【源頼朝と北条政子の結婚】鎌倉幕府設立の契機となったカリスマの結婚

源氏のプリンス源頼朝は、平治の乱に敗れて伊豆国に流されたのですが、そこで北条政子と出会い、その力を借りて武家政権を樹立させていきます。

一見すると、伊豆国の土豪の娘が源氏の頭領に嫁ぐというシンデレラストーリーのように見えますが、実際には賢く嫉妬心の強い北条政子が、源頼朝の手綱を握りながら一緒に力をつけていくという成長物語です。

本稿では、そんな源頼朝と北条政子との結婚について、そこに至る経緯から順に説明していきたいと思います。

源頼朝と北条政子の出会い

北条政子の出自

北条政子は、保元2年(1157年)、伊豆国の土豪であった北条時政の長女として生まれました。

北条家は、平安時代末期に平時家が伊豆介となって伊豆国・北条に住み、北条氏を称したのに始まる平氏の家柄です(もっとも、北条時政以前の北条氏の系譜は、北条時政の祖父が北条時家・父が時方(または時家又は時兼)であるとされる以前は、家系図によって異なっているため、桓武平氏の流れであることを疑問視・否定視する研究者も少なくありません。)。

北条家は、小規模領主であったのですが、当時の交通の要所であった北条地区を所領としていたため、中央ともつながりを持つ地方豪族でした。

源頼朝の伊豆配流(1160年)

そして、この北条家が治める伊豆国に源頼朝が流されてきたことから時代が動き始めます。

京で貴族的な生活をしていた源頼朝が、前年に起こった平治の乱に敗れ、平治2年(1160年)、伊豆国に配流となったのです。源頼朝が14歳のころです。

平家の敵である罪人として流された源頼朝は、まずは、伊東家が治める伊豆国・伊東に入れられます(配流当初の伊東の地を治めていたのは伊東祐継だったのですが、間もなく病死したため、同地の当主は伊東祐親となります。)。

罪人とはいえ、源頼朝は、前年には右兵衛権佐に補任された武家貴族ですので、地方豪族に過ぎない伊東家としてもその扱いに苦慮します。

そこで、伊東家としては、源頼朝に「北の小御所」という建物を準備し、ある程度の行動の自由を与えます。

源頼朝が伊東祐親の監視下に(1160年)

罪人とされた源頼朝でしたが、ある程度の自由があったこと、またお年頃であったということもあって、事もあろうに、伊東祐親が上京している隙をついて、その娘である八重姫と通じ、男子・千鶴丸(千鶴御前)をもうけてしまいます。

京での任務を終えて伊豆国に戻った伊東祐親は、娘・八重姫が源頼朝の子を産んだことを知り驚愕します。

平家全盛の世の中で、娘が源氏頭領の息子の子を産むなど、平家に対する叛逆と見做されかねないからです。

こんなことが都にいる平家にバレたら伊東家が取り潰される可能性もあります。

そこで、伊東祐親は、家人に命じて3歳の千鶴丸を簀巻き(すまき)にして生きたまま轟ヶ淵(稚児ヶ淵)に沈めて殺した上、八重姫は江間次郎に再嫁させます。

さらに、伊東祐親は、安元元年(1175年)9月、源頼朝を討とうと立ち上がったのですが、伊東祐親の子である伊東祐清(源頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた伊藤祐親の次男)が源頼朝に危険を知らせて逃します。

命からがら逃げ出した源頼朝は、伊東祐親の娘婿である北条時政を頼ることとしました。

源頼朝が北条時政の監視下に(1175年)

このとき、北条時政は、逃れてきた源頼朝を匿うこととし、安元元年(1175年)9月ころ、当時、伊豆国・蛭ケ小島にあった北条義時の宿所を源頼朝に与え、そこを「東の小御所」と称して住まわせることとします。

そして、その後、伊東祐親が、源頼朝の身柄を北条時政の下に移すことで手打ちとしたため、源頼朝は九死に一生をえます。

源頼朝と北条政子との結婚

源頼朝と北条政子の恋仲(1176年3月)

北条家の監視下に入った源頼朝でしたが、悲しい事件があったにもかかわらず、全く懲りていませんでした。

源頼朝は、北条家でも女性に手を出そうとします。

もっとも、このときの対象者は、北条政子ではなく、「北条政子の妹」でした。

当時の結婚は、夫が妻の下に通う婚姻の形態である「妻問い」婚が当たり前でしたので、源頼朝は、恋文をしたためて、北条政子の妹の下へ届けさせようとします。

ところが、使者を務めた安達盛長が、この恋文を北条政子の妹ではなく、北条政子に届けてしまいます(曽我物語)。

恋文を受け取った北条政子は、地方土豪の娘が源氏の御曹司に見染められたと思ってのぼせ上がります。

なお、曽我物語では、阿波局(北条政子の妹であり、後の源頼朝の弟である阿野全成の妻)が日月を掌につかむ奇妙な夢を見たという話を北条政子にしたところ、北条政子がそれは禍をもたらす夢であるとして自分に売るようにこの勧め、源頼朝と結ばれたとされていますが、真実は不明です。

勘違いで始まった関係でしたが、安元2年(1176年)3月ころ、北条時政が大番役のために伊豆を離れ、在京している間に、源頼朝と北条政子とが恋仲になってしまいます。

北条時政による妨害工作

京での任務を終えて伊豆国に戻った北条時政は、娘・北条政子が源頼朝に入れ上げているのを見て驚愕します。

この事実が都にいる平家にバレたら北条家が取り潰される可能性もあります。

焦った北条時政は、源頼朝との交際を止めようとして、北条政子を幽閉します。

この辺りの対応は、伊東祐親と似ています。

ところが、北条政子(北条時政の娘)の腹の据わり方は、八重姫(伊東祐親の娘)のそれとは別物でした。

父の言いなりとなった八重姫とは異なり、北条政子は、父の命に背き、大雨の夜に幽閉先から逃亡して源頼朝の元へと駆け落ちしてしまいます。

なお、伊豆国への帰国中に、北条政子と源頼朝との関係を知った北条時政は、平家から裏切り者として処断されることを恐れ、直ちに北条政子を山木兼隆と結婚させようとしたのですが、これを嫌った北条政子が源頼朝と駆け落ちをして伊豆山権現に庇護されてしまったため、北条時政がやむなく北条政子と源頼朝との結婚を認めることとなったというエピソードが広く知られていますが(曽我物語・源平盛衰記など)、元罪人であった山木兼隆が伊豆に配流になる1年前の治承2年(1178年)7月14日に、源頼朝の長女・大姫が産まれていることからすると、山木兼隆と北条政子に婚姻話があったことは物語上の創作と考えるべきかと思われます。

源頼朝と北条政子との結婚(1177年頃)

北条政子の本気度を見た北条時政は、治承元年(1177年)の頃 、力づくで2人の仲を割くのは困難と判断し、しぶしぶ北条政子と源頼朝との結婚を認めます。

この背景としては、北条時政が、伊豆国で勢力を高めていくために、場合によっては源氏の頭領の名が役に立つかもしれないという打算もありました。

なお、源頼朝と結婚することとなった北条政子は、源頼朝との結婚時の年齢が21歳であり、12〜14歳で結婚することが当たり前であった当時の感覚からすると、相当の晩婚でした。

結婚後の源頼朝と北条政子

大姫出産(1178年)

源頼朝と北条政子との夫婦関係は良好で、北条政子は、治承2年(1178年)には、2人の間に長女・大姫が産まれます。

北条家の求心力低下(1180年6月)

北条時政は、源頼政と親しい関係にあり、伊豆国の知行国主でもあった源頼政の政治力を後ろ盾にしていたのですが、京で以仁王が反平家の挙兵をしたのですが失敗に終わり、以仁王と源頼政が敗死します。なお、治承4年(1180年) 4月27日、源頼朝の下に以仁王の令旨が届いていたのですが、力を持たない源頼朝は態度を保留にしていました。

源頼政の死亡により、同年6月29日、伊豆国の知行国主が、源頼政から平時忠に代わり、またその猶子である平時兼が伊豆守に任命されます。

そして、山木兼隆が伊豆目代(遙任国司が現地に私的に代官として派遣した家人などの代理人)に任命され、伊豆国に赴任して来ます。

この人事により、平氏の後ろ盾とし、また伊東氏や工藤氏とも協力して北条氏の勢力を取り込んでいきます。

北条氏ジリ貧です。

源頼朝挙兵(1180年8月17日)

苦しくなった北条時政は、治承4年(1180年)8月17日、源頼朝を神輿に担ぎ、伊豆目代・山木兼隆の邸を襲撃します。

これが、源頼朝にとっての反平家の挙兵であり、ここから源頼朝の快進撃が始まります。

その後、富士川の戦いに勝利して鎌倉に入った源頼朝は、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧し、後に源頼朝は鎌倉殿、北条政子は御台所と呼ばれるようになります。

また、寿永元年(1182年)8月には、後の2代将軍・源頼家となる万寿をもうけています。

北条政子の嫉妬心を示すエピソード

最後に、多くの妾を持ち子を産ませて一族を増やすため一夫多妻が当然だった当時としては異例の北条政子の嫉妬心をあらわすエピソードを紹介して本稿を終わらせたいと思います。

北条政子が源頼家を妊娠していた寿永元年(1182年)7月、源頼朝が、兄・源義平の未亡人であった新田義重の娘・祥寿姫を妻に迎えようとしたのですが、北条政子の怒りを恐れた新田義重が娘を嫁がせるのを拒否したため、結婚話が流れています。

また、同年、源頼朝が、良橋太郎入道の娘である亀の前を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになったのですが、北条政子が、この事実を北条時政の後妻であった牧の方から知らされ激怒します。

怒った北条政子は、同年11月、牧の方の父または兄である牧宗親に命じて、亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊し、亀の前を追い出した上、伏見広綱を遠江国へ流罪にします。

この話を聞いた源頼朝も激怒し、牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻(もとどり)を切り落とす恥辱を与えたため、北条時政が怒り、北条義時を除く北条一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになっています。

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