源頼朝による東国支配と鎌倉幕府政治構造

源頼朝による武家政権樹立は、源頼朝挙兵→東国私兵団として成立→公認東国私兵団→守護地頭設置権獲得→東北支配権→恒久的守護設置権→征夷大将軍任命という流れで確立していきます(完成は、承久の乱勝利後です。)。

この間、源頼朝はそのほとんどを鎌倉にて政治を行い鎌倉を離れていません。

すなわち、源頼朝の武家政権の樹立は、鎌倉で始まり,その後配下をうまく使って全国に拡大させていったのです。

本稿では、そんな源頼朝による武家政権の樹立のうちの初期の段階である鎌倉の開拓と東国支配に至るまでの流れについて見ていきたいと思います。

鎌倉で東国での地盤固めを行う

源頼朝挙兵(1180年8月17日)

鎌倉幕府は、平治の乱に敗れて伊豆国・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が、治承4年(1180年)8月17日、後白河法皇の第二皇子である以仁王の令旨に呼応して平家追討のために伊豆国・韮山で挙兵したことに始まります。源頼朝34歳のときでした。

源頼朝は、挙兵後すぐの同年8月23日、平氏方の大庭景親と戦いますが敗れ安房国に落ち延びます(石橋山の戦い)。

船で逃亡し、同年8月29日に安房国に上陸した源頼朝は、関東武士を吸収しながら下総国を経て、同年10月6日に鎌倉に入ります。

鎌倉での大規模都市開発

その後、治承4年(1180年)10月20日、富士川の戦いで平氏を追い払った源頼朝は、その勢いで平氏を追って京へ向かうことを考えます。

ところが、このとき源頼朝の下に集った東国の有力武将であった千葉常胤三浦義澄上総広常らから、東国の平定なしに西国に進軍するのは適切ではないと諌められます。

まだ力を持たなない源頼朝に東国の有力武将達を抑える力はなかったため、源頼朝は京を目指すことはできず東国に止まるという決断をせざるを得ませんでした。

源頼朝にとっては忸怩たる決断であったかもしれませんが、軍事的才能に乏しい源頼朝にとっては、結果的にはこれが最良の選択であったかもしれません。

いずれにせよ、東国を磐石なものとしてから平氏打倒を目指すこととした源頼朝は、東国を平定するための拠点として鎌倉を本拠とする選択します。

鎌倉は、北・東・西を小さな丘陵に囲まれ、かつ南を海で守られた天然の要害で、かつては父・源義朝も館を構えた源氏ゆかりの地でもあったからです。

そして、源頼朝は、東国武士をまとめながら、鎌倉を切り拓き、公家の都である京に匹敵する武家の都を築いていきます。

源頼朝は、まず源氏の氏神である八幡宮を鎌倉の中央部の六浦道沿いに移し鶴岡八幡宮とします

その上で鶴岡八幡宮から六浦道沿東側の大倉郷に源頼朝の政治と生活の本拠である大倉御所を構えます

そして、この大倉幕府(鎌倉幕府)内に、必要に応じて侍所・公文所・問注所などの機関を、大倉御所内に順次設置して、東国統治を完成させていきます。

これらの大規模都市開発により、周囲に源頼朝が鎌倉(東国)の主であることを印象付けられます。

いわゆる鎌倉幕府の始まりです。なお、この当時は武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではなく、朝廷・公家からは「関東」、武士からは「鎌倉殿」、一般からは「武家」と称されていました。また、「吾妻鏡」において征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念でした。

御家人を集める(御恩と奉公)

源頼朝は、清和天皇の子孫で源氏の棟梁というその血統の良さから、平家に不満を持つ関東の武士達から旗印として担がれますが、自身の基盤は極めて脆弱なものでした。

そこで、源頼朝は、鎌倉の地において積極的に臣下となる御家人を登用していきます。

そして、源頼朝が、この御家人獲得手段として用いたのが御恩と奉公です。

御恩と奉公の基本は、以下のとおりです。

源頼朝(鎌倉幕府)は、新たな土地給付(新たな地頭任命、新恩給与)とそれまでの所領支配の保証(地頭継続、本領安堵)をもって、御家人に御恩を施します。

そして、これに対して、御家人が、緊急時の軍役、内裏や幕府を警護する大番役、その他異国警固番役や長門警固番役などの軍役奉仕のほか、関東御公事と言われる武家役を果たすことで奉公するというものです。

実はこの御恩と奉公というシステムは、それまでのシステムを一変させる画期的なものでした。

それまでは、土地所有権は、朝廷によって与えられ認められるものだったのですが、朝廷を取り込む平氏に弓を引いた(朝敵となった)源頼朝にそんなことが許されるわけがありません。

そこで、源頼朝は、東国にて朝廷に無断で土地分配を行うことを始めます。

これに対し、朝廷や平氏側において、源頼朝が朝廷に無断に行う土地分配を抑えることができませんでした。

そうすると、この源頼朝の振る舞いを見ていた東国の武士たちが、我も我もと源頼朝の下へ集い、その領地の確認を求めるということが起こります。

そして、この御恩と奉公は、当初は土地所有権を追認するだけの緩やかなものだったのですが、集った御家人の数だけ源頼朝の力を強めることとなり、次第に絶対的・唯一的・永続的な主従関係へと発展していきます。

東国支配権の確立

侍所の設置(1180年)

鎌倉に本拠を置き、味方となる御家人を集めていた源頼朝ですが、その数が増えていくに従い、物理的に源頼朝とその側近たちだけでは対応しきれなくなります。

誰であるかもわからないで、御恩も奉公もありません。

そこで、源頼朝は、この一気に増えた御家人達を管理する必要に迫られます。

この御家人管理のために新しい機関が作られます。

侍所です。今でいう、人事部ですね。

侍所の設置により、それまで源頼朝と行っていた御家人に関する手続きが、侍所を通じて行われるようになり、その管理が一気に合理化されます。

そして、土地所有を認めてもらい(御恩)、その対価として警察・防衛を行う(奉公)という御家人の性質上、御家人を統括する機関である侍所が、人事部とあわせ、警察・防衛を担当することとなります。

初代別当(人事部長兼警察庁長官兼防衛大臣)は和田義盛で、後に北条家の世襲となります。

公文所の設置(1184年)

そして、御家人が増え、鎌倉幕府が認める土地が増えてくると、そこの管理・徴税に加え、その調整や統合した鎌倉幕府自体の政務をする必要が出てきます。

今風にわかりやすく言えば、個人事業主が法人成りするようなイメージでしょうか。

鎌倉幕府の規模が急速に拡大したため、行政の全てを一括管理する機関が必要となってきます。

そこで、幕府行政を一手に引き受ける新しい機関が作られます。

公文所です。今でいう総務部です。

初代別当(総務部長)は大江広元で、後に北条氏の世襲となります。なお、公文所は1191年に政所(まんどころ)に改称されています。

問注所の設置(1184年)

また、鎌倉幕府の御家人が増えてくると、それに伴って御家人同士の諍いがおこります。

この諍いを放置しておくと、管理能力なしとして鎌倉幕府の求心力が低下しますので、鎌倉幕府において御家人の諍いを仲裁する機関が必要となります。

裁判をするには、証拠を集めて審理し、また後の検証のために記録を保管しておかなければならないのですが、鎌倉幕府の御家人の中で文字が読める人は少数です。

これを代行して訴訟業務を担当したのが問注所です。今でいう裁判所です。

初代執事(最高裁判所長官)は、京から下向してきた三善康信です。

東国支配完成:寿永2年10月宣旨

源頼朝は、侍所にて御家人統括と軍事全般を、元暦元年(1184年)に公文所を置いて政務全般を、問注所を置いて裁判全般を統括し、「東国において」源氏の棟梁として事実上の確固たる地位を築いていました。

また、時間が少し戻りますが、源頼朝は、寿永年(1183年)に朝廷から寿永二年十月宣旨を受け、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させることを条件として東国支配権を公認されています。

東国支配権確立後

西国支配にも影響力を及ぼす(1185年)

源範頼・源義経らの活躍により、元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡します。

平家を討伐して武家の棟梁として認められた源頼朝でしたが、その支配が及ぶのはあくまでも東国限定の話でした。

西国は元々は平家の支配下にあったため源頼朝の勢力は及んでいませんでした。

また、東国以外の支配については、朝廷が派遣する国司が担当していました。

このことは、平家が滅亡しても変わりませんでした。

ここで、政治の天才源頼朝は、大江広元の献策を採用し、この状況を覆して一気に日本全国を支配するためのとんでもない方法を実行します。

平氏打倒に活躍した弟・源義経を逆賊に仕立て上げ、その源義経を追討するという名目(どこに逃げたかわからない源義経を探すという名目)で、後白河法皇から追討の院宣のみなならず、五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に源頼朝の御家人により選任された国地頭の設置・任命権を得ることの勅許を受けます(文治の勅許)。

名目上は、源義経を探すために、全国に御家人を展開させるためだったのですが、実質は臣下の御家人を地頭に任命しその支配を通じて源頼朝の支配を西国にも及ぼしていくことになります。

東北支配権確立(1189年)

文治4年(1188年)2月、源頼朝の下に、源義経が奥州藤原氏の本拠地・平泉に潜伏しているとの報が伝わります。

このとき、源頼朝は、源義経討伐の名目で奥州藤原氏まで討伐し、その支配を東北にまで広げようと画策します。

源頼朝は、奥州藤原氏の藤原泰衡に圧力をかけて、文治5年(1189年)閏4月30日、源義経を討伐させます(衣川の戦い)。

もっとも、源頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅と東北の平定でしたので、これまで源義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして藤原泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発します。

そして、同年9月2日、岩手郡厨河(現盛岡市厨川)へ向けて進軍を開始したところ、藤原泰衡は郎従の河田次郎に殺害されました。

これにより、栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡し、源頼朝による東北支配権が確立します。

源頼朝上洛(1190年11月)

源義経を討伐し、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝に守護・地頭任命権を残しておく大義名分が失われます。

そのため、この状態のまま放っておけば、朝廷から守護・地頭任命権をはく奪されると考えた源頼朝は動きます。

守護・地頭任命権をはく奪されると、せっかく全国に及んだ支配権が失われます。

そこで、源頼朝は、京に上って後白河法皇に軍事力に基づく圧力をかけて現状をそのまま維持させるよう迫るため、都を追われて30年ぶりの建久元年(1190年)、満を持して京に上ります。

同年10月3日に1000騎を超える武士を引き連れて鎌倉を発った源頼朝は、同年11月7日に入京した後、同年11月9日、源頼朝は六条殿(院御所)に参って後白河法皇に謁見します。

このときの源頼朝と後白河法皇の会談の際、源頼朝の全国守護地頭任命権の継続、源頼朝の権大納言・右近衛大将の任官などのが決まります。

これにより、後白河法皇によって源頼朝による全国支配権が公的な裏付けを得ることになります。

もっとも、権大納言や右近衛大将は、京に滞在することが前提の官職ですので、鎌倉に戻らなければならない源頼朝は、3日後にこれらを辞任しています。

征夷大将軍就任(1192年7月)

もっとも、建久3年(1192年)3月13日に後白河法皇が崩御したことにより源頼朝の権威が失われたため、新たに同年7月、源頼朝が征夷大将軍に任命されます。

もっとも、このときの任官にはさしたる意味はなく、大将軍であればなんでもよかったため征夷大将軍が選ばれたに過ぎません。