ぎ、元和元年(1615年)に完成し、江戸時代には10本の橋が架けられました。

当初は南堀と呼ばれた堀は、後に安井道頓の功績を称えて道頓堀と呼ばれるようになりました。

なお、道頓堀川の東側沿岸部は早くから開けたのですが、西側の本格的な開発の開始は元禄時代末期から始まり、その後の堀江一帯の開発にともなって住吉橋・幸橋・汐見橋・日吉橋の4橋が架けられていきました。

中橋(下大和橋)

かつて、現在下大和橋が架かっている辺りに大和橋と中橋という2つの木橋が架けられていたのですが、宝暦年間に大和橋が廃された後、道頓堀川に注ぐ直前の東横堀川に上大和橋が架けられたたため、残された中橋を下大和橋と改めました。

江戸期を通じて、下大和橋の周囲は舟宿街として賑わい,近松門左衛門の戯曲「生玉心中」の舞台にもなっています。

その後、昭和3年(1928年)架け替えがなされた後,昭和62年(1987年)に再び架け替えがなされ現在に至っています。

日本橋【公儀橋】

新中橋(相合橋・1680年代架橋)

新中橋は、1680年代に架けられた橋であり、架橋当初は「中橋」または「新中橋」と呼ばれていました。

その後、相合橋と名が改められたのですが、改名時期やその理由は不明です(当時は島之内の北側を流れていた長堀川の中橋と玉屋町筋で結ばれており、中橋と相い合う橋であることから相合橋と言われるようになったともいわれていますが正確なところは不明です。)。

他方、「縁切り橋」の別名もあり、明治期には男女の仲が切れるとの風評が立っていたことから遊女や婚礼の列などは相合橋を避けて通っていたと言われています。

その後、昭和37年(1962年)に現在の橋に架け替えられ、昭和58年(1983年)に拡幅して橋上に憩いの広場が設けられ、さらに平成16年(2004年)にはとんぼりリバーウォークの整備と併せて遊歩道へのアプローチ階段が設置されて現在に至っています。

太右ヱ門橋

太左衛門橋(たざえもんばし)は、寛永3年(1626年)に道頓堀の南側に芝居と遊郭が公許されたことにより京から進出してきた興行師・大坂太左衛門らが東南角で歌舞伎の小屋を開いたことに由来して架けられ名付けられた木橋です。

架橋時期や当初の規模は不明ですが、前記経緯から、芝居小屋などへの通路のために江戸初期に架けられたものと推定されます。

太左衛門橋は、昭和期も狭い木橋のままだったのですが、大阪大空襲の際に焼失を経て、戦後に地元の人々によって復旧されました。

その後、昭和33年(1958年)に3径間連続の合成桁という実験的な橋に架け替えられたのですが、近年の道頓堀川の水辺整備に合わせて木を基調とする歴史的な意匠を取り入れた橋となりました。

戎橋(1615年架橋)

戎橋は、道頓堀川開削と同時に架けられた橋であり、南側にある今宮戎神社の参道となる橋であったためにその名が付けられたと言われています(元禄時代には、近くに人形浄瑠璃の芝居小屋があったために「操橋」とも呼ばれていました。)。

その後、明治11年(1878年)と、大正14年(1925年)、平成19年(2007年)にそれぞれ架け替えがなされ現在に至っています。

道頓堀橋(1936年架橋)

道頓堀橋は、御堂筋の拡幅に伴って新設・架け替えがなされた4つの橋の1つであり、昭和11年(1936年)に架けられ、現在に至る橋です。

新戎橋(1893年3月架橋)

新戎橋(しんえびすばし)は、明治26年(1893年)3月、久左衛門町と九朗右衛門町を結ぶために架けられた長さ130尺(約39.4m)・幅20尺(約6.1m)の木橋です。新蛭子橋とも言われました(大阪府誌)。

大正9年(1920年)にほぼ同規模の木橋への架け替え後、昭和17年には大規模補修が行われたが、戦災で焼失しました。

その後,昭和26年(1951年)に地元の協力により木造鉄骨(ヒノキ造りの朱色高欄)の橋が架橋された後、昭和38年(1963年)に3径間単純合成鈑桁橋にて架け替えられました。

その後,平成4年(1992年)に歩道設置ならびに橋面整備が行われ、平成20年(2008年)3月までに道頓堀川水辺整備事業に併せ改修工事(歩道拡幅、橋面整備、耐震対策、修景整備)が行われ現在に至っています。

大黒橋(なんば橋・1615年頃架橋)

大黒橋(だいこくばし)は、道頓堀川が開削された元和元年(1615年)から間もない時期に架けられた橋とされ、江戸時代初期の記録では長さ42.7m・幅員2.4mの木橋であったと言われています。

元々は、今宮戎神社の参道に由来する戎橋でした(現在大黒橋の上流に架かる新戎橋と道頓堀橋はいずれも近代以降の架橋です。)。

架橋当初は「なんば橋」または「下橋」と呼ばれ、木津大国神社(敷津松之宮)の参道に由来して「大黒橋」の名が使われるようになったのは元禄16年(1703年)発行の公私要覧が最初です。

昭和5年(1930年)には鉄筋コンクリートアーチ橋に架け替えられて1車線車道と両側歩道の構造となり、またその翌年には橋東側に河川浄化のために可動堰が設置され、その上部が歩行者専用道として利用されました。

その後、劣化や損傷等の老朽化・耐震性の問題により、平成25年(2013年)4月まで行われた道頓堀川水辺整備事業の遊歩道とんぼりリバーウォーク設置工事に合わせて鋼ポータルラーメン橋に架け替えられて現在に至っています。

深里橋(1908年架橋)

深里橋(ふかりばし)は、明治41年(1908年)、道頓堀川と西横堀川合流点のすぐ西側に大阪市電南北線の開通とともに架けられた長さ約54.5m・幅員15.5mの上部工鋼鈑桁の橋です。

その後、西横堀線の拡張に伴って、昭和5年(1930年)、長さ約53.2m・幅約23.7mの三径間のゲルバー式鋼鈑桁の橋に架け替えられ、現在に至っています。

浮庭橋(2008年12月架橋)

浮庭橋(うきにわばし)は、平成20年(2008年)12月20日に架けられた人道橋です。

デザインコンペにより採用された「浮かぶはらっぱ」をコンセプトに設計され、両岸の主塔からケーブルワイヤで鋼床板を吊る構造になっています。また、橋上は芝生や植栽、橋桁はツタにて緑化され、通行だけでなく憩いの場としても用いられています。

住吉橋

西道頓堀橋

幸橋

汐見橋

日吉橋

安治川【1684年開削】に架けられた橋

安治川は、洪水が頻発していた淀川河口部の治水対策として、貞享元年(1684年)、幕命によりかつて九条島と呼ばれた島を開削して造られた運河です。開削者が河村瑞賢安治であったことから、その名をとって安治川と名付けられました。

なお、安治川によって分断された九条島の西側は西九条村となり、後にそこに建てられたのが現在の西九条駅です。

安治川橋(1698年架橋)

開削された安治川の両岸には、富島や古川の新地開発が進められ、それによって増加した人々の通行に供するため、元禄11年(1698年)に本田と富島の間に橋が架設され、安治川橋と呼ばれました。

安治川橋は、淀川河口部に位置していたために外海と市中を航行する川の境にあったため、外海から入ってくる船の帆柱が引っかからないようにするため橋桁の中央を高くするアーチ橋(反橋)とされました。

その後、安治川橋は、明治初期に橋桁が旋回する可動式の橋に架け替えられたのですが、明治18年(1885年)の大洪水の際に洪水を誘発する危険があるとして爆破撤去されました。

天満堀川【1598年開削・1838年延伸】に架けられた橋

天満堀川は、慶長3年(1598年)に完成した堀割(運河)であり、当初は現在の大平橋跡石碑が建つ場所から扇町公園の辺りまで水を引き込む構造となっていました。なお、大川が増水した際には逆流を防ぐために大川口に樋門が設けられていました。

開削当初の天満堀川は大川から北に向かって伸び、扇町で堀止となっていたのですが、天保9年(1838年)にそこから北東方向に「く」の字形で延伸されました。

江戸後期頃には川筋を中心として、造り酒屋や乾物問屋などが軒を連ね、雁木と呼ばれる荷揚場において運搬船と荷車との積み替えが行われて市中・全国との流通が行われ、南側(下流)から順に太平橋・樋之上橋・菅原橋・樽屋橋・天神小橋・堀河橋・溝側橋・寺町橋・綿屋橋・梅ヶ枝橋・扇橋・夫婦橋・北辰橋・長江橋・樋之口橋などが架けられていました。

その後、昭和47年(1972年)に天満堀川の埋め立てが行われて道路となり、架けられていた橋も失われています。

太平橋(門樋橋)

太平橋は、大川から天満堀川への分岐水門近くに架けられていた橋です。

その立地から、1600年代後半までは門樋橋と呼ばれていたのですが、1700年代ころから太平橋と呼ばれるようになりました。

樋之上橋

大平橋のすぐ北側に架けられていた橋が樋之上橋です。

大正時代初期に堺筋の市電開通があり、それに伴って道路拡張と新たに菅原橋が架けられたことにより樋之上橋は役目を終えて解体されました。

菅原橋

樽屋橋

樽屋橋は、天満堀川の同橋付近沿岸部に在木商仲間のうち酒樽や醤油樽を作る材料を卸す店が多く店を連ねていたことからこの名が付けられました。

天神小橋

堀河橋

溝側橋

寺町橋

綿屋橋

梅ヶ枝橋

扇橋

夫婦橋(1838年架橋)

夫婦橋は、天保9年(1838年)の天満堀川延伸(南北方向に延びていた天満堀川が、扇町で北東方向に延伸されました)に際して架けられた橋であり、天満堀川と天神橋筋との交差位置に架けられていました。

天満堀川延伸に際して埋め立てられた女夫池からその名が付けられました

その後、昭和4年(1929年)に一径間鋼鈑桁の近代橋に代えられたのですが、昭和47年(1972年)の天満堀川の埋め立てにより失われています。

北辰橋

長江橋

樋之口橋

東横堀川【1585年開削】に架けられた橋

東横堀川は、天正11年(1583年)から始まった大坂城築城に要する資材の運搬路とするために開削された運河であり、大坂城築城後は西側外堀の役目を果たしました。

豊臣秀吉が大坂城を築城する前は、東横堀川が開削される前の同地周辺は、大坂本願寺(石山御坊)の寺内町として多くの町屋が立ち並んでいる区画でした。

もっとも、大坂城を築城した豊臣秀吉は、大坂城の西側の守りを固めるために、大坂城の二の丸の外側に曲輪を築いた後、さらにその周りに大名屋敷を配置して防御を固めました。

このとき、大名屋敷を配置するに際して邪魔になった町屋群は、東横堀川を挟んだ西側に、砂洲を埋め立てた土地を開発して(船場)、一斉にそこに移されたため、東横堀川は、大坂城の外堀の役目を担う川となりました。

その後、大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ後は、大坂城への登城ルートとしてなり、複数の公儀橋が架けられています。

なお、町屋が移された船場は、碁盤目状に整然と区割りがなされ、さらに周囲を川で囲まれることによる水運の利便性から商人の町として発展していきました。

霞屋橋(1784年ころ架橋)

霞屋橋は、天明4年(1784年)に霞屋庄七によって蟹島遊郭が開発されたことにより、そこに向かう通路として同時期に架橋されたと考えられる橋です。

橋の名は、霞屋庄七からとっています。

その後、文化元年(1804年)に架け替えがなされたのですが、葭屋橋付近の大川・東横堀の水の流れは複雑であったにもかかわらず通船数も多かったために船が橋脚へ衝突する事故が多発していたことから、錦帯橋を模して途中に橋脚を設けない構造とされました。

その後、明治初期に斜張橋に架け替えを経て、明治末期の大阪市電北浜線の敷設事業によって土佐堀通が拡張されたことに伴い、明治44年(1911年)7月に再度の架け替えがなされた後、昭和41年(1966年)に現在の橋に架け替えられました。

なお、元々は霞屋橋と1本南側にある今橋とは完全に別構造の橋であったのですが、前記土佐堀通拡幅により両橋が接近し、現在は霞屋橋の南東袂が今橋の北東袂と親柱を共有する構造となっています。

今橋(慶長年間架橋)

今橋は、元々北側が河岸であり舟運による物資集積地として発展していた場所において、東横堀川開削された後まもなく架橋された町橋です。

東横堀川の対岸往来のために、「今あらたに架けた橋」ということでその名が付されました。

江戸時代には付近の町人によって管理され、町橋と言いつつも東詰で京街道に接続する元禄期には橋長75.8m・幅員5.5mを誇る巨大な木橋となっていました。

なお、今橋から西に向かって伸びる今橋通りは、江戸時代中期頃から両替屋が軒を並べる金融の中心街として発展しています。

大正13年(1924年)に近代橋に架け替えを経て、昭和40年(1965年)の阪神高速1号環状線開通に伴って現在の形状に改修され、その後平成6年(1994年)に現在の橋に架け替えられています。

高麗橋(1585年ころ架橋【公儀橋】)

高麗橋は、東横堀川が開削された際に架けられた橋です。

朝鮮国使来朝のために架けられたことからその名が付けられたと言わています(東詰付近に難波高麗館が置かれていたことにちなんだとする説もあります。)。

東に大坂城を擁し京街道の起点となっていたことから、12あった公儀橋の中でも最も重要視された橋であり、橋の西側左右の屋敷には矢倉が設けられ、また橋の西詰には高札場が設けられ幕府の訓令が掲げられていました。

街道の起点となったことから橋から西へ伸びる高麗橋通りは、後に三越大阪店に発展した越後屋をはじめとする大商店が軒を連ね、大坂を代表する商店街となっていました。

明治3年(1870年)9月、大阪最初の鉄筋コンクリートアーチ橋(イギリス製)に架け替えられた後は「くろがね橋」と呼ばれました。なお、このときの欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した柱が現在も往時を偲ぶ面影として残されています。

また、明治時代には高麗橋東詰に里程元標が置かれ、西日本主要道路の距離計算の起点とされました。

その後、昭和4年(1929年)に鉄筋コンクリート製のアーチ橋に架け替えられて現在に至ります。

平野橋

平野橋(ひらのばし)は、架橋時期は不明ですが、東横堀川が開削後まもなく架けられたと考えられる橋です。当初架けられた木橋は、長さ約62m・幅約4.1mでした。

大塩平八郎の乱の際、大塩平八郎が船場の豪商屋敷を破壊して大坂城方面に向かう際に平野橋を渡り、東詰の内平野町で奉行所の兵と戦闘となっていることでも知られています。

その後、明治31年(1898年)に鉄橋に架け換えられ、第一次都市計画事業に基づいて昭和10年(1935年)に上路ランガー桁を採用した珍しい橋に架けられて現在に至っています。

思案橋(後の大手橋)

思案橋(しあんばし)は、東横堀川に架けられた大坂城正面の大手に通じる橋です(そのため、大正期以降に大手橋に改名されています。)。

大坂城と船場とを結ぶ場所に位置、橋の西詰が丁字路となっていたために北側の淡路町と南側の瓦町とのいずれに行くか迷ったためにその名が付けられたと言われています(豊臣秀吉から名を付すことを命じられた増田長盛がなかなか決められずに思案をしたことから名付けられたという説もあります。)

本町橋(1585年ころ?架橋【公儀橋】)

本町橋は、架橋時期は明らかとなっていないのですが、大坂冬の陣でも重要な戦いが行われていることから(本町橋の夜戦)、遅くともこのときまでには(おそらくは東横堀川開削後まもなく)架橋された橋です。

徳川治世となると、公儀橋として幕府による維持管理がなされるようになり、その東詰には油問屋、西詰には木綿問屋・呉服屋・古着屋が軒を連ねるなど、大坂で最も賑わう地域となりました。

本町橋は、享保9年(1724年)の大火(妙知焼け)で焼失した後で再建され、橋の北東側に西町奉行所が移転してきます。なお、江戸時代の東横堀川の川幅は現在よりも広く、そこに架かる本町橋も長さが約47.8mあり、幅員も約7.8mであったとされています(江戸時代後期には約5.9mに減少)。

その後、明治14年(1881年)までに鉄柱の木橋を経た後、大正2年(1913年)に市電を開通させるために道路を拡幅して鉄橋(三径間の2ヒンジアーチ橋)に架け替えられ、その後に昭和57年(1982年)に補修され現在に至っています。

なお、大正2年(1913年)に架けられたこの本町橋が、大阪市内に現存する最古の橋(現存する日本最古の鋼アーチ橋)となっています。

なお、かつての東横堀川は、本町橋の南で2回直角に折れ曲がっており、この場所は古くから「本町の曲がり」と呼ばれていました。

この本町の曲がりが出来た原因は、天正年間に豊臣秀吉が大坂城の外堀とするために東横堀川を開削をさせる際、予定地上にあった浄国寺を立ち退きさせることができず、やむなく川筋を曲げざるを得なかったためと言われています。

この本町の曲がりにより流水が岸にぶつかって渦を巻いたために水難事故が多く、また自殺目的でこの渦に身投げをする人が続出したため、本町の曲がりの西側にはその供養のための曲り渕地蔵尊が建立されています。なお、現在は、ゆるやかなS字カーブに造り直されていますので渦を見ることはできません。

農人橋(1600年以前架橋【公儀橋】)

農人橋(のうにんばし)は、当初の架橋時期は不明であり、慶長5年(1600年)以前に架けられた久太郎町橋を端緒とする橋です。

豊臣期に市街化していた東側から、田畑がある西側に移動する農民のために用いられた橋であるためにその名が付されたと言われています。

江戸時代になると、大坂城への直接の連絡口に位置するため、その重要性を考慮して公儀橋とされて江戸幕府におり管理されました(もっとも、日常の維持管理は周辺の町人に委ねられていました。)。

その後、明治時代半ばに鉄柱木橋に架け替えられた後、大正15年(1926年)の第一次大阪都市計画事業に際して鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け替えられました。

その後、昭和44年(1969年)、中央大通りの敷設に伴って再び架け替えられ、このときに東行き平面道路=上流側(北側)の橋も架橋されています。

久宝寺橋(豊臣期架橋)

久宝寺橋は、豊臣期には既に架けられていた橋であり、その名は近くにあった久宝寺という寺の名前に由来すると言われています(慶長17年/1612年から始まった道頓堀開削に際し、河内国の久宝寺村から移転してきた人が集落を形成したことに由来するとも言われます。)。

江戸時代の久宝寺橋は、長さ約42m・幅約3.6mの木橋であり、東側の材木浜では竹木の取引が盛んに行われ、西側は船場に繋がる上に道頓堀にも近いことから装身具などを扱う小間物商等が軒を連ねていました。

その後、昭和14年(1965年)に長さ41.5m・幅員12.6mの三径間ゲルバー式鉄筋コンクリート桁橋に架け替えられた後、昭和40年(1965年)の阪神高速1号環状線南行開通の際に南東袂で長堀入口への入路を南へ分岐する現在の形状に改修され、現在に至っています。

安堂寺橋

安堂寺橋(あんどうじばし)は、大坂と奈良を結ぶ暗越奈良街道に接続する道筋に江戸時代初期に架けられた大坂の東玄関となる橋でした。

橋の東詰は東堀の材木浜として材木や竹の取引が行われ、また西詰は南船場の安堂寺町につながる金物問屋や佐藤商が集まる町でした。

江戸時代中期に鉄柱で支える木桁端に架け替えられた後、大正3年(1914年)に鋼鈑桁橋に架け替えられました。

その後、昭和42年(1967年)に幅員6mの三径間の鋼鈑桁橋に架け替えられ、昭和49年(1974年)に両側に歩道が各1.5m拡幅されて現在に至っています。

末吉橋(孫左ヱ門橋)

末吉橋(すえよしばし)は、元々は江戸時代初期の豪商である末吉孫左衛門(橋の西詰には別邸を持っていました。)により架けられたと言われる木橋であり、孫左衛門橋とも呼ばれていました。

その後、何度かの架け替えを経て、明治43年(1910年)の大阪市電玉造線の敷設に伴い、鋼プレートガーター端に架け替えられました

そして、昭和2年(1927年)11月の第一次都市計画事業によって、現在の橋である長さ41.5mの鉄筋コンクリートアーチ橋に架け替えられました。

架け替え当初は幅約27.3mだったのですが、長堀川の埋め立てが完了した昭和46年(1971年)に長堀通の敷設に伴って約33.5mに拡幅されて現在に至っています。

九之助橋

九之助橋(くのすけばし)は、当初の架橋時期は不明ですが、慶長・万治年間(1648年~1660年)の絵図に記載されていることから、この時期以前に架けられた橋です。

橋名の由来は不明です。

九之助橋西詰北側には、寛永13年(1636年)に開設された当時日本最大の銅精錬所である住友長堀銅吹所がありました。

当時、日本は世界有数の銅産国であり、特に粗銅が集まった大坂には精錬所が集中し、当時はここで日本の総生産の3分の1を精錬するなど、同地付近は金属工業の町として栄えました。

昭和2年(1926年)に3径間鋼製アーチに架けかえられ、平成4年(1992年)に改修が行われて現在に至っています。

東堀橋(1936年架橋)

東堀橋(ひがしほりばし)は、昭和11年(1936年)、大阪市第一次都市計画事業に基づき周防町筋が市道堀江玉造線として貫通・拡幅整備された際に鋼製アーチ橋として架けられた橋です。

その後、平成6年(1994年)にレトロな雰囲気の道路照明灯などの改修・整備がなされ、現在に至っています。

瓦屋橋(元禄中期架橋)

瓦屋橋は、元禄時代中期に架けられた橋であり(新版摂津大坂東西南北町嶋之図・公私要覧)、同地が江戸時代に江戸幕府御用瓦師であった寺島藤右衛門が江戸幕府から瓦の土取場として借り受けた土地(約4万6000坪)であったことからその名が付けられました。

当初の橋は、長さ十九間二尺(約38.0m)、幅一間半二尺七寸五分(約3.8m)の木橋であり、約15年ごとに架け替えられていたと言われています(地方役手鑑)。

また、瓦屋橋の東詰一帯は南瓦屋町と呼ばれ、瓦屋橋付近は積み出し船の発着で賑わっていました。

近代橋になったのは昭和7年(1932年)10月であり、このときに長さ約37.7m・幅約6.5mの鋼桁橋に架け替えられました。

その後、昭和41年(1966年)に三径間になり橋脚に場所打杭基礎が用いられて強度が高められた後、昭和44年(1969年)に歩道部が拡幅され、全幅約9.0mとなって現在に至っていまする。

上大和橋(宝暦年間架橋)

上大和橋(かみやまとはし)は、東横堀川の最下流に架かる橋です(東堀橋川は、上大和橋の南側から直角に西へ曲がり道頓堀川となります。)。

橋名は、道頓堀川北岸の町名「道頓堀大和町」に由来しています。

元和元年(1615年)に道頓堀川が開削された後、同地が物資の集散地として荷車などが集まる場所となったことから、東横堀川西岸道路の延長上に大和橋が架けられたと伝わります。

そして、宝暦年間に大和橋が廃されて道頓堀川北岸道路の延長上に上大和橋が架けられました(なお、旧大和橋の下流側に架かっていた中橋が下大和橋に改称されています。)。

明治30年(1897年)頃の架け替えを経て、第一次都市計画事業の中の橋梁改築事業により大正14年(1925年)10月に長さ約35.8m、幅員約9.1mの三径間の単純鋼桁橋に架け替えられました。

その後、昭和40年(1965年)の阪神高速1号環状線南行き開通により頭上を効果で覆われると共に、道頓堀出口からの出路を設置するために橋の東側が約4.5m短縮されて現在に至っています。

西横堀川【1600年開削・1962年埋立】に架けられた橋

西横堀川は、慶長5年(1600年)に江戸時代初期に大坂北組惣年寄務めた材木商の永瀬七郎右衛門によって開削された運河です。開削者の名前から当初は七郎右衛門堀川とも呼ばれました。

その東岸は材木の集積地として賑わい、西横堀二十四浜と呼ばれました。

その後、南北水運の大動脈となった西横堀川から西に向かって以下の運河が開削されています。

①信濃橋下流側より阿波堀河開削(慶長5年・1600年)

②筋違橋上流側より江戸堀川開削(元和3年・1617年)

③京町橋下流側より京町堀川開削(元和3年・1617年)

④寛永2年(1625年)に四ツ橋において長堀川【元和8年(1622年)開削】と直交

⑤助右衛門橋上流側より立売堀河開削(寛永3年・1626年)

⑥木綿橋上流側より堀江川開削(元禄11年・1698年)

西国橋

船町橋

斉藤橋(後の尼崎橋)

筋違橋

筋違橋(すじかいばし)は、西横堀川を高麗橋筋から江戸堀1丁目にかけて筋違いに渡す形で架けられていた橋であり、橋名もそこから付されました。

江戸時代初期には、すぐ北西角部の江戸堀川に架かっていた撞木橋とともにT字形をした橋として存在していたとされるのですが、明暦3年(1657年)の古地図ではすでに2橋になっているため、T字形の橋としてはごく限られた時期存在していただけであったと考えられています。

昭和39年(1964年)の西横堀川の埋め立てによって筋違橋も失われたのですが、筋違自体は今も残されています。

呉服橋

京町橋

瓦町橋(後の新天満橋)

備後橋(後の相生橋)

安土橋(後の敷津橋)

安田橋(後の信濃橋)

江達橋

篠橋

助右ヱ門橋

新渡辺橋

新町橋(1672年架橋)

寛永4年(1627年)、立売堀川(北)・長堀川(南)・西横堀川(東)で囲まれた範囲の中に新しい町を造り、そこに大坂中に散在していた遊女屋が集約され新町遊郭が設置されました。

新町遊郭内の7町は溝渠と板塀で囲まれ、当初は出入口となる門は瓢箪町の西端に設置された西大門のみだったのですが、西側の出入口では市街地である東側からの通行に不便であるとして明暦3年(1657年)に瓢箪町の東端にも東大門が設置されました。

これに伴い、寛文12年(1672年)に市街地側(船場側)から新町遊郭への交通の便宜のために架けられた橋が新町橋です。なお、新町橋は、新町遊郭から市内側への唯一の通路のようになっていたことから、「ひょうたん橋」とも呼ばれました。

その後、明治5年(1872年)9月に、長さ12間(約21.8m)・幅2間余(約3.6m)の鋳鉄製構アーチの鉄橋に架け替えられたのですが、反りのきつい橋であったため明治8年(1875年)に改造がなされました。

その後、昭和2年(1927年)6月に都市計画事業によって鉄筋コンクリート製のアーチ橋に架け替えられた後、昭和46年(1971年)頃の西横堀川の埋め立てにより撤去されています。

上繫橋(四つ橋の北側橋)

上繁橋は、縁切橋と呼ばれており、明治中期頃までは夫婦やカップルで渡ると別れにつながるという噂がまことしやかに囁かれていました。

下繁橋(四つ橋の南側橋)

御池橋

清水橋

木綿橋

金屋橋(寛文年間架橋)

金屋橋は、寛文年間である1661年から1687年の間のいずれかの時期に、西横堀川最下流域に架けられた橋です(明暦期の絵図には描かれておらず、貞享4年/1687年の絵図には描かれているため)。

橋名は西道頓堀北岸あった町名に由来してその名が付けられました(なお、町名に従って釜屋橋とも呼ばれていました。)。

最後の橋は、昭和29年(1954年)に架けられたものであり、西横堀川上に阪神高速道路の建設が進められたために昭和39年ころから西横堀川が埋め立てられていったのですが、最下流にあった金屋橋だけは残されて現在に至っています。

百間堀川【1600年開削・1964年埋立】に架けられた橋

百間堀川(ひゃっけんぼりがわ)は、江戸時代に阿波堀川をはじめとして下船場(西船場)に次々と運河が開削されたのですが、これらの運河を木津川に流すために開削された全長約721.5m(当初は約569mであり、明和4年/1767年と安永8年/1779年にそれぞれ延伸)・幅約30mの運河です。

百間堀川の上流左岸の雑喉場町に大坂三大市場の1つである「雑喉場魚市場」があったことから、雑喉場川とも呼ばれていました。

百間堀川は、江戸堀川(1617年開削・1955年埋立)が木津川に合流する直前に南に向かって分流し、そこに阿波堀川(1600年開削・1956年埋立)から分かれた海部堀川(1624年開削・1951年埋立)が京町堀川(1617年開削・1955年埋立)に合流した直後、そろって合流する形状で作られた運河です。

その後、百間堀川には、阿波堀川、阿波堀川から分かれた薩摩堀川(1630年開削・1951年埋立)、立売堀川(1626年開削・1956年埋立)が合流した後、木津川に合流しています。

鷺島橋

雑喉場橋

江之子島橋

子島橋

江島橋

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