【太原雪斎】海道一の弓取り今川義元を支え今川家最盛期を築いた軍師

太原雪斎(たいげんせっさい)は、海道一の弓取りと言われた戦国大名・今川義元を支えた僧・政治家・武将です。諱は崇孚(そうふ)といいますので、実際には太原崇孚が正しいのですが、本稿では一般的な名称である雪斎と表記します。

今川家の重臣の家に生まれながら若くして僧籍に入ったものの、今川義元の養育係となったことから今川義元が今川家の家督を相続した後は、内政・外交・軍事の全てにおいてその手腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた人物でもあります。

太原雪斎の出自

太原雪斎出生(1496年)

若かりし頃の太原雪斎の足跡については、太原雪斎の弟子であった東谷宗杲が、太原雪斎の三十三回忌法要にあわせて天正15年(1587年)10月6日にまとめた「中興開山前住妙心第三十五世勅諡宝珠護国禅師太原先師大和尚三十三回忌拈香拙語并序」に記されていますので(現在、静岡市清水区の清見寺・静岡市葵区の増善寺静岡市葵区の増善寺に写本が残されています。)、これに従います。

太原雪斎は、明応5年(1496年)、今川家の重臣であった庵原城主・庵原左衛門尉政盛の子として、興津正信(興津横山城主)の娘との間に生まれます。

幼名は不明です。

また、時期や経緯は不明ですが、その後に駿河国・善得寺(現在廃寺)に入寺し、善得寺6世であった琴渓承舜の教えを受けます。

その後、太原雪斎は、上洛して京五山の建仁寺雲泉院において常庵龍崇(じょうあんりゅうそう)の教えを受けて修行を続け、14歳になった永正6年(1509年)、剃髪の上「九英承菊」(きゅうえいしょうぎく)を名乗ります。なお、本稿では、混乱を避けるため一般的に知られた太原雪斎の名で統一することとします。

今川義元の教育係となる(1529年)

太原雪斎の秀才ぶりは駿河国にも聞こえており、当時の今川家当主であった今川氏親から駿河国に帰国して今川家に仕えるよう要請されたのですが、2度に亘ってこれを断ります。

もっとも、今川氏親から3度目の要請を受けたことから、さすがに断り切れなくなった太原雪斎はやむなくこれを受け入れ、駿河国に戻ることとなりました。

こうして駿河国に戻った太原雪斎は、大永2年(1522年)頃、今川氏親の三男である芳菊丸(後の今川義元)と初顔合わせをすることとなったと言われています。

当初は琴渓承舜の下で修業に励んでいた芳菊丸でしたが、享禄2年(1529年)に琴渓承舜が没したため、その後、琴渓承舜の弟子であった太原雪斎が師匠役を引き継ぐこととなりました。

その後、享禄3年(1530年)秋、駿府に常庵龍崇が下向してきたことを好機として、太原雪斎が常庵龍崇に願い出て、常庵龍崇の手によって12歳であった芳菊丸(後の今川義元)の得度式が行われ、剃髪の上で栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名乗らせます。

さらにその後、太原雪斎は、栴岳承芳を連れて京の建仁寺を経て妙心寺に移って大休宗休(たいきゅうそうきゅう)に学びます。

そして、天文4年(1535年)、太原雪斎と栴岳承芳(今川義元)は、善得寺の住持であった琴渓承舜の7回忌法要のために駿河国に戻り善得寺に入ります。

今川義元擁立の動き(1536年)

このころ、今川氏輝(今川義元の長兄)が今川家の第10代当主となっていたのですが、天文5年(1536年)3月17日に今川氏輝が急死します。

また、同日に、今川家に残っていたもう1人の今川氏輝の弟・彦五郎までも急死し(高白斎記)、当主と有力後継者候補が同じ日に失われた結果、家督を継ぐべき後継者男子がいなくなった今川家は大混乱に陥ります。

ここで、今川氏親正室であり今川義元の母でもある寿桂尼、今川義元の師である太原雪斎、その他重臣たちが中心となり、今川氏親の最後の嫡子であった栴岳承芳を還俗させ、今川家を継がせようとして動き始めます。

そして、寿桂尼・太原雪斎らは、当時の征夷大将軍・足利義晴から偏諱を賜って栴岳承芳をから今川義元と改名させた上、家督承継の手続きを進めていきます。

今川義元が今川家当主となる

ところが、ここで今川家の有力被官であり、今川氏親の側室の父であった福島助春が、自身の娘が生んだ今川氏親の庶子である玄広恵探を擁立して今川家の当主の外戚として権力を持とうと画策し、天文5年(1536年)5月25日、還俗して今川良真と名を改めた玄広恵探の派閥(反今川義元派)の将兵を久能城に集めて挙兵した上で今川義元のいる駿河国・今川館を襲撃するという事件が起こります。

もっとも、この戦いは、相模国・伊豆国の北条氏綱や甲斐国の武田信虎らの支援を得た今川義元らが、同年6月10日、玄広恵探の篭る花倉城を攻撃してこれも陥落させ、その後玄広恵探を瀬戸谷の普門寺にて自刃させたことにより今川義元方の勝利に終わります(花倉の乱)。

こうして今川義元が今川家第11代当主となり、駿河国・遠江国守護を引き継ぎます。

なお、今川家の家督を継いだ今川義元は、同年、善得院(善得寺の別院)に前当主であった今川氏輝を葬ったのですが(法名・臨済寺殿用山玄公)、このとき今川氏輝の法名をとって「善得院」から「臨済寺」に改め、京都妙心寺霊雲院の大休宗休を迎えて開山とし、実際の同寺の運営は、その弟子として2代目の住持なった太原雪斎に委ねられることとなりました。

今川義元の軍師として活躍する

今川家の最高顧問となる(1536年)

僧籍にあったことから太原雪斎は、孫子・呉子・六韜をはじめとする軍学書や、歴史上の合戦を学んでおりその膨大な軍事的知識から軍事顧問として君臨します。

また、その知識は、政治学など多岐の分野に及んでおり、太原雪斎は、内政・外政・軍事などのあらゆる分野で今川義元を補佐します。

また、今川義元も、師である太原雪斎を信頼して今川家の最高顧問として重用し、太原雪斎もこれに応えて今川家の発展に寄与します(今川分限帳では太原雪斎を執権と評しています。)。

甲駿同盟成立と駿相同盟の破綻

今川家の政治の中枢に入り込んだ太原雪斎は、まずは周辺勢力との関係改善から取り掛かります。

まず、花倉の乱の際に自らに味方してくれた恩人である武田信虎との良好な関係となり、天文6年(1537年)2月10日には武田信虎の長女・定恵院が今川義元に正室として嫁いで婚姻関係を持ち、また武田信虎の武田晴信(後の武田信玄)に今川家の遠縁にあたる三条公頼の娘・三条の方を周旋するなどして武田家と今川家の間の同盟関係を締結します(甲駿同盟)。

ところが、甲駿同盟は、甲相国境において武田方と抗争を繰り返していたため北条家との関係悪化をもたらし、今川家・北条家の関係の断絶をもたらします(駿相同盟の破綻)。

これにより、天文6年(1537年)2月に北条氏綱が駿河国東部・河東地方への侵攻を開始して富士川以東の河東地方を占拠する事態に発展し(第1次河東一乱)、この悪関係は、天文14年(1545年)11月初旬に太原雪斎を交えて誓詞を交し合いその収束に至るまで続きます(第2次河東一乱)。

太原崇孚に改名(1543年)

太原雪斎は、天文12年(1543年)、臨済宗建仁寺派から離れて同宗妙心寺派に転じ、法名を太原崇孚(たいげんそうふ/すうふ)と改めます。

このように太原雪斎の諱は崇孚というのですが、その居住地に「雪斎」と書かれた扁額があったことからその名で呼称されることが一般的ですので、本稿でもこれに従って「太原雪斎」で統一しています。

なお、太原雪斎は、その存命中に駿河国の善得院・清見寺を中興したばかりでなく、駿河国では今林寺・承元寺・葉梨長慶寺・庵原一乗寺を、遠江国では定光寺を、三河国では太平寺を興こすなど、臨済宗妙心寺派の普及を進めています。

また、天文19年(1550年)には京の妙心寺の第35代住持に就任し、その他臨済宗を中心とした領内における寺社・宗教の統制や、在来商人を保護する商業政策なども行なうなど、僧としての活躍も突出しています。

三河国侵攻戦

第2次河東一乱を終結させて東側の安全を確保した今川家は、領国西側に進出していきます。

天文15年(1546年)10月、織田信秀が西三河に侵入してくると、太原雪斎は、松平広忠の救援の要請に応じて、今川家の大軍を率いて西三河に介入します。

そして、そのまま西三河を治める松平広忠に圧力をかけて帰順させ、天文16年(1547年)8月2日、6歳であった嫡男の竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れる約束を交わします。

その後、太原雪斎は、今川軍を率いて三河国に侵攻し、天文16年(1547年)には三河田原城を攻略し、天文17年(1548年)3月19日には進行してきた織田信秀軍を三河小豆坂で破っています(第2次小豆坂の戦い)。

その後、今川家は、天文18年(1549年)に松平広忠が死去したことにより当主不在の松平家支配地であった西三河を接収するため、岡崎城(現在の愛知県岡崎市)に軍勢と家臣を送り込んだ上、三河国の国人領主たちを次々と支配下に取り込むなどして強引に松平領を領有してしまいます。

また、今川義元は、これらの勢力を利用して、織田信秀に押さえられていた三河安祥城(現在の愛知県安城市)を攻め取り、織田方勢力を駆逐して、事実上三河国を支配下に治めてしまいます。

人質交換で竹千代奪還(1549年11月)

三河国の国人領主であった松平広忠が今川家に従属することとなり、天文16年(1547年)8月2日、その証として数え6歳であった嫡男・竹千代(後の徳川家康)が人質として駿府へ送られることとなります。

ところが、駿府に護送中に三河渥美郡田原(現在の愛知県田原市)にあった田原城立ち寄ったところで、戸田康光(戸田宗光)に騙されて船に乗った竹千代は、身柄を奪われて尾張国の織田信秀の下へ送られてしまいました。

三河国を傘下におさめる証となるべく竹千代を奪われた今川義元は、直ちに太原雪斎率いる軍を編成して進軍させ、同年9月5日、戸田宗光が守る田原城を陥落させます。

そして、今川義元は、獲得した田原城に伊東祐時を入れ、竹千代を奪還すべくさらに西進していったのですが、その後、織田信広(織田信秀の長男)が守る安祥城を攻め、同年11月8日、太原雪斎率いる今川軍が安祥城を攻略して城主であった織田信広(織田信秀の長男)を生け捕りにします(第四次安城合戦)。

ここで、太原雪斎は、織田信秀に対し、織田信広と竹千代との人質交換を提案し、三河国の西野笠寺にて行われた交渉の結果(「徳川実紀」東照宮御実記巻一・天文十八年)、ついに人質交換交渉が成立します。

この太原雪斎の人質交換作戦の成功により、今川家は、尾張国侵攻の橋頭堡となる安祥城を手に入れた上、三河国支配の大義名分となる竹千代まで手に入れるという大成果を得ます。

なお、駿府に送られた竹千代は、将来今川氏真を支える人材となるべく太原雪斎に預けられて養育されることとなり、太原雪斎が住持となっていた臨済寺に入れられています(なお、竹千代の教育については、太原雪斎自らが行ったとする説や、太原雪斎は名目上の師にすぎず実際の教育は太原雪斎の弟子が行ったとする説などがあり、正確なところはわかっていません。)。

甲相駿三国同盟締結に尽力(1554年)

天文19年(1550年)6月に今川義元の正室であった武田信虎の長女・定恵院が死去したため、今川家と武田家の婚姻関係が絶えたため、今川家では、武田家との同盟関係維持のための新たな婚姻関係の締結が急がれます。

このとき、今川家では、武田家のみならず、北条家との関係もあわせて改善して今川・武田・北条で同盟を結び、西側への勢力拡大を図る計画が立案されます。

そこで、今川家では、まず武田家との婚姻関係に基づく同盟を結び直し、その後武田・北条同盟、北条・今川同盟を締結させるべく進めていきます。

こうして、以下の3つの婚姻の結合体として甲相駿三国同盟が結ばれます。

①【甲駿同盟】今川家(嶺松院)→武田家(1552年11月)

甲相駿三国同盟の始まりは、今川家・武田家との同盟関係強化からです。

まず、両家で婚姻適齢期にある一門衆・姫が探され、天文21(1552)年11月、今川義元の娘・嶺松院が、武田信玄の嫡男・武田義信に嫁ぎます。

こうして、今川家・武田家間に、縁戚関係を前提とする同盟が締結されます。

②【甲相同盟】武田家(黄梅院)→北条家(1553年1月)

次に、武田家と北条家との同盟関係を強化するため、両家で婚姻適齢期にある一門衆・姫が探され、天文22(1553)年1月、武田信玄の娘・黄桜院と北条氏康の嫡男・北条氏政の婚約が決まります(実際の結婚は、同年12月でした。)。

こうして、武田家・北条家間に、縁戚関係を前提とする同盟が締結されます。

③【駿相同盟】北条家(早川殿)→今川家(1554年)

最後は、今川家と北条家との相互不信による緊張状態の解消です。

そのため、両家で婚姻適齢期にある一門衆・姫が探され、太原雪斎の仲介により天文23年(1554年)、北条氏康の娘・早川殿が今川義元の嫡男・今川氏真に嫁ぎます。

こうして、今川家・北条家間に、縁戚関係を前提とする同盟が締結されます。

なお、甲相駿三国同盟については、太原雪斎が、主君今川義元に武田氏・北条氏との同盟の重要性を説いた上で、中立の立場にある寺院として善得寺に今川義元・武田信玄・北条氏康の3人を集めて会合を行い、そこで太原雪斎が武田信玄と北条氏康をも説得して締結されたとされる説があります(善得寺会盟、「北条五代記」)。

もっとも、この善徳寺会盟については、戦国大名が直に対面する機会はほとんどないこと、出典が資料的価値の低い北条側の軍伝のみであることなどから、善得寺会盟は創作であるとされるのが一般的です。

太原雪斎の最期(1555年潤10月10日)

晩年である天文22年(1553年)には分国法である今川仮名目録33か条の追加21箇条の制定に寄与するなど今川家の発展に寄与し続けた太原雪斎でしたが、弘治元年(1555年)閏10月10日、駿河長慶寺にて死去します。享年は60歳でした。

太原雪斎の死については、徳川家康は、今川義元が国政について太原雪斎との議論のみによって行なっていたため、その死後は上手くいかないだろうと評していたと言われています。

また、武田家の山本勘助は、太原雪斎なしでは今川家はたち行かなくなるだろうと評したとされています(甲陽軍鑑)。

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