【鎌倉幕府の執権】執権政治の始まりと終わりについて

鎌倉幕府が、その初期に源氏将軍が終わりを迎えた後、執権・北条義時による事実上の独裁政権となったことは有名です。

もっとも、ここでいう執権とは本来は、鎌倉幕府内の機関の1つであった政所の長官である別当の別称に過ぎず、最高権力者を意味する名称ではありません。

それにもかかわらず、北条義時=執権=独裁者のイメージがあるのはなぜなのでしょうか。

本稿では、執権政治についてその成立の過程から、得宗家に権力が流れて名目化していくまでについて簡単に説明していきたいと思います。

鎌倉幕府執権の成り立ち

鎌倉幕府の執権職の始まり

富士川の戦いに勝利して東国支配を進める源頼朝は、治承4年(1180年)に侍所(初代別当:和田義盛)を置いて御家人統括と軍事全般を、元暦元年(1184年)に公文所(初代別当:大江広元)を置いて政務・財務全般を、問注所(初代執事:三善康信)を置いて裁判全般を統括し、東国における源氏の棟梁として確固たる地位を築いていました。

すなわち、源頼朝は、大きくなりつつある配下御家人を統括するための家政機関として侍所・公文所・問注所などを設置したのです。

そして、これらの各機関が、その後、それぞれ鎌倉幕府を支える主要機関として成長していきます。

その後、建久元年(1190年)に源頼朝が従二位に任じられて公卿に叙せられたことによって従三位以上の公卿に許される政所開設の権利を獲得したため(これにより統治機構が律令制に基づく公的性格を帯びています。)、慣例に従って政所を設置して公文所の組織を政所に移行・統合されました。なお、公文所から政所と改称された時期については1191年説や1185年説など様々な見解があります。

北条時政の執権就任(1203年7月)

前記のとおり、鎌倉幕府内の1機関である政所の長官である別当のことを執権とも呼んでいたため、元々は鎌倉幕府内での執権とは単なる1行政機関の長を意味するものに過ぎませんでした(初代政所別当は大江広元)。

ところが、第3代鎌倉殿として源実朝を擁立しその後見人として絶大な権力を手にした北条時政が、建仁3年(1203年)10月、政所別当に就任したことでその意味合いが変わってきます(大江広元との複数制)。

その後、政敵となる有力御家人を次々と滅ぼして鎌倉幕府内で絶対的地位を獲得した北条時政は、鎌倉幕府内の要職の多くを北条一門に独占させ、その北条一門のトップとして君臨することとなりました。

そのため、執権職の北条時政が鎌倉幕府の最高権力者となった北条一門のトップであったことから、いつしか北条一門のトップを執権と呼ぶようになっていきます(もっとも、北条時政をいわゆる初代「執権」と評価するかについては異論もあり、また初代を北条泰時とする説もあります。)。

北条義時の執権就任(1205年)

北条時政によって勢力を高めていく北条家でしたが、家中で、北条時政の継室派閥(北条時政・牧の方平賀朝雅など)と、北条時政の前妻派閥(北条政子・北条義時【このときは江間姓】・阿波局畠山重忠)との関係が悪化していきます。

そして、元久元年(1204年)11月5日、京で起こった平賀朝雅と畠山重保との間で言い争いを聞いた北条時政の継室である牧の方が激怒し、畠山重忠に謀反の疑いがあると北条時政を唆して、元久2年(1205年)6月22日、その命で北条義時に畠山重忠を攻撃させて畠山家を滅亡させたことにより悪関係が具体的事件へと発展していきます。

北条義時は、自らに与する御家人であり、また他の御家人の信頼が厚い畠山重忠を討つことにためらいがあったのですが(吾妻鏡)、この時点で父・北条時政を制する力はなかったため、やむなく武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼすこととなりました。

もっとも、人望のあった畠山重忠を強攻策をもって殺したことにより、御家人の間に北条時政や牧の方に対する反感が生まれていきます。明らかに北条時政かわやり過ぎています。

また、この事件により北条時政と北条義時との反目も決定的となります。

この動きに焦った北条時政は、元久2年(1205年)閏7月19日、自らに与する平賀朝雅を第4代鎌倉殿に就任させて再度権力を取り戻そうと画策し、源実朝を暗殺する計画を立てます。

もっとも、この計画は北条義時と北条政子が源実朝の安全を確保したこと、北条時政に味方していた御家人までもこれに反目したことなどから、北条時政・牧の方による平賀朝雅将軍就任計画は失敗に終わります(牧氏の変)。

こうして鎌倉殿暗殺計画が失敗して完全に孤立無援になった北条時政と牧の方は、元久2年(1205年)閏7月20日に出家し、翌同年閏7月21日、鎌倉から追放されて伊豆国にて隠居させられることになります。

そして、北条時政を追放した北条義時が、江間姓から北条姓に戻した上で父に代わって政所別当の地位に就き、第2代執権と呼ばれるようになります。

事実上の幕府最高職となる(1213年)

執権職を引き継いだ北条義時は、父・北条時政が性急な権力独占行動をして多くの反発を招いた反省から、柔軟な姿勢を示しながら北条執権体制の障害となる有力御家人の排除を進め、幕府内における地位を確立していきます。

執権職に就いた後、ながらくおとなしくしていた北条義時ですが、鎌倉幕府創設以来の重鎮で初代侍所別当の地位にあった和田義盛の排除を画策します。

北条義時は、建暦3年(1213年)2月に勃発した泉親衡の乱をきっかけとして和田義盛を挑発し、これに耐え兼ねて蜂起した和田義盛を討伐します(和田合戦)。

そして、討ち取った和田義盛の侍所別当職を取り上げてこれに北条義時自らが就任したため、北条義時が鎌倉幕府の政所別当と侍所別当とを兼ねた鎌倉幕府の最高責任者となります。

この結果、北条義時によって執権職が、事実上の鎌倉幕府の最高職となります(執権職が形式的最高職である鎌倉殿を超える権力を握ります。)。

執権による独裁的政治の始まり

執権が訴訟権限を得る

建保7年(1219年)1月に第3代鎌倉殿であった源実朝が源頼家の次男・公暁に暗殺されるという一大事件が起こり、鎌倉幕府の形式的最高職であった鎌倉殿がいなくなります。

このとき暗殺された源実朝には実子が無く、また継嗣も定めていなかったため、鎌倉幕府内が大混乱に陥ります。

この混乱を鎮めるために、北条義時と北条政子によって第4代鎌倉殿の選定が急がれたのですが、御家人から信奉を集めやすい源氏一門を選ぶと北条一門による独裁が脅かされる可能性があります。

そこで、北条義時・北条政子は、多くの源氏一門やその親類縁者の多くに謀反の罪を着せ短期間のうちに次々と粛清していき、新たな源氏将軍誕生の芽を摘んでいきいきます。なお、主な粛清劇として、以下のものが挙げられます。

① 建保7年(1219年)1月27日、源頼家の子・公暁を源実朝暗殺の報復として誅殺。

② 建保7年(1219年)2月11日、阿野時元(源頼朝の異母弟である阿野全成の子)に謀反の嫌疑をかけて誅殺。

③ 承久元年(1219年)7月13日、源頼茂(源頼政の孫)に謀反の嫌疑をかけて誅殺。

④ 承久2年(1220年)4月14日、禅暁(源頼家の妾の子)を公暁の謀反に加担したとの疑いで誅殺。

この北条義時・北条政子の暗躍により、源氏嫡流(河内源氏義朝流)が断絶し、鎌倉幕府内での執権北条家の力は盤石なものとなります。

もっとも、天皇の一族である源氏一門の断絶は、朝廷と鎌倉幕府(鎌倉幕府を実質的に支配する執権・北条義時)との関係を急速に悪化させます。

朝廷としては縁戚である源氏が治めていたために鎌倉幕府を容認していたのであり、一御家人に過ぎない北条家が治める鎌倉幕府を容認できないからです。

そこで、北条義時は、朝廷に鎌倉幕府を容認させるべく京から摂家将軍を推戴して鎌倉幕府を維持し、この名目上の摂家将軍を鎌倉幕府の事実上の最高責任者である執権が支える体制を構築します。

摂家将軍(その後の宮将軍)の下では、鎌倉幕府で行われる訴訟の裁決は、将軍・鎌倉殿による下文ではなく執権による下知状によって行われることになり、執権が幕府における訴訟の最高責任者となって執権独裁政権が始まります。

御家人に新恩給与(1221年)

その後、この将軍継嗣問題のトラブルなどの諸問題に耐え兼ねた後鳥羽上皇が、承久3年(1221年)5月15日、鎌倉幕府を実質的に支配する北条義時を追討するために挙兵します。

挙兵後すぐに京を制圧した後鳥羽上皇は、近国の関所を固めさせた上で、承久3年(1221年)5月15日、全国各地の守護・地頭らに対して北条義時追討の官宣旨をしたためたのですが、北条政子が、同年5月19日、起死回生の北条政子の歴史的演説を行ったことにより、逆に鎌倉御家人が北条義時の下で団結してしまいます。

この結果、鎌倉御家人軍が京に攻めあがってこれを占領して後鳥羽上皇を下し、後鳥羽上皇をはじめ、これに与した公家、武士を処分してその所領約3000箇所が没収します(承久の乱)。

そして、北条義時は、このとき没収した所領を幕府方の御家人に分け与え、その心をつかんでしまいます。

連署・評定衆設置(1224年6月)

貞応3年(1224年)6月13日昼頃、鎌倉幕府2代執権であり、鎌倉幕府の実質的トップであった北条義時が死亡します。なお、北条義時の死については、病死説のほか、暗殺されたとする説もあり(明月記・保暦間記など)、その死因ははっきりとはわかっていません。

いずれにせよ、絶対的権力者の死は、次の権力者を目指す者たちの戦いを生みます。

このとき、鎌倉では、北条義時の後妻(継室)であった伊賀の方が、兄である伊賀光宗と謀り、娘婿の一条実雅を鎌倉殿に就任させた上で、北条政村(北条義時と伊賀の方との子)を執権に就任させようと画策します。言わば鎌倉幕府を伊賀家のものにしようとするクーデター計画です。後妻が娘婿を将軍にしようとするという構造は、先代の北条義時の際に起こった牧氏の変と同一です。

これに対し、この伊賀光宗と伊賀の方の不穏な動きを察した尼将軍・北条政子は、貞応3年(1224年)6月28日、六波羅探題職を辞して京から鎌倉に戻ったばかりの北条泰時と北条時房を自宅に呼び寄せ、「軍営御後見」(執権の別名)に就任させます(吾妻鏡)。なお、この「両執権体制」の成立は、伊賀氏に対抗するために北条泰時と北条時房を協力させるためになされたものだったのですが、執権複数制という事実上の権限分掌がなされたため、後に新たな問題を生んでいます。

北条政子が北条義時の後継者として北条泰時を指名したと聞いた伊賀光宗は、北条政村の烏帽子親であり、御家人の中で屈指の実力を誇る三浦義村を味方につけようとしたのですが、三浦義村が北条政子に取り込まれたため、伊賀氏によるクーデター計画は失敗に終わります(伊賀氏の変)。

こうして伊賀氏によるクーデター計画は失敗に終わったのですが、共通の敵を失ったことから、二頭体制としてしまった北条泰時と北条時房との関係が複雑となっていきます。

この複雑な関係は、御家人を二分する主導権を巡る争いともなり得るものであり、元仁2年(1225年)の元旦には、垸飯の沙汰を行った後に北条時房が鎌倉を離れて上洛する事態に発展します。

もっとも、嘉禄元年(1225年)6月10日に大江広元、続く同年7月11日に北条政子という鎌倉幕府創成期を支えた2人が死去すると、北条家による鎌倉幕府の支配体制が弱体化することを危惧した北条泰時が、北条時房を京から呼び戻すと共に11人の評定衆を選定した上で、計13人の合議制によって政務を執るという決断を下します(執権2名【うち1名は後の連署】、評定衆11名の計13名)。

なお、表面上は同じ執権として対等な関係にあった北条泰時と北条時房でしたが、北条時房が執権の補佐役であり執権に次ぐ実質上の「副執権」といえる連署(幕府の公文書に執権と連名で署名したためにこの呼び名となりました。)に就任することによって北条泰時を支えるという体制となり、実質的には北条泰時の権限が北条時房に優越していくこととなって内紛は収まります。

執権政治全盛期

承久の乱の乱に敗れた公家や武士の3000余りの所領を没収してこれを分配し、六波羅探題を設置して朝廷までも事実上の支配下に治めた鎌倉幕府(北条家)の影響力は全国的に絶対的なものとして及んでいくこととなります。

貞永元年(1232年)には御成敗式目の制定がなされて御家人の統制も進み、北条泰時時代に執権政治の全盛期を迎えます。

独裁政治の始まり

5代執権となった北条時頼は、寛元4年(1246年)5月、反得宗勢力であった名越光時(北条義時の孫)が摂家将軍を退職させられた九条頼経を擁して戦を準備するという事件をきっかけとして、この事件を鎮圧後、藤原頼経を鎌倉から追放するとともにこれに与同する有力御家人を排除するなどし、執権が将軍を超える権威を有していることを見せつけます(宮騒動)。

また、宝治元年(1247年)、安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼし(宝治合戦)、さらに、千葉秀胤に対しても追討の幕命を下してこれを滅ぼし、鎌倉幕府内における反北条傾向の御家人は排除され、独裁政治が強まります。

また、その後、反得宗勢力の支持を集めつつあった5代将軍藤原頼嗣を廃立し、建長4年 (1252年)には新たに宗尊親王を6代将軍に迎えるなどして鎌倉幕府を意のままに動かします。

執権職の名目化

権力が執権職から得宗家に移る

この後、5代執権北条時頼に至るまで得宗家から執権が選ばれ、鎌倉幕府の事実上のトップ=執権(得宗家)との立場が確立したのですが、この構造に変化が生じます。

きっかけは、5代執権であった北条時頼が、病のために執権職を退くこととしたのですが、自らは病のため執権職を退くが、嫡子北条時宗が幼少だったために一旦極楽寺流の北条長時に執権を譲ることとするも、長時は北条時宗へ繋ぐために北条長時を傀儡して実権を手放さなかったことです。

すなわち、北条時頼は、執権職を北条長時に譲って出家したにもかかわらず、その後のフィクサーとして権力を保持し続けたのです。

イメージとしては、天皇職を譲位して上皇(治天の君)として院政を敷くという関係に類似しています。

これは、執権以外の人物が実権を有することを意味し、鎌倉幕府の事実上のトップ=執権という構造が崩れ去ります。

この結果、執権と得宗が分離し、幕府の公的地位である執権よりも北条一門の惣領に過ぎない得宗に実際の権力が移動して執権職が名目的地位に成り下がってしまいました(そのため,この時点から執権が得宗家から輩出させるひつようもなくなります。)。

この傾向は時間との経過とともに顕著となり、鎌倉時代後半になると、得宗家は北条一門を含む他の有力御家人を圧倒するようになり、元寇以後には御内人が幕政に影響力を発揮し、得宗邸で行われる北条一門や御内人の私的会合である寄合が評定衆による幕府の公式の合議体(評定)に代わって実質上の幕政最高機関となり、得宗専制体制を築いていきます。

参考:歴代執権一覧

【最高権力者=得宗家=執権という時代の執権】

①北条時政(?):建仁3年(1203年)9月~元久2年(1205年)閏7月

②北条義時(得宗家):元久2年(1205年)閏7月~貞応3年(1224年)6月13日

③北条泰時(得宗家):貞応3年(1224年)6月28日~仁治3年(1242年)6月15日

④北条経時(得宗家):仁治3年(1242年)6月15日~寛元4年(1246年)3月23日

⑤北条時頼(得宗家):寛元4年(1246年)3月23日~康元元年(1256年)11月22日

【最高権力者=得宗家≠執権となって以降の執権】

⑥北条長時(極楽寺流):康元元年(1256年)11月22日~文永元年(1264年)7月3日

北条政村(政村流):文永元年(1264年)8月11日~文永5年(1268年)3月5日

⑧北条時宗(得宗家):文永5年(1268年)3月5日~弘安7年(1284年)4月4日

⑨北条貞時(得宗家):弘安7年(1284年)4月4日~正安3年(1301年)8月22日

⓾北条師時(宗政流):正安3年(1301年)8月22日~応長元年(1311年)9月21日

⑪北条宗宣(大仏流):応長元年(1311年)10月3日~応長2年(1312年)5月29日

⑫北条煕時(政村流):応長2年(1312年)6月2日~正和4年(1315年)7月12日

⑬北条基時(極楽寺流):正和4年(1315年)7月12日~正和5年(1316年)7月9日

⑭北条高時(得宗家):正和5年(1316年)7月10日~正中3年(1326年)2月13日

⑮北条貞顕(金沢流):正中3年(1326年)3月16日~同年3月26日

⑯北条守時(赤橋流):嘉暦元年(1326年)4月24日~元弘3年(1333年)5月18日

⑰北条貞将(金沢流):元弘3年(1333年)5月22日

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