【竹中半兵衛重治】豊臣秀吉の前半生を支えた天才軍師

天才軍師として有名な竹中半兵衛。

まだ木下藤吉郎と名乗りゴロツキ集団の寄せ集めに過ぎなかった豊臣秀吉の下で参謀として活躍し、その天下取りの下支えとなる前半を支えた人物です。

同じく豊臣秀吉の天下取りの後半を支えた黒田官兵衛と共に両兵衛又は二兵衛と称されます。

軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物でもある竹中半兵衛の生涯について見ていきましょう。

竹中半兵衛の出自

出生(1544年)

竹中半兵衛は、1544年(天文13年)、美濃守護の土岐氏の家臣である大御堂城主・竹中重元(たけなかしげちか)の子として、美濃国大野郡・大御堂城で生まれます。

なお、竹中半兵衛は、当初は竹中重虎と名乗りその後竹中重治と名を改めており、半兵衛は通称に過ぎないのですが、本稿は、わかりやすくするために一般に知られた竹中半兵衛で表記を統一します。

竹中半兵衛の父・竹中重元は、美濃国の土豪であったのですが、天文14年(1545年)に美濃国・岩手(現在の岐阜県垂井町)にあった岩手氏が治める菩提山城を攻略して同城に本拠を移した後、没落した土岐氏に見切りをつけて美濃で台頭してきた斎藤氏に仕えます。

初陣(1556年4月)

竹中半兵衛は、弘治2年(1556年)4月の長良川の戦いで、斎藤道三側で初陣を果たし籠城戦の結果斎藤義龍軍を退けますが、肝心の斎藤道三が敗れたため、竹中半兵衛は父・竹中重元と共に斎藤義龍に下ります。

この長良川の戦いによって斎藤道三が討ち死したことにより、それまで良好であった斎藤家と織田家との関係が悪化します(織田信長が斎藤道三の娘である帰蝶(濃姫)を正室に迎える同盟関係がありました。)。

そして、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元を討った上で三河の松平元康と同盟を結んで東の守りを得た織田信長は、次の攻略目標を、美濃国に定め、美濃攻めを開始します。

攻略対象は、斎藤義龍率いる斎藤家居城稲葉山城(後の岐阜城)です。

斎藤家家臣時代

竹中家の家督相続 (1560年)

永禄3年(1560年)、竹中半兵衛は竹中家の家督を相続し、菩提山城(現在の岐阜県垂井町)の城主となっています。

なお、成長した竹中半兵衛は、長身・痩躯・閑雅の風采であったとされ、いわゆる病弱であったと言われています。

健康体ではなかった竹中半兵衛は、戦場の槍働きで名を挙げることは絶望的です。

そのため、竹中半兵衛は、槍働きではなく、自らの知恵をもってこれを補おうと努力します。

その結果、竹中半兵衛の軍略は、できる限り少ない損害でできる限りの効果を得ることに注力し、必然的に調略等の施策にその道を見出していきます。

織田信長の西美濃攻略戦

織田信長は、尾張国から、美濃国の西側を通って直接稲葉山城の攻撃を仕掛けてきますが、斎藤義龍は、竹中半兵衛の献策もあり、伏兵戦術と西美濃三人衆との共同作戦によって、織田信長軍を追い返し続けます。

稲葉山城に取りつくことすらできない織田信長は、対織田信長戦の献策をしている竹中半兵衛を引き抜くため、前田利家に命じて調略を仕掛けます。

そして、前田利家は、まず竹中半兵衛の娘である千里と仲良くなって、これを介して竹中半兵衛に話を持ちかけようとしたのですが、竹中半兵衛はそれを見抜いてこれを逆手に取り、逆に前田利家から織田方の兵力などの情報を聞きだしてしまったそうです。

斎藤龍興の斎藤家家督相続(1561年)

ところが、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が死去して斎藤龍興が斎藤家の家督を継ぐとこの状況が一変します。

若年の斎藤龍興は家臣団を押さえることができなかったからです。

一転して織田氏の侵攻を防ぐことが困難となっていきます。

また、永禄7年(1564年)初めころ、17歳の若く驕慢であった斎藤龍興が、病気がちで婦人のように線が細く・無口でおとなしい性格であった竹中半兵衛に対し、役立たずとなじるという事件が起こります。

また、斎藤龍興の態度に感化され、その側近たちまで竹中半兵衛をなじり始め、斎藤龍興の寵臣である斎藤飛騨守から嘲弄されて櫓の上から顔に小便をかけられたことまでありました。

このとき、竹中半兵衛自身もまた21歳という若者であり、主君とはいえ我慢の限界を超えるには十分でした。

稲葉山城乗っ取り(1564年2月6日)

また、斎藤龍興は、自らの地位を利用して、酒色に溺れて政務を顧みようとせず、そればかりか一部の側近だけを寵愛してそれまで大功ある西美濃三人衆や竹中半兵衛らを政務から遠ざけていきました。

この斎藤龍興の態度に西美濃三人衆の1人であった安藤守就が反発します。

安藤守就は、娘の夫であり、また知恵者として有名だった竹中半兵衛に対応策の検討を命じます。

舅である安藤守就の指示に逆らえない竹中半兵衛は、少数の兵で奇襲し、稲葉山城を乗っとる計画を立案し、これを安藤守就に提案します。

具体的な作戦は、稲葉山城に詰めている弟・竹中重矩を病気と偽らせ、その看病のためと称して武具を隠した箱などをもって入城した後、竹中重矩の居室で武装して宿直部屋にいる斎藤飛騨守を斬殺し、斎藤龍興を追放して稲葉山城を乗っ取るというものでした。

そして、竹中半兵衛は、永禄7年(1564年)2月6日、これを行動に移します。

竹中半兵衛率いる16人の兵は、手筈通りに稲葉山城に入った後で夜を待った後で本丸御殿の斎藤龍興を急襲し、傍に詰めていた齋藤飛騨守ら6名を討ち取ります。

このとき、完全に不意をつかれた斎藤龍興が稲葉山城を捨てて逃亡したため、竹中半兵衛の作戦は成功に終わります。

こうして16人の兵を率いて稲葉山城を攻略した竹中半兵衛でしたが、当然18人(16人の兵と竹中半兵衛と弟・竹中重矩)で稲葉山城を守りきれるはずがありませんので、その後攻略した稲葉山城に安藤守就の兵2000人を引き入れてその占拠を続けます。

その後、半年間稲葉山城を占拠した安藤守就・竹中半兵衛でしたが、斎藤龍興が軍備を整えて稲葉山城の奪還作戦を開始すると、勝ち目がないと考え、同年8月頃、やむなく稲葉山城を斎藤龍興に返還しています。

隠棲生活

稲葉山城を斎藤龍興に奪還されたことにより、竹中半兵衛は行き場を失います。

当然の話ですが、主君に弓引いた竹中半兵衛が斎藤家に戻ることはできません。

そこで、竹中半兵衛は、稲葉山城を失った後、隠遁生活を送ることとなります。

その後、織田信長による美濃侵攻戦の末、永禄10年(1567年)、織田信長が稲葉山城を攻略して斎藤家が滅亡すると、竹中半兵衛も斎藤家を去り、北近江の戦国大名・浅井長政の客分として東浅井郡草野に3、000貫の禄を賜るのですが、これも約1年で禄を辞して旧領の美濃国不破郡岩手(岐阜県不破郡垂井町)へと帰り、再び隠棲生活を始めます。

織田信長家臣時代

織田信長と木下藤吉郎による調略

もっとも、寡兵で難攻不落の稲葉山城を陥落させた竹中半兵衛の名は、日本中に知れ渡っています。

そして、この評判と竹中半兵衛隠棲の報は、何度も稲葉山城攻略に失敗していた織田信長の耳にも入ります。

美濃平定戦を終えた織田信長は、竹中半兵衛を使える男と判断し、美濃国半国を条件として自分に臣従するよう働きかけ、臣下に迎えます。なお、真偽は不明ですが、竹中半兵衛の子である竹中重門が記した豊臣秀吉の伝記「豊鑑」によると、木下藤吉郎が7回も竹中半兵衛の勧誘に来たと記されています。

よく勘違いをされる点ですが、このときの竹中半兵衛が木下藤吉郎に臣従したわけではなく、織田信長に臣従をしています。

誘いに成功した人が織田信長ではなく木下藤吉郎であっただけです(そのため、竹中半兵衛は木下藤吉郎の配下になったわけではありません。木下藤吉郎の与力となっただけで立場は同僚です。)。

羽柴秀吉の与力となる

竹中半兵衛は、織田家に臣従する条件として織田信長の直臣として行動するのではなく、木下藤吉郎の与力となることを望みます。

正確なところはわかりませんが、その理由としては、木下藤吉郎の才を買っていたことや、病気がちな自分が人使いの荒い織田信長の指示に従って行動することはできないと考えていたであろうことが推測されます。

織田信長は、この竹中半兵衛の申し出を了承し、竹中半兵衛を木下藤吉郎の与力としてつけています。

元亀争乱

そして、この後、竹中半兵衛は、実際上は木下藤吉郎の参謀として行動するようになり、元亀争乱時には人脈を利用して浅井家臣団に対する調略活動に力を発揮し、長亭軒城や長比城を織田方に寝返らせています(浅井三代記)。

また、姉川の戦いにも安藤守就の部隊の一員として参加しています。

さらに、竹中半兵衛は、小谷城攻めの際には、羽柴秀吉(元亀3年(1572年)8月頃に木下藤吉郎から改名。)に対して、浅井長政が守る本丸と浅井久政が守る小丸とを分断させるため京極丸を攻略すべきこと、京極丸を攻略するために小谷城の西側の急峻な崖を駆け上がる必要があることを献策し、小谷城攻略に貢献しています。

長篠設楽原の戦い(1575年5月21日)

竹中半兵衛は、長篠設楽原の戦いにも羽柴秀吉軍として出陣し、設楽原決戦の際は馬防柵の北側防衛を担当します。

決戦が始まると、武田方の右翼(北側)にいる武田四天王・馬場信春隊700人が、馬防柵の外側に回り込んで、6000人を擁する織田方の左翼(北側を守る佐久間信盛隊・滝川一益隊)を撃破し、そのまま羽柴秀吉隊に襲いかかります。

回り込まれて殲滅される危険を感じた羽柴秀吉は、羽柴秀吉隊全軍に退却を命じます。

ところが、竹中半兵衛は、これに反して、羽柴秀吉の命令が届いていないかのように装って自らの手勢1000人と共に持ち場を離れず残り続けます。

竹中半兵衛は、羽柴秀吉から命令違反として責められますが、知らぬ顔で平然としています。

そして、その後、この竹中半兵衛が残した手勢が、馬場信春隊を押し返す要因となり、羽柴秀吉は一転して竹中半兵衛の英断を称えました。

このエピソードは、何も知らない振りを装って物事に取り合わぬことを意味する「知らぬ顔の半兵衛」という慣用句の語源となっています。

羽柴秀吉の中国遠征

急激に勢力を拡大する織田信長は、畿内周辺の大名を駆逐した後、全国支配のために全国各地に配下を送り込み、多方面での攻略作戦を展開します。

中国地方にも攻略軍を派遣することとし、中国方面総司令官として羽柴秀吉を任命します。

羽柴秀吉の与力である竹中半兵衛も、当然に羽柴秀吉の軍に従軍します。

西に進んで播磨国に入った羽柴秀吉は、出雲街道・西国街道へ行くことができる交通の要衝に位置する姫路城の城主であった黒田官兵衛から姫路城の本丸の拠出を受け、ここを播磨国攻略の拠点とします。なお、黒田官兵衛は、このときに羽柴秀吉に臣従し、以降参謀として活躍しています。

そして、一旦は播磨国の国衆を掌握し、さらに西に向かおうとする羽柴秀吉軍に激震が走ります。

天正6年(1578年)2月、三木城主・別所長治が織田方か、離反して毛利氏側についたのです。またその結果、別所長治の影響下にあった東播磨の諸勢力もまたこれに同調し、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏などがこれを支援したため、播磨国の情勢が一変して反織田に染まります。

東播磨の別所長治が離反したことにより、毛利攻めを行うはずの羽柴秀吉は、西に宇喜多、東に別所、南に瀬戸内毛利水軍に囲まれ、完全に孤立してしまうことになりました。

三木合戦

反織田の意思を表明した別所長治でしたが、単独で羽柴秀吉軍と一戦交える戦力はありませんので、三木城に籠ります。

孤立して補給路を断たれた羽柴秀吉は、直ちに対応をします。三木合戦の始まりです。

まず、黒田孝高の調略により、別所長治に同調して三木城に入っていた加古川城の糟屋武則を織田方に下らせて加古川城に戻します。

次に、備前国からの侵攻を封じるため、竹中半兵衛に命じて宇喜多直家に調略をしかけます。

その上で、羽柴秀吉は、西国街道沿いの高砂城・魚住城などを次々と攻略し、荒木村重が治める花隈城までの西国街道上の兵站を回復させます。なお、この羽柴秀吉の西国街道確保は、逆に三木城の海上補給路が封鎖されたことを意味します。

補給路を回復した羽柴秀吉は、天正6年(1578年)3月29日、いよいよ本命である三木城攻略に取り掛かります。

その後、竹中半兵衛は、天正6年(1578年)5月24日、備前八幡山城の城主を調略成功によって落城させます(なお、竹中半兵衛は、この調略の事実を京にいる織田信長に報告し、銀子100両を授けられています(信長公記)。

織田信長の命に背く

ところが、ここでまたもや一大事件が起こります。

天正6年(1578年)、摂津国を治める有岡城主・荒木村重が織田信長に反旗を翻したのです。

播磨国にいた羽柴秀吉方は、摂津国を治める荒木村重が敵方につくと、毛利と挟撃される形となるだけでなく、西国街道の補給路を遮断され危機に陥ります。

そこで、羽柴秀吉の下から黒田官兵衛が有岡城へ赴き、荒木村重に再考を促します。

ところが、黒田官兵衛は、荒木村重に捕らえられ、有岡城内の牢に入れられてしまいます。

説得に向かった黒田官兵衛が戻ってこないことを聞いた織田信長は、黒田官兵衛が荒木村重方に寝返ったと考え、羽柴秀吉に対して、人質として羽柴秀吉に預けていた黒田官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じます。

もっとも、竹中半兵衛は、黒田官兵衛の無実を信じていたこと、松寿丸を殺してしまえば逆に黒田官兵衛が敵方にしまうと考え、密かに松寿丸は自身の領地内で匿い、偽の首を織田信長に差し出すことで松寿丸の命を助けます。

織田信長の命に背くことは即斬首に繋がりかねませんので、竹中半兵衛にとって命懸けの行為でした。

1年後に助け出された黒田官兵衛は、竹中半兵衛が松寿丸の命を助けてくれたことを知り、竹中半兵衛亡後は、竹中半兵衛の遺志を注いで、羽柴秀吉の天下統一に全身全霊を捧げることとなります。

また、黒田官兵衛は、竹中半兵衛に非常な恩義を感じ、黒田家の家紋を、それまでの橘藤巴から、竹中家の家紋にある3枚1組の笹葉を円形に配置するモチーフを貰い受けてアレンジし、黒田藤巴とする変更を加えています。

また、有名な黒田長政愛用の一の谷兜も、元々は竹中半兵衛が有してたものであり、竹中半兵衛死後に形見分けとして福島正則がもらい受けた後、黒田家と福島家の和解の証として黒田家に渡ったことから、恩人の遺品として黒田長政が生涯愛用したとの逸話が残されています。

竹中半兵衛の最期

竹中半兵衛死去(1579年6月22日)

天正7年(1579年)に入ると、竹中半兵衛の病状が悪化したため、羽柴秀吉は、竹中半兵衛に対して京で養生するように戒めます。

これに対し、竹中半兵衛は、「陣中で死ぬこそ武士の本望」と言い、羽柴秀吉の申し出を断ったとされています(竹中家譜)。

その後も竹中半兵衛の病状は改善せず、天正7年(1579年)4月、遂に播磨三木城の包囲中に結核病に倒れます。

そして、竹中半兵衛は、遂に同年6月22日、陣中にて死去します(信長公記)。享年36歳でした。。

後世の竹中半兵衛の評価

竹中半兵衛は、江戸時代の軍記物である「太閤記」や、子である竹中重門が江戸時代に記した「豊鑑」などに、黒田官兵衛に並ぶ天才軍師として描かれているため現在の天才軍師像が定着していますが、実際には竹中半兵衛について記された記載は少なく、織田信長の活動を記した信長公記などにもその記述は少なく、実態はほとんどわかっていないのが本当のところです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA